あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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表現規制の問題に関して2
 前回に引き続きましてこの問題です。(ここからお読みの方は、なんだかわからない部分もおありかも知れませんので、18日の日記「表現規制の問題に関して1」から、お読みいただけますと幸いです)。

 私は本来気性の激しい偏狭な人間です。
 偏ってはいますが、ある種の美意識も持っています。
 ですので、マンガにせよ他の娯楽にせよ、見ていて、なんでこんなしょーもない見るに耐えない作品があるのだろうと思ったことは何度もあります。
 こんなマンガ焚書にしたらいいんじゃないかとか思ったことも多々あります。
 ただ、私がそういう感情を抱くことと、それを実行に移していいかどうかはまったく別問題であり、言うまでもなく、私にそんな権利も資格もありません。
 「人を呪わば穴二つ」という、いい言葉が東洋にはあります。
 誰かにバカと言う者は、己がバカ扱いされ、誰かにクズと言う者は己がクズ扱いされるものです。
 西洋には、聖書に、あなたが人を計る計りであなたも計りかえされるであろうという意味の文言があったように思いますが(「計り」じゃなくて「量り」だったかしらん?)、同じことだと思います。

 蛇足ですが、そもそも私は自分が、なぜマンガ家と存在し続けていられるのか、よくわかりません。
 オレもそう思うとおっしゃる方もおいでのはずです(笑)。
 自分は価値あるすばらしい作家だなどとは思っていませんし、むしろ「無」と言うか、いつ消えてもおかしくない、いてもいなくてもいい存在だと思っています。
 日々仕事があるのは奇跡だと思いますし、感謝のほかはありません。
 この仕事が最後かも知れんなと思いながら、いったい何年過ごしてきたでしょう。

 私が誰かに消えろと言うとき、私に誰かが消えろと言うでしょう。

 だからと言って、反撃されるのが怖いから無法を見逃そうというような、後ろ向きのことを申し上げているのではありません。

 今回の規制問題で、気になるのは、前回の日記「表現規制の問題に関して1」で申し上げた、相手の「矮小化」「藁人形攻撃」が賛成・反対双方の陣営で行われていて、それが大変低レベルであることです。
 反対派の人々はなにも、児童ポルノはすばらしいから守り伝えて行こうなどと言ってはいません。いや、一部にはおいでなのかもですが、大半の方が問題視しておいでなのはそこじゃないんじゃないでしょうか。
 児童ポルノ規制や、低俗エロマンガ取締りの名の下に、主観的な言論統制の権利を為政者に与える白紙委任状にハンコは押せないと言っているだけではないでしょうか。
 その人々に、単なる「児ポ賛成擁護派」のレッテルを貼って笑い嫌悪するのは、『論理病をなおす!』(ちくま新書)で香西秀信氏が言うところの「藁人形攻撃」だと思います。

 同書から、その「やや戯画化的な例」を引用します。

<学生「『論理学』の単位がないと看護学校を卒業できないので単位をください」
 教師「君は試験で百点満点の五点しかとってないのでとても単位はやれない」
 学生「しかし、出席点というものがあるでしょう」
 教師「君は授業中、化粧を直したり雑誌を読んだりそんなことばかりしていたではないか。出席点なんかやれるか」
 学生「それでは先生は、私に卒業するなと言うのですね。今看護師不足なのは御存知でしょう。一人でも多くの看護師が必要な時に、私に看護師になるなというのですね。病人や怪我人が、看護態勢の遅れで何人死んでも構わないと言うのですね」>

<これは「滑りやすい坂の議論」という詭弁を利用した藁人形攻撃である>
<もしあなたがAを選択すると、それはBという結果につながる。そしてBになれば今度はそれはCをもたらす。CはDに帰結し、最後には一連の因果の連鎖によって破滅的なEに到達してしまう。ゆえに最初のAを選択してはならないという論法である>(同書・97~98ページより)

 規制賛成派の方々は、このAに、「現在の一部のマンガ等における目に余る(?)性表現の放置」を入れておいでなわけです。
 規制反対派の方々は、このAに、「表現の規制」を入れておいでなわけです。

 さて、児ポ規制と思想統制、言論弾圧の間には大きな隔たりがあるように思われるでしょうが、
 私は「テロ支援国家に売り渡される、大量殺戮兵器に転用可能な民生機器」を連想します(ときどき新聞記事にもなりますよね)。
 悪用された後で「私はただ農機具を売っただけだ、あちらも農業に使うと言っていた」と言っても遅いのです。
 これに関しては、知事の人格を揶揄する意見などもお見受けしますが、私は別に、今のお上が「テロ支援国家」だなどと申し上げるつもりはありません(それは一つの「藁人形攻撃」です)。
 ただ、「いかなる権力も腐敗する」ということは、おそらくどなたもよくご存知のことだと思います。
 たとえ今、人格高邁で優れた知性を持ち、客観的で公平な視点を持った為政者が、その権限を手にしていたとしても、明日はどうだかわかりません。

 私の尊敬する昔の賢人の一人に、以前日記でも取り上げました古代ローマの皇帝、マルクス・アウレリウスがいます。
 「哲人皇帝」と呼ばれた彼でしたが、後を継いだ息子のコンモドゥスは、マッチョで夜遊び好きの、どうしようもないバカ息子でした(そんな息子に後を継がせたアウレリウスも、その程度のやつだったのだ、という意見や、立派でも所詮人の子、いや人の親だったのだという意見、そうではない、あれは息子に毒殺されたのだなど、様々な説があります)。コンモドゥスの暴君ぶりは、映画『グラディエーター』でも、カリカチュアライズされて描かれていたように思います(記憶違いでしたらすみません)。
 どんな英明な為政者であっても、明日の後継者はわかりません。
 コンモドゥスかも知れないしネロかも知れないのです。

 あれ?それって今言った「滑りやすい坂の議論」じゃないのか?
 Aに「規制」を当てはめた、反対派の言い分がまさにその「すべりやすい坂の議論」じゃないのか?
 そうとも言えます。
 ただ、反対派の人々は、規制すれば絶対思想言論統制になだれこむ、と決め付けておいでなんでしょうか?(意見の内容をすべて吟味してはいませんのでわかりませんが)決め付けておいでの方もいらっしゃるでしょう。そうでない方もおいででしょう。
 私としては、そうなる危険性があるからやめておいた方がいいというものです。

 「~すれば絶対こうなる」、というのは、神でも預言者でもありませんから、申せません(少なくとも私の知性では)。
 ただ、自動車のシートベルトやエアバッグが、その車が絶対事故るからと言って付けられてているわけではありません。
 場合によっては致命的な結果を招くこともありうるシステムには、なんらかの安全対策が必要です。
 限られた権力者が独断で即断即決して悪を裁き処刑する物語は、マンガやドラマの中では昔から幾百千も作られてきました。
 上告に上告を重ねたった一つの悪を裁くにも何十年もかかる現実にうんざりした人々に、それらは痛快な娯楽であったわけですが、娯楽はあくまで娯楽であって、現実世界で自分の有罪を、ご隠居様とその親しい側近数名で短期間に一方的に決められて、刑まで執行されたのでは、たまったものではありません。

 蛇足ながら、わたくしごとを申し上げるならば
 私の古くからの読者の方はご存知でしょうが、山本は元来成熟した女性が趣味で、たまに読者受けを狙ってかわいい乙女を描いてもほとんど成功したことがなく(例外は四半世紀も昔の、初期作品『エルフ17』くらいでしょうか)未成年エロなどが規制されても何ら失うものはありません。
 描きたいものはいくらもあるし、少々何が規制されようが困ることはないでしょう。
 人生でエロもグロもナンセンスも描いてきましたが、それは私の一側面であり、表現したいことは、そういった「がわ」とは別にあるものです。
 とうわけで、私が懸念するのは、一部で争点になっているような目先の取り締まりのことではなく、
 「農機具を大量破壊兵器に転用」された場合のことです。

 ちなみに、先の「教師と生徒」のやりとりに、著者(香西氏)はこう書いておられます。

<因果関係や、その連鎖は、それ自体は何ら詭弁ではない。その因果関係に必然性があり、妥当と見なされるのであれば、それは論理的で正当な議論である。だが、その因果関係が「風邪が吹けば桶屋が儲かる」式にこじつけめいていて、明らかに恣意的につなげられているとき、その論法は「滑りやすい坂の議論」になっていると判断される。この学生の議論はその典型と言うべきものだ>

 私(山本)は、今回の規制問題に関して、すべての賛成反対意見を吟味しているわけではありません。
 ですので、個別にその可不可を言い立てることはできませんが、賛成にせよ反対にせよ、この「滑りやすい坂の議論」に陥らないようにしていただきたいものです。
 無論、どれが「こじつけ」かという認識が、双方で異なっていることでしょうから、話はなかなか解決しないと思われます。

 ただ、議論の参加者が増えれば増えるほど、そのレベルにもピンキリの幅が広がり、低レベルな意見も増えていきます。
 その際(これはこの問題に限らずすべての問題においてそうですが)、相手側陣営を攻撃するのに、その低レベルな意見にフォーカスし
「あの連中はこんなくだらない意見を押し立ててくる愚か者の集団である」
 というレッテルを貼って(前回申し上げた「藁人形攻撃」「矮小化」)、レベルの高い上澄みの意見までも、愚かで取り上げる価値もない無用のものであるといっしょくたにして決め付けるのは、一つの「短絡」「思考停止」だと思います。愚か者はどこにでもいますから、賛成派にせよ反対派にせよ、その愚かな部分にのみフォーカスするなら、どちらもともに愚かで馬鹿げていることになります。
 一般に人間は感情のバイアスを受けますから、低レベルで不快な反対者が増えれば増えるほど(一杯の飯に石ころが一つ混ざっていても不愉快なように)それがよくよく考えれば少数派であっても、目に付く印象深い存在であれば多数のように感じ、どんどん耳を傾ける気をなくします。

 私が高校生のころ(1970年代の話です)学校の服装や髪型の規制に関して、複数の生徒で教師に交渉に行ったことがありました。私も野次馬と言うか、興味を持ってついて行った記憶がありますが、その際、教師に向かって粗野で下品な野次を投げかける生徒がいて、あれは逆効果だなあと思ったものです。
 そんなことをしても、ただ相手の印象を悪くし、態度を硬化させるだけです。


 そういえば昔、空海が唐に向かった際、船が漂流して目的地とは異なる中国の沿岸に流れ着き、船の者が土地の役人に救済の嘆願を書き送ったが、文章がへたで相手にされず、空海が代わりに書いて送ったところ、即座に態度が変わって丁重なもてなしを受けたという話を読んだことがあります。
 どこかのどうでもいい漂流者、ではなく、捨て置けないそれなりの人物であると思わせるだけの何かがあったのでしょうが
 手紙にせよメールにせよ、書く人の知性と品格が現れるもので、こんな文章を書いてくる者の意見などどうせロクなもんじゃあるまいと思わせた時点で、その効果は半減どころか、かえってマイナスの場合もあると思われます。

 昔から「夜書いた手紙は出すな」という言葉がありますが、感情と勢いにまかせて書いたメッセージは、一回寝て頭を冷やして読み直すくらいがいいのでしょう。



 って、私の申し上げたいことはまだ全然途中ですが、今回はここで置きます。
 「表現規制の問題に関して3」に続きます。
 あいかわらず修羅場の日々で、これが来月上旬まで続きそうな状態で、さっきもきょうの仕事を終えてブログ管理画面にログインしようとして二回パスワードを打ち間違えました(疲れてます)(爆
 言葉の足りない部分もあるかと存じますが、お詫び申し上げます。
 長文お読みいただきありがとうございました。

 きょうも良き日を。ではでは。
コメント
この記事へのコメント
表現
漫画家に実力がないと作品を商業誌に公表することは無理ですね。表現の自由を行使するには、そもそも実力がないと、表現者としての土俵に上がることができないでしょうね。実力がないのに、「作品を持ち込んでも掲載してくれない、あの雑誌の編集者はおかしい」などといいだしても、だれにも取り合ってもらえないかもしれませんね。

さらに、オンラインで作品を公開しても相手にされなかったら、その時点では、その人には実力がないといえる。自分の実力がないのを何とかしろ。と誰かに言っても何にもならないでしょうね。ノンプロでもオンラインで漫画や小説を公表できる現代では、表現者の素質がどの程度であるかは、かなりわかりやすい。

だから政府は表現の自由を侵犯するな。といえる人たちは、プロとしての実力はもっているということになるでしょうね。

政府の側もルールを制定したいからには、憲法の形から考えて正当な主張でないといけない、政府が無理なルールをごり押ししても、法の観点から見て不自然なルールはいずれ消えてしまうでしょうね。

法やルールも「言語表現」であるという意味では「表現」ですので、ルールを制定したければ整合性がないといずれ崩れる。

まだ、この話題は途中のようですが楽しみにしています。
2010/03/23(火) 23:36:00 | URL | まえやま #-[ 編集]
議論の空中庭園
色々な議論をして思い至った結論に「議論の空中庭園」というのがあります。

空中に忽然と登場した庭に色々なモノを構築するというイメージです。

空中に浮いた庭は、それ自体がありえないものなので、その上に構築された議論も意味をなさないという意味をこめています。

「滑りやすい坂」に似た考えです。

空中庭園は、空中庭園から延びる構造物は本物でありしっかりした理論の積み重ねをしたものとしてイメージしていますのである意味、「滑りやすい坂」より事実誤認をしやすく悪質です。困ったことに空中庭園に構造物を構築する人は、構造物を作ることに目が行き自分が構造物を建てようとしている場所が空中庭園であることに気が付かないことが多いのです。

解決に向かう手段は、その人がいる場所が空中庭園であることを気がつかせるあらゆる手法に依存します。どの様な手法が良いかは場面場面で異なりいちがいに言えません。

なんとなくいいと思うのは、各々自身の主張のデメリットをまず述べてもらってから本来の主張をしてもらうこと。

デメリットが考えつかないなんてのは、考察が浅墓で足元が見えてない証拠だと思いますよっ!v-114
2010/03/24(水) 07:40:57 | URL | やすやす #-[ 編集]
多数決というゲームシステムのバグ
功績を残した者がゴシップや論法によって軽んじられ、声が大きい以外に特徴の無い者が取って代わる。
そのような現場を多く見てきました。

相対する二者が共に敬意を示して対話を行う事は大切でしょう。
しかし、敬意を捨てた側の主張がジャッジに重んじられるとなれば、もう一者もそれを捨てざるを得ません。

問題の根はジャッジの持つ定規にあるのではないでしょうか?
意思決定の場においても、大義名分、建前、腹芸そういった物を拭えずにいる。
興味がある者を納得させるより、興味がない者をなびかせたほうが勝ち。
そんな定規です。
2010/03/24(水) 19:38:23 | URL | 猫車の矢七 #-[ 編集]
コメントありがとうございます
>まえやまさま
 おそれいります。
 憲法の形から考えて正当な主張でないといけない<そうなんですよね。逆に、それが狂っていても平然と法制化されるようだと、かなり困った世の中だと思います;

>やすやすさま
 議論の空中庭園<なるほど。砂上の楼閣の上に建て増しをしていくような議論ですね。
 デメリットが思いつかないというのは一種の狂信で、対話にならないと思います。
 私も規制に賛成しないとはいえ、規制しないことによるデメリットの存在は認めます。

>猫車の矢七さま
 興味がない者をなびかせたほうが勝ち<この問題においては、表現の自由に関心をお持ちの方より、ない方の方が一般市民には多いと思います(そうでないかもしれませんが)。
 一方で、児ポに嫌悪感をお持ちの方は多いと思います(好感をお持ちの方は少ないと思います、私も持ってはいません)。
 多数決では、その人々を取り込んだ方が勝ちでしょう。
 多くの人を動かすのは「わかりやすさ」であり、この問題の争点の本質がわかりにくいことが、かなりマイナスなように思います。 
2010/03/24(水) 22:16:11 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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