あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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人生はなんでもないこと
 「人生はなんでもないこと」

 私が手を変え品を変え語り、訴えたいことは何かと言うと
 実はこのことに尽きるのではないかと思うものです。
 ブログでは色々なカテゴリに分類してますが(「いささか形而上」とか「生きること」「人づきあい」etc・・・)
 その根底に流れるのはこれ。
  中には、少々哲学宗教めいた話もありますが、これらはみなすべて、遠い空の彼方の星のことではなく、誰でも「徒歩で」到達できる「地続き」のことで、大層なことでもなんでもない。
 ただ自転車に乗れるか乗れないかの違いに過ぎない(無論乗れた人と乗れない人の間に、どっちがエライとかダメだとかはない)。
 そういうことを語りたいのです。

 自転車のたとえは、乗れる人と乗れない人いう二つの分類しかありませんが、あくまでひとつのたとえであって、人生は無数の段階の「自転車」がどこまでも続いているような感じがします(自転車の次はバイク、その次は自動車・・・とたとえてもいいかも)。

 誰かに説教などするつもりはなく、半ば自分に語りかけているようなものです(完全な独り言ではなく、無論読んでくださる方のことも考慮しております)。


 昔から思うことで、テレビや映画、マンガも含むマスコミの報道(フィクションからニュース等のノンフィクションすべて)の「演出」というものが、私はどうにも肌に合わない人間でした。
 基本的にマスコミの戦略は「センセーショナリズム」です。
 いかに人の注目を集め、つなぎとめておくかが原則であり、それには、平たく言うと常に
 「何かすごいことがある(起こっている)」
 と言い続けるのです。
 でも、本当にそうでしょうか?
 確かに、その瞬間は「すごいことに思えた」何か、というのはあります。
 しかし長い目で見たとき、すべてははったりと錯覚、デコレーションであり、何事もなく過ぎ去っていく日常の一こまではなかったでしょうか。
 「××××年に人類は滅亡する」
 といった類の虚しいタイトルと大同小異の、誇大宣伝。
 それがほとんどのように思います(百歩譲って、いや千歩譲って本当だとしても、滅亡するならするだけです。私は日々を悔いなく生きるだけで、なんの関係がありますか)。

 ドラマもニュース報道も、人の注意を喚起するためには、常になにか「問題が起こっている」といい続けます。「今からお見せするのは大変なこと」で、この番組や作品を見ないとあなたは「乗り遅れる」とか「後悔する」とか言います。
 そうでしょうか(笑)。
 近所で凶悪犯がうろついているとか、通勤通学のコースでテロが行われた、あるいはどこそこで強毒性のインフルエンザが発生した、などという重要事項は例外として、それ以外で人生を振り返って
 あの報道に乗り遅れたので取り返しがつかない、というようなことがあったでしょうか?
 私はありません。
 要するに、ほとんどはみな、どうでもいいことなのです(個人の力でどうにもできないという点で「人類滅亡」も同じです。核戦争を起こさないように平和に向けて働くとか、環境破壊を進めないよう生活のあり方を見直すとか、個人レベルでできることはすればいいし、できないことはできません)。

 世間に警鐘を鳴らすとか、貴重な問題提起という名目で、ひたすら世の中の悲惨な面や暗い面を並べ立て、人の不幸は蜜の味を提供する下種な部分がマスコミにはあります(本当に貴重な問題提起もあることはありますが)。
 国民の目を本当に重要な問題からそらしておくために、常に隣国が攻めてくる(から隣国を憎んで戦争の準備をしよう)とプロパガンダを続けている独裁国家の政府と、「偏向洗脳報道」という点で似たものさえ感じます。

 そして、まれにですが、わが身を省みず人を助けた人など、「感動的」なことがらを語るのですが

 それは、それなりに意義あることだとは思うのですが
 そこにもやはり、マスコミの悪しきセンセーショナリズムの一端を私は見ます。
 それはいったい何かと言うと

 「大変なことが起こっている」
 の延長として
 「これは(我々にはありえないような特別な)すごい人(できごと)なのだ」
 という語り方、見せ方をしてしまう点です。
 あれもCMと同じ、一種の洗脳教育、プロパガンダではないでしょうか。

 ちょっと見、自分にはできないような高尚なことがらを行う「偉人」はいます。いや、その中には本当に逆立ちしてもマネできないような、「偉人」としか言いようがないような人もいるにはいます。
 しかし、そうでない大半の「偉人」は、別に奇跡でもエイリアンでもない、私どもの日常の延長線上に「徒歩で」到達可能な、一見遠くに見えるだけの「隣人」に過ぎない。
 それを、自分たちとかけ離れた偉大な人、立派な人に祀り上げ、その間に溝を作ってしまうのは、大きな間違いではないでしょうか。
 それは、ある種の犯罪者を、実は私たちもちょっとボタンのかけ違いでそうなってしまう別バージョンの自分ではなく、自分たちとは無関係のエイリアンのような鬼畜として演出し、さあみんなで怒り笑い石を投げようという「あおり」報道と、ひとつコインの裏表ではないでしょうか。
 「悪人」の報道においても「善人」の報道においても、そこには大きなイマジネーションの欠落、バランス感覚の欠落、意図的な無視があります。

 一見難しそうに見えるが、方法さえ解れば誰でもできることがらを、普通の人にはできない限られ選ばれた人だけの特別なものに見せかけ、この特別なことを特別に教えてあげようというのは、昔から多くの詐欺師が行ってきた常套手段です。
 そういうインチキはすべて日常から排除して、なんでもないことをなんでもなく語り、誰でも出来ることは誰でもできるようにしていく。それが正気な道ではないでしょうか。

 自転車というものがなかった時代、初めて自転車を見た人はどう思ったでしょうか。
 あんな不安定な、すぐ左か右に倒れてしまうような乗り物が使えるかと、何割かの人はきっと思ったと思います。
 ライト兄弟が飛ばした当時の飛行機に、現在のような大量の人や貨物を輸送する交通網の実現を見抜いた人は少数だったと思います。
 でも、歩んでしまえばなんでもない。
 あたりまえの地続きの道です。

 私は人生という名の「日常」、なんでもない「散歩」の途上で、人はいかにたやすく気軽にどこまでも行けるかを自分の人生で試してみたい。それを生涯語って行けたらと思うものです。
 語ろうにも語りようのないことは、沈黙するしかないですが、それ以外はどんどん語る。

 人生はすべてなんでもないこと。
 まだそう思えないことも色々ありますが、いつか思えるようになると信じています。
 人はどこまでも歩み、いつの日か、天の星まで行くものですから♪
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