あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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巡らせるなら、良き言霊(ことだま)を
 「好きなことば」のカテゴリに入れますが、きょうは具体的に好きな言葉と言うより、言葉全般の傾向のことです。
 人にNOと言う言葉よりYESと言う言葉を。
 誰かの何かを否定する言葉よりは肯定する言葉を。
 平たく言うと、けなすよりほめるって話ですが♪

 日本には古くから「言霊(ことだま)」という思想があります。
 言葉には魂が宿っている。
 どうせ宿らせるなら良い魂を宿らせたいと思います。

 わざと心と裏腹な言葉を使う場合は別として、言葉にはその裏に、発する人の思いがありますから、どんな思いを乗せた言葉を使うか、その前段階からが大切だと思います。
 人の思いは言葉になり、行いになって世界に影響を与えます。そして自分に返ってきます。
 体の癖と同じように、人の思いにも癖がありますから、日ごろから良い癖をつけるよう心がけています。


 有名な中村天風氏の言葉に

<いやしくも人を傷つける言葉、勇気を挫(くじ)くような言葉、あるいは人を失望させるような言葉、憎しみ、悲しみ、嫉(ねた)みの言葉を遠慮なくいっている人間は、悪魔の加勢をしているようなものだ!そういう人間は、哲学的にいえば、自他の運命を破壊していることを、平気でしゃべっている。だから何遍もいうように、
 人の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言葉、何ともいえず、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互いに話し合うようにしよう>

 というのがありますが、
 まことにそうだと思うものです。

 でも時には毒も吐きたいじゃないか!とおっしゃる方も少なくないでしょう。
 私もそう思うときが時々あります。
 それについては以下のような話があります。
 『なぜあの人はあやまちを認めないのか』(キャロル・ダリウス&エリオット・アロンソン・著/戸根由紀恵・訳/河出書房新社・刊)より
 「暴力の連鎖、善の循環」
 という章から

<精神分析では、感情の解法による魂の浄化すなわちカタルシスは精神衛生上よろしいものだとされて(中略)私たちの文化ではひとつの根強い思い込みが生まれた。腹が立ったときは、どなったり暴れたりして発散すると怒りがおさまるという思い込みだ。>
<しかし現実には、何十年もの研究の成果からまったく逆の結果が出ている。>

 なぜかと言うと、人は、自分の行為を正当化する、そのために偏った考えに流れていく傾向があるからです。
 私(山本)の意見を加えるなら、人間の持っているエネルギーには限りがありますので、誰かにムカついたとき、その相手をののしったり殴りつけたりすれば、無限に続けるエネルギーはありませんから、そのうち疲れてやめる時がきます。
 そこだけ見ると、一見、問題は解決した(カタルシスによって解消された)ようには見えます。
 ただ、そのあとに別の問題が残ると同書は言います。

<大学院生としてハーヴァードで臨床心理学を学んでいたマイケル・カーンは、カタルシスのすばらしさを実証するはずの巧妙な実験を考えついた。彼は医療技術者に扮し、医学実験の一環だとして学生をひとりずつポリグラフにかけ、血圧を測定した。測定をしながらカーンはわざといらいらして、学生に(それぞれの母親に対して)失礼な言葉をぶつけた。学生は腹を立て、血圧は上昇した>

 そして、その後、カーンは学生たちを二つのグループに分けました。
 一つは、カーンの無礼をカーンの上司に報告できる人たちのグループ。
 もう一つは、そういう機会を与えられないグループ。

 カーンは、彼の無礼を上司に報告してカタルシスの機会を与えられた方の学生が、怒りが解消されやすいと思っていました。ところが

<フロイトを信奉していたカーンは結果に驚いた。カタルシスなど大嘘だった。カーンのことを告げ口して怒りを表出できた学生は、その機会のなかった学生よりも、彼に対してはるかに大きな憎しみを抱くようになっていた。さらに、すでに高かった血圧は怒りをあらわすとさらに上昇し、一方で告げ口のできない組の高い血圧はそのうちに平常値に下がっていった>

<この予想外のパターンをどう説明しようかと考えたカーンは、当時まだ注目を集め始めたばかりの不協和理論に出会い、すっきりと説明がつくのを了解した。
 カーンを困らせてやったと思った学生は、この仕打ちを正当化するために、あの男はこうされて当然だと思いこむ必要があり、怒りはさらに強まり、血圧もますます上がってしまったのだ>


 誤解のないように申し上げますが、これは、上司や同僚、クラスメートからひどい目に合っても、黙って泣き寝入りしましょうというススメではありません(笑
 人間の感情と行動の傾向の分析です。
 同書には、有名なドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を引用してこう書いてあります。

<彼はかつて『なぜそれほどまでに憎むのか』と訊かれたことがあった。そこで彼はお得意のあつかましさで答えたものだ。
 『教えてやろうか。あいつはおれに何も悪いことなどしていない。なのに、おれはあいつを汚い手で、はめたんだ。だからあのときから、おれはあいつを憎むことにしたのさ』>

 さすがは大文豪、みごとな人間観察です。

 今このブログをお読みの方の中にも、これまでの人生で、なぜあの人は自分にああまで悪意を持つのか、ああまで憎しみを抱くのか、私が何をしたというのだろうかと、悩まれた方がたくさんいらっしゃると思います。
 無論中には、知らぬ間に相手を傷つけてしまわれた方もおいででしょうが、何割かは、この『カラマーゾフの兄弟』に出てくる登場人物のような人に、意味不明の逆恨みなどを買われたケースがあるのではないでしょうか。
 また、自分自身が、誰かを嫌いで嫌い続けているうちに、それを正当化し強化するため、ますます相手への嫌悪感をつのらせて苦しまれた方もおいでかと思います。


<弱い者いじめをする少年たち、従業員を虐待する雇用者、互いを傷つけ合う恋人たち、抵抗をやめた容疑者をいつまでも殴り続ける警官、マイノリティの人々を投獄し拷問にかける独裁者、一般市民に残虐な行為を行う兵士にも、同じメカニズムがはたらいて>おり

<攻撃的行為が自己正当化を生み、自己正当化がさらなる攻撃的行為につながる>

 と、同書は警告します。
 これが「悪の連鎖」とすれば、「善の循環」はないのでしょうか。
 それがあるのです。

<幸いにも、誰かへの寛大な行為が善意と憐れみの連鎖を生むという、悪循環ならぬ「善の循環」をつくりだすメカニズムがあることも、不協和理論は教えてくれる>

<誰かに善いことをすると、特にそれがふとした気まぐれや偶然によるものである場合は、人は自分の寛大な行為をあたたかく見つめるようになる。その人物に善行を施したという認識は、相手に抱いていたかもしれない否定的な感情との間に不協和を生み出す。善いことをしたあとで、「私としたことが、どうしてあんな嫌なやつに、善いことをしてしまったのだろう。ということは、あいつは、思っていたほど嫌なやつではないのかな。いや、実は仲直りしてやっていい好人物かもしれないぞ」と論理が回っていくのである>

 これを実証する実験も複数あるようですが、ここでは割愛します。
 人間の「自己正当化機能」というのは、無意識のレベルでかなり根深いものがあり、それが悪い形で発動すると、詐欺商法やいんちき宗教に泥沼のようにはまり込んだりする危ない面もあります。
 しかし、上記のような、善い思い、善い言葉、善い行動をめぐらせていくきっかけとして

<人を傷つける言葉、勇気を挫(くじ)くような言葉、あるいは人を失望させるような言葉、憎しみ、悲しみ、嫉(ねた)みの言葉>
 を使わないようにし
<人の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言葉、何ともいえず、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互いに話し合うように>
 していくことは
 けして自分や世の中に、マイナスにはならんと思うものです。 
コメント
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2009/12/02(水) 21:11:50 | | #[ 編集]
お疲れ様です
>2009/12/02(水) 21:11:50にコメントくださいました方へ
 お仕事お疲れ様です。
 締め切りさえ守れば途中誰とも会わずに暮らすことも不可能ではない私どもの仕事と異なり、同僚と顔つきあわせて日々働かなくてはならない方の、職場での避けられない人間関係のストレスは想像を絶するものがあります。
 ご心中お察し申し上げます。
 私の場合は、原作者、編集者、アシスタント(近年は一人で執筆なのでいませんが)といった人々とのトラブルが発生することがあります。
 勤め人の方に比べれば軽微?なものかもですが、それでも心身に様々な症状が発生します。
 どうしても避けられないトラブルは、自分を磨くチャンスとして捉えるようにしていますが、最悪こちらから関係を絶つ場合もあります。
 ただ、この景気状態で、自主的退職はかなりリスキーですから、そう都合よくは解決できないのが実情でしょうね。
 お慰めする言葉もありませんが、少しでもより良い展開がありますよう、お祈り申し上げます。
 コメントありがとうございました。
2009/12/04(金) 06:52:28 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
去年から車で通勤しているのですが、急な割り込みなどされたときに相手の車にクラクションやパッシングなどをすると、なぜかその後もいらいらした運転をしてしまうことに気づきました。で、逆に相手のそういう行為を受け流すと、その後も安全運転ができることにも気づきました。さらに言えば、相手にジェスチャーで「先に行っていいよ」的なことを伝えるとその日一日いい気分ですごせるのです。

私がこれに気づくことができたのは、浅草寺の観音様が好きで、観音経を読んでいて三毒のことを知っていたからでした。その後ダスカロスの本を読んで同じようなことが西洋でも言われているのを知り、こちらのブログを読んで精神分析学でも同じことを指摘していることを知った次第です。
2009/12/06(日) 11:45:42 | URL | miyosi55 #-[ 編集]
ありがとうございます
>miyosi55さま
 ダスカロスのメッセージは色々示唆に富んでいますね。
 愛はけして無駄にならないという言葉に、私はずいぶん勇気付けられました。
 三毒<私が仏教について詳しく調べ始めたのはここ数年のことですが、その教えの奥深さに驚嘆しております。観音経は断片的にしか存じませんが、一度きちんと拝読したいと思います。
 素敵なご経験のお話ありがとうございました。
2009/12/06(日) 12:17:29 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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