あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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なぜマンガを描くのか(お客様の質問にお答えして)
 先日、ご縁があって、やりとりさせていただいたお客様から
 「なぜマンガを描くのですか」
 との、お尋ねをいただきました。
 ご本人もマンガ家志望のお若い方です。
 その方の周囲には、マンガなんか全然必要とされてない方がいっぱいで、それにもかかわらずなんで描いているのだろうと。
 以下はそれについてのお返事を、まとめたものです。いささか長文なので、お暇な方はご覧ください。


 なぜマンガを描くのか。
 他の方のことはわかりません。
 私は「好きだから」が、まず最大の理由です。
 次が仕事の(生活の)ためです。
 自分の生きている証(あかし)、生きていることの確認だからだろうと言う人もいますが、まあ確かにそういう面もあるでしょうが、何より率直に好きなんですね。
 それはもう、連続殺人犯(それも快楽殺人の)が、「好きだから人殺しがやめられない」のと同じように、執筆が好きだからやめられないんです(笑
 それは蛇が噛んだり鳥が飛んだりするのに近いものではないでしょうか。

 確かにおっしゃるとおり、マンガを必要とされない方は昔にくらべて増えています。
 それはそれで仕方が無いし、無理に必要とするものでもないでしょう。
 そもそも、私、山本貴嗣という存在は、別にこの世にあってもなくてもどうでもいいものです。その作品も同じです。
 自分には存在価値がない、とか言って嘆く方がおいでですが、そもそもそんなものはないのです。
 視点を変えて見るならば、無論人にはそれぞれにかけがえのない存在意義があると思いますが、それはまったく別の次元の問題で、よく人が言うような(嘆くような)次元での存在意義と言うのは、なくて当たり前だと思っています。
 でも描く。
 描きたいから

 私は昔からマイナーなマンガ家でした。
 どかんと当たった大ヒット作などありません。何十年も描き続けてきましたから、総計すれば何十冊もの単行本がありますが、
 友人知人師匠筋の巨大なヒットメーカーの前には本当にかすんでしまうような存在で
 つくづく自分は無価値だなあと何度思ったか知れません。
  
 少し話はズレますが、ときどき東大とか、東大を目指す進学校とかに入学できた優秀な生徒が、何か悲観して自殺したみたいな話がありますよね。
 なんでそんなエリートコースに乗れた恵まれた人が?と、一般人は思うわけですが
 そこに行くまでは、地元の高校とか中学とかで御山の大将だったのが、いざ進学校だの東大だのに入ってみると、全国から優秀な生徒が集まっているため、自分程度の人間は優秀でもなんでもない、その他大勢のどうということもない存在に過ぎなかったことに直面(例としては、必死に勉強して勉強してそこまで来た自分と、別にたいして苦労もせず、適当に遊びがてら片手間で入ってきた天才との比較とか)し、衝撃を受けて落ち込むわけです。
 当然成績も、そういう優秀なクラスメートにはかなわなくって下の方。
 んで、自殺しちゃったりする人が出ます。
 
 私のマンガ界におけるポジションというのは、そういう人に近いもんじゃないかと思ったことがあります(笑
 それで自殺しようと思ったことはないですし、そんな衝撃を受けたことはないですが、差は感じる、と言うか感じずにはおれません。
 私などとは桁違いの売り上げを誇るヒットメーカーと、どんなにがんばって試行錯誤してもあるライン止まりの自分。この差はいったいなんだろうと。

 特にショックを受けるのは、自分がおもしろいと思うものと、一般読者がおもしろいと思うものの差です。
 さすがに売れてる人の作品はおもしろいよなあと思えるものばかりなら、そこに向かって努力?もできるのですが、いったいこれのどこがおもしろいのかわからない、という作品が多々あります。
 自分でおもしろいと思えないものは描きようがありません。
 極端な例でたとえるなら、異性愛の人に同性愛(それもハード芸とか)の作品を感情移入して描けと言うようなものです(逆もまたそうでしょう)。
 オレはできるという方もおいででしょうが、私はそんなに器用ではありません。
 結局、自分のできる範囲で、苦しい先の見えない努力を続けていくしかありませんでした。

 そこにゴールはありません。
 日々が積み重ねです。
 同じような道を歩いていた友人の言葉で、マンガ家になってよかったことは
「マンガを描いて暮らせること」
 だけだった、というのがあります。
 それは大変な幸せだと、今はしみじみ思いますが、若い頃はいささかの悲しみを禁じえなかったものです(笑)。


 こんな誰にも求められない無価値なマンガ家はもうやめてもいいんじゃないか。
 オレみたいなやつが描くことはないんじゃないかって思ったこともあります。
 誰からも賞賛されないマンガを描くことになんの意味があるのか?(って本当に誰からも賞賛されないのなら千冊、万冊の本が売れるわけはないんで、まあ、考えすぎでもあったわけですが)
 悩みました。
 でも、すぐ気づいたんです。
 オレは誰かに誉められたいからマンガを描いていたのか?
 そもそも幼い頃、マンガを描き始めたのはなんだったか。
 それは自分が楽しかったからです。
 その気持ちを忘れて、いつの間にか「誉められたい」などという欲が出た。
 そんな後付けの理由はうっちゃって、初心に帰って描いていこう。
 そう思ってスルーしました。

 お客様からお金をいただく以上、お客さまのご期待に応えられるよう努力するのは当然で、それを無視して独りよがりの作品を描いていいということではありません。
 ただ、好きだから描くという自分の原点は、忘れちゃいけないと思うものです。

 私は人は皆「メッセンジャー」であると思っています。
 何を伝えるかは様々ですが
 それ以前に
 私は人が人に手渡すべきものは「愛」しかないと思っています。
 「愛」という単語はあまりにも手アカに汚れまくった単語であり、誤解や偏見にまみれていて使うのにためらわれるものです。
 笑う方もおいででしょうし、偽善者と言われる方もおいででしょう。それは個人の自由です(ちなみに「やらない善より、やる偽善」は私の好きな言葉です)(笑)。
 言うなれば相手の幸せを願う想いが根底にあるかどうかだと思います。
 幸せとは何かというとまた簡単ではないですが、目先の安楽のことではなく、心の奥底での平安と内的成長とでも言いましょうか。

 以前日記で仏教の「サマタ瞑想」というのを書きました。それは四つの祈りでできています。

 ~が幸せでありますように。
 ~の苦しみがのぞかれますように。
 ~の願いがかないますように。
 ~に悟りの光があらわれますように。

 「~」には「あなた」でも「○○さん」でも「生きとし生けるもの」でもなんでも、その人の好きな言葉を入れればいいんですが
 「祈り」と言うと宗教臭くて嫌う方もおいででしょうが、「想い」「願い」と言い換えてもいいと思います。
 キリスト教では、有名な聖パウロの「心に愛が無ければ、神の言葉を語ろうと何を語ろうと、やかましいドラやシンバルの音といっしょで、なんの意味もない」という意味の有名なフレーズがありますが、まったくそのとおりだと思います。

 世の中には、相手への独善的な攻撃「これくらいしてやっても当然だ、思い知らせてやるのだ」といった類の「正義の名を借りた悪意」がたくさんありますが、どんな大義名分をつけようが、それはただの精神的「殺生」だと私は思います。
 上記のサマタ瞑想のような「想い」を根底に持って、何事かを手渡すのが、人として望ましいあり方であって、それを日々の人間関係の中で行うか、商品や作品を通して行うかは、人それぞれだと思うのです。

 私は、こういう言葉によるやりとりでも、作品を介してのやりとりでも、そういう想いをうまく乗せて、なにごとかを伝えていければと思っています。
 相手にとって何が今本当に必要なものか、超能力者でも神でもない自分としては正確に判別することはできません。むしろ、それがわかっていると思い込んでいる独善的な思い上がった人は危険です。
 ですので、上記のサマタ瞑想のような、抽象的な「想い」になってしまいます(具体的に、たとえば、その症状なら何科の医者へ行けばいいとか、わかる場合はそれを語ればいいですが)。

 無論、いつでも誰にでも愛念を持つのに成功するとは限りません。
 どうしても根底に嫌悪感や悪意が拭い去れないという場合は、沈黙することにしています(そんなこと言ってられない緊急事態<早く逃げないとガス爆発が、とかいう「業務連絡」みたいなものとか>は別として)(笑)。

 んで
 「愛は鉄砲玉」
 だと私は思っています。
 鉄砲玉は行ったっきりです。帰ってくることは期待していません。
 当たらないこともあります。効果がないこともあります。
 そんなことはあたりまえで、ダメだったらすかさず次を撃てばいい。
 こんなに愛を放ったのに、反応が無かった。効果が無かった、無視された。そんなことで落ち込んでる暇はありません。
 なぜ当たらなかったのか分析して、すかさず次を撃つ。
 反省はしても罪悪感は持たない。落ち込んでる暇はない。
 人生は、そんなものに費やす無駄な時間はないのです。
(もうあなたの話は聞きたくない、近づかないで欲しいと言われれば、即撤退することも愛です。ストーカーになっては本末転倒です)(笑)。

 愛は感情や気分ではなく、むしろ意図に属します。
 武術の達人が、敵に襲われたからといって、そのたびに怒ったり悲しんだりブチキレて戦う無駄はしないように、ただ顔の前のハエをはらうように敵を処理するように、
 いちいち感情のメーターを振らせなくとも、かゆいとき人が無意識にそこへ手を伸ばすように、相手の幸せを願うこと。
 それ以外思いつかないように、なっていければと日々思って勤めています。

 ちょっと話がずれましたが、作品は、私にとってそれを行う一番いい慣れ親しんだ媒体の一つであるに過ぎません。
 もし、明日なにかの病気や事故でマンガが描けなくなったとしても(ああ、それ以前にお呼びがかからなくなる場合もありますね)、それはマンガという媒体が使えなくなっただけであり、私がメッセンジャーであることに変わりはありません。
 よく「~を取ったら自分には何もない」と言う方がおいでです。
 野球選手なら野球、マンガ家ならマンガ。
 でもそうではなくて、たとえ得意の何かをなくそうと、その他の何をなくそうと、その人には誰にも奪えないものがあります。
 世の中には、重大な障害を負って身動き一つできない方もいられますが、そういう方は無価値でしょうか?いいえ、その方々はその方々で、他の方にはない光を放って生きていられます。それを受け取ることができるかできないかは、受け取る側の資質にもよりますが。
 それらの方々もかけがえのないメッセンジャーだと私は思います。

 私は死ぬその時まで、愛のメッセンジャーでいたいと思います。
 人が人に手渡すべきものは愛をおいてほかにありませんし、それは生ある限り、チリになるまで変わらず維持していけることだと思います。
 いや、形而上的な視点からすれば死んでからでも可能ですし、実際問題としてたとえば、私は、十年近く昔に亡くした愛猫(とその思い出)からも、今も変わらず愛をもらっています。それは彼女の肉体が失われても、何も衰えることはありません。

 万一長生きできたらば、私もいつの日か、いや、もしかしたら明日にでも、介護の必要な体になるかもしれません。
 誰かの手を煩わせるということは、ある視点においては迷惑なことのようですが、それを通して伝え気付かせられることがたくさんあります。それはとても尊いことです。
 もしかしたら、私は誰に見取られることもなく、路ばたに死ぬかもしれません。
 その時はその時で、一人穏やかに(いささか身体的苦痛はあるでしょうが)幸せにのたれ死のうと思っています。
 誰かの手をわずらわせるのも愛ならば、わずらわせないのも愛でしょう。

 あなたの命が光り輝かされますように。
 無用なこだわり、手かせ足かせを断ち切って、十全にその人生を生きられますように。
 きょうも良い日を。
コメント
この記事へのコメント

私は投稿用漫画を描いている学生です
漫画を描いていて、ふと「自分は何で漫画を描いているのだろう。こんな漫画、面白いのかな」と思い、心が沈んでいました
元気をもらうためにインターネットで色々とサイトを探しました
たまたまここに行き着いたんですが、この日記を読んで凄く元気をもらい、また漫画を描く決心がつきました
本当にありがとうございます
また自分を見失いそうになったらここにきて元気をもらいにきます
(↑勝手にすみません)
長々と失礼いたしました
2009/09/23(水) 13:35:46 | URL | 神無月 #-[ 編集]
こちらこそ、ありがとうございます
>神無月さま
 はじめまして。長たらしい文章をお読みくださりありがとうございます。
 いつも、こんなややこしいことを書いてますが、要はいかに気持ちよく晴れ晴れと生きて終われるかを追求してるだけです。
 イヌイットの人々の「人間の三大悪」の一つが「不機嫌」だったと思うのですが、不機嫌は自分もまわりの人もハッピーにしません。
 建設的に現実を見つめてできることをして(それしかどうせできないんですから)楽しく生きて人生完結したいです。
 またおいでください。コメントもお気兼ねなく。
 これからもどうかよろしく御願いします。
 神無月さまの今日が豊かでありますように♪
2009/09/23(水) 16:22:25 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015/08/26(水) 18:48:18 | | #[ 編集]
Re: タイトルなし
>15/08/26にコメントくださった方へ

 お尋ねの件、別にかまいませんが、何か記事から引用されました際は、出展(誰のブログの何年何月何日の記事から、など)いっしょに書いておかれるといいかと存じます。
 誰がいつどこで言ったのか、があいまいだと、データとして価値が下がります(あとになって調べるとき思い出せなかったり)。
 私も市販の本などを引用しました場合、作者や訳者、出版社、タイトルなどは書くようにしています。
 私の記事をきっかけに興味を持たれた方が、ご自分で調べてみられる際の手がかりにもなります。
 ありがとうございました。
2015/08/30(日) 17:07:50 | URL | 山本貴嗣 #-[ 編集]
長文でごめんなさい。
 ここ最近、酷暑だったり色々あって思考がさっぱりまとまりません。長文になってしまいます。ごめんなさい。
 喧嘩寿司19話も拝読しておりますが、感想も文章化出来ない状態です。すみません。

 さて、私は出来ることが少ない人間です。
 比較的健康だった頃は写真撮影に凝ったり、短大時代は漫研に一時所属したり、自己表現をしようと足掻いたものでした。
 しかし、複数回の事故の影響(+前夫が髪を引っ張る)で足首・膝・骨盤・脊椎全体・手首に常に痛みがある状態になってしまいました。
 手足末端の感覚がほぼ無く、霞む目で視認しつつ行動が必要だった状態の時は、痛みで何も考えられずに必死でしたが…… 少し楽になってきた頃ふと、なぜこんな思いをしているのだろう?(私は世間の役に立っているのだろうか?コレ、治るのだろうか?)と、悩んでしまいました。
 半年ほど経過してしびれが有り、腕が上がらない為に口にコップを運ぶのすら難しい、呼吸も背中がミシミシ痛い……状態でした。

 運良く私には、猫が居ました。
 気がつくと静かに側に座っていてくれる猫さんで、私にしか懐いてない節がありました。
(他者にも愛想はしてくれるのですが、くつろがない)
 以前は寄添っていましたが、私が呻いていたからか、少し離れて毛先が触れるような距離に居てくれました。
 この子を連れて行く訳にはいかないし、この子を遺すことも出来ない。そう思うことが出来ました。

 その後は、何とか頑張って生きてくることができています。
 今の主人は私と同じでウツで障害2級です。でも相互理解しやすく互いに思いやれるので、助かっています。

 毎日は出来ませんが、出来る時は少しずつ掃除をしています。
 最初はリハビリだと思ってやっていました。
 今は、家族(猫も含む)が心地良く過ごすための手伝いだと思ってやっています。
 スッキリ広くしておけば、遊んだり作業の時に気持ちよく散らかせるでしょう?(*^^*)

 頸を捻ってから14年経ちました。未だに、ストレッチを頑張ればどこかが発熱する状態です。
 人並みの事すら出来ません。
 それでも、生きることを諦めようとは思いません。
 痛くて寝づらい時には、主人に頼めば生姜粉と太白ごま油で湿布してくれます。有り難いです。(私は鎮痛効果が高い貼り薬で喘息の症状がでます。)
 支えてくれている家族や周囲の方々に感謝しつつ、生活しています。

 私のようなタイプは、出来ない事があるからこそ気がつくことも有るのかもしれませんね。
 存在していて良いんだ! って。

 私にとっては、掃除や家事は苦痛を伴う作業であると同時に、愉しみでもあるようです。
 そのような事を思い出しつつ、拝読させていただきました。
 ありがとうございます。
2015/08/31(月) 05:20:10 | URL | sagum #/7CmAM7k[ 編集]
Re: 長文でごめんなさい。
>sagumさま
 お疲れ様です。
 世の中の価値などというものは、ある限定された時と場所の特定の存在にとって有益か無益かで語られるもので、対立する二つの勢力があれば一方に有益なものは相手側には有害だったりします。
 偉大なベートーヴェンも原始時代だったら耳が不自由で狩りの役に立たないだけの人間だったかもと、誰かの言葉で読んだことがあります。
 私の愛する母も障害者です。
 どうぞご家族さまともども、幾久しくお幸せに。
 ありがとうございました。
2015/09/03(木) 19:11:38 | URL | 山本貴嗣 #-[ 編集]
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