あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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朝(あした)に悟りを得れば 夕べに死すとも・・・
「 朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」
 朝に「道」を聞くことが出来るなら、その日夕方死んでもかまわない、という、有名な『論語』の一節ですが
 「道」というのは無論カーナビの道順ではありません(笑)(うーむ、おやじくせー。でも本当にそれくらい誤解される場合もあるのが昨今の実情なような);
 
 実は仏教にもそれに似た話があります。

 お釈迦様の時代にバーヒヤという人がいました。
 ある所で、ひょんなことから勘違いされ、勝手に人々のイメージで聖者にされてあがめられていました。
 ある意味人が良かったというか、気まじめな人だったというか、みんなの期待に背いても悪いと思ったバーヒヤは、一生懸命聖者のようにふるまい、インチキ教祖、いやインチキ聖者をして暮らしていたそうです(笑)。
 で、ある日彼の友人が、このままではロクなことにならないと心配し、キミはそんなことをしてるが悟った人でも聖者でもなんでもないと忠告します。
 それを聞いてバーヒヤはショックを受け、自分はどうすれば本当の聖者になれるだろうと友人に聞き返します。根はマジメな人だったんですね。
 友人は、今、仏陀がこれこれのところで教えを広めておられる、そこへ行くといいのではないかとアドバイスします。

 バーヒヤは、即座にすべてを捨てて、仏陀を求めて旅立ちます。

 やっと目指す祇園精舎に着いたとき、仏陀は托鉢にでかけていました。
 そこでバーヒヤは仏陀に会うため、街の中へと探しに行きます。
 二人の出会いとその後の展開は非常に印象的なもので、私が初めてこの話を知った本(『賢い人 愚かな人』 アルボムッレ・スマナサーラ・著/大法輪閣)より引用します。

<(バーヒヤは)托鉢中の釈尊に路上で出会いました。
 「尊師、私に悟りの道を教えてください」
 仏陀は
 「今は、説法する時間ではありません、食事の後、教えます」
 と言われましたが、バーヒヤは
 「私は遠くから解脱を得るために参りました。一瞬も待つわけにはいきません。今、教えてください」
 と訴えました。仏陀は
 「食事の後教えますから、待ちなさい」
 ともう一度おっしゃいましたが、バーヒヤは引き下がりませんでした。
 「人は生きていれば、いつでも食べられます。ですが人間はいつ死ぬかわかりません。その前に清らかな心を作ることこそが、最優先の目的ではないでしょうか」
 この言葉には、釈尊も何も言うことがありませんでした。>

 バーヒヤの情熱おそるべし。
 おそらく仏陀のあまたある弟子の中でも、こんなアプローチをした人はそういなかったと思います。まただからこそ、こうした話が後世に残ったのでしょう。

<釈尊は立ったまま説法を始めました。
 「バーヒヤ、見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない(対象にはとらわれないという意味)。内にもいない(心の中にも執着・煩悩が生まれないという意味)。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない(解脱の状態)。それは一切の苦しみの終わりである」。
 我々には理解しにくいかもしれませんが、この言葉を聞いただけでバーヒヤは完全に悟りを開いて、阿羅漢になりました。瞬間の出来事でした。そして出家をするために糞掃衣(ふんぞうえ・人が捨てた布)を探している途中で、暴れ牛に激突され、死んでしまったのです。>

 すごい展開ですね。まるで1970年代の、主人公が必死にがんばったあげく、最後無意味に虫けらのような死をとげる映画みたいです(笑)。

<身寄りのない彼の遺体は、路上に捨てられたままでした。
 食事の後、お釈迦様は比丘たちと一緒に行って、バーヒヤ尊者の遺体を寺に持ち帰り、聖者にふさわしい葬式を行なわせました。塔を作って舎利(遺骨)を安置しました。バーヒヤ尊者のことを誰も知りませんでした。尊者としての命があまりにも短かったので、仏陀に会われたことも、法を聞いたことも、ましてや悟りに至ったことなども、誰も知りませんでした。しかし、
 「彼こそが仏教史上、最短の時間で悟りを開いた方です」
 と釈尊はおっしゃいました。そして、出家はできませんでしたが、後で釈尊は彼を、八十人の大弟子のひとりとして認めました。>

 私(山本)はこのバーヒヤの話が好きです。
 彼の人生は無駄でしょうか。
 せっかく悟りを開いてもすぐ死んでしまっては無意味でしょうか。
 私はそうは思いません。
 悟りを開いたことは素晴らしいことですが、彼が悟りを開かなかったとしても、その生き方が十分にすてきだと思うのです。
 「食事のあとで話をしましょう」
 という釈尊を、説き伏せて、道に立ったまま説法をさせたあの熱意と迫力。
 自分の愚かな人生を指摘されて、怒るでもなくその場で非を悟り、真実を求めて方向転換した潔さ。

 バーヒヤのように歩めば、どこで死のうと、道半ばで死のうと、完成して死のうと、そんなことは二の次で、精一杯間違いも犯せば、改めることも躊躇せず、今を誠実に生きて悔いはない。
 今そう生きることが、いや、そう生きられること自体が、報酬であり恵みであり、もっと宗教ぽい言い方をするなら神の恩寵であり、物理的な結果を待つまでもなく、その一瞬一瞬に受け取るべきものは受け取っていると言ってもいいのではないか。
 来世のために今を犠牲にしたり、将来の成功のために今を犠牲にするのではなく、一瞬一瞬を報われて生きる。
 言葉ではうまく表現できませんが、それこそがすてきな人生ではないでしょうか。
 なんとなくハートで感じていただければと思うものです♪


追記
 彼に向かって釈尊が説いた「見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい」という教えは、実に奥深いもので、仏教のみならず、あまたの賢者が説くところの覚醒に通じる、貴重なものだと思います。
 ここに書かれた釈尊の言葉は、それを釈尊の視点で釈尊流に語ったものであり、同様の教えは(レベルや細部は異なるとしても)ほかにもあるように思います(無論その何割かは、調べてみると釈迦の教えから派生したものだったりもするのでしょうが)。
 私程度の人間でも、その一端(一面あるいは上っ面とでも言いますか)を実践するだけで、生き方あり方、人生観が大きく変わったものです。

 そのことはまた機会を改めて書きたいと思います。ではではまた
コメント
この記事へのコメント
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2009/04/28(火) 12:35:59 | | #[ 編集]
2009/04/28(火) 12:35:59 にコメントをくださいました方へ
 コメントありがとうございます。
 その話は出展は忘れましたが、割と有名なたとえ話じゃないかと思います。
 一部で有名なだけかもですが(笑
 私も「原典」があるなら知りたいです。
 私の文章は、もしかしたら記憶を頼りでディテールが違ってるかもですが、言わんとするところをお汲み取りいただけますと幸いです♪
2009/04/28(火) 14:01:10 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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2009/04/28(火) 16:43:28 | | #[ 編集]
さて、私もよくは存じません;
>2009/04/28(火) 16:43:28にコメントくださいました方へ
 申し訳ありません。私もその手のサイトがあったら知りたいんですが
 なかなか心に残った文章などの出所を検索するのは難しいです。
 ちょっと間違えて記憶するともうヒットしなかったり
 私も根気よく探したりします。
 しかし、そちらはいったいどういういきさつで、そんな場所でお調べに??(笑
2009/04/29(水) 15:39:56 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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2009/04/29(水) 20:18:22 | | #[ 編集]
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2009/04/29(水) 21:23:03 | | #[ 編集]
Re: タイトルなし
>2009/04/29(水) 20:18:22にコメントくださった方へ
 おもしろい授業ですね。さすが21世紀の大学です♪
 こちらこそあまりお役に立てなくてすみません。ありがとうございました。
2009/05/02(土) 15:30:18 | URL | 山本貴嗣 #-[ 編集]
Re: タイトルなし
>2009/04/29(水) 21:23:03にコメントくださいました方へ
 おそれいります。
 おっしゃるとおり「報われる(酬われる)」という感覚は、客観的に判断できることではなく、主観的なものだと思います。
 微笑ひとつで報われることもあれば、何千何億の報酬を得ようと報われない人もいて。
 これも簡単には語れないテーマですね。
 またおいおい書いていきたいと思います♪
 ありがとうございました。
2009/05/02(土) 15:34:10 | URL | 山本貴嗣 #-[ 編集]
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2009/05/05(火) 02:08:09 | | #[ 編集]
私もそんな感じです♪
>2009/05/05(火) 02:08:09にコメントくださいました方へ
 結果を手放して働くことは、ある種の修練として効果的であると色々な賢者が語っております。
 宗教を信じておいでの方は「神にささげる」というような表現をされますね。別にそういう表現でもかまいません。
 結果は己のなしたことの反省分析の手段にするだけで、何か報酬を期待して働くということはしない(無論ノーギャラや不当な労働条件では生活できないのでまた別問題ですが)(笑)。
 私もそういう道を心がけてやっております。
 同好の士が増えるのは楽しいものです♪
 ありがとうございました。
2009/05/06(水) 16:43:04 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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