あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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「もう死んでもいいのですか、ありがとう」
もう死んでもいいのですか、ありがとう

 近年の私の信条。
 いつもそのつもりで生きてるのですが、それをそのまんまタイトルにしたような本(『もう死んでもいいのですか、ありがとう』(足立大進・著/春秋社))があって、前から気になってました。
 同じようなことを考える人がいるものだな、と言いますか、「天の下に新しきものなし」という言葉どおり、とっくにそんなこと考えてる人がいるのがあたりまえで、私のオリジナルでもなんでもないや(笑)って。
 んで、問題はどんな人がどんなふうに語った言葉なのか。
 本の紹介記事を見ると、著者は臨済宗円覚寺派管長のお坊さんとか。
 当然仏教の本なのでしょう。
 じゃあ仏教にある言葉、思想なのかな、と思ったのですが
 私としても、それなりに色々な体験と思案の末にたどり着いて納得している感覚ですから、今更誰かに解説してもらおうという気にもならず、そのうち見られればいいやと思って何年か経ちました。

 んで

 先日たまたま古本を見つけてゲットしたんですが
 なんとこの言葉、このお坊さんの言葉でも仏教の言葉でもなく、かの文豪、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の言葉なんだそうです。
 武者小路実篤が50代のころ書いた『人生論』という本の中に
「もう死んでもいいのですか、ありがとう、そう言える身にもなってみたい」
 とあるのだそうです。
「なってみたい」
 と言うからには、まだ、なっていなかったということでしょうか。

 で、上記の本の著者、足立氏は、
 武者小路氏は生涯無宗教でらしたそうですがが、その書かれた絵や文を読まれた年配の読者は、非常に宗教的なものを受け取っておられたと思います。武者小路氏の生き方というものは、大変に宗教的であった、本当に生命の有難いことに気づいている人であったから「もう死んでもいいのですか。ありがとう、そう言える身にもなってみたい」という言葉も、宗教的な意味に受け取っても間違いではないと思います、といったことを書いておいででした(一部要約)。
 宗教と言う言葉を、神経症的な妄信とか偏狭な独善主義というネガティブな意味でなく、大きな視点を持って世界を捉える、慈悲や寛容の精神を忘れない謙虚さというような意味で使うなら、それはそうかもと私も思います。

 足立氏は続けて
臨終の時の「ありがとう」は、日頃にありがとうという気持ちのない人には出て来ない
 と書いておいでです。
 まったくそのとおりで、土壇場にこそその人の本性が出るもので、普段どんな精神状態を人生で作ってきたかが、その人の最後も決定する。
 中にはとことん嘘を突き通して死ぬ人もおいででしょうが、死ぬまでもなくボケても本性が出てきたりするし、最後の最後にバケの皮がはがれる例は少なくないと思います(有名なところでは、以前も書きましたが、自分は修行を極めた身であるから何を聞いてもだいじょうぶであると言っていた高僧が、ガン宣告だかを受けてショックで自殺してしまったような例さえあります)。

 これもとっくに誰かが言っておられることですが、
 毎日寝るときというのは、ある意味死ぬときの予行演習のようなものだと。
 横になり、なんの意識もない状態に入っていく。
 その前に、その日一日を振り返って、悔いの無い一日を過ごせたと思うか、すべてに感謝して眠りにつけるか
 それは死ぬことのけいこをしているようなものです。
 いや、明日もまた目覚めることを前提にしているのだから違う、という見方もありますが、明日また目覚めるかどうか、100%の保証などどこにもありません。
 先日もある若い友人と電話していたら、その人の友人が体調不良を訴えていたら翌日起きてこない。寝ている間に心筋梗塞で亡くなって、そのままだったという話を聞きました。
 自分もいつそうなるとも限りません。
 自分の知り合いがそうなるかもしれません。

 ドラマに限らず、実際の話でもあることですが、誰かとケンカしてお互い不機嫌なまま、あるいは相手を傷つけたまま別れたら、それが最後の別れになってしまい、ひどく後悔した。ついその場のノリであんなことを言ってしまったが、言わなければよかった。もう謝りたくても謝ることもできない、というような。
 私は若いころからひどく心配性で、買い物に行くつまの後姿を見ながら、もしかしたらこれが今生の別れになるかもしれないなどと心配したものですが(笑
 人生ではまれに、本当にそういうことが起こりますから、誰とも嫌な別れ方はしないでいたいと思います(昔はいっぱいした覚えがあります)(汗)。

「きょうもいっしょにいてくれてありがとう」
「いっしょに話してくれてありがとう」
「色々みんなありがとう」
 とか、しょっちゅうつまには言ってます(マジで)♪
 別に特別なことを感謝してるんじゃなく、あたりまえのことをあたりまえにしてくれただけで、それは十分ありがたい。世の中にはあたりまえのことをあたりまえにしてくれない人がいっぱいいて、それで苦労したり傷ついたりしてる人が山のようにおいでです。
 目的地まで無事着かせてくれたバスの運転手さんもありがたいし、コンビニで笑顔で応対してくれた店員さんもありがたい(思い切り作り笑顔ってのは、いささか引く場合もありますが)(笑)。
 誰かがするべきことを知らない間にきちんとこなしてくれてるから、家にいて水も出るし電気も使える。
 それが当たり前じゃないことを失って見るまで気づかないのは、うかつなことです。
 自分の足で立ってトイレに入って、自分の尻で用を足せて、自分で尻が拭けることがあたりまえだと、私は思って暮らしてません。

 だから、世界には愛でるべきことがいっぱいあります。
 きのうもきょうも、そしてあしたも。

 真剣に生きることと深刻に生きることは違います。

 先日も、とある世界の問題点を取り上げたドキュメンタリー番組で、そのナレーションのあまりの辛気臭さにうんざりしました。軽薄でないことと、暗く陰気に語ることは違うだろと。
 オレは自分のガン宣告とかでも、その何十倍も明るく語るぞと。


 たとえ道端で行き倒れようと、空の青さや飛ぶ鳥の美しさを、笑って愛でる心は忘れたくありません。
 んで最後はこれで締めたいと。

「もう死んでもいいのですか、ありがとう」♪
コメント
この記事へのコメント
最初は…
先生、お久しぶりです。

先日、読ませていただき、正直、
「縁起でもない!」
「残された人どーすんの」
「自分は満足してても…」

と、頭が混乱しちゃいまして、文章にできませんでした。

しかし、数日、
朝、親に挨拶して、職場で仲間に挨拶、
帰りに挨拶、
友達に電話、
帰ってきて親に挨拶。

で、寝るときに、
「このまま死んだら…」
を考えたんです。

何故か、平気なんです。
やりたい事はたくさんあります。結婚も、子供もまだ。

しかし、死に顔は
笑顔だろうな…って。


凄く 自分、恵まれてるんですよね。
親、兄弟には愛情を注いでもらい、友達には返しきれない感謝、
メタルマックスもできた。先生にもこう、やりとりができた。
野球もした、旨い物もたくさん食べた。

すぐ今、死ぬってのは
嫌だなーって思うけど、 ま、
「みんな、ありがとー!」 って笑顔でいけますね。


縁起でもありませんが、
もし、先生が、おなくなりになった時、

やりとげたーって笑顔だったら、

先生のご家族や、
ファン僕達は、凄く楽になると思います。

「すごい先生だったなー。俺もがんばろー」
とか、
「メタルマックスやろー」
とか、
前向きになれるでしょう。

…自分が
何を書いてるか、本当にわからなくなりました!
(笑)
そうとうズレた事を書いている気が(笑)


先生!迎えなんて
まだまだ早いですよ!
たくさん描いて、
たくさん
読ませてくださいね!!

失礼しました!

2010/10/26(火) 18:02:01 | URL | マヨ芋 #BC978qp.[ 編集]
ありがとうございます
>マヨ芋さま
 こちらこそ、素敵なご縁をありがとうございます。
 命ある限り機会をいただける限り描いていきます。
 どうぞよろしくお願いします♪
2010/10/26(火) 19:22:10 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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