あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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いいからみんな赦しちゃえ(笑
 これまで色々と「ゆるすこと」について語ってきました。
 あまり極端なことを書くと、一部のお客様が引いてしまわれると思って、書きあぐねていたことですが(いや、もう書いてましたかしらん)
 ぶっちゃけ私の目指す方向としては

 「ぜんぶゆるす」

 「いいからみんなゆるしちゃえ」
 です(笑)。

 すでに何度も触れてきましたが、世の無法や犯罪者を見て見ぬふりをしたり、再犯の可能性が大きい凶悪犯をどんどん無罪にして野に放つといった物理的な無法状態の推進ではありません(誤解なさいませんよう)。
 あの無抵抗、非暴力をかかげたガンディーでさえ、その思想を勘違いして、暴行を加えられる女性を助けないでシカトした男性に対し「私は卑怯者になれと説いた覚えはない」と嘆いたという話があります(ちゃんと止めに入れということです)。
 法を守ることは言うまでもなく、危険な人物と罪のない一般市民を隔離しておくのは大いに賛成です。
 私が言うのは、われわれ個人の心の中の話です。

 私は根が小人で、もともとは復讐心の強い方で、つまらぬことで頭にきた相手のことを何年もムカついていた経験が何度もあります(「小人の恨みは深し」と申します。ストーカーの逆恨み殺人とか、いい例です)。
 いや、実は今でも、完全には落としどころの見つからぬまま、どう解釈していいのかわからない相手がわずかですがいます;
 ただ昔と違って、あくまでその悩みは、相手をどうしてくれよう、ではなく、そういうことで考え悩む自分をどうしてくれようなんですが(笑

 ゆるせないままいることは、一種の地獄です。
 誰のためでもない、まず自分にとって地獄です。
 ゆるすのは、自分が無理にがまんをして、ひどいやつによくしてやる(ひどいやつを甘やかす)こと、ではなく、自分の心身と魂を際限ない恨みの苦しみから解放してあげることです。
 あんまり受けない内容なので、今一つ書きあぐねていたテーマなのですが、先日
 同じようなことと取り組んでおいでのお客様のメッセをいただき、そうか、わずかでも共感してくださる方もおいでなのかも、と、少し励まされた気がしました♪(ありがとうございます)。

 私はこれまでの人生で、誰かをゆるさないでいて幸せになった記憶がありません。
 無論なんとかしないといけない相手や、状況はあります。それに的確に対処する必要はあります。
 雨漏りがするなら修理しなくてはいけません。
 犯罪行為をしかけてくる人がいたら、警察やしかるべき場所に訴えたりして(あるいは、その余裕さえない路上のトラブルなどであれば、自分自身で)問題を解決しなくてはいけません。
 でも、「耐えられない悪天候」はあっても、「ゆるせない悪天候」がないように(私にはありません)
 「絶えられない(放置できない)人物」はあっても、「ゆるせない人物」とはとらえないように私はしています(いつも成功するとは限りませんが)。

 とりわけ自分の内的成長という視点で見た場合、誰かへの悪意や敵意、恨みや呪いというのは、建設的なものは何も生み出しません。
 成長を後戻りさせたり、何よりメシがまずくなります。
 メシを食いながら思い出すゆるせない奴のことくらい、メシのうまさを損なうものはありません(笑)。
 なぜ私は私にそんなくだらないことをしかけ続けなければいけないのでしょうか。
 それらは全部手放したいと思うものです。

 大昔、借金に困った人々が、金貸しの家になだれこんで借用証文を焼く、
 政府も政府で、それまでの借金をチャラにする「徳政令」という法令を発布したことがありました。
 人々がちょんまげを結っていたころのことですが
 私は、もしこの世で誰か私に精神的に「借りがある」と思っている方がいらしたら、その方の「ココロの借用書」はすべて火にくべ、「魂の徳政令」を発布して生きていきたいと思っています。繰り返しになりますが、それは、誰かのために自分が無理をするのではなく、自分が一番気楽な生き方だからです。
 日常のバランス感覚を維持したギヴ&テイクは否定しません。
 あくまで恨みやゆるせない(から、あいつをどうしてくれよう)の感覚のことです。

 ある種の道徳や宗教は「因果応報」を説きます。
 それは、ある意味で良いことであり、また現実にあることだと思います。
 ただ、自分の復讐心を満たすための「錦の御旗(にしきのみはた)」、水戸黄門の「印籠(いんろう)」代わりに、その思想を用いるのは、一つの愚かさであり狂気だと思います。日常のささいなしかえしから、隣国へのエンドレスの悪意、爆弾テロに至るまで、根底には同じ狂気が潜んでいます。
 悪事を働いた人が、自分の悪事を思い知るために、同じような目に逢う、というのは、ある段階ではいい「教育」とも言えるでしょう(実際、本当にそういうことが必要な人もいます)。しかし、すべてのケースに適応するのは、ミソもクソもいっしょ、高血圧の患者と低血圧の患者に同じ薬を飲ませるようなものです。

 一つのシミュレーションとして考えていただきたいのですが、誰かがひどい犯罪を犯したとして、その罰として、じゃあおまえはそこの廊下で1000年腕立て伏せをしていろ、と言う神がいるでしょうか。
 その人が心から反省し、償いとして何か世の中にお返しをしたい(傷つけた相手にお返しをしたい、でもいいです)と思っても、そんなことにはおかまいなしに、腕立て伏せを続けるよう命じるでしょうか。
 仮にそんな人がいたとしたら、それを見た通りすがりの人間としては、すみません、そこで腕立て伏せしてる方、よかったらこの荷物、車に載せるの手伝っていただけませんか、とか言うのではないでしょうか。
 仮に天罰を下す神がいたとしても、それならおまえ人助けをして償えと言うのではないでしょうか。
 もっとも、世の中にはもっと極端な刑罰を下す神を信奉する宗教もあるようですが、私はそういうものを信じません(それに関して神学論争をする気もありませんし、その種の信仰に介入する意思もありません)。

 以前も書いたと思いますが、正確には人間、いかなることも「取り返し」はつきません。
 したことはすべてしたことであり、なかったことにはできません。
 法律の世界には「慰謝料」などというものもありますが、あくまで便宜上のものであり、心や体に重大なダメージを負い、後遺症が残った方が、いくら加害者にお詫びの金を積まれようが本当の意味でチャラになるものではありません。

 一方で視点を変えれば、一銭も積まれなくてもチャラにできます。
 それは心の中のことだからです。

 加害者からの謝罪、などというのも、本当に申し訳ない、心よりお詫びしたいと思ってのことか、裁判で罪を逃れたいための演技か、人間にはけしてわかりません。
 あの態度は本当だ、あの目は嘘をついている、など、すべてただの想像であり、仮定に過ぎません。
 たとえある時点で、心よりの謝罪を受けた(ので、一応報われた、納得できた)と思えたとしても、後になって実は演技だったとわかったり、演技だったのではないかというウワサを聞いただけでも(実はそのウワサはデマで、本当は加害者が心底改心していたとしても)心は乱れ、手放したはずの怒りや悲しみ絶望が舞い戻ってきます。

 そういう誰かや何かの状態に影響を受ける心の平安というものに
 うんざりしての在り方です。
 自分にとってはゆるすことの方が苦しみである、という方は、無理してゆるす必要は無いし、それは無理だと思います。
 自分にとってはゆるさないことの方が苦しみであるという方、ゆるさないことの地獄に本当にうんざり辟易(へきえき)された方が、手放しゆるす道を歩まれるだけです。
 
 一人でも多くの方が、つまらない人やつまらないことのために終わりのない不幸や苦しみに落ち込むことなく、つまらないことは打ち捨てて、勝手に幸せになり、勝手に幸せに生きられますように。
 山本心よりそう願っております♪


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コメント
この記事へのコメント
私はサリン事件の2週間前まで比較的近所に住んでおりました関係で、事件の一連の経過に注目しておりました。
河野義之氏の姿勢には本当に頭が下がります。それに対して、無責任極まりない教祖には未だに憤りを覚えています。山本先生の主旨には同意しますが、許されざる罪も有ると思います。
2009/09/09(水) 21:54:06 | URL | 間地出 外吉 #//IwUzE6[ 編集]
お気持ちよくわかります
>間地出さま
 私も事件当時、本当に憤りを覚えました。
 間地出さまのお気持ちもっともだと思います。
 問題の人物がどう裁かれようと、すべての犠牲者とご遺族の方々のお気持ちが晴れることはないでしょうが、少しでも世に正義が行なわれるよう願っています。
2009/09/10(木) 10:35:28 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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