あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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人は鏡
 何年か前『鏡の法則』とかいう本が売れてたことがありましたが
 それ以前から、人は鏡であるというのは、色々な人が言ってきました。(鑑ではなく鏡の方)。
 今の自分を写す鏡ということです。

 人生はうまくしたもので、自分の愚かな部分、未熟な部分を映し出し反省させるのに最適なタイプの人間同士を出会わせてくれます。
 神仏の計らいと見るか、ただ単に「類は友を呼ぶ」人間の傾向から自然とそうなっているだけと見るか、その辺は人それぞれです。生物は意外と単純なシステムで複雑な行動を取れたりしますから、そういうものもあるかもです。
 自分も含めた友人知人、その他見ず知らずの方(ブログなど含めて)を見ていて、私はそのことを痛感します。

 「あなたがその問題をクリアしたとき、もう、そういうトラブルを引き起こす人はあなたの前に現れなくなる」
 という人がいます。
 ある種の形而上的な考え方ですが、言葉通りに受け取るとおかしいことがすぐわかります。
 この理屈だと、ものがわかればわかるほど(悟れば悟るほど)、わかってない人間とは出会わないようになるわけですから、釈迦やイエスが通りを歩くと、ゴーストタウンのように人がいなくなることになります(笑
 そういうことはありえないわけで
 物理的には現れても、もはや自分にとっては昔のような問題ではなくなるという意味にとるべきでしょう。

 自分のことをわかってくれないと言って、一方的な被害者意識で怒り悲しむ人がいます。
 誤解した人にはした人なりの解釈があって、それはその人の自由なのですが、そっちの立場は認めません。世間的にはそいうい解釈も可能だということを指摘されてもなお、「でも」この場合は自分の気持ちを汲み取ってくれるのが当たり前だろう、とゆずりません。
 見ていると、誤解した人のかたくなさと、合わせ鏡のようにかたくなです(あるいはそれ以上にかたくなだったり)。
 こういう人は、自分のエゴを握り締めていて、ちっちゃな自尊心が満たされたか傷ついたかが常に人生の重大事です。ささいなことで傷つき、そのことを訴えます。すると「類友」でそのことを慰め賛成意見を述べる友人が集まってきます。そこに発展性の無い依存の輪ができています。

 私が生きてきて、ある時メウロコだった教えの一つに
 「人は過度に他人の感情の面倒をみるべきではない」
 というのがあります。
 うすうす感覚的には解っていたことでしたが、そうはっきりと文章化して明確に指摘されたのはその時が初めてでした。
 世間的には、人の悲しみや苦しみのフォローにまわるのは優しいこと、愛情あることと短絡的に解釈されることが多いですが、それをしすぎた子育てなどが、どうしようもない人間を作り出すことはよく知られています。
 しかし、そのルールは成人した人間に対しても当てはまるのではないでしょうか。
 人間が助け合い、いたわりあっていくことはステキなことですが、そこに依存が生まれては、なんにもなりません。
 以前「すべてのモノはアヘンである」という記事を書きましたが、人間関係も同じです。
 本当に心身に再生不可能な障碍があって介護を必要となさっている方のことではありません。
 自分の意識や思考法、生き方あり方を変えるだけで解消できる問題を、いつまでも放置して他者に依存しているケースのことです。

 そういう人は、それを自分で変えない限り、いつまでたっても同じ苦しみが訪れます。
 後に廻すほど悪化すると言ってもいいかもしれません。

 私はこの春に「朝(あした)に悟りを得れば 夕べに死すとも・・・」という記事を書きました。
 その中で、どうしても一日も早く悟りを得たいと言って釈迦に立ったまま教えを説かせたバーヒヤという人の話を書きました。あの話で釈迦がバーヒヤに言った
 「見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない(対象にはとらわれないという意味)。内にもいない(心の中にも執着・煩悩が生まれないという意味)。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない(解脱の状態)。それは一切の苦しみの終わりである」
 という教えは、バーヒヤ一人に当てはまるものではなく、私ども人間すべてに当てはまる教えだと思います。
 「あなたが変われば、あなたに問題を起こした人は、もうあなたの前に現れない」
 というのが、物理的な言葉どおりの話でないように、上記の釈迦の教えも、何も考えられないアホになることのススメではありません。
 対象に囚われて終わらぬマインドのぐるぐるをおやめなさいと言っておいでなのだと思います。
 世の中には知識や科学を否定する宗教もありますが、お釈迦さまは、そういうものはどんどん学んで見識を深めることを奨励した人でした。そのことと、意識の持ち方は別のカテゴリーです。

 話を戻すと、
 相手の立場に立てない、自分の立場だけを正しいとして嘆き怒る人には、その問題点をクリアしない限り、同じように自分の立場からだけ一方的にモノを言う人が、いつまでもいつまでも送り込まれてきます。
 それはこの世に尽きない存在であり、日が昇り月が沈み星がめぐって雲が飛ぶように、私たちが死ぬときまでも、この世界にあるでしょう。
 その人たちを変えよう(消し去ろう)というのは無駄なことであり、変えられるものは自分だけです。
 「私の言ったことはうまくつたわらなかった。思ったとおりに解釈してくれない人がいた」
 事実はそれだけであり、何も嘆くことも相手を悪く言うこともありません。
 私の感情の面倒を誰かに見てもらう必要もありません。
 つき合いたくないなら絶交するだけであり、つき合いたい、あるいはつき合わざるをえないなら、泣きごとを言うヒマに双方の妥協点を探るだけです。
 「自分が学んだ旧来の日本語とは別の受け取り方をする人が世間にはいる。言葉というのは時とともに変わっていくものだから、これからももっと、そういう人は増えていくことはあっても減ることはないだろう。ではもっと誤解の無い話し方をするように工夫しよう」
 そう思って努めるだけです(うまくいくかどうかは別として)(笑)。
 そう視点を改めたとき、同じような人がまた現れたとしても、それは敵でも攻撃者でもなく、一人の貴重なデータの提供者か、ただの人、少なくとも以前のようなストレスは感じない存在であることでしょう。
 そこに加害者も被害者もありません(物理的な犯罪者、ストーカーとかは警察に)。 


 というのは一応の一般論、原則論ですが
 中には、そんな言葉の行き違いではなく、もっと大きなトラブル、理不尽なテロや事故のケースはどうなるのだ、と言われる方もおいでだと思います。
 原則論は原則論であって、ソバはうまいという話をしている時に、まれにいられるソバアレルギーの方を対象とした話はしていないわけです(だからと言って、ソバはうまいと言う人が、アレルギーの人を否定しているわけでも攻撃しているわけでもないです)。
 すべてはケース・バイ・ケースですが
 たとえそういう「非日常的な惨事」であっても、そのことを活かしてより高みへ自分の意識を進める糧(かて)にすることが可能であることは、先日の「ゆるす人・1(参考資料)」に書きました、河野さんのような方を見ればわかります。
 出会う人、できごとを活かすか活かさないかは個人の決めることで、これが正しいとか間違いということはありません。
 ただ、活かさないのは「もったいない」なあと、思います。

 ちなみに私がここ10年くらいの間で出会った、不愉快な人ベスト3いやワースト3、は、
 その時はどうにも耐えられない人でしたけれど、今振り返ればそれぞれに自分(山本)の愚かさや未熟さを写す鏡であり、また、それを教えてくれた貴重な師でもありました。
 その時その場で感謝できなかったのは、私の未熟さだと思うものです。

 「日々是好日」について「これでいいのだ」という記事を書いたことがありますが

 「人々是好人」

 これでいいのだ♪
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