原則的に(と言うのは、ごくまれに、世の中には人間離れした規格外の存在がいるからです。ですのであくまで原則的に)
人は、見たことも聞いたことも経験したこともないことは想像できない生き物です。
マンガ家などというホラ吹き仕事をしていて、つくづく実感するのですが
異次元やよその宇宙から来た異形のモンスターなどをデザインするにも、人は自分の知識を組み合わせて空想するしかありません。
怪物とは何か、というと、昔読んだ本でこういう定義がありました(何十年か前のことでうろ覚えです)
「過剰」「不足」「置換」
です。
なんのこっちゃと言いますと、まず
「過剰」は「多すぎる」こと。
手が4っつあるとか、目が百個あるとかですね。
「不足」は文字通り「足らない」ことで、一つ目の巨人とかが、そうです。
体に障碍を持たれる方を揶揄(やゆ)しているとの誤解を受ける場合もありますし、また、そういう偏見(不足を怪物視する)で実際にそういう方々が差別を受けてこられた歴史もあります。
昔、学研のコミックNORA誌で私が『シンバッド』を描いていたころ、一つ目のかわいい乙女をデザインして(一つ目でかわいいというのは矛盾があるように思われるでしょうが、ちょっとしたニュアンスで可能です。アシスタントさんも不思議がってくれました)(笑)編集部から止められたことがあります。
アラビアンナイトの世界では珍しくもないと思うのですが、当時、マンガにおける差別表現がマスコミをにぎわせ、鳥山先生や手塚先生の人気作まで槍玉に上がっていたときで、やむをえなかったものです。
「置換」は「置き換え」です。
本来なら目のあるところに角があるエレキング(『ウルトラ7』に登場した怪獣)などがそれです。
昆虫のような肌の宇宙人とかもそうでしょう。
世の中のあらゆる怪物(ギーガーのエイリアンとかも含めて)は、大雑把に分類すればこの三つのどれか、あるいはその複合技で成り立っているもので、本当に人類が見たことも聞いたこともないような要素で構成されたモンスターというのは、少なくとも私はまだ見たことがありません。
仮に何かの天啓のようなものを得て、そういうデザインをした人がいたとしても
人は原則として何かすでに見知ったものに分類仕分けしてものごとを理解しようとするもので、その異形のものを、あるがままに理解はできない確率が高いと思われます。
マンガ家始め、いわゆるクリエイターと言われる人種は、一般の方よりは発想が飛ぶものですが(何しろそこでお金をいただいているわけですから)それでも、この人類の持つ足かせから自由であることのできる人はなかなかいないと言っていいでしょう。
人は、ものすごいものを表現するにも、自分の見知ったものの中からセレクトして行ないます。またそれしかできません(原則的に)。
世界の古い宗教に見られる、神経症的な偏狭な神、などというのもそうではないでしょうか。
その時の人類の発達段階に応じた「至高」さの表現で、今から見れば、全知全能の存在がそんなに愚かなわけはないだろうという、ある意味逆説的な神の冒涜のような描かれ方さえしている「聖典」があるのは、そういうわけではないでしょうか。
SF的なたとえで言うと、数千年前の地球にマザーテレサのような異星人が降り立って慈善を行なっても、現地人の後世の伝説には、目から電撃を発して怒りのサバキを下す恐ろしい魔女のような姿で描写される可能性が大いにあるということです。それを根底に勝手な宗教を構築した「聖職者」がでっち上げることもあります。
この辺の話は、トランスパーソナル心理学の勇、ケン・ウィルバーが説く、人の発達段階に応じた宗教、の話に通じていきますが、それはまたの機会に書くとして♪
貧しい内面の人には貧しい世界が
豊かな内面の人には豊かな世界が
自分に応じて現れる。
ヴィクトール・フランクルのように、ナチの強制収容所に捕らえられ絶望的な状況にあっても、心と行動において豊かな状態でいられる人もいれば、
何不自由ない恵まれた環境にいながら、何も生み出さず、ただ不平と不満と怠惰におぼれて、つまらない世界しか見出せない人もいるわけです。
ニサルガダッタ・マハラジの言葉に
「あなたは世界が外界のものだと信じている。だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ」
というのがあります。昔から多くの賢者が同様のことを語ってきました。
別に世界を念力で作り出しているという意味ではなく、世界をどう把握しているかはすべて自分にかかっているということです。
物理的に客観的な世界というのはあっても、それにどういう意味をもたせているかは、自分の問題です。
人の発想がいかに飛ばないか、既知のワクから出ないかの一つの例に、SF映画に出てくる宇宙船(とか、それに類する飛行機械)のエンジン音があります。
本来真空の宇宙空間では音は伝わりません。
『2001年宇宙の旅』のように(大好きです♪)リアルに無音の飛行シーンを作った例外はありますが、大半の映画では、宇宙船はごうごうと豪快なジェット機のようなエンジン音を轟かせて飛んでいます。
見ているお客に、説得力を持たせるための、嘘なわけですが、人びとがもっとも速く力強いエンジンの音と思うものに似せて作られているわけです。
では世界にジェット機が現れる前はどうであったのか?
一度しか見た(聞いた)ことがないので、記憶違いかもしれませんが
確かアメリカで作られた古いSF映画(『フラッシュゴードン』だったような気がします。無論、クィーンが音楽を担当したカラー版ではなく、はるか太古のモノクロ版です)に出てきた、宇宙人の飛行艇(大気圏内を飛んでいたので音がするのは間違っていません)は
当時の最先端であった「プロペラ機」のエンジン音を、ブルブルと轟かせて飛んでいたように思います。
しかし、そうしてみると、よく言われる、幼いころ親の愛に触れられなかった人や、劣悪な環境で育った人が、大きくなって犯罪を犯す、あるいは良心が乏しい人になるという理屈は、確かに一理あると思われます。なにしろ、自分が見聞きしたものを基準にしか世界を理解できないのですから。
ただし、それはあくまで「一理」であり、貧民街の出身でも立派な人格者がいるように、すべての人に宿命のように適用されるものではありません。
極悪犯罪者の責任逃れの言い訳に使うためのものでもありません。
むしろ、そういう決め付けを運命論のように振りかざし、絶対的に取り返しのつかないことのように言い立てることは、人の可能性にフタをし、不利な生い立ちや環境で育った人たちを誤った絶望に追いやるマイナスの効果があると私は思います。
絵に描いたモチのような幻の希望は問題ですが、軽はずみな絶望も問題だと思います。
病気や事故で手足を無くされた方が、以前とまったく同じ状態に戻ることは現代科学では不可能ですが、一方で、特殊な材質の義足などを装着することで、健常者よりも速く走ることができるようになった例もあります(昔そんなことを言ったら、頭がおかしいか詐欺師だと思われたことでしょう)。
映画やドラマの闘いでよくある、片腕を背中にねじり上げられた人間が動けなくなる状況、
あれも、実際の武術では、ねじり上げられていない方の腕で相手を倒す技が流派によって何通りもあり、高度な武術になると、体を回してねじり上げられている不利な?方の腕だけで相手を逆に倒してしまうものまであります。
蛇足を申しますと、マンガのように止まった映像でアクションを表現する際、読者はその場面を自分の見聞きしたアクションに当てはめて解釈する(パソコンなどにおける「ファイルの解凍」に近いものがあります)ことが多いため、見たことも聞いたこともないアクションは、人によって受け取り方にものすごく差が出るものです。
自分がかつて武術マンガ『セイバーキャッツ』を描いていたとき、もっとも苦労したポイントがそこでした。
同じ場面を見ても、ある読者さんは数十秒かかった闘いと思われ、別の読者さんは一瞬の戦いだったと思われる。全然意味が違ってしまうんですが、一人一人に会って解説するわけにもいきませんから、少しでも誤解を受けない表現を工夫していくしかありませんでした。
怪物イメージの飛び具合の話から、いささか脱線したかもですが
与えられた人生を楽しみ、しゃぶりつくすためにも、自分の器は大きくしていきたいと思います。
人は誰しも井戸の中のカエルですが、日々井戸の拡張工事を続け、死ぬまでにどれほどの世界をその井戸の中に取り込めるか。すべてを取り込んだとき、それを悟りというのかもしれません(笑
ではではまた♪
人は、見たことも聞いたことも経験したこともないことは想像できない生き物です。
マンガ家などというホラ吹き仕事をしていて、つくづく実感するのですが
異次元やよその宇宙から来た異形のモンスターなどをデザインするにも、人は自分の知識を組み合わせて空想するしかありません。
怪物とは何か、というと、昔読んだ本でこういう定義がありました(何十年か前のことでうろ覚えです)
「過剰」「不足」「置換」
です。
なんのこっちゃと言いますと、まず
「過剰」は「多すぎる」こと。
手が4っつあるとか、目が百個あるとかですね。
「不足」は文字通り「足らない」ことで、一つ目の巨人とかが、そうです。
体に障碍を持たれる方を揶揄(やゆ)しているとの誤解を受ける場合もありますし、また、そういう偏見(不足を怪物視する)で実際にそういう方々が差別を受けてこられた歴史もあります。
昔、学研のコミックNORA誌で私が『シンバッド』を描いていたころ、一つ目のかわいい乙女をデザインして(一つ目でかわいいというのは矛盾があるように思われるでしょうが、ちょっとしたニュアンスで可能です。アシスタントさんも不思議がってくれました)(笑)編集部から止められたことがあります。
アラビアンナイトの世界では珍しくもないと思うのですが、当時、マンガにおける差別表現がマスコミをにぎわせ、鳥山先生や手塚先生の人気作まで槍玉に上がっていたときで、やむをえなかったものです。
「置換」は「置き換え」です。
本来なら目のあるところに角があるエレキング(『ウルトラ7』に登場した怪獣)などがそれです。
昆虫のような肌の宇宙人とかもそうでしょう。
世の中のあらゆる怪物(ギーガーのエイリアンとかも含めて)は、大雑把に分類すればこの三つのどれか、あるいはその複合技で成り立っているもので、本当に人類が見たことも聞いたこともないような要素で構成されたモンスターというのは、少なくとも私はまだ見たことがありません。
仮に何かの天啓のようなものを得て、そういうデザインをした人がいたとしても
人は原則として何かすでに見知ったものに分類仕分けしてものごとを理解しようとするもので、その異形のものを、あるがままに理解はできない確率が高いと思われます。
マンガ家始め、いわゆるクリエイターと言われる人種は、一般の方よりは発想が飛ぶものですが(何しろそこでお金をいただいているわけですから)それでも、この人類の持つ足かせから自由であることのできる人はなかなかいないと言っていいでしょう。
人は、ものすごいものを表現するにも、自分の見知ったものの中からセレクトして行ないます。またそれしかできません(原則的に)。
世界の古い宗教に見られる、神経症的な偏狭な神、などというのもそうではないでしょうか。
その時の人類の発達段階に応じた「至高」さの表現で、今から見れば、全知全能の存在がそんなに愚かなわけはないだろうという、ある意味逆説的な神の冒涜のような描かれ方さえしている「聖典」があるのは、そういうわけではないでしょうか。
SF的なたとえで言うと、数千年前の地球にマザーテレサのような異星人が降り立って慈善を行なっても、現地人の後世の伝説には、目から電撃を発して怒りのサバキを下す恐ろしい魔女のような姿で描写される可能性が大いにあるということです。それを根底に勝手な宗教を構築した「聖職者」がでっち上げることもあります。
この辺の話は、トランスパーソナル心理学の勇、ケン・ウィルバーが説く、人の発達段階に応じた宗教、の話に通じていきますが、それはまたの機会に書くとして♪
貧しい内面の人には貧しい世界が
豊かな内面の人には豊かな世界が
自分に応じて現れる。
ヴィクトール・フランクルのように、ナチの強制収容所に捕らえられ絶望的な状況にあっても、心と行動において豊かな状態でいられる人もいれば、
何不自由ない恵まれた環境にいながら、何も生み出さず、ただ不平と不満と怠惰におぼれて、つまらない世界しか見出せない人もいるわけです。
ニサルガダッタ・マハラジの言葉に
「あなたは世界が外界のものだと信じている。だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ」
というのがあります。昔から多くの賢者が同様のことを語ってきました。
別に世界を念力で作り出しているという意味ではなく、世界をどう把握しているかはすべて自分にかかっているということです。
物理的に客観的な世界というのはあっても、それにどういう意味をもたせているかは、自分の問題です。
人の発想がいかに飛ばないか、既知のワクから出ないかの一つの例に、SF映画に出てくる宇宙船(とか、それに類する飛行機械)のエンジン音があります。
本来真空の宇宙空間では音は伝わりません。
『2001年宇宙の旅』のように(大好きです♪)リアルに無音の飛行シーンを作った例外はありますが、大半の映画では、宇宙船はごうごうと豪快なジェット機のようなエンジン音を轟かせて飛んでいます。
見ているお客に、説得力を持たせるための、嘘なわけですが、人びとがもっとも速く力強いエンジンの音と思うものに似せて作られているわけです。
では世界にジェット機が現れる前はどうであったのか?
一度しか見た(聞いた)ことがないので、記憶違いかもしれませんが
確かアメリカで作られた古いSF映画(『フラッシュゴードン』だったような気がします。無論、クィーンが音楽を担当したカラー版ではなく、はるか太古のモノクロ版です)に出てきた、宇宙人の飛行艇(大気圏内を飛んでいたので音がするのは間違っていません)は
当時の最先端であった「プロペラ機」のエンジン音を、ブルブルと轟かせて飛んでいたように思います。
しかし、そうしてみると、よく言われる、幼いころ親の愛に触れられなかった人や、劣悪な環境で育った人が、大きくなって犯罪を犯す、あるいは良心が乏しい人になるという理屈は、確かに一理あると思われます。なにしろ、自分が見聞きしたものを基準にしか世界を理解できないのですから。
ただし、それはあくまで「一理」であり、貧民街の出身でも立派な人格者がいるように、すべての人に宿命のように適用されるものではありません。
極悪犯罪者の責任逃れの言い訳に使うためのものでもありません。
むしろ、そういう決め付けを運命論のように振りかざし、絶対的に取り返しのつかないことのように言い立てることは、人の可能性にフタをし、不利な生い立ちや環境で育った人たちを誤った絶望に追いやるマイナスの効果があると私は思います。
絵に描いたモチのような幻の希望は問題ですが、軽はずみな絶望も問題だと思います。
病気や事故で手足を無くされた方が、以前とまったく同じ状態に戻ることは現代科学では不可能ですが、一方で、特殊な材質の義足などを装着することで、健常者よりも速く走ることができるようになった例もあります(昔そんなことを言ったら、頭がおかしいか詐欺師だと思われたことでしょう)。
映画やドラマの闘いでよくある、片腕を背中にねじり上げられた人間が動けなくなる状況、
あれも、実際の武術では、ねじり上げられていない方の腕で相手を倒す技が流派によって何通りもあり、高度な武術になると、体を回してねじり上げられている不利な?方の腕だけで相手を逆に倒してしまうものまであります。
蛇足を申しますと、マンガのように止まった映像でアクションを表現する際、読者はその場面を自分の見聞きしたアクションに当てはめて解釈する(パソコンなどにおける「ファイルの解凍」に近いものがあります)ことが多いため、見たことも聞いたこともないアクションは、人によって受け取り方にものすごく差が出るものです。
自分がかつて武術マンガ『セイバーキャッツ』を描いていたとき、もっとも苦労したポイントがそこでした。
同じ場面を見ても、ある読者さんは数十秒かかった闘いと思われ、別の読者さんは一瞬の戦いだったと思われる。全然意味が違ってしまうんですが、一人一人に会って解説するわけにもいきませんから、少しでも誤解を受けない表現を工夫していくしかありませんでした。
怪物イメージの飛び具合の話から、いささか脱線したかもですが
与えられた人生を楽しみ、しゃぶりつくすためにも、自分の器は大きくしていきたいと思います。
人は誰しも井戸の中のカエルですが、日々井戸の拡張工事を続け、死ぬまでにどれほどの世界をその井戸の中に取り込めるか。すべてを取り込んだとき、それを悟りというのかもしれません(笑
ではではまた♪
この記事へのコメント
カール・ポパーの世界1・2・3の分類法を想起しました。事物の世界が世界1。思考過程のような主観的経験の世界(簡単に言えば人間の頭の中)が世界2。表現されたものの世界が世界3です。自伝の『果てしなき探求 下巻』に説明があります。それぞれの世界の関係や分類をするにあたっての問題点も詳しく説明があります。
数学は世界3に属します。そして素数などは数学の世界自体に内包されているので世界3に属する。人間(世界2)が素数を作り出したのではない。
(ここからは私の意見)それでイラストで怪物を描こうにも、どこかで見たようなものが出るという。話題に入りますが。絵画やイラストもルールが内部で完結している表現形式ですので、ルールの内部でしか表現が出来ないということです。イラストは数学よりはルールがシビアでもないかもしれないですがね。
わけのわからないような怪物というのはイラスト自体が描くルールから外れられないという都合があるので、原理的に無理だと思います。
絵の具を散らかしたような絵を描く画家はいますが。そういう絵を模倣して、散らかした絵の具をこれは恐ろしい怪物ですと説明して作中に出しても、説得力がなくなるでしょうね。散らかした絵の具のようなものが、ときおり人間の形になるという種類の怪物ならまだ説得力はあるでしょうけども。
丸っこいドラえもんのようなキャラを描いてそれを恐ろしい怪物ですとしてもやはり、説得力は出にくいでしょうね。
それらを恐ろしいものとしてもイラストを描くルールからの逸脱だと思うし。
あまり考えきれませんがポパーは人間は世界3と相互作用することによってのみ成長する。と言ってますね。この記事と似ていると思いました。
それから人間が世界を捉えるさいに他の動物と違う点は人間は言語によってものをとらえる。ということです。
だから優しそうなキャラを描いても恐ろしい奴であると説明をつけることもできる。ただし、どう恐ろしいのか描写しないことには、読者は納得しないでしょうけども。
まとまりませんがこのへんで。
数学は世界3に属します。そして素数などは数学の世界自体に内包されているので世界3に属する。人間(世界2)が素数を作り出したのではない。
(ここからは私の意見)それでイラストで怪物を描こうにも、どこかで見たようなものが出るという。話題に入りますが。絵画やイラストもルールが内部で完結している表現形式ですので、ルールの内部でしか表現が出来ないということです。イラストは数学よりはルールがシビアでもないかもしれないですがね。
わけのわからないような怪物というのはイラスト自体が描くルールから外れられないという都合があるので、原理的に無理だと思います。
絵の具を散らかしたような絵を描く画家はいますが。そういう絵を模倣して、散らかした絵の具をこれは恐ろしい怪物ですと説明して作中に出しても、説得力がなくなるでしょうね。散らかした絵の具のようなものが、ときおり人間の形になるという種類の怪物ならまだ説得力はあるでしょうけども。
丸っこいドラえもんのようなキャラを描いてそれを恐ろしい怪物ですとしてもやはり、説得力は出にくいでしょうね。
それらを恐ろしいものとしてもイラストを描くルールからの逸脱だと思うし。
あまり考えきれませんがポパーは人間は世界3と相互作用することによってのみ成長する。と言ってますね。この記事と似ていると思いました。
それから人間が世界を捉えるさいに他の動物と違う点は人間は言語によってものをとらえる。ということです。
だから優しそうなキャラを描いても恐ろしい奴であると説明をつけることもできる。ただし、どう恐ろしいのか描写しないことには、読者は納得しないでしょうけども。
まとまりませんがこのへんで。
>まえやまさま
仕事追い込みでお返事が遅くなりまして申し訳ありません。
マンガなどの演出の基本法則として、その作品世界の中での人物評価は、その人物がその世界で他の登場人物からどう評価されているか、で決まるというのがあります。
この世界に入ったとき初期の段階で教わった原則ですが
どんな美人も、作中で美人と言われていなければそれほど美人と認識されないし、たいしてうまくない絵でも(美人でなくても)その作品内で多くの人物が口をそろえて美人と言えば美人になってしまう。
ある意味人間の不確かさを表している法則とも言えます。
こんな商売をしていてこんなことを言うのもなんですが、私は常々、内容の評価は見ている自分が自立して決めるから勝手な演出しないでほしいなあと思う(テレビ、映画、ふくめ)ことがあります。
言うなれば、どんな巧妙なプロパガンダを行われようと本質を見抜く目を持ちたいとも言えます。
そういうお客さんばかりになったら商売はしにくいかもしれませんが、世の中はもう少し知的になるのではないかとも(笑
カール・ポパー興味深いですね。
かなり共感する部分のある哲学です。ただ私の場合、科学以外の認識法も肯定しているので(ポパーも科学が絶対至上としているのではないですが)合わない部分もありますけど。
ただ、人間は不完全で、完全に真理を認識することはできない、というスタンスは忘れないようにしています。
世界3と相互作用することによってのみ成長<そのために人は生きているようなものだと思っています。成長に背を向け、まったく興味のない方もおいでですが。
仕事追い込みでお返事が遅くなりまして申し訳ありません。
マンガなどの演出の基本法則として、その作品世界の中での人物評価は、その人物がその世界で他の登場人物からどう評価されているか、で決まるというのがあります。
この世界に入ったとき初期の段階で教わった原則ですが
どんな美人も、作中で美人と言われていなければそれほど美人と認識されないし、たいしてうまくない絵でも(美人でなくても)その作品内で多くの人物が口をそろえて美人と言えば美人になってしまう。
ある意味人間の不確かさを表している法則とも言えます。
こんな商売をしていてこんなことを言うのもなんですが、私は常々、内容の評価は見ている自分が自立して決めるから勝手な演出しないでほしいなあと思う(テレビ、映画、ふくめ)ことがあります。
言うなれば、どんな巧妙なプロパガンダを行われようと本質を見抜く目を持ちたいとも言えます。
そういうお客さんばかりになったら商売はしにくいかもしれませんが、世の中はもう少し知的になるのではないかとも(笑
カール・ポパー興味深いですね。
かなり共感する部分のある哲学です。ただ私の場合、科学以外の認識法も肯定しているので(ポパーも科学が絶対至上としているのではないですが)合わない部分もありますけど。
ただ、人間は不完全で、完全に真理を認識することはできない、というスタンスは忘れないようにしています。
世界3と相互作用することによってのみ成長<そのために人は生きているようなものだと思っています。成長に背を向け、まったく興味のない方もおいでですが。
丁寧な返信をしていただいてありがとうございます。
この記事に何事かの理由で不幸がっている人の話題がありますね。それで考えたのですが。
最近グエン・ドクさんが結婚して双子の子供をもうけたニュースがありましたが。ドクさんのような悲惨な障碍をおっている人が社会の中で肩身の狭い思いもすることなく仕事も結婚も出来るのはベトナムだからなのでしょうね。
日本であそこまでの障碍をもって生まれてくると社会的に抹殺されてしまう可能性が出ますね。けがらわしい存在に、なってしまいそうだ。最近は障害者のバリアフリーの理解もいくらか進んでいるようですが。日本でドクさんのような人が仕事も結婚も出来るかというと厳しそうですから。
ああいった障碍をもっている人間を見たときに、日本で目を背けられずにいられる人がどれぐらいいるか。
日本社会は障害者に非常に厳しい視線を向ける。過度に哀れんでみたり…
日本も、ベトナムのように少々障碍を抱えた人間がいても、誰も驚かずに屈託なく暮らせる社会になればいいな。と考えたりします。
この記事に何事かの理由で不幸がっている人の話題がありますね。それで考えたのですが。
最近グエン・ドクさんが結婚して双子の子供をもうけたニュースがありましたが。ドクさんのような悲惨な障碍をおっている人が社会の中で肩身の狭い思いもすることなく仕事も結婚も出来るのはベトナムだからなのでしょうね。
日本であそこまでの障碍をもって生まれてくると社会的に抹殺されてしまう可能性が出ますね。けがらわしい存在に、なってしまいそうだ。最近は障害者のバリアフリーの理解もいくらか進んでいるようですが。日本でドクさんのような人が仕事も結婚も出来るかというと厳しそうですから。
ああいった障碍をもっている人間を見たときに、日本で目を背けられずにいられる人がどれぐらいいるか。
日本社会は障害者に非常に厳しい視線を向ける。過度に哀れんでみたり…
日本も、ベトナムのように少々障碍を抱えた人間がいても、誰も驚かずに屈託なく暮らせる社会になればいいな。と考えたりします。
>まえやまさま
ドクさんのご結婚、めでたいことです。幸せな家庭を築かれますように。
日本ではどうなんでしょうね。
まだまだ障碍を持たれる方への偏見は根強いものがありますし、雇用の問題、保障の問題、色々あるのでしょうね。
そういえば、どこだったか、日本でも積極的に障碍を持たれる方を雇って、その方たちに合った仕事を考えて業績を上げている会社が先日もテレビで取り上げられていました。
一方でこの不景気に、障碍を持たれた方の弱み(何か言われてもうまく切り返せないとか)につけこんで、いいようにリストラされるケースもあるやに聞きます。
心身に不自由な部分があったとしても、それは目の色が違うとか肌の色が違うとかと同じ、単なる個性の違い(健常者よりハンディのある部分は別)として、対等な人間同士としてお付き合いしていければいいのですが。
蔑むのも間違いなら過度に持ち上げたり哀れむのも間違いであり、ある意味失礼とも思います。
学校でも、暗記問題や計算の速さを競うのではなく、他者を理解するイマジネーションを持たせるような授業をしてくれればなあと思います。
ドクさんのご結婚、めでたいことです。幸せな家庭を築かれますように。
日本ではどうなんでしょうね。
まだまだ障碍を持たれる方への偏見は根強いものがありますし、雇用の問題、保障の問題、色々あるのでしょうね。
そういえば、どこだったか、日本でも積極的に障碍を持たれる方を雇って、その方たちに合った仕事を考えて業績を上げている会社が先日もテレビで取り上げられていました。
一方でこの不景気に、障碍を持たれた方の弱み(何か言われてもうまく切り返せないとか)につけこんで、いいようにリストラされるケースもあるやに聞きます。
心身に不自由な部分があったとしても、それは目の色が違うとか肌の色が違うとかと同じ、単なる個性の違い(健常者よりハンディのある部分は別)として、対等な人間同士としてお付き合いしていければいいのですが。
蔑むのも間違いなら過度に持ち上げたり哀れむのも間違いであり、ある意味失礼とも思います。
学校でも、暗記問題や計算の速さを競うのではなく、他者を理解するイマジネーションを持たせるような授業をしてくれればなあと思います。
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