あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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「良し悪し」と「好き嫌い」
 「良し悪し」と「好き嫌い」
 それが、なんで「ゆるすこと」のカテゴリーに?と思われるかも知れません。
 本当はむしろ「裁かない」ことに分類されるかと思いますが、「裁かない」ことと「ゆるすこと」は言うなれば表裏。
 とりあえずこちらに入れておきます。

 子供は感情に正直で、自分にとって嫌なものが悪い、好きなものが良いからスタートします。
 そのうち、分別がついて自分の好き嫌いと世の中のいい悪いは別物であると、多少は知恵がついてきます。
 自他の区別がつかない状態から、少しは客観性を身に着けてくるわけですが
 
 それが大人になっても未分化なままな人がいます。
 彼ら(彼女ら)にとって、嫌いなものは×であり、好きなものは○です。
 自分は世の中の平均的な人間であるから、自分の好悪は世論を代弁していると思いこんでいる場合もあります。
 これを心理学では「フォールス・コンセンサス効果」といいます。
 自分の規格に合わない人間は変わり者か欠陥人間と決め付けるのです。
 逆に自分は世の中で特別な人間であると過度に思い込むことを
 「フォールス・ユニークネス効果」といいます。

 で、その好悪の感情がいかに一時的であてにならないかの実体験をお話します。

 一つ目は音楽です。
 音楽などというと、良し悪しは聴く者の主観であって、それで終わりだろうと思われるかもですが、私はそうは思いません。
 昔『猟姫(リョウキ)ナジャ』という中東を舞台のヒロイ(ニ)ック・ファンタジーを描いていたころ(まあ、私のいつものお色気アクションですが(笑)それでも、一通りそっち方面の資料に当たって、世界観を構築していました)、仕事中のBGMによく聴いていた女性ヴォーカルに、オフラ・ハザがいました。
 ご存知の方もおいででしょうが、イスラエルの歌姫です。その美声にもかかわらず、残念ながら今は故人となってしまいました。
 当時は好きで彼女のアルバムは全部買っていました。
 で、第一印象だと、ノリのいい口当たりのいいサウンドが心地よいんです。ダンサブルな曲はペンも走るし、楽しく鑑賞できる。
 一方で、民族色の濃いナンバーは、なんだかもたついて執筆の際の自分の波長やリズムと合わない。
 あー、このアルバムはつまらん、買って失敗だったなーと思ったものがあります。平たく言うと「ダメな一枚」ですね。

 しかし、それが一変する時が来ます。
 中東の資料を読み込んで、その時代(と言っても私の作品は厳密な時代考証のものではなく、あくまでお気楽な娯楽映画のアラビアンな世界でした。ただイスラム教と抵触しないため、ムハンマド以前の「無明時代」を漠然と念頭においていましたが)の人びとの暮らしぶり、息づかいなどをリアルに思い浮かべようとすると、最初聴いて「いい」と思った曲では合わないんですね。それでは現代的過ぎて、観光地の立て看板と言うか、描きわりのようなイメージしか浮かんでこないんです。
 逆に、最初聴いてつまんないと思った泥臭い曲の方が浮かぶ。
 街にひしめく人々、物売りの声、畑を耕す駄獣と人の姿、ゆっくりと砂漠を進む隊商etc・・・。
 そういうものが脳裏にすーっと広がっていきます。
 なんてステキなアルバムだろう。
 最初の印象は180度転換しました。

 これはどういうことでしょうか。
 最初の感想が間違っていたのでしょうか。それとも私の錯覚でしょうか。
 いえ、どちらも間違いではないのです。要は、視点が異なれば、人の思いも違ってしまう。
 どちらが正しいとか間違いではなく、ダメだった曲が突然名曲になったのでもない。また、最初ステキだと思った曲がダメな曲だったわけでもない。
 どちらも「あり」。
 私の視点が変わっただけです。

 音楽などと言う主観がすべてなモノでは、個人的感情がすべてだという意見もありますが、私は逆に、一時の個人的感情などというもので、たとえ音楽であろうとその是非を決め付けることはできない。それは人それぞれの違いなどと言う以前に、このように私と言う個人の中でも、変動し、絶対的な評価が下せないものだと思うからです。
 人が言えるのは「自分は今この曲に感情移入できない」「わからない」「今の私にはつまらない」といった一時的な感想であり、それ以上は語ることができないのではないか。
 無論伝統的な音楽では、アーティストがその伝統の枠組みを踏み外していることによる誤りなどを指摘することはできます。しかし、そういう枠組みに捕らわれないポップミュージックにおいて、私と言う個人がその音楽やミュージシャンの是非を決め付けるのは僭越としか言いようがないと思ったものです。

 音楽とは別のジャンルでも経験があります。
 以前も日記で触れたことがありますが、私は武術に関して調べることが好きで、その中にある棒術がありました。色々な国の色々な人が、書籍やビデオを出しています。
 或るとき、二本のビデオを見比べて
 ある一本は、大変おもしろく、バラエティに富んでいてお買い得なものでした。
 もう一本は、なんだかもたついた展開で、退屈で、正直買って損したなあというものでした。 
 ところが、その感想が一変する日が来ました。
 私が作品でその流派の棒術をきちんと描きたいと思い、久々に取り出して二本を見比べたのです。
 すると、第一印象で良いと思った方は、見た目は派手でおもしろいけれど、その流派の基本をきちんと押さえて理解するにはまったく適さない。言うなればただのプロモーションビデオに近いような内容でした。
 一方、最初つまらんと思った一本は、よく見ると実に丁寧に基礎から解説されており、あれ?今のところはよくわからなかったな、もう一度きちんとみたいな、と思うような部分までフォローされている、良心的な作品でした。
 これも、どちらが正しくて間違いとか、最初の私とあとの私のどちらが正解というようなものではなく
 ビデオもそれぞれの用途が違い、私も視点が違っただけです。

 一時の個人的感想や感情で、誰かや何かの是非を決め付けることの愚かさを、思い知らせてくれた出来事でした。


 「無知の知」 自分は無知であると知っていると言ったのはソクラテス。
 「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」と言ったのは孔子です。

 私は知らない。私はわからない。だから私は裁かない。
 万引きを見かけても見てみぬふりの話ではありません。
 わからないことをわかったような気になって裁かないという意味です。

 昔、私に「裁かないこと」や「殺生と不殺生」の深い意味について教えてくださった先生(私の親よりご高齢で、すでに故人です)がおっしゃったことがありました。
 「私はビートルズの曲を聴いても、どこがいいのかわかりません。私の心が貧しいからです」


 テーマからして、何か道徳の話と思われた方もいらっしゃるかもですが、これは道徳と言うより、むしろ科学と言ってもいいかとさえ思います。
 主観と客観を混同しない。
 私がどんな感情を持とうと、そのもの、その人の価値とはなんの関係もない。
 ただ、その瞬間の私にとってのピンポイントの評価に過ぎないことを常に忘れなければ、日々世の中に吐かれる毒のかなりな量、トラブルのかなりの量が、削減されると思うものです♪



追記 
 誤解されると困るのですが
 私の作品をお買いになって、お気に召さなかった方が
 「つまらん!」「二度と買わない!」
 とか言われるのは、率直なご感想ですから全然かまいません(笑)
 そういう表現の自由とはあくまで別の話です。
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