あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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ことばの限界を思う
 最近忙しくて長い記事を書く余裕がなく、形而上含めココロの話題をアップしてません。
 その手の話題をアップする頻度が減った理由のひとつは、
 何を語っても言葉の限界で誤解が誤解を生み、どう語ろうと解る人には解るし解らない(解りたくない)人には解らない。
 じゃあ、解る人には解ってるんだから私ごときがわざわざ語る必要も無いんじゃないかとか
 そんなジレンマを感じてもいたことがあります。

 言葉が一対一対応でない(言葉どおりの意味だけではない、時と場合によって様々な意味を持つ。例「いやよいやよも好きの内)(笑)ことは、周知の事実だと思うのですが
 ネットを含む日々の生活の中で、そうでない、硬直した受け取り方をする人が、世の中にはあふれています。
 「渡る世間に鬼は無し」
 と言えば、だまされてひどい目に逢ったお人よしを例に挙げて反論し
 「人を見たら泥棒と思え」
 と言えば、人を信じて救われた例を挙げて反論するといった類のものです。
 しかし、ソバのうまさを語っている人のすべてがソバアレルギーの方をないがしろにしているわけではないように、人が何かを語る際、それはあくまで世界のひとつの局面を語っているに過ぎません。
 ついノリが高じて「絶対に」とか「すべて」とか「言い切って」しまわない限りは(笑)。

 数学など厳密な形而下的学問においては、ある仮定が正しいか間違っているかは、その仮定が当てはまらない例をひとつでも挙げれば、間違いが証明されます。
 「カラスの色は黒い」
 と言うことが正しくないという証明には、一匹でもいいから白いカラスを見つければいいわけです。
 しかし、それで証明されるのは、あくまで
 「すべてのカラスがいつも必ず黒い、というわけではない(時には黒くないものもいる)」
 ことであって、一般的にカラスが黒いことが間違い、ということではありません。
 この辺のわかりきった論理のはき違えを振りかざして、話をしようとする人が世の中にはいて(なぜそのレベルのはき違えをするのか、正直私には理解できないのですが)、言葉でコミュニケートすることの虚しさを感じる瞬間があります;

 でも、マンガ家などという「表現者」の道を選んだ私には、表現することは「性(さが)」と言うか「宿命」と言うか、人生のひとつの柱であり(笑)、そこから「降りて」沈黙の道を選ばない限りは、変わりようのない習性のようなもの、のようです。

 インドの昔の説話だったか、困っている蛇を助けようとして手を差し伸べては蛇に噛まれ、また差し伸べては噛まれている聖者の話があります。
 なんでそんなことをしてるんですか?と尋ねる人に聖者応えていわく。
 蛇は噛むのが習性だ。だから仕方がないのだ。わしは助けるのが習性だ。だからこれも仕方がないのだ、と(笑

 私は語るのが習性であり、それに飽きるまでは、まだまだ誤解を恐れず
 語り続けたいと思います♪ 
コメント
この記事へのコメント
こんばんわ。

以下、ブログにお書きになった記事に対する読み手の反応で悩まれているのかな?と思い、コメント致します。

人は独りで生まれ独りで死んでいくモノだといいます。
(えー、間違っても「母親がいないのに自然に発生する」という意味じゃありません^^;)
人は互いに生まれも育ちも違う別個の人格を持つ存在なのだから、自分のことを相手が誤解無く100%理解してくれることなど無理というものです。
親子兄弟、夫婦でもそうなのですから、ましてやアカの他人とは・・・。
他人と話をする際に、誤解を生むリスクをいちいち恐れていては、何もしゃべることができなくなってしまいますね^^

さて、「人間2人寄れば大なり小なりの誤解は生まれるもの」という前提で物事を考えてみました。
私、常々想うのですが、ブログとは「公開された個人の日記」なので、ブログの中で特定個人を攻撃したり現実世界に影響を及ぼしかねない反社会的な言動を記さない限りは、どんなことを書こうと基本的に筆者の勝手だと思っています。
なので、読む側も自分にとって必要無い・合わない内容であれば、強制的に読ませられない権利を有します。要は、「気にくわなきゃ読むな。スルーしろ」ですね。

「誤解を生む」というのは、書き手と読み手が対等の立場にある時に発生すると思うのです。それは往々にして討論の場であったりするわけで。ブログって討論の場なんでしょうかね?(もっとも、人それぞれブログをやっている理由は違うでしょうが・・・)
先生はご自身が書きたい・書くべきだと思われることをブログにお書きになれば良いと思います。その文章の中で感じるものがあれば読み手も共有すれば良く、そうでなければ読み手は静かに立ち去れば良いだけのこと。
先生はご自身のブログにお書きになる内容で悩まれることなど必要無いと思います。言葉尻をとらえて「誤解する」ような読者とは、今後引き続きお付き合いされなければ良いだけのことではないでしょうか。

・・・このコメント自体、実は既に上記の考えを逸脱しておりますので、お目触りであれば削除ください。
ただ、「ことばの限界」などと寂しいことをおっしゃらずに、(情報の取捨選択は自己責任で行いますゆえ)先生が想い見聞きされたことを是非是非今後もご紹介いただければうれしいな、と思っている読み手がここに1人居ります。

でわ~^^
2009/04/27(月) 00:53:42 | URL | にゃん #cwHBdaMk[ 編集]
いつも拝見しております。
にゃんさん同様、私も先生のお話をいつも楽しみに読ませていただいております(お陰でシロさんにときめいてしまいました(笑))。

考え方がかみ合ってくれない人というのはどうしてもいるし、またそういう人ほど声高に何か言ってくるものなのかもしれませんが、私のように先生のお話を読んで、自分なりの思考法の参考にしようとするものもまた多く居ると思いますので、是非こうした話題も書いていただければと思います。
2009/04/27(月) 12:58:10 | URL | 夢霞 #-[ 編集]
ありがとうございます
>にゃんさま
 特定個人を攻撃したり現実世界に影響を及ぼしかねない反社会的な言動を記さない限りは、どんなことを書こうと基本的に筆者の勝手<そうなんですよね。
 道端で(自分の土地の中で)箱にモノをならべてる人みたいなもので
 ただ、世の中には自分が見たくない聞きたくないものを無理やり撤去させようとする方や、思い通りにならないと嫌がらせをする方もいらして、たまに天を仰ぎたくなることがあります。
 昔ある人のブログをみていたら、コメントをよせるお客様方が互いに「ありがとうございます」とよく書いておいでなのを「気持ちが悪い、偽善的だ、やめろ」と言い出した方がいらして
 「気持ち悪い」と思うのは自由だし「偽善的だ」と思うのもそう思えるんだからその方の自由なんですが、だからおまえら黙れと言い出す思考回路はどういうものか、嘆息したことがあります。
 ある種の人格障害なのかもしれませんが
 特に顔の見えないネットでは、実生活では小心な方が、まったく別の顔を見せて横暴になったり(その何割かは憂さ晴らしだったり)しますよね。
 そういうケースを見ると、ああ、何も言わずに黙ってるのが一番かなあなどと思ったものです。
 でもこうしてしゃしゃり出てしゃべるのは、もお私の性(さが)ですね(笑
 暖かいお言葉ありがとうございます。
 またぼつぼつしゃべらせていただきますー♪

>夢霞 さま
 おそれいります。
 何かのご参考になりましたなら光栄です。
 お励まし感謝感激です。がんばります♪ 
2009/04/27(月) 13:49:25 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
生命のばらつき   と    豆鉄砲
先生。

生き物はばらつきをもっております。

形、行動、考え、食、殖・・・などなど。

人は、僅か数千年の間に高度な技術をもちましたが、それは諸刃の刃として自らの喉元に突き刺さりそうなくらいであります。

生き物のばらつきは異様に見えて恐らくそうではない。

愚なれば守られるものもあるというもの。

そうは言っても来年植える種籾を食らうのは、熱帯地方以外では一族郎党の滅びをも意味する愚行にほかありません。

なぜなんだと、思いつつも、先生はそういう者の魂に新たなるひつ粒の種を埋め込んだのですから、時にまだ芽はでぬと思われてはいかがでしょうか。乾いた土地では容易に芽は出ぬもの。何かを育むことは大変です。

しかし、育む者が居なくなれば辺り一面焦土となりましょう。

言葉の限界にヒトカケラの思いをこめて・・・。v-116
2009/04/28(火) 01:24:00 | URL | やすやす #-[ 編集]
ありがとうございます
>やすやすさま
 憂さ晴らしの悪態や攻撃的なメッセではなく
 少しでも自分も人も豊かになるようなメッセを書いていきたいと思っています。
 どこで芽が出て実を結ぶかは神の味噌汁ですね♪
2009/04/28(火) 08:09:26 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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