あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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「いただきます」
 私にとって、ごはんを食べるとき「いただきます」と言うのは、声に出すか出さないかは別として、幼いころからの習慣ですが
 先日ある方から聞いた話で

 その方のお友達がご覧になった光景で
 授業参観の給食の時間に「いただきます」と合掌した我が子に若い母親が近寄り
 「学校が給食を出すのは義務教育なんだから、そんなことは言わなくていい」
 と制止した、とか。

 近年広まっている「給食費不払い」とは別の、いや、ある意味同根の、何か根深い問題を感じます。
 これも一種の「モンスターペアレント」でしょうか。

 世の中には、何かや誰かに感謝をするということを、自分が相手より卑屈でみじめになることと誤解しておいでの方がけっこういらっしゃるように思います。
 よく、感謝の意をあらわすのに「すみません」と「ありがとう」を同じ意味で使うことがあります。
 「すみません」には、何か自分に過失があるかのようなニュアンスもありますが、「ありがとう」にはないのではないでしょうか。
 誰かに感謝するのは、「持ち出し」でしょうか。何か自分が「減る」のでしょうか。
 私は「ありがとう」は、自他共に富ましめるハッピーなパスワードだと思います。

 「いただきます」も同様です。

 私の場合、「いただきます」は急いでいるときの短縮ダイヤルみたいなもので、時間があるときは、神仏から、その食べ物のために犠牲になってくれた命(動植物問わず微生物まで)、農業漁業関係者から流通、調理、サービスその他、それに関わったすべての方々に感謝して食べるんですが(おっと太陽光とか大自然森羅万象もありますね)
 それがなにか、自分がみじめになることでしょうか。
 ただあるがままを認識して感謝してるつもりです。

 唯物主義の方の場合、神仏などは念頭に置かれないでしょうが、聖なるものという概念は宗教的なものを除外しても存在します。
 唯物主義である社会主義国家においても、亡くなった指導者の遺体などはある意味大変聖なる物として扱われますし、建国の功労者とか、民族の英雄なども聖なる存在であり、それらに感謝もするし、それらを侮辱する行為には怒りを覚える人は少なくないと思います。
 宗教的な意味での聖なる存在はないでしょうが、ある意味、労働者一人一人が聖なる存在(実際そう扱われているかどうかは別として)なのではないでしょうか(それは社会主義であろうとなかろうとそう思いますが)。

 給食は給食費を払えばチャラ、ではなく、それを手にする(口にする)までに関わってくれたすべての労働者に感謝することに、何も不思議はないと思います。
 崩壊前のソ連のマーケットなどでは、店員はお客にありがとうなど言わなかったという話がありますが(他の社会主義国でも似たような話を聞きましたが)、学校給食ではどうだったのでしょうか。(やはり、党とか指導者に感謝するんですかしらん)。

 ちょっと話がずれましたが、この「いただきます」は不要という感覚を、現代の視野狭窄のミーイズムの行き着いた結果と見るのは早計でしょうか。

 人の人格が成長する際、自己中心性から抜け出していくことが一つの目安になりますが、トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーが、アメリカの仏教徒、それもアメリカ版団塊の世代(ブーメリティスというそうです)の人たちについてこんなことを言っています。

 かの地はご存知の通り、キリスト教圏です。
 キリスト教というのは、上に絶対的な神がいて、善悪を決めそむいたものは罰せられる。
 そこへ、そういう強権を発動する絶対者の存在しない仏教が入ってきて、その一見お気楽な部分(あくまで上っ面がそう見えるだけで、そんなものではないんですが)(笑)に魅かれた人びとが飛びついて、瞑想したりする。
 一件精神の修行をしているようで、実はその未成熟な精神を養っているだけで、自己中心的なナルシシズムから先へ行けない(でも本人は何かの境地に到達したつもりになっている)。
 ベトナムの反戦運動などを例にウィルバーが言うのは、あそこで戦争反対を唱えていた人びとには、本当に世界的な視点に立って反戦を主張している人もいれば、ただ単に自己中で「オレにあれこれ命令するな(オレは勝手にしたいだけだ)」という立ち位置で唱えていた人もいた。
 アメリカの仏教徒も、その後者が少なくないと。
 そこで、きちんとした仏教の指導者が、奉仕の精神などを教えようとすると、そういうアメリカ版団塊世代の勘違いした(?)仏教徒は拒否してしまう。
 奉仕?そういう、キリスト教会で散々聞かされてうんざりしてきた話を、なんで今更?というわけです。

 一見、時代遅れの古い権威、因習から抜け出しているようで、本人もそのつもりだったりしますが、実は社会のルールをわきまえた上での脱却ではなく、基本的ルールを身につける前の未成熟な段階にとどまっているに過ぎないと。

 このウィルバー言うところの「ブーメリティス(アメリカ版団塊の世代)の仏教徒」と同じような病理が、上記の「いただきますは言うな」という父兄に見出せるような気がするのは私の思い違いでしょうか。
 私は同じ病が、日本でも今、かなり広範囲に広まっているように思います。
 
 ちなみに、日本の禅寺で食事前に唱える「食事五観文(しょくじごかんもん)」というのがあります。
 原文はややこしいので、現代語訳のみ転載しますと

<一つには、いま目の前にある食事は、多くの人たちの労力があってここまで運ばれたことを思い、感謝します。

 二つには、自分の行いが食事をいただくのにふさわしいものかどうか、深く反省したうえでいただきます。

 三つには、食事の量が多いとか少ないとか、うまいとかまずいとかいう心が起こるのを防ぎ、好き嫌いをせずにありがたくいただきます。

 四つには、この食事を飢えや渇きを癒し健康を保つ良薬ととらえ、やせ衰えないためにいただきます。

 五つには、あくまで仏道修行を成就させるために、この食事をいただきます>
   (『図説 あらすじで読む禅の教え』 松原哲明・著/青春出版社)より

 五番目は、仏教徒の方以外には関係ないと思われるかもですが(その場合、「仏道修行」を自分の目指す道に置き換えて考えればいいでしょう)、あとの4か条は割と普遍的な内容ではないかと思います。

 なんだか、道徳の授業みたいな話になってしまいましたが(笑);

 それではきょうも「いただきます」♪
コメント
この記事へのコメント
こんにちは。早速飛んでまいりました。
今度パソコンから見てみますね。
教えてくださりありがとうございました。
それでは今日もいただきますo(^-^)o
2009/11/25(水) 11:57:12 | URL | せりな #4ifQ3KdE[ 編集]
ありがとうございます
>せりなさま
 ようこそおいでくださいました。
 内容はmixiの日記と同じですが、カテゴリ分けがあるので過去記事をテーマ別に読まれる際はFC2のほうがオススメです。
 どうぞよろしくお願いします♪
2009/11/25(水) 16:11:29 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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