あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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グリザイユ画法
 サイト「あつじ屋」の「画廊」コーナーで、随分昔アップした私のカラー原稿作画手順
 画面下の「NEXT」ボタンをクリックしていただけると、ご覧いただけますが、三段階
 「輪郭線」→「白黒の陰影」→「カラー彩色」
 の順に進みます。
 子供の頃の図画の時間なんかには、絵の具に適度に黒を混ぜたりして明暗を作る方法を習ったと思いますが、マンガ家になってから、先に黒一色で明暗のバランスを取ってから色をつける方法を我流で見つけてやってました。
 しかし当たり前ですが、そんな技法とっくに何百年も昔に美術界の偉大な先達が開発してたんですよね(笑)。
 その技法を「グリザイユ画法」と呼ぶことを、ずいぶんあとになって知りました。

 奥津国道という方の本『水彩画プロの裏ワザ』(講談社)には、こうあります。

<グリザイユ(Grisaille=フランス語)は無彩色の明暗で描いた絵を総称するが、主に油絵の下塗りとして使われた技法だ。彩色する前に、モノクロ写真のように白黒の濃淡だけで描き、その下絵を生かして着彩していく>
<レンブラントやフェルメールなど17世紀のオランダ画派が採用したことで知られる。レンブラント特有の明暗に富んだ表現は、グリザイユ画法のたまものかもしれない>

<その後の画家は、グリザイユをあまり好まなかったようで、今では古典的な画法として一部に伝えられるだけだ>

 と。
 この方は私よりずっとご年配(1932年生まれ)の画家ですが

<私はもともと油絵を描いていたが、デッサンは木炭を使わずにセピア系の絵の具だけで下描きをし、そこに着彩してきた。だから透明水彩もその技法を踏襲してきた。それが伝統的なグリザイユ画法だということを後で知った>(<白黒以外の単色(たとえば褐色)で描くとカマイユ(Camaieu)と呼ばれる>)

 おお、こんなプロの画家さんでもそういうことがあるのか!(笑
 私などは、正式な美術学校など通ったこともなく、マンガの描き方も、もっぱら我流(お話作りは小池一夫先生の劇画村塾に通いましたが、絵的な技術はそこで学んだ目新しいことはほとんどなく、もっぱら我流)できました。
 それゆえ、この「グリザイユ画法」なる技術も、自分の経験と勘で使い始めたものです。

 中年になってそれがこういう古典技法であることを知り、ああ、自分の歩んだ道はけして間違ってもいなかったのだと嬉しく思ったのですが
 最近、同じマンガ家仲間と情報交換していて驚いたのは、この技法、かなりな人がそれぞれに我流で見出して使っているのです♪
 グリザイユなどという名称は聞いたことも無い方も少なくありません。

 生物の世界に、個体発生は系統発生を繰り返すというのがあります。
 たとえば、人間の赤ちゃんがお母さんのおなかの中で、生物の進化の初期段階のような姿と似た部分があるというやつですが、これはずいぶん古い学説で、現代において額面どおりに受け取るわけにはいかないものですが、確かにある部分において、そういう面があることは否めないと思います。
 絵の技術などでも、同じなのではないかと思うのですが
 たとえなんら教育や知識を得る機会がなくとも、ある種の才能を持った人々は、自分で試行錯誤するうち、長い美術の進化の系統樹を自力でたどって先達と同様な技法を(その掘り下げ方は異なりますが)得ることができるのではないでしょうか。
 それが才能とかインスピレーションというものであり、それは美術に限らず、スポーツやその他一般的な職業でもあるのではないでしょうか。

 無論これには限度があって、科学のような緻密でゆるぎない体系をこつこつ組み上げていくことが必要なジャンルにおいては、一人の天才が、きちんとした教育なしに人類の何千何百年に渡る科学技術の蓄積を単独でたどることは不可能です。
 ただ、美術やスポーツといった個人の能力に多くを負うジャンルにおいては、ある部分において可能なのではないかと。

 それで昔から思うのですが
 美術に限らず、ある種の才能に恵まれた人間は教育なしにショートカットで次の段階の知識を見出すことができる一方で、才能に恵まれない人間はいくら努力しても(師匠が教えようとしてさえ)以前の限られた知識を踏襲するだけで次のステップを見出せません。
 テレビの美術番組などで、したり顔で解説しているエラい先生方の中にも、知識としては人の何倍ものものを持っていても、実際の美術センスには乏しくて、そういうショートカットというものが実感できない(そういうことができる人がいるというのは「知識」としては持っているけれども、自分の人生で実感していない)方がおいでなようです。
 そういう方の解説は、見ていて凡庸で発想が飛ばず、偉大な先達を理解するのに、すべて自分のレベルの視点でしか解釈できない。
 たとえば、もしある時代の画家がある画法を使っていたとすると、それは必ず誰かから学んだに違いないと決め付ける。するとその画法を先に使っていたのはこの画家であるから、その系統に違いないとか、逆にある画家が使っていても、その技法はもっと後代に発見されたものであるから、そんなことは有り得ないといった決め付けを行なう。
 もう少し鷹揚であったとしても、今度は、こんな技法をこの人は独力で開発していた、すごい、などという驚嘆の言葉を発する。

 いやー、やってりゃ普通見つけると思いますよ、と言いたい場面に、その種の番組を見ていて何度でくわしたかわかりません。
 殺生な言葉や思考は極力遠ざけるようにしている私ですが、たまに「おまえは黙れ」と思うことがあります(笑
 時々凶悪な無差別殺人の犯人などの犯行動機に、まったく理解できない思いを抱かれた方は少なくないと思うのですが、同じように、織田信長の気持ちとか、イエスの気持ちとか、「所詮同じ人間だから」の一言で理解したり想像できると思っている人は、世界の多様性によほど暗い感覚しかお持ちでないのでしょう。

 ものごとの解釈は一番ムリのないシンプルな説明を採用するのが吉、という「オッカムのカミソリ」はけして至高の法則ではなく、あるジャンルのある部分では適応した方が間違いが少ないだけの、一つの安全パイに過ぎないと私は思っています。
 話は戻りますが、私のような名もない凡庸なマンガ家でもそういうものなのですから、歴史に残るような天才と言われた人々が、どれくらい一般の想像を超えたところで事を行なっていたかと思うと、めまいがする想いがします。
 天才というのは、固体が系統発生を繰り返すだけでなく、その先取りも行なうものなのでしょう。
 早すぎて誰にも理解されず、消えていったケースも山のようにありそうです。

 ベートーベンは原始時代に生まれたら、ただの耳の不自由な固体に過ぎなかったと言った人がいますが、人間の才能や真価は、軽々に量れません。
 理解できないことと、価値がないことは別の問題で
 わからない≒嫌い≒無価値
 といった短絡思考が少しでも世の中からなくなってくれればいいなあと思うものです。
 無論自分の中からも。 

 ちょっと感情が入って論旨が迷走したかもですが
 自分を基準に世界を測(はか)らない。見切らない。これってすごく重要なことだと思います。
 世界は常に一個人の理解や想像など超えたところにあるのですから。
 私は何も知らない、わからない、くらいに思っているのが正解で、やたらと見切ったりわかったようなことを「断言」している人には(そういう人が、世間ではけっこう受けるんですよね、何かが宙ぶらりんだと落ちつかないんで、なんでもいいからワクにはめて決め付けて欲しい人たちの間で)近づかないのが吉だと思っています。
 そういう自分の考えもまた、どこまで的を射ているかわかったもんじゃないのです(笑
コメント
この記事へのコメント
わからない
人間は大抵わからないことが多い中で生きているでしょうね。歩いていて視界に入ってくる草木の名前を全部言える人がどれぐらいいるか。まず、いないでしょうね。それから、すれ違う人間の名前を全部言い当てられる人などいないし。

世界にあるさまざまなモノや人間には名前がついていますがそれらをすべて、知っている人はいない。動植物であれば名づけられていない未発見の種もあるでしょうけども。

身内でくっつきあって、誰かをやり込めたり黙らせたがる人も、いるものですが、何が面白いのでしょうね。つるんだりするのが大嫌いなのでわかりません。

人間は一人ひとり似ているといえば、そうですが、違っているのも確かですので、新しい技法や表現法を見つけて発表することがあるのも、ある意味あたり前でしょうけどね、お前はこんな奴だから、こういうことは出来ないに違いない、という決め付けは、するほうがおかしいでしょうね。

アフリカにも精巧な彫刻などはありますが、遅れているアフリカになぜ、と考えたとすれば、先入観が間違っているわけですから。

2009/11/10(火) 19:48:58 | URL | まえやま #-[ 編集]
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2009/11/11(水) 23:27:39 | | #[ 編集]
わからないことをわからないままに
>まえやまさま
 何が面白いのでしょうね<内的な不安、葛藤を自分以外の何かに投影してやりこめることで、ある種のカタルシスを得ていると思われます。不毛な行為ですが、同じような解決法しか見出せない人同士、寄り集まってその不毛な行為を繰り返している集団というのは、物理的な世界にもバーチャルな世界にも無数に存在しますね。
 こうした行為がなくなるだけでも、世界はかなり住み易くなると思うのですが
 それには自分の問題点をあるがままに認め、けして他者をその代用品やサンドバッグにしないという断固たる決意が必要で、その勇気と叡智と愛情を持つには、精神がある程度の成熟を見ないとムリなようです。

 先入観<生存のためにあるレベルの予測は必要ですが、予測は予測であって現実ではないことを認識し、そのように考え行動するには、やはり精神がある程度の成熟を・・・ってわあ、結局そこに落ち着いてしまうんですよねー(笑
 と私は思っています。とほほ;

>2009/11/11(水) 23:27:39にコメントくださいました方へ
 実は日記で描いた「同業者」というのは、全員作画にPCを使用しておいでの方々です(私もですが)。
 21世紀になっても古典的技法は形を変えて受け継がれていくのですね。
 情報ありがとうございました。
2009/11/12(木) 09:30:34 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
何がなんだか分からない
こんにちは。
二度目、の書き込みかと思います。
この手の、人生や悟りや真理、といった様な内容を考え始めると、
「結局なんもわかんねーよ、バカヤロー!」
と、間違えた悟りを啓きたくなりますw。
強いて、他人になぜこんな事を考えるのか、と説明するのならば「考えることに意味がある」と、なんとも快刀乱麻を断てないような答えをするしかないんでしょうかね。

で、本題なんですが
> たとえなんら教育や知識を得る機会がなくとも、ある種の才能を持った人々は、自分で試行錯誤するうち、長い美術の進化の系統樹を自力でたどって先達と同様な技法を(その掘り下げ方は異なりますが)得ることができるのではないでしょうか。

表現のプロの先生に意見するわけではないのですが、系統をたどるというよりも、対象とするもの(美術やスポーツなど)に対して、センスのある人は、より早く最適化を起こしている、んじゃないかなーと、言った方がしっくり来る気がします。(本かマンガの受け売りのような気もしてきましたが……)
先生の言う、センスのない人はおそらく、具体的なイメージが出来ず、最適化の段階が抽象的な地点で止まっているのだろうなぁ、と。
パンチを打つにしても、ボクシングや空手やその他数ある武道武術においても、力の流れをシンプルにするなら、手の先で体当たりをしつつ、体を捻る力も上乗せする、と些か乱暴ながらまとめることが出来ると思います。
その上に、それぞれのルール上、想定している環境上、どうすれば無駄を省けるか(最適化できるか)という事で、細かいテクニックが出てくるのはないでしょうか。
その結果、同じジャンルにおいて、似たような手法や手段が偶然発生するように見える、と僕は解釈しています。
合気道や少林寺の柔法などの、解説されればどういう構造で相手を倒すのかは理解できますが、なぜそんな発想が出てくるんだよ! と思う事もしばしばありますが……
その「発想の飛び」が天才たる所以なんでしょうけど。
(個人的に、その西洋的発想の合理化、最適化だけでは語れない部分も同居している日本の武術(だけにとどまらず文化そのもの)は、非常に魅力的に見えるんだと思います。)


しかし、人間が発生して長い年月が経っているはずなのに、最適化された人生はなぜないんでしょうかね……
それだけ、人生が多様で、環境が変化し続けている証拠なんでしょうが、そろそろ明確な人生を誰か提示していただけないものでしょうか……
まー、それが宗教の役割の一部だったりするんでしょうけど、あれはあれで問題が……って、話が地すべりしていくw

えーと、つまり話をまとめると、先生がんばってください!
っちゅう事です。

まとめました。
無理やり。

余談
もし差し支えなければ、武道や武術の取材(見学)ってどうやってるのでしょうか。(出版社の編集さんが紹介したりするのですか?)
純粋な好奇心からなんですが、先生のHPにあるエッセイでの話題に何度か出てくる、一般的に知られていない武術の達人とかと、どうやって知己を得たのかと不思議に思ったもので。

冗長なコメントですいませんでした。
2009/11/12(木) 15:33:32 | URL | 石ころ坊主 #87gsmGIE[ 編集]
なるほど
>石ころ坊主さま
 最適化ですか。なるほどそういう見方もできますね。
 ある意味、悟りといった類のものも、一種の最適化の果てとも言えるかもです。
 エールをいただきありがとうございます♪
 武術家さんへの取材ですが、私の場合、不思議なご縁としか言えないです。
 学生時代の友人に、その人の知り合いで自分で香港とかまででかけて武術修行をしてる友人の話を聞いていた(30年以上昔の話です)のですが
 マンガ家になってしばらくして、うちをやめたアシスタントさんが入社した事務所に、その武術修行をしていた方がいらして、その方もマンガがお好きだったこともあり、元アシスタントさんを介してお付き合いさせていただくようになりました。
 その方のお知り合いの日本の武術をなさる方や、中国の武術をなさる方・・・と色々ご縁が広がっていったわけで
 出会うべくして出会うべき時期に出会ったような感じです。
 あまり参考にならなくて申し訳ありません。
2009/11/13(金) 01:21:53 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
丁寧な返事ありがとうございます
>出会うべくして出会うべき時期に出会ったような感じです。

そういう出会いの話を聞くと、見えざる神の手を想像してしまいます。
しかし、香港まで武術修行にいった人の行動力が凄いですね……
武術全般に興味があるんですが、さすがに今から香港まで武術修行ってのは無理そうだし、なにも海外にしかないわけじゃないですから、ひとまず、頭でっかちにならないよう、何かしらを始めてみようと思います。

>あまり参考にならなくて申し訳ありません
いえいえ、むしろ、そういう繋がりがなかったとしても、自分で行動すれば広がるし、その結果、人の縁を結べたりするのかな、と極々当たり前のことを遅蒔きながら、実感できるお話をありがとうございます。
自分でも、見えざる神の手の、爪先の事ぐらいはできるのかな、とw
丁寧なご返事ありがとうございます。

漫画家は体を酷使する職だと聞きますし、インフルエンザも流行しています。
これから空気も乾燥してくるので、ご自愛ください。
それでは。
2009/11/13(金) 11:59:40 | URL | 石ころ坊主 #-[ 編集]
おそれいります
>石ころ坊主さま
 重ね重ねおそれいります。
 今でこそ香港など近い世界ですが、70年代にその行動力は並外れたものだったと思います。
 安宿に泊まっていると、窓の外を猫くらいあるドブネズミ?がうろついていて、暑いので窓をあけようとする同室の白人とケンカになりかけたりとか
 色々おもしろい話も聴きました。

 人のご縁は本当に不思議なもので、どこでどうなるかわかりません。
 一寸先は闇でもあり、また光でもある、から軽はずみな行動や絶望は慎みたいと思うものです。
 石ころ坊主様もご自愛ください。
2009/11/13(金) 18:07:34 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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