あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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表現規制の問題に関して1(はじめに)
 複数の方からメールでお問い合わせをいただいております、もっか物議をかもしております表現規制の問題について。
 私は原則、ブログ等で政治向きの話題は書かないことにしております。
 問題意識がないのではなく、あっても触れないだけです(一表現者として、大いに問題意識は持っております)。

 理由の第一は、すべての(は無理としても、多くの)方に誤解のないよう、思うところをご説明申し上げることが困難であり、誤解が誤解を生んで大変双方にとって不愉快で不幸な結果に終わる例を多く(他の方のブログ、BBSなどで)見てきたこと。
 私はいかなる議論、ディベートにも興味がないこと(若いころは大好きでしたが)。
 議論ではなく対話は受け入れますが、私が思うような基本的な対話の姿勢を持っておられる方が、世間的にはほとんどいらっしゃらないこと、などです。

 基本的な姿勢とは何かと言うと、相手に対する敬意です。
 たとえそれが敵(だと自分が思っても)であってもです。
 かのガンディーは、征服者であるイギリスに非暴力で抵抗した際、イギリス人を侮辱したり攻撃するのではなく、敬意を持って不服従を貫きました。
 別に彼が完全無欠な聖人だなどと言うつもりはなく、欠点や問題点も多々あった一人の人間ですが、私は彼のその姿勢に共感するものです。

 人は、愛と敬意と感謝のないアプローチに、心を開くことはありません。
 怒り、嫌悪、侮蔑、そういったネガティブな感情を伴ったコンタクトには、人は反射的に身構え、かたくなになるか攻撃の姿勢(多くは好意的でない感情を伴う)を取ります。
 それは、ほとんど無意識不随意の護「身」反射ならぬ護「心」反射と言ってもいいものだと思います。
 それは、自我、あるいは自己のパーソナリティを防衛したいという衝動から起こります。

 自我の確立も達成していない未成熟な段階としてではなく、確立したのちにそれを手放した人だけが、その衝動から自由にいられます。
 無論、物質的な肉体を持ち、生物としての本能や、多くの化学物質の影響下にある人間が、完全にニュートラルな心を持てるかというと、まあ不可能と言っていいでしょう。
 完全にそれらを達成した状態を、いわゆる悟りと言うのかもしれませんが、そんな境地に至ったことのない私にはわかりません。
 ただ、その方向に向かって日々歩み、途上にある人とは、多少の対話が可能かもしれません。

 人間のニュートラルな対話を妨げる性癖の最たるものの一つが
 敵視、あるいは蔑視する相手の「単一化」「矮小化」があります。
 心理学の実験でも結果が出ていたと思いますが、たとえば学生に複数の知らない学生の写真を見せて、その好みや性格などを想像させると、写真の人物が自分と同じ学校や好意的に思っている学校の生徒だと聞かされると、非常に多様性に富んだ性格を想像するのに対し、自分がバカにしている学校の生徒だと聞かされると、非常に型にはまった画一的な回答が返ってくるのです(あんな学校の生徒なんてこんなもんだろ、ですね)。
 興味がない対象、嫌いであったりバカにしている対象には、よく考えないで単一のレッテルを貼るわけです。

 それから「矮小化(わいしょうか)」は、その一変形とも言えますが、相手を低くくだらない存在だと決め付けることです。
 特に、議論などにおいて顕著ですが
 言葉には幅というものがあります。一つの言葉でもピンからキリまで様々な意味と解釈が含まれます。
 気に入らない相手の言動は、常にその中でもっともくだらない、馬鹿げた方の意味を当てはめて解釈し、いかに相手が愚かでくだらない人間であるかと決め付けます。
 私はこれを「矮小化」と呼んでいるのですが、もっとやわらかい親しみやすい表現はないかと悩んでいました。
 私が読んだ、この種の問題を解析した名著の一つに香西秀信・著『論理病をなおす!』(ちくま新書)があります。
 香西氏は私の言う「矮小化」を「藁人形攻撃」と表現しておいでです。

<藁人形攻撃とは、相手の主張を、こちらが反論しやすいように(故意に)歪めて表現する詭弁である>(同書78ページより)

 これは日常のささいな口ゲンカから、国会などの政治討論の場まで、あらゆる所で使われています。
 相手の言った言葉尻をとらえて、もっとも愚かしい解釈を当てはめ、おまえはこんなに馬鹿なコトを言っているくだらない人間であると「判決」を下します。
 一方で、自分や自分の賛同者、自分の尊敬する人物の言動には、可能な限り意味深いすばらしい解釈を当てはめます。

 人間は、自分につごうのいい情報はウソであっても信じたがる生き物であり、つごうの悪い情報は真実であっても認めたがらない生き物です(そこに様々な詐欺師がつけこむわけですが)。
 そして、人間は自分に対して、しばしば大いなる嘘つきです。
 相手がつまらない、まともに応対する必要もないくらい低俗で愚劣な人間であると「判決」を下せば、後は気楽なものであり、ずっと「高み」から(自分で勝手にそう思っているだけなのですが)見下ろして石を投げることができます。

 人間にこうした偏向傾向があることは、幼いころから日常生活の中で、自分がそういう目に合うことでいくらでも学び気づく機会があり、振り返れば自分も他人に対して同じことをしていると気づくことで、いくらでも改める機会があります。
 そうしていない人というのは、精神と知性の発達途上でまだその段階に到っていないか、到っているがあえて無視してそのスタイルを取り続けているか、どちらかでしょう。

 後者について、同書に興味深い事例があります。

 村田宏雄という人の『オルグ学入門』という本の中の、理論闘争の場における手法の例を引用して、こうあります。

<(ロ)争点操作
 この原型は、質問の意味を勝手にすりかえ、オルグにとって回答し易い質問に直し、それに長々と答え、それを聴く相手があきれると共に聴くことで疲労退屈し、再度の質問をする意欲を失わせるようにする方法である。「今の質問は、このような意味かと考える」などといって答えるような時、この争点操作を再度行っている場合が多い。この方法は相手がそれでは質問の回答にならぬと、再度回答を促してきた場合にも、相変わらず同じような的外れの回答を続けるのが秘訣である>

 それに関して著者の香西氏は

<ここで村田が、悪いことをしているという意識が皆無であることを見落とすまい。正義はこちらにあり、オルグという崇高な任務を遂行しているのであるから、「悪」である相手をどのような手段で打ち破ってもそれは正しいのである>

 とコメントしておいでです。
 オルグという単語は、今の若い方にはなじみがないかもしれませんが、私と同世代かそれ以前の世代の方には大変なじみの深い言葉だと思います。(「組合や政党を組織したり、労働者・大衆に働きかけて組織の強化・拡大を図る活動を行ったりすること。また、その人。」の意。<明鏡国語辞典>/同書より)

 この場合、「矮小化」あるいは「藁人形攻撃」は自覚の上に行われているわけで、それに論理的に反論してもそもそも「聴く耳を始めから持っていない」わけです。それは、冤罪を作り出してやろうと心に決めている捜査官に、自分の無実を訴えるようなものです。
「そんなことはわかっている、わかっているが自分はおまえを有罪にすることにしたのだ」(とは言わないでしょうけれど)

 こういう偏向攻撃は、左の人に限らず、右であろうとノンポリ(死語か?)の人であろうと、皆使います。
 そういう困難をかいくぐって「闘う」のが「政治」の世界なのでしょうが、私は、対話する意志のない人と対話したいとは思いません。

 もう一つ。
 人と人との対話を妨げている問題の一つが、人は勝手な「物語」を作り出し、それを通して世界を(他者を)見ていることです。
 「物語」とは私なりの表現なのですが、いわゆる「偏見」などより、もっと大きな範囲の事を指します。
 「判断」「予断」といったさまざまなことがらです。
 人はそれなしに生きていくことはできません。
 そこにやってくる自動車はあの速度とコースだから、自分が横断歩道を渡るころにはこの辺に来ているな、というのもそうですし、今私に話しかけているこの人物は、口調や目元の表情、そしてこれまでに聞いた評判などから考えて、心の中ではこういうことを考えているにちがいない、というのもそうです。
 問題は、それらがすべて実際の真実ではなく、自分が限られた知識と知性で作り上げた個人的なストーリィ、ただの「物語」に過ぎないことを、人はしばしば忘れているということです。

 「おまえがなんと言おうとオレにはおまえの意図などお見通しだ」
 と言うのは(しばしばそう言い切る人がいます)「自分は神だ」とか「超能力者だ」というのと同じことであり、そういう人と言い争っても時間の無駄です。
 そうですか、あなたは神ですか。ではあなたの世界を治めておられるがいいでしょう。ただ私はあなたという神の信者ではありませんから、あなたの「お告げ」を受け入れることはできません。
 ここに、どのような意志の疎通が可能でしょうか。

 自分は限りある知識と知性、限られた判断力しか持たない一個の人間であり、今語ること、思うこと、すべて今この瞬間の仮の判断に過ぎない。
 あなたと意見は異にするかもしれないが、私はあなたの思い、言葉、行動の自由を尊重し、敬意を払う。
 もしかしたら、私にはあなたの言動が馬鹿げて見えるかもしれない(あなたにも私がそうかもしれない)。
 しかし私にそう見えているだけで、真実は異なるかもしれない。
 私は私の「物語」を通してあなたを見ているが、それはただの仮の「物語」に過ぎないことを自覚し、その「物語」をひとまず脇に置いて、私はあなたの話を真摯に聞こう。
 そう言える人と人とだけが、互いに語り合えるのではないでしょうか。

 リングに上がり、相手の股間を蹴り、目に指を突っ込んでおいて、相手が自分につばを吐きかけたと言って抗議する人と、いったい何を話し合えるでしょうか。

 私が若いころ、アシスタントに行っていたマンガ家のはるき悦巳先生は、大のジャズ好きで、中学のころからジャズしか聴かないという人でした。
 あるとき、とある業界の先達とジャズの話になり、その先達は随分わかったようなことを言っておいででした。
 しかし話すうちに、実は全然わかってなくて、ただの知ったかぶりな人だったことがわかりました。
 後でがっかりしておいででしたが、そりゃ残念でしたねという私にはるき先生はこう言いました。

「オレはなあ、初めての人と会うときは、その人のこと一応買いかぶって話すんや」

 はあ、それは?と聞く私に、はるき師匠はこう続けました。

「人間、自分を低いとこに置いとかんと、なんも学べんやろ?(笑)」

 30年以上経っても、忘れられない一言です(本当に、いい師匠でした)。



   そいうわけで、本題に入る前に長い前置きになってしまいましたが(だからなかなか書けないんですが)(汗)
  「表現規制の問題に関して2」に続きます(多忙のため、更新に多少時間がかかります)。
   
            きょうも良き日を。
コメント
この記事へのコメント
規制推進者は、はなから議論などする気は無い様に感じます。正に、山本先生のおっしゃる矮小化そのものの姿勢に思えてきます。
仮に法案が可決されれば、「超」や「Mr・ボーイ」などが、”未成年らしく見える”というだけで規制の対象になってしまうのでしょうか。
政治的な話はあまりしたくはありませんが、危惧を感じています。
2010/03/18(木) 23:24:20 | URL | 間地出 外吉 #//IwUzE6[ 編集]
だめな議論
各々自身が勝ことを前提に話し合われる議論。そういう議論が目の前に出されたら一目散に逃げるとしよう。付き合ってもどうせ無駄だから。

議論が一周して振り出しに戻ったら、一目散に逃げるとしよう。振り出しに戻した者は、何度でもそれを罪の意識なくする気だから。

そんなでも時に引けないときがある。
徒党を組んで徹底抗戦。結論決着に至らずともやむなし。

自らの議論の庭からでない者を恐れよ。決して、その土俵に乗ってはならない。議論の戦場が、公平な場所であることに真剣にならねばならない。そうでなければ戦う前に負けてしまう。
2010/03/19(金) 05:53:55 | URL | やすやす #-[ 編集]
ものがたりの意義
ものがたりの意義とは?

人生は一度である時体験したのと同じ体験は出来ない。



人は何故ものがたりを作るのだろう?生き物は、日々似た行動をする。2度目の行動は少しだけ前とは違う。その様に生き物は自らの行動を少しづつ変化させ広げていく。そういうものだ。人は実体験を補い試行錯誤を行うためにものがたりという架空の世界を発展させた。ものがたりの世界はそういうものと思う。


架空の世界は人の実体験を補うもの。そこには、正の効果と負の効果が同居する。規制は、負の効果を退けるだろうが、同時に正の効果を捨てることになる。

誤ってはいけない。

架空の体験をいかに正の実体験に結びつけるかこそが社会が求める利益のはずだ。

悪しき架空表現を排除したからといって悪しき実体験が生じない保証は何もない。何故なら、どちらも人の心から生まれた表現なのだから。架空表現を規制して安心することなかれ。規制により安心を得ようとするなら全ての人の心を洗脳しなければなるまい。人の心の内に悪しき表現が生まれない様にしなければならないのだから。こりゃあ考えただけで気が遠くなる。推進派のこの点についてのご意見を伺わねばなりませんな。
2010/03/19(金) 06:44:15 | URL | やすやす #-[ 編集]
遅レスご容赦
>間地出さま
 おそれいります。 
 話を聞く気がない<自分の中で一方的な欠席裁判を開いて判決を下し刑の執行までする人が、この問題に限らず多いです。
 人類の過半数はそうかもと思えるくらいです;
 
>やすやすさま
 物語の中に描かれる人の負(と一般には思われる)部分の効用に関しては、心理学者にも諸説あって、いちがいに全否定できるようなものではないです。
 持っているだけで犯罪者にできるとすれば、誰かを罪に陥れるのに、その人間のPCにこっそりその種のファイルを入れておいて、密告すればいいわけで
 刑事ドラマなどでよくある、相手のポケットに麻薬を入れて「現行犯」などという陳腐なマネがいくらでも可能です。
 まことに、よくよく考えて決定しなければならないと思うものです。

 コメントありがとうございました。 
2010/03/20(土) 05:17:11 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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