あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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『煩悩力』煩悩をパワーに!
『煩悩力』
『煩悩力』 (藤原東演・著/リュウ・ブックス アステ新書)

 先日、このブログの記事をお読みくださった方から
「自分はなかなか、色々なこだわりを捨てきれない」
 という意味の感想をいただきました。
 捨てる必要はないと思います(私も捨てられません)。
 最終的にすべてを手放すとしても、それはそれらが自然に、熟した木の実が枝から落ちるように、時が来たら手放せばいい。それは意図して手放すものではなく、気がついたら手から放れているような自然な形が望ましい。
 私はそう思っています。

 だからと言って、たとえばタバコをあきらめられないからと、わざわざヘヴィースモーカーになる必要はありません。
 人生には、覚せい剤のように、無理をしてでも手放した方がいいものもあります(もし依存しているならば)。

 それは別として、人間が心の中に持っているある種の欲望や志向というものは、無理やり手放すことはできません。
 手放したつもりが、ただ抑圧しているだけであり、それは形を変えて現れます。
 鼻炎が治ったと思ったら湿疹が出たとか、歯軋りが止んだと思ったら貧乏ゆすりが、というように、まるでエネルギーが熱や運動に形を変えるように、どこまでも付きまとって離れません。

 それならいっそ活かしてしまえ。
 そう語りかけるのがこの本です。
 
 同感です(笑)。
 私など、ほとんど煩悩、リビドーを燃料にここまでマンガを描いてきたようなもので、それなくしてはこの道程の半分いや十分の一も来られなかったことでしょう♪

 ただし、あくまで「活かす」ことであって、所かまわず野放しにして「はた迷惑な人になる勧め」ではありません(笑


 著者の藤原氏は、臨済宗のお坊さんだそうです。
 ある地方大学で「宗教学概論」の講師をしておいでだそうで

<毎年、「自己とは何者か」というレポートを学生に書いてもらう。すると、本音と建前の間をうろつく「いい人」願望がいかに多いか、毎年、浮き彫りにされてくる>

<他人が自分をどう思うか、なにを自分に期待しているか、その場の空気を読めるかどうかをすごく気にしている。だが、ここで言う他人とは自分がかかわりのある人間だけを意味する。
 赤の他人に対しては、非常に無神経なのだ>

<逆にかかわりのある相手に対しては、望まない意見を言って、変に思われたり、嫌われたり、相手にされなくなるという孤立感を異常なくらい恐れている。
 だから本音をいつも抑えて、建前で人と交わる。つまり「いい人」「いい友」という仮面をつけて、触れ合わないとやっていけない、と思い込んでいるようだ>

<いい人であろうとすると、精神的に疲れてくるし、自分の成長の障害になってしまうのだ。学生たちはそれも気づいているのだ。だったら「いい人」の壁をなんとか乗り越えたらいいのにと思うのだけれど、その勇気が出てこないようだ>

<この「いい人」という風潮は決して若い人に限ったことではない。日本人のあらゆる世代の意識にまん延しているのではないか。その分(中略)活力の感じられない社会になっている現代、自己中心的な、小人物ばかり増えてきたのではないか。
 だから仮面のもたらすストレスが増幅し、生きる気力を喪失してしまい、結果、自分とは関係のない人を殺めるような、秋葉原の無差別殺人のような陰惨な事件ばかりがおこるのだ>

 私(山本)は、この「いい人」コンプレックスの裏返しが、昨今の、人のちょっとしたアラを見つけて言葉や行動でつるし上げ、まるで西部劇のリンチのように責め立てる風潮に現れているように思います。そのことがまた、うわべだけの「いい人」志向に拍車をかけるという悪循環を生み出しているのではないでしょうか。

<では「いい人」信仰を打破して、本来の自分にある、未開発の能力や活力を伸長させるにはどうしたらいいのか>

<私の言葉で言えば、本来一人ひとりが有する「『煩悩』のパワーを活用することだ」>


 「煩悩」と言うと、そもそも仏教の言葉で、<「自分の欲望にふりまわされる悪い心の働き」>といった意味合いで使われますが、それが
<仏教が現代人に嫌われている元凶>だろうと、著者は言います。

<なぜなら、欲望を追求し、満たすことを第一義としてきたのが現代>であり、
<そうなると、仏教は過去の遺物であり、仏教などなくてもいいということになる>

<だが>
 と著者は言います。
仏教は、欲を全面的に否定しているのではない。それどころか「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)すなわち煩悩があるから悟りもあるという言葉があるくらいだ。すなわち煩悩を活かすことこそ仏教といっていい

 
 大いに同感なのですが、宗教というと「禁欲」という先入観が一般には広く行き渡っていますので、仏教のそういう面は意外と知られていないのかもしれません。
 と言うわけで、著者は歴史上の有名な人物がいかに、自分の煩悩を活かして事を成したかを、実例を挙げて分析していきます。

 一休、織田信長、小林一茶、親鸞、種田山頭火、野口英世etc・・・
 はては野村監督まで♪
 
 目次は以下のとおりです。

<第一章 煩悩力が「生きる力」を倍増させる
   ~なくすより、活かすことで「煩悩」も生きる

 第二章 「欲」の深さが力に変わり、夢を実現する
   ~むさぼるほどに見えないものが見えてくる

 第三章 「怒り」が人を巻き込む魅力になる
   ~リスクを背負うから人生がおもしろくなる

 第四章 「グチ」こそが心を救うクスリとなる
   ~吐き出すことで、ストレスフリーに生きられる

 第五章 「煩悩」とともに歩むと、人生の壁は崩れていく
   ~「これでいいのだ!」が言えたらもう怖くない>

 中には煩悩の代表みたいに言われる性欲も含まれます(当然ですが)。
 不自然な禁欲など、一部の性犯罪者などは別として百害あって一利なし。口臭を防ぐために息を吐かないようなもので、すぐに破綻が見えています。
 立ってるものは親でも使えと言いますが、使えるエネルギーは全部利用する。それがエコではないでしょうか。
 著者は、煩悩を暴走させた場合の危険性にも言及しつつ、その活用例をいくつも並べて解説しています。
 読みやすい平易な文章で、買ったその日に読了しました。


 ちなみに、いささか形而上な含みもあって本書のメインテーマとは少しだけずれるかも?ですが、私が印象深かったのは以下の下りです。

<(岡本太郎の)『自分の中に毒を持て』(青春文庫)という著書に、僧侶に講演したときの話が出ている。(中略)
 開式の挨拶で、ある僧侶が臨在禅師には「道で仏に逢えば、仏を殺せ」という名句があると話した。岡本は違和感を持った。いくら有名な一句を念仏の如く唱えても意味がない。
 禅は、一般の人がおやっと驚かせるような言葉をひねくりまわして、それを是(ぜ)とし、その言葉の上に胡坐(あぐら)をかいていないか、というのだ。
 岡本は壇上に上がると、いきなり聴衆に問う。
「道で仏に逢えば、と言うが、みなさん今から何日でもいい、京都の街角に立っていてご覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げてください」と。
 誰も手を上げないので、
「逢えっこない。逢えるはずがないんです。ではなにに逢うと思いますか」
 と畳みかけた。やはりシーンとして誰も答えない。
 そこで岡本は激しい言葉をぶつけた。
「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ」
 その岡本の発言に会場がどよめいたが、次の瞬間、拍手喝采となった>


 さすがは岡本氏。
 本職のお坊さん相手にナイス切り込み(笑
 お決まりのパターンで権威ある名句を引用して分かったつもりになっている人や、虎の威を借る狐状態で悦にって入る状態の人は、まずその「オレが」をこそ殺すべきでしょう。
 よくぞ言ってくれました(笑)。

 落語に、ある男が、さっき町でこんなバカなできごとを見た、とその当事者たちをあざ笑って仲間に語る話があります。なんでそんなにくわしいんだと聞かれ、オレはそばでずーっと見てた(笑)。
 見てたおまえもバカだろうという。

 これでいいのだ
 今日も善き日を♪
コメント
この記事へのコメント
108って数字は特に根拠がある訳じゃないんですね……
こんにちは、いつも楽しく読んでいます。
この記事の紹介を読んで、煩悩とは、「こう在りたい」とか「追求するエネルギー」みたいなもの、という解釈もアリなんだな、と感銘を受けました。
冷静に考えてみれば、当然ちゃ当然なんですが、なかなかそういう事に自身で気がつけないのは、色々と足りてないなぁと思う昨今です。
年末進行でお忙しいと思いますが、ご家族、しろさん(通い猫らしいですが)共々、お体に気をつけてください。


あと「いい人」願望、と言われると、わが国の首相を思い出してしまうのは私だけじゃないと思います。
八方美人で八方塞がり、だなんて表現されているのを見ると、日本人の特徴を一纏めにした概念的存在にすら思えます(笑)
ある意味国民の総意と言えなくもないのかもしれません。

でわでわ
2009/12/24(木) 11:32:18 | URL | 石ころ坊主 #-[ 編集]
ありがとうございます
>石ころ坊主さま
 いつもお読みくださりありがとうございます。
 八方美人は、本当に八方まるくおさめる行動をとれればすばらしいんですが、口だけで結果が伴わないとすぐに信用を失いますよね。
 争いを好まないことと、すぐばれる嘘をつくことは別だと思いますが
 自分の周りの人の顔色ばかりうかがって「いい人」をよそおうが、グローバルな視点では何も見ていないというのは、要するに狭い視野で自己中の八方美人ということにもなりますね。
 そうしてみると、おっしゃるとおり、今の政局はなるべくしてなったと言うべきなのかもしれません。

 私は十年かもう少し前、真剣にものごとを考えている人を「ねくら」というひとくくりであざ笑う風潮がマスコミ上げて流行っていたとき、これは一億総馬鹿化計画ではないかと危惧していたのですが、その成果が出ていると思うのは考えすぎでしょうか。
2009/12/24(木) 15:02:25 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
智慧
煩悩が、プラス方向になるともう煩悩と呼べないかもしれない。
という微妙な思いをいだいたりして。

まあ、その辺は諸教の概念の差かもです。

個人的には、禅系のひねった感じの表現があまり好みでなかったりします。ひねった表現は妙を得ているようで大きくずれるひずみも時に生みだすと思うので、安易に扱えないと思ってます。でも、表現としてはひねっていた方が良いに付け悪いに付け印象は強いですね。



自己中心的なのに他人の評価が気にかかるというのは不思議な気持ちをもたらします。自分の評価を気にするあまり他人の自分への行動が気にかかるとは。
他人の評価が自己中心的な自分を支配しているとも捉えれれるわけですから。

自己中だろうと他人とのかかわりから無縁でいることは無理ってことかと。最後はどう折り合い生きるのかってことかなあ・・多分。

傍からみえば私エネルギー暴走している様にみられることありますけど、世の歩みがもう少し慎重で遅いなら、出来るだけゆっくりエネルギーも使わない様に静かな生き方したいです。本当はそういうエコが好きです。
v-100
ではでは。
2009/12/25(金) 12:02:18 | URL | やすやす #-[ 編集]
嫌われる理由
煩悩という言葉は、一般的でないので元凶というほどではないかと思う。

それよりも信じる行為の意義が、現代にあっては大きく揺らいでいることこそ理由と思っている。
v-259

まあ煩悩を強調するための演出なのでしょうね。きっと。
2009/12/26(土) 02:12:54 | URL | やすやす #-[ 編集]
おはようございます
>やすやすさま
 コメントありがとうございます。
 昨日やっと年内に納める原稿を完成。あとは年越しの仕事を地道にやるだけとなりました♪
 お返事遅くなりまして申し訳ありません。

 信じる行為の意義<マスコミのセンセーショナリズムもあって、あまりにも、ある種の狂信が引き起こす不幸ばかりが強調され、信じることを恐れて宙ぶらりんであるところから踏み出せない(それが分別ある生き方だと思われている)人が多いように思います。
 少しでも失敗するとよってたかって叩く風潮もそれに拍車をかけているかと思います。
 人はころんで成長するものですから、個人も社会もそういうものを認めるフトコロを作っていけたらいいのですが・・
2009/12/26(土) 11:04:07 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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2009/12/27(日) 08:19:47 | | #[ 編集]
2009/12/27(日) 08:19:47 にコメントいただきました方へ
コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、現代の教育は「あつものに懲りてなますを吹く」状態に陥って久しく、正しい知識を学ぶ機会を失わせております。
 「~なんてくだらないね」「あなたは~についてご存知なんですか」「知りませんよ、知りたくもありませんね」という、まったく科学的でも論理的でもない会話が、いったいどれほど繰り返されていることか。
 しかし誰も火中の栗を拾いたくは無く、改良を提案する方も少ないのでしょう。
 そもそも一般にそこに関する問題意識がないため、提案や運動しても支持が得られないのでしょう。残念なことです。

 ご自身が体験されたという施設の顛末、おっしゃるとおりうやむやにされた問題点がいっぱいありそうですね。貴重なお話ありがとうございました。
2009/12/28(月) 08:44:46 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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