あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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どうせあいつらはこんなもの(?)
 「どうせあいつらはこんなもんだろ」
 というのは、日常あらゆるところにはびこる、一つの偏見です。
 家庭や学校や職場で、自分が誰かに対して、あるいは誰かが自分に対して口に出そうと出すまいと、やっている「決めつけ」です。
 今これを読んでくださってる方で、これまでの人生で誰かから「おまえってこの程度のやつだよな」と決め付けられて嫌な思いをしたことがない方はほとんどいらっしゃらないんじゃないでしょうか。

 『世界は感情で動く』(マッテオ・モッテルリーニ・著/泉典子・訳/紀伊国屋書店)
 という本に興味深い例が載っています。

<社会心理学者のジョージ・カトロンとジョーンズはこの把握のゆがみを、プリンストン大学とラトガース大学という、強いライバル意識をもつ両校の学生たちを使って実験した。彼らはビデオを一本見せられたが、そこに出てくるある学生は、ロックのCDとクラシックのCDから、どちらかを選ぼうとしていた。学生たちには、ビデオの学生はプリンストン大学の学生だとか、ラトガース大学の学生だとか前もって伝えておいた>

ビデオに出てくる学生はロックのCD,クラシックのCD,どちらを買ったでしょうか。

 そう質問すると興味深い結果が出ました。

<おおかたの学生は、ライバル校の学生たちはビデオの学生と同じような選択をするだろう、つまり音楽の好みはみな同じだろうと答えた。ところが自分の大学の学生となると、好みはさまざまであろうと判断したのだ>

<相手方の人々をすべて均質と考えるメカニズムは、自分の集団に属さないものを劣っていると判断するメカニズムと同じものである。このメカニズムは私たちの気分をよくし、プライドや帰属意識を高め、おそらく自尊心も高めてくれる。
 しかしある集団への帰属意識をさらに広範囲に考え、たとえば「人種」にまで広げたら、どんな結果になるだろうか>

 これが、いつまでたっても仲良くなれない敵対国同士の終わりのない非難合戦の大きな一因だと私(山本)は思っています。
 嫌いな相手をみんな同じような集団「知ってるよ、あいつらなんてこんなもんだろ」と決めつける「病理」(と言ってもいいでしょう)は場所時間を越えてすべての人間に大なり小なりあるのではないでしょうか。
 それは少し団体行動をとる機会さえあれば、自分がその攻撃?にさらされて否が応でも気がつくことです。
 上に引用した書籍はたまたま心理学関連のものですが、別に心理学など関係なくとも、人間にそいうい現実をねじまげて自分の都合のいい(気分のいい)思い込みをすることで、他人をないがしろにし、傷つけ貶(おとし)める傾向があることは、誰でもたとえ理屈で分析しなくとも、なんとなく肌で感じられるものではないでしょうか。

 家族で、学校で、職場で、そして国家間で。

「あいつらなんてこんなもんだよな」
 の
「こんなもん」
 は無論高いレベルの「こんなもん」ではなく、自分が見下してあざわらえるような低いレベルの「こんなもん」です。

 数学や科学などの表現はゆらぎがありません。
「直径10センチの石」
 と言えばそれは直径10センチの石であって、長さ5センチの棒とは考えられません。
 しかし日常使う言葉には、幅というものがあって、同じ言葉でも時と場所で意味が異なり、聞く人の立場や気分によっても異なります。
 人は相手を貶めたいとき、相手の言葉(や行動)に対して、もっとも愚かでくだらない解釈をし、そんなやつだと決めつけます。
 相手がそれに抗議しても、片っぱしからそういう最低の解釈に当てはめて笑い続けます。
 ここに対話は成立しません。
「四捨五入」
 とは4以下を切り捨て5以上を切り上げることですが、これはどんな数字も(大きかろうと小さかろうと)すべて切り捨てるだけの行為です。
 それは一種の狂気です。


 しかし、人は自分が嫌な思いをしたその決めつけを、機会があれば他人に対してもしようとしがちです。
 オレはきのう足を踏まれた。それが世の中というもんだ。今度はオレが誰かの足を踏んでやる番だ。
 それは自分も世界も貧しくします。

 昨年から話題の「都条例」の表現規制の問題でも随所にそれが見られました。
 規制推進派は「反対派はこんな連中である」と反対派を貶めるような形での均質化、決めつけを行い、世間に賛成を求めます。
 それは愚劣なことだと思うのですが、困ったことに今度は「反対派」までが同じことを始める。
「条例賛成派なんてこんな連中だ」
 とやはり賛成派を貶めるような形での均質化、決めつけを行い、気勢を上げる。
 それでは同じ穴のムジナで、敵国の兵士がわが国来て一般人の家を焼き女子どもを暴行虐殺した、我々も敵国に乗り込んで一般人の家を焼き女子どもを暴行虐殺しようというのと何もかわりません。
 正義の名の下に気がついたら悪党と同じレベルに落ちているようなものです。

 これと同じことが反目する国家同士でも行われています。
 自分がひいきの国の人が自国で犯罪を犯しても、まあ中にはそういう人もいるよね、で済まされるものが、嫌いな国の人が同じことをすると「見ろ、あの国のやつらはみんなこうだ」となる。

 そういう過った思考のぐるぐるに気づくのに、別に特別な学校や教育はいりません。
 自分が日々生きていく中で、「これっておかしくないだろうか?」「なんでこんなことされるんだろうか?」と考えていけばすむことです。

 少し進めて考えるなら、政治家や高い知性を誇る識者(と言われる人びと)がなぜその過ちを繰り返すのか。
 それはそれが好都合だからではないでしょうか。
 相手方を攻撃し、人びとを扇動して思い通りに動かす(政治家なら敵対勢力の打倒や票集め)のに便利だからではないでしょうか。
 そういう人びとは、その行為の愚劣さは百も承知で、好都合だからやっている、
 私にはそう思えてしまうのです。
 もしかしたらそれも一つの「決めつけ」かもですが(笑

 電車でうっかり足を踏んだ人に
「すみません、足をどけていただけませんか」
 と言えばたいていどけてくれるでしょう。しかしわざと踏んでいる人ならどうでしょう?
「踏んでる?誰が?誰を?オレは足なんか踏んでないぞ」
 足を踏んだままそう言うかもしれません。ほとんどチンピラ暴力団ですが、しかしそれが形を変えて実際の世間で行われていることです。

 そういう人と果たして対話する手段はあるのか。
 きょうも私は考えています。

 とりあえずは自分が誰かに(とりわけ気に食わない誰かに)対して、同じ過ちをしないで生きることだと思っています。

コメント
この記事へのコメント
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最初の開国は明治維新である。二番目の開国は戦後である。三番目の開国はこれからである。


考え方にはいろいろある。自分たちの考え方が理に合わないものであることを証明するのは難しいことである。だが、それが証明できなければ、おかしな考え方を改めることも難しい。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
2011/01/22(土) 05:22:08 | URL | noga #sqx2p0JE[ 編集]
コメントありがとうございました
>nogaさま
 私の専門分野は心理学であり首尾範囲外の政治問題などは原則ネット上で語らないことにしております。
 この項では少し踏み出して触れましたがいずれかのイデオロギーの是非を語ることが主眼ではありません。
 コメントありがとうございました。
2011/01/22(土) 08:20:22 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
こんばんわ。
今日は、こちらに失礼いたします。

「こんなもん」
とても恐い言葉ですね。

普段、どんなに努力、貢献している人も、見る人によっては、全然何もしていない「こんなもん」になってしまう様で…

この間も、
上司に気に入られている人間と、嫌われている人間との、扱いの違いを見ました。


上司が気に入っている社員がインフルエンザで休んだ時、

「全員で、彼が居ない分頑張って埋めましょう!」


これは正しいとは思うのですが…


嫌われている人が風邪で休んだ時、いきなり

「辞めさせようか!!
はってでも来させろ!」


でしたからね(苦笑)

仕事でミスしたら
「残業代なしにするぞ!」

ひど過ぎます。
その人居なくなったら、どうなるか!

正に、自分の好き嫌いで差別しているのです。


実は今、僕も
インフルエンザで寝込んでいるのですが、
何と言われているのか
大体想像できます(笑)
僕は、上司を
あまり尊敬していませんが、絶対になってはいけない性格というモノを
わからせてくれただけでも、ありがたい存在です。


「会社の売上や利益を上げる為には、嫌われてもかまわない。」

とか、格好イイ事言ってましたが、
何か違う気がします。
恐怖で 皆を動かして、何がついてくるのか。

近い将来、会社的に最悪な結果と共に、解る気がします。
2011/01/22(土) 22:55:24 | URL | マヨ芋 #BC978qp.[ 編集]
因果は巡る
>マヨ芋さま
 そういう私情で差別的応対をする人いますよね。
 いずれ自分に巡ってくる日があると思うんですが、「債務超過」になる前に気づいたほうが身のためなんですが。
 社員が自分と同じことができないと怒る経営者いますが同じことできるんなら経営者やってます(あなたの下で働いてません)(笑
 反面教師も教師の一種と思うと、世の中は教師でいっぱいですね;
 インフルエンザ早くよくなられますように。
2011/01/23(日) 06:42:33 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
最強の方法なのかも
 はじめまして。
 都条例の反対を皆に伝えたいと考えたとき自分も結局同様の突き当たりに立ってしまいました。
 結局「こんな奴ら」という悪口が一番伝わるし、影響力を持ってしまっているのでは。
 静かで説得力のある意見は興味のある人には勇気を与えるのですが、広く伝わりません。
 神様が正しい方を勝たしてくれる試合ならやる気も起こるのですが、民主主義は人が何人味方するかと言うルールです。
 人を味方につけるという方法としてなら、信じたくはないのですが、多数決で政治を決定して2000年、唯一残った最強の策なのかもしれません。
 あと、一つあるとすれば時間はかかるのですが、物語を作ることでしょうか。
2011/01/23(日) 12:47:41 | URL | kato #-[ 編集]
プロパガンダ合戦
>katoさま
 はじめまして。ようこそ。
 確かに数の対決になった場合、いかに人びとを多く扇動できたかが勝利につながることは否めません。
 この記事の本のタイトルにもありますが、多くの人は感情で動くもので、感情に訴えた方が勝ちとも言えます。
 私は近年、感情はあくまで判断の一つの目安と考えて暮らしています。と言っても冷たい理屈のみ、というのではなく、喜怒哀楽を越えた意思とか志とでも言うのでしょうか。
 愛とか慈悲は感情ではなく意思に属し、一般的な喜怒哀楽を越えたものだと思っています。
 私はそこに訴えたいと思います。
 そういうあり方が絶対正しいとか申し上げるつもりはなく、一つのあり方として提案しております。
 ですので、あくまでもその姿勢で記事も書いておりますし、ふだんの行動もそうしています。

 意識の表面の好き嫌いの感情に訴えるのは簡単ですが、目的のためには行為を正当化するとなると、どこかの国の反○運動のように、相手側の国旗や首脳の写真を燃やしたり踏み付けにしたりという、私にはどうにも共感しかねる行為も全部認めなくてはなりません。
 ガンジーが言った「私は敵にも敬意を払う」という態度を忘れたくありません。
 怒りや悲しみの目には目をの投げ合いゲームからは私は永遠に撤退する意思で暮らしています。
 世界に対して何ほどのことができるかわかりませんが、とりあえずこれ以上の毒や騒音を流さない「静かな人」としてあるだけでも、少しはましなあり方かもと思っています。

 物語を作ることは私が日々行っていることです。私のできる一番のことかもしれません。

 ありがとうございました。
2011/01/24(月) 04:45:59 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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