あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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「では絶望するがいい」
 「では、絶望するがいい」

 私の好きな言葉です。
 っていきなりなんだと思われるでしょうが(笑

 すでに何度も引用してますインドの覚者ニサルガダッタ・マハラジの言葉。

 <遅かれ早かれ、あなたの身体的、精神的源泉にも終焉がやってくる。そうなったとき、あなたはどうするだろう?絶望するのかね?では、絶望するがいい。あなたは絶望に疲れてくるだろう。そして疑問に思い始める。そのときこそ>

 あなたが道を見出すのにふさわしい状態になる(マハラジはインドの人なのでそれを「あなたは意識のヨーガにふさわしくなる」と言っていますが)。

 私はこれを読んだとき、うまいこと言うなあと膝を叩いたものでした。
 彼は

<すべてが失敗したとき、人生が教えるのだ>

 とも言います。

 私(山本)は気が短いもので、悲しみや絶望に浸り続けるということができません。
 以前も書いたと思いますが、悲しくて悲しくてつっぷして泣いても、すぐに
「だめだ、泣いててもちっとも幸せにならねえ」
 って、やめてしまう人間です(笑)。
 身体的、精神的源泉が終焉を迎えてはいませんが、絶望はずいぶんしました。何年も、何度も繰り返し、死を望んだこともあり、そして絶望には飽き飽きしました。
 絶望は、ある意味貴重な教師です。それはかけがえのないことを教えてくれます。
 人生は外的な何に頼ろうと、永遠の平安など得られないと。
 ~があれば安心、~が失われたら不安
 そういう条件付きの幸せや安心を求めている限り、不安は足元の影のようにどこまでも付いて離れません。
 真の平安は自分の内面にしか見出すことはできず、それは喜怒哀楽の感情や思考、マインドのぐるぐるの中には見出せないものです。
 と言うと短絡的に、宗教をイメージする方もおいででしょうが、それはある人にとっては一つの解決策になるかもしれませんが、合わない人には合わないし、そんなものなしでも得られるものです。
 2008年12月の日記「ポケットの中のダイヤモンド」なども、その道の手がかりの一つです(ゴールではなく、あくまで途中の手がかりの一つです)。

 マハラジは悟りを開いたあとも教祖になるでもなく宗教団体を作るでもなく、生涯家業のタバコ屋を営んで暮らした人で、「ビーディーババ」と呼ばれたと聞きます(ビーディーというのはインドのタバコの名前)。
 質問者が
 「あなたは宗教を無要だと考えているようですね」
 と聞いたのに対し
 「宗教とは何だろうか?空に浮かぶひとつの雲だ。私は無数の言葉で織り成された雲のなかにではなく、空のなかに住んでいる」
 と返しました(笑)。
 信仰の道も、そうでない道も、頂へ至るルートはさまざまです。

 本当の幸せ、幸福とはなにか、とは、昔から多くの人が繰り返し抱いてきた疑問です。
 いい加減その質問もミミタコなら、その回答もミミタコだと思うのですが、だいたいの賢人の意見は一致しているように思います。
 一時的に現れて消えるのが快楽、時を経ても変わらないのが幸福などというのもありましたが
 私が見るところでは、外的な条件に左右されるのが見せかけの幸福、外的条件に左右されないのが真の幸福、なように思います。

 そういうことは、人生で悲しみや苦しみ、絶望が導き、教えてくれました。
 たぶん、どの人も同じように導いてくれるのではないでしょうか。
 絶望は最良の教師というのはそういうわけです。
 人生で出会う知人友人には様々な方がいられます。
 ちょっと会わないうちに見違えるように変わられる方もありますし、十年一日の如く変わらない方もおいでです。
 昔、話したときに自己憐憫と絶望に浸りきっておいでだった方と、数年ぶりに対話して、あいかわらず同じような自己憐憫と絶望に耽溺しておいでなケースなど
 この方はこの何年かの間、いったい何をしておいでだったのか。せっかくのかけがえのない絶望から何も学ばれなかったのか、と不思議に思うことがあります。
 悲しみや苦しみにしがみついて生きるのは幸せでしょうか。
 ライナスの毛布のように不安や不幸(な気分)にしがみつき、逆説的な表現ですがまるで不安がないことが不安なような、そんな人生に飽きないのでしょうか。
 
 感情は私の部分に過ぎないし肉体も部分に過ぎない。来ては去っていく影のようなものです。
 出来事に踊る喜怒哀楽に翻弄されて、なぜ私は不幸にならねばならないのか。
 私のコントローラーをなぜ私のマインド、感情に渡しておくのか。
 でもそれは人それぞれの、求めるところが違うのでしょう。

マハラジ 解放は自然な過程だ。そして、長期にわたって見れば、不可避なものだ。だが、それを今のなかにもたらす力はあなたのなかにあるのだ。

質問者 それでは、なぜ世界中にこれほど解脱した人が少ないのでしょうか?

マハラジ 森林の中で開花している樹は、一時(いっとき)にはほんのわずかだろう。それでも、すべての樹がそれぞれの時期を持っているのだ。>

 そして冒頭の一文に続きます。

<遅かれ早かれ、あなたの身体的、精神的源泉にも終焉がやってくる。そうなったとき、あなたはどうするだろう?絶望するのかね?では絶望するがいい>

 けして他者を笑うのではなく、不幸を願うのでもなく、その先にある道を知っているからの言葉です。

<では、絶望するがいい。あなたは絶望に疲れてくるだろう。そして疑問に思いはじめる。そのときこそ>

 そのときこそ。


 参考文献
 『アイ・アム・ザット 私は在る』
 (モーリス・フリードマン/スダカール・S・ディクシット/翻訳・福間巌/ナチュラルスピリット・刊)
コメント
この記事へのコメント
自明性
苦しい状況から立ち直るのには周囲の人間の協力が必要不可欠でしょうね。

特定の誰かを責め立てる人間は、人が孤立しているのを狙ってくるでしょうから。

立ちあがっていける人はそれだけ信頼できる人々に囲まれているのでしょうね。
2009/08/19(水) 22:48:56 | URL | まえやま #-[ 編集]
最初は必要でしょうね
>まえやまさま
 特定の恵まれた環境(人間関係含む)のある人しか救われない思想というのは私は取らないんですが
 確かにおっしゃるとおり、最初は信頼できる人に囲まれているのがかなり重要な要素でしょうね。
 そうして立ち直った経験があれば、その後、そういう人が亡くなったり分かれたりして孤独になっても、一人でも立ち直ることが出来る。
 良い友に恵まれれば修行の半分以上は成功したようなものだと言いますが
 良い人間関係はかけがえのないものだと思います。
2009/08/20(木) 13:01:18 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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