あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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侮(あなど)られないために装うこと
 先日の記事「見下ろし目線」で語ることの補足です。

 お読みくださった方から、人は自分より優れた人の話を聞きたいもので、師は師らしくあらねば侮られることがあるとのコメントをいただきました。
 それはまったくそのとおりだと思います。

 髪は伸び放題、ひげはぼうぼうで歯も磨いてないような人が、いくら衛生問題を語ると言われても誰も聞こうとはしません。
 人にはそれぞれふさわしいいでたちがあります。

 あと時と場合というものもあります。
 誰かがたとえば猛毒の虫とかにさわりそうなときに「すみませんがちょっとお話させていただいてもよろしいでしょうか」などと丁重に話しかけている余裕はなく、「よせ!」とか「やめろ!」とか乱暴な言葉で止めることもあるでしょう。それは緊急時でやむを得ないからであって、別のその人を見下しているわけでも自分が偉いと思ってのことでもありません。

 ただ、偉い人は偉そうにしているかというとちょっと違うと思います。
 本人はただ自然体でいるだけなのに、にじみ出る威厳を持った人もいます(感性が鈍い人には全然わからなかったりしますが)。それは本人が他人を「見下ろして」いるからではありません。

 色々な人の書いた本を読んだり講演を聴いて思うのですが、しばしば、非常に押し付けがましい決め付け口調のものがあります。
 それは、そういう言い方をしないと今道を踏み外す瀬戸際、という人には必要なものかもしれませんが、そうでない人には違います。
 私は自分の不徳で失敗している部分も少なくないとは思うのですが、原則どなたにも敬意を持って接したいと思っています。
 わかりやすく言うならば、自分の話を読んでくださったり聞いてくださっている今この瞬間の「あなた」がどんな方かわからない。もしかしたら人間性のカケラもない凶悪犯かもしれないし、もはや人生の課題をすべて終えてしまったような悟りの境地にある方かもしれない。マザーテレサのような人かもしれないし宅間某のような人かもしれない。
 どちらかわからない以上「見下ろし目線」では語れないのです(じゃあわかったら語るのかというと、それもまた違うんですが、長い話になるのでまたにします)。

 もう30年近く昔になりますが、私がアシスタントをさせていただいていたマンガ家のはるき悦巳先生(『じゃりン子チエ』でおなじみ)が、
「オレはな、初めての人と会うときは相手の人のこと買いかぶって話するんや。自分、低いとこに置いとかんとなんも学べんやろ?」
 と言われた。その言葉を今も座右の銘にしています。

 「あなた」が私よりすべてにおいて知識も知恵も優れた方であれば、私の語ることなど無用なものですが、そのときはおそらく「発展途上の人間の一人」として私を眺めてくださるでしょう。
 また才能も頭脳も優れていても、いやいなくてもどっちでも、たまたままだ触れていない知恵や知識があるならば、私はその方になんらかの情報を差し上げられるかもしれません。
 師が弟子より優れているとは限らず、美術の世界では、あまりの弟子の才能に筆を折った師の話などもあります(笑
 そもそも人に貴賎はないと思うので、何かを教えた人が偉いわけでも教わった人が低いわけでもないですが(何かを教えてくださった方には敬意と感謝は忘れません。ただ卑屈になるのとは違います)。

 師が師らしくするとはどのあたりのことを言うのか。
 たぶん同じものを見ても、よいと思う人とダメだと思う人、同じ人でも時と場所、精神状態で答えは変わると思います。

 私はこれまでのブログをご覧いただいてもお解かりかと存じますが、神仏は敬う人間で、唯物主義の社会主義とは立場が異なるものですが、それはそれとして、印象に残っている話があります。
 ある人が(蛇足かもしれませんがいわゆる右よりの方です)がたまたま某社会主義国の大臣と話す機会があって、その上着の袖に見えた白い清潔に洗われたシャツのはしが丁寧に繕われていたのを見て、その人物の質朴な人柄がしのばれ感銘を受けたという話があります。
 これも、一国の大臣たるもの、そんな貧乏くさい服を着て人に会うとはなんだ、威厳がないではないか、とか、人を馬鹿にしているのかと憤慨される方もおられるかも知れません。
 受け取り方は人それぞれだと思います。
 
 もう一つ、おもしろい話があります。
 あの一休さん逸話です。
 何度か文章を引用させていただいている足立大進氏の著作からまた引用させていただきます。

<京都で指折りのお金持ちが、一休さんに供養を頼んだ>
<ところが。茶目気のある一休さんです。その前日の夕方、一休さんはぼろぼろの雲水法衣を着て、その金持ちの商家の前へ立って托鉢をなさった。
 使用人たちは、翌日の準備で忙しい時です。そんなこところへ立っているんじゃないの、早く向こうへ行けというふうにみんながやるわけです。表が騒がしいので、そこの主(あるじ)も出てきて、「そんな乞食坊主、早く追い出せ」と言った。それで、一休さんはその日すごすごと帰った。
 次の日、一休さんはきれいな法衣を来て、何人かのお供を連れてその家へお出でになった。すると、主人をはじめ番頭さんたちが>

 歓迎するわけですが

<そしたら、一休さんは、「いや、俺はここでいいよ」とおっしゃる。そして、「昨日は大変痛いおもてなしを頂いて・・・」>
<「昨日の夕方坊主が来ただろう。その時、叩き出されたのは、この俺なんじゃ。お前さんたちが用があるのは、このきれいな法衣じゃろう。そんなに法衣が有り難ければ、この法衣にお布施をやってくれ」と言って、その場で法衣を脱いで、家の中に放り込んでお帰りになったという逸話がございます>
                               (『<ありがとう>の人生』足立大進・著/春秋社より)

 まあちょっと意地悪な?一休さんかもですが、世の中にはしばしばこの商人のような人がいます。
 人を見ているのではなくその肩書きとか権威を見ているに過ぎません。
 それは一つの目の曇りであって、一休さんはそれをさとしたかったのかもしれません。

 実は私(山本)は、根はけっこう人が悪い人間です(笑)。
 いたずらも大好きです。
 だからちょっとだけ乱暴なことを書きますと

 私が偉そうに語らないことでその内容に価値がないと思われる方がもしいらっしゃるなら(いや充分おまえは偉そうだとおっしゃる方もおられるでしょう)いいじゃないですかそれで(笑
 本当に価値がないなら、それでいい。無駄なものを拾わずにすんで幸いです。
 では、もし価値があったらどうか。
 それは、そういう「偉そうか偉そうでないか」で相手の値踏みをするという勘違いをした、その結果として、その方は価値ある情報を取り損ねられたわけで、まあ一種の因果応報でしょう。
 その勘違いに気づくまで、人生で同じことを繰り返されるだけです。
 どっちにころんでも私はかまいません。 
 人はころんで覚えるものです。 

 というわけで、きょうもこうして独り言を書いております。
 ありがとうございました。
 きょうも良き日を♪
コメント
この記事へのコメント
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2011/02/27(日) 10:14:25 | | #[ 編集]
私もです
>2011/02/27(日) 10:14:25 にコメントくださいました方へ
 私も偉いとか偉そうとか興味ないです。
 別に何も偉くないし。
 こだわりたい方はこだわればいいと思います。
 コメントありがとうございました。
2011/02/27(日) 13:33:15 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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