あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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裁かない≒決め付けない/映画『ミスト』にからめて
 人が人の(あるいは、ものごとの)価値判断をすることの愚かさを、歳をとるほどに感じます。
 誰の何が価値があるとか価値がないとか、
 限られた特定の範囲で何らかの評価を下すことは可能ですが(そうしないと仕事が先に進みませんし)、一見長所に見えることが短所であったり、また逆であったり、いやそもそも長所と短所は表裏一体なもので、
 一見問題点に見えることが、長い人生で見渡した場合、まったく別の長所であったり
 すばらしい幸運に思えたことが、とんでもない災難の始まりであったり

 そういうことを言い表して
「人間万事塞翁が馬」
 とか
「禍福はあざなえる縄の如し」
 などと昔の人は言いました。

 それはまったくその通りだと、歳をとるにつれてしみじみ思います。
 そういうものを、自分の欲望や偏見を手放して、高い視点から冷静に判断するだけの能力を持つ人が、どれほどいるでしょうか。
 少なくとも私にはないです。
 「なんじ裁(さば)くなかれ」
 という教えがありますが、そういう何かの教えがあるから裁かないのではなく、裁くだけの能力も資格もないから裁かない。

 そういえば、少し話がわき道にそれますが、先日ケーブルテレビで映画『ミスト』を見ました。
 スティーブン・キングの原作をフランク・ダラボン監督が映画化したやつです。
 どうも、原作と違うエンディングが、一部のお客様方にものすごく不評で、金返せとか見なきゃよかったとか、やってはいけないエンディングとか、はては意味が分らないなど、散々なレビューを目にしました(無論高評価の方もおいででしたが)。
 かなりのアンハッピーエンディングになってるらしいとは想像できたんですが、果たして、確かにアンハッピーエンディングでした。
 でも別に衝撃の結末でもハラ立つようなものでもなく、私にとっては、うんうんあるよね時々こういうこと人生で、という、ごく普通の内容でした(一緒に見ていた妻も同感だったようです)。

 ここから、かなりネタバレなので、これから見るんで予備知識は得たくないという方はお読みにならないでください。


 とはいえ、そのままエンディングを書くのは、さすがに創作者の仁義に反するかもですので
 一つの例えとして書きます。
 映画『ミスト』は、立ち込める霧の中に潜むモンスターたちと戦う人々が、四面楚歌の中、いかにサバイバるかという話ですが、その結末をちょっと別の状況に置き換えて解説しますと
 借金をかさね、もはや闇金さえ金を貸してくれなくなった主人公が、同じような借金苦で悲惨な死(餓死は苦しいそうですね)を迎えた知り合いのことを思って、自分の家族にはそんな地獄は見せられないと一家心中をくわだて、家族全員殺したあと自分は車にでもひかれようと道に出たら、ちょうど向こうから来た郵便屋さんに、親戚のおじさんの巨額な遺産があなたに転がり込むことになりましたという手紙を手渡され、絶叫して終わるというような
 まあそんなエンディングです(ちょっと違うぞという方もおいででしょうが、ニュアンスだけ御汲み取りください)。
 巨額な遺産がぶっとび過ぎというなら、不渡りだと思っていた手形が無事有効だったとか、入らないと思っていた退職金が入ることになったとか
 とにかく心中の必要はなかったということです。

 いやー、よくある話ですよ人生で。
 戦争中など、それで亡くなった方がどれほどおいでだったでしょう。
 「絶望は愚か者の結論である」とも言いますが、予言者でも霊能力者でもない人間が、自分の一瞬先の未来さえわからない人間が、勝手な想像で未来を決め付けて結論を出した結果です。
 だからといって、その方たちを非難するつもりは毛頭ありませんし、愚か者呼ばわりするものではけしてありません。極限状態では人は冷静な判断を失うものであり、自分も同じ立場になれば、どんなことをするかわかりません。
 
 これまでにも書いてきましたが、人の一瞬先は闇かもしれないし光かもしれない。
 闇だと決め付けるのは運命でも神で悪魔でもない、ほかならない自分自身です。
 人は自分のしたことの結果を受け取るだけで、それは花の種をまいて花が咲くことや、解けかけた雪山で大きな音を立てて雪崩に巻き込まれるのと同じです。
 白か黒かわからないので、とりあえずこっちに賭けてみた、ということもありますが、それは賭けの結果がいい目にでるか悪い目に出るか、神の味噌汁で、どっちにころんでも甘んじて受け取るしかありません。

 ネットの映画評を検索していたら、『ミスト』に高評価を下した上で、あれは「裁く資格は人にはなく神のみにある」という思想の一神教の欧米人ならではの作品だという評論を見ましたが、私は別に一神教を奉じてはいませんが、人に裁く能力がいかにないかは人生で痛感していますので、なんの違和感も感じません。

 「私を他の連中と比較しないでいただきたいね。第一にあなたは私という人間を知っていない。
――それに、他の連中のことも知っていない」
 というポール・ヴァレリーの言葉がありますが
 これを自分に置き換えるなら
 「私は、あなたを他の人々と比較し裁きたくない。第一に私はあなたという人間を知っていません。そして他の方のことも知っていません」
 そしてもう一文付け加えて
 「私は私自身のこともよく知りません」(笑

 私のブログに、他者や出来事への批判批評があまりなく、自分はこうした、こう思ったという内容が多いのに、こいつナルシストか批判能力がないのではと思われる方もおいでかも知れませんが、知りもしない他人の批評をする愚を冒したくない私としては、自分が目にし耳にし感じたことを語るのが、もっとも誤りの少ない道なだけなのです。

 『ミスト』にこめられたメッセージは明確で、まあもっともなことに私には思えます。
 mixiのレビューを検索していて一つ興味深かったものに(それは好意的な評価をしておいでの方でしたが)あの映画は、自動車教習所や免許更新の警察で見る、こんなことしたらこんな悲惨な目に合いましたという映画に通じる効果があるかもというのがありました。言いえて妙かも知れません(笑)。

 誰かをあれこれ批判したり、何かを決め付けたくなったら、上記のヴァレリーの言葉を思い出すのもいい手かも知れません。
 何かにカギカッコつきの「仮の判断」をすることはできます。
 でもそれはあくまで仮の判断であり、新たなデータが入ったり、今あるデータを再検討したらまったく別の結論になるかもしれない。私の判断などその程度のもであり、誰も裁く資格も能力もないと思っています。
 私が家に鍵をかけるのは、門の外を歩く人が泥棒かもしれない危険性を感じるからであり、門の外を通過する人々が実際はどういう人で何を考えているか、泥棒なのか仏様のような人格者なのか、本当のことを知ることは一生ないのです。
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