あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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愛情と友情を思う(砂上に楼閣を築かず)
 「砂上の楼閣」という言葉がありますが、砂のように不安定な物の上に築かれた城、つまりは壊れやすいもののたとえですね。
 人は砂の上に城は築かないものです。
 活断層の上に原発は築かないものです(のはずですが)(笑)。

 私は、これをパロって「砂上の友情」とか「砂上の愛情」と言いたいと思います。
 今ひとつ「すわりが悪い」言葉で、もっといい表現があれば変更したいところですが、この単語が表す内容の不安定さには、よくマッチしているかもしれません(笑)。

 「女心と秋の空」と昔から申しますが、これは男も変わりません。
 一日の間にもくるくると気分は変わりますし、会社や学校で嫌なことがあったり、いいことがあっても変わります。
 飲んだり食べたりしても変わります。
 病気になったり、体内の化学物質のバランスが変われば変わります。
 気分や感情というのは大変不安定なもので、大事なものを築く土台には向きません。

 なぜそこに大切な愛情や友情を置くのでしょうか。
 そもそも、気分で変わる愛情や友情とは、それが本当に愛情とか友情と呼べるのでしょうか。

 そんなことはない、どちらも「情」と付いているではないか。
 確かに。
 人間は感情の動物ですから、とっかかりとしての「情」は重要ですし、避けて通れないものだと思います。
 しかし、あくまでとっかかりであって、その後は、もっと磐石な土台の上に移してはどうでしょうか。
 
 東洋では(とりわけ仏教では)「愛」というと「愛欲」とかいった狭い自己中な意味に捉えられて、諸悪の根源のように言う方もおいでです。しかし、愛にもいろいろあって、自己の利益と無関係に相手の幸せを願う「アガペー」も愛です。これは仏教で言う「慈悲」と同様に私は解釈しています。
 たとえば、私が通い猫のしろさんのお世話をするのに、しろさんが、私にいつもなつくようにとか、言うとおりになってくれるようにと願ってするなら、それは偏狭な自己中心的な愛です。
 しかし、しろさんはしろさんの好きに生きればよくて、彼が幸せになるなら、別に私になつかなくてもいいし、私を捨ててどこかに行こうとそれでいいと、何も求めずに接するなら、それはアガペーや慈悲に近いものになっていきます。
 それは一時の喜怒哀楽や感情、気分ではなく、意思に属するものではないでしょうか。
 私は、一般には「情」という漢字が付いていはいますが、真の友情や真の愛情とはそういうものだと思っています。

 相手が私と意見を異にしようと、私に味方しようと敵対しようと、その幸せと向上を願うものであり、それ以外の「愛情」や「友情」は、「友愛」とは名ばかりの、ただ自分に都合のいい相手に好意を抱いていただけの、勝手な執着に過ぎないと思います(「自分によくしてくれる者を愛することなら、犬猫にでもできる」というやつです)。
 ちなみに、相手の幸せというのは、相手の自己中心的な妄想や願望が満たされることではありません。
 その人が偏狭な自己を捨てて、より十全に発達していくことです。

 人は私の感情の面倒を見るために存在しているのではありませんし、私も他人の感情の面倒を見るために生きているわけではありません。
 基本的に自分の面倒は自分で見るものであり、それは感情も同じだと思います(何か障碍をかかえていて、介助を必要としておられる方のことではありません)。
 変温動物は、外の気温が変わると自分の体温も変わって動けなくなりますが、恒温動物は自分である程度体温の安定をはかることができ、暑かろうが寒かろうが変わりません(一定限度を越えると熱射病で倒れたり凍死したりしますが)。人は肉体だけでなく、感情においても恒温動物であるのがいいと思います。

 昔、私がその道の師匠に教わったことに、「殺生」とは、「自分が一人決めした敵(と自分が思い込んでいる相手)に不善をなそうという思い、言葉、行動すべてである」というのがあります。
 意見の相違を見たり、トラブった相手に「殺生」な思いを抱くことはままありますが、すべてのネガティブな感情と同様、それは来たときと同様去るにまかせます。
 昔あるインドの覚者が
「あなたのような聖者は何があっても悪い思いは浮かばないんでしょうね」
 と人に言われて
「そういうことはありえない。ただ、その思いに囚われないだけだ」
 という返事をしたという話が、印象に残っています。
 そして見習うようにしています。
 
 あなたが、友人でも恋人でも、誰かの感情を害されたとして、それが原因で相手が何かあなたに不善を働くとしたら、それはどんな大義名分をつけようと一つの「殺生」であり、その人の「友愛」はその程度のものであった、名ばかりの「友愛」であった、砂上に築かれた城であったと思われてはいかがでしょうか。
 いや、そもそもそこに「友情」も「愛情」もなく、ただ一時的に利害の一致を見たもの同士の、かけひき、とりひき、ビジネススマイルがあっただけかもしれません。
 だとすれば、そこに失われた愛情も、損なわれた友情もありません。
 ただ幻があっただけです。
 商売上や政治上の関係は損なわれたかもしれません。
 しかし、愛や友情は、なくしてはいません。それらは一時の感情や気分の上に置かれるようなものではないからです。なかったものは無くしようがありません。ただ、なかったことに気づいただけです。

 知恵ある者が、一時の気分や感情の上に、大切な友愛を置き続けるでしょうか。
 そうだとしたら、その人は、それがその程度の価値しかないと思っているのです。

 人生で長く付き合いながら、ケンカや仲直りを続け、結局破綻した友人もいましたが、思えば互いが偏狭な価値観と感情の上に友情を置いていたように思います。
 それは砂の上の城と同じで、何度仲直りしようと壊れる宿命です。
 相手の気分を害さないように顔色をうかがいながら、傷ついたものは怒り被害者意識に囚われ、傷つけたものは加害者と呼ばれて罪悪感から己を責めるか、逆ギレして相手を責めるか、そういった不毛な「賽の河原」の石積みのような関係を続けることに、なんの意味があるでしょう。そのことの不毛さに気づいたら、もはや留まる必要はありません。
 もし留まり続けるとすれば、その人は、その不毛な関係からなんらかの恩恵を受けることをもくろんでいるのでしょう。愚かなままにあり続けることが、利益につながる人でしょう。

 私は大切な愛や友情を、私の気分、喜怒哀楽の上には置きません。
 真の友、真の愛する者は、その人がいつどこにいようと、その人の幸せを願うものです。
 誰かが私の耳にウソを吹き込んで「あの人はあなたにこんな悪意を抱いていましたよ」と言ったとしても、そしてそれを私が信じたとしても
 その人に対して不善をなさず、その人が悪意を捨てて良き人になることを、正気に立ち返ることを、わがことのように思うだけです(犯罪に対しては警察を呼ぶし、なすがままにされることではありません)。

 個人感情、国民感情、スケールこそ違え、どちらも移ろいやすく天気のように変わるものです。
 風に吹かれて行く雲は、ただ行くがまま見送ればいい。
 砂の上に城は築かず、情緒の上に友愛は置かず。
コメント
この記事へのコメント
グサッときます
毎回毎回、深い話に救われています。

今までの恋愛も友情も、
思い返すと、
結局、こうすれば、自分がどうなるかという様に、
ソロバンを弾いて来た事に気付きました。

おっしゃる通り、
最終的には自己中心的な 事になり、
崩れさりました。


数少ない親友の人間性を考えると、
これも、おっしゃる通り、見返りを全く求めていない優しさを、
みんなに与えているんです。

その友達と居る時だけ、
不思議と僕は、
友達として付き合ってもらえている事に、
まだまだ恩返ししたい!もっと友達でいたい!
…って思うんです。

向こうは、
ただ自然の友情で接しているだけでしょうが…
尊敬してしまいます。

出会う人 全てと、
自然にしっかりした土台の上で、関係を作っていける人間になれたら…

幸せですよね。
2010/10/06(水) 11:05:15 | URL | マヨ芋 #z8LPLFJ2[ 編集]
おそれいります
>マヨ芋さま
 硬くて長たらしい日記をお読みくださりありがとうございます。
 数少ない親友の人間性を考えると<やはりそうですか。
 相手を裁いたり責めたりしないであるがままを受け入れてくれる人はなかなかないですよね。逆に、何か特殊な才能とか特技がなくても、ただ無駄なこだわりを捨てていけば誰でもそういう人になれるんじゃないか、そしてそばにいる人が安心して気楽にいられる、ほっとする人間になれるんじゃないかって思います。
 ありがとうございました。
2010/10/06(水) 15:17:46 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
水面の木の葉 未来の姿
近々思うのは、思った程に安定した居場所はないということです。

堅実な足元を求めようとすると他を退けなければならない現実に行き当たります。競争して他に勝ちより優

れたものが多くを得るのは競争社会では当然(当然ではない場所もあります。)のことです。
そんな競争社会は、競争によるが故に常に不安定な社会です。競争の動機は安定を求めて確たる居場所を作るためなのに、その結果不は不安定な社会になってしまいます。

人の立ち位置で、どこからどこまでが安定でどこからが不安定なのだろうと考えてみます。

自身から遠い距離にある何かは、不確定で、それを制御して安定させようとすることは困難(時に不可能)で、それを行おうとすると沢山の労力が必要となりす。それを行おうとするものは、自らが不安定になることでしょう。

近い場所、例えば自身の体ならそうとうに自由になります。




社会で安定した居場所とは、海で大きな船の上にいる様なものです。
不安定な居場所とは、海で水面に身一つで浮いて漂っているようなもの。

大きな船といえど沈む時はあります。完全に安定した居場所はないです。
乗っている人達が大きい船だから沈むなどということが想像できないだけなのです。

二つの居場所が出会ったら・・・。

前者が、自身の船を守ろうと後者を捨て置くか攻撃してたりすることもあります。
後者が、前者の船を奪おうと襲うこともあるかもです。

そうでなくて、前者が後者を自分の船に乗せて、協力して船が進歩したりとか。



未来を形づくる人間達のイメージ一つで何にでもなるのが人の世ということでしょう。



>結局破綻

どんなイメージがあったのでありましょうか?

v-115
2010/10/09(土) 12:55:50 | URL | やすやす #-[ 編集]
無理は無駄♪
>やすやすさま
 自分の白髪一本黒く出来ない人間が、他人の心や行動を変えようと憤ってもエネルギーの無駄です。
 できることをして、生きるのが吉と思っております(無関心とか虚無主義ではなく)♪
 
 結局破綻<とても一言ではは書けません(笑);;;
2010/10/10(日) 19:12:57 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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2010/10/14(木) 00:49:12 | | #[ 編集]
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