あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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「オモチャは飽きるためにある」
 以前、昔執筆を手伝ってくれていたアシスタント、X君が、なかなかうがったことを言うという話を書きました。
 彼の言葉で忘れられないことがもう一つ。

 「よく子どもが買ってやったオモチャにすぐ飽きると言って怒る親がいますが、あれは間違ってますよ。
 いつまでもオモチャにしがみついてたら子どもは成長しません。
 オモチャは飽きるためにあるんです」

 なかなかうまいことを言うと笑ったものですが(でも高いオモチャを無理して買って、ソッコー放り出されたときの親の気持ちもわかりますけど)

 近年私は思うのですが
 この世のすべては、似たようなものではないかと(笑)。

 芥川龍之介に『杜子春(とししゅん)』という小説がありますね。
 有名なのでご存知の方も多いと思いますが、ざっとおさらいいたしますと


 大昔の中国に杜子春という若者がいました。金持ちの息子でしたが、落ちぶれて貧しい暮らしをしていました。
 あるとき不思議な老人と会って、お宝を恵まれ、楽しく遊び暮らして使い果たし、また落ちぶれていると同じ老人と会って、また金銀財宝を恵まれ、また楽しく暮らして落ちぶれ、また同じ老人と会って・・・

 しかし杜子春は、その繰り返しと人の世にうんざりし、もうお宝はいらない。あなたと同じような仙人になりたいと言います。
 仙人である老人は杜子春を蛾眉山に連れて行き、何が起こっても声を出してはならないと言って姿を消します。
 様々な恐ろしい目に遭っても声を出さなかった杜子春ですが、亡くなった両親が地獄で責められながら、なおも自分を思っている姿に「お母さん」と叫んでしまう。

 すべては仙人の見せた幻で、「あのとき声を出していなければ、おまえを殺していたところだ」と言って、これからは普通に暮らすという杜子春に家と畑を与えて去るというような話でした(記憶違いでしたらすみません)。


 この話は中国の古典が原典で、そちらでは、やはり口をきかない試練に挑戦する杜子春が、地獄に落とされ女に生まれ変わり、大きくなって結婚しても子どもが生まれてもあくまで無言をつらぬき通すのですが、その態度にキレた夫にわが子を殺され、思わず叫んでしまいます。
 すべては幻だったのですが、おまえが叫んだおかげでせっかくの仙薬が完成まぎわでダメになったと仙人に言われ、見放されて、再び会うことはかなわなかったというような話です(だったと思います。二十年近く昔読んだのでうろ覚えですが)。

 教訓的で人間味を加味した芥川版と、ドライで見果てぬ欲望を追ったような?中国版の違いがおもしろいのですが


 悟りや覚醒への志向というのは
 この杜子春に似たものがあるように思います。
 実際には杜子春ほどに極端に、栄華とどん底を行き来する体験は、なかなかありませんが
 人間長いこと生きていれば、様々な幸不幸、運不運を味わい、人生というものの、おおよその見当がついてきます。いや、つく場合があります(不幸が悪い意味で身につかない、学習能力のないまま老いてしまう人もいますけど)。
 世の無常を思い知り、それらの際限のないぐるぐるから、永遠に撤退しようと思い立つ日が来ることがあります。

 ただ、杜子春の仙人志向は、あくまで「自分が仙人になる」ことを目指している点が、悟りや覚醒とは違っていて、ただ形を変えた新たな欲望の充足を目指したに過ぎません。

 悟りや覚醒への志向は、「オレ」という感覚からの決別であり、禅などに詳しい方にはおなじみですが「オレが悟る」などと言ってるうちは、いつまでたっても悟れない。その「オレが」を落とさない限り、どこまでも偏狭な自我とマインドの囲いの中をぐるぐるしてるだけのようです。
 俗世を離れて、形而上的世界を目指すと言いながら、ただ物質的野望を霊的野望に乗り換えただけだったり、宗教団体での成り上がりを目指すマインドは、所詮は同じ穴のムジナなのです(いい来世を迎えたいとか天国に行きたいなどというのもそうです)。

 私は、ある意味心境的には近年、杜子春にはなはだ近いものがあり、金持ちの息子でもないし栄耀栄華も経験はありませんが、まあお気楽な時代も苦難の時代もともに経て(つーか、苦難の時代の方が圧倒的に多いですが)この世に執着すべき何モノも見出せないようになっているようです(「ようです」と言うのは、人間は愚かなもので、己が見えていないことがままあり、自分ではこだわらないつもりが、心の奥底にとんでもないこだわりを隠していたりもるするからです)(笑)。
 あっ、マンガ執筆の際の、エロとアクションへのこだわりは根深いですが(笑)あれはまあ、このカラダで過ごす今生の趣味、旅先の宿でハマったゲームみたいなものではないでしょうか。宿を立つときは置いていきます(本当かなあ)(爆
 いずれにしましても、仙人なんかになりたくはないなあ(笑)。

 若いころは、病気も老いもない不老長生などというファンタシーが実現できたら、楽しいだろうなあと思ったことはありますが、どんなものにも代償が伴うことを知った今では、なんの魅力も感じません。
 仙人にも様々な段階があって、ひとくくりに語るわけにもいきませんが、いずれにしてもこの世にこだわる義理はないです。

 などと言うと、ひどく虚無的で無気力な人生を歩んでいると誤解されるかもですが
 先日アップしましたニサルガダッタ・マハラジの言葉
「熱烈に冷静でありなさい」
 に表されるように、
 かえって様々なこだわりを捨てていくことに比例して、より意識が明晰になり、気持ちよく無駄に力を分散させることが少なく、日々を歩めるようになっています。
 遊びは一生懸命に真剣に行なってこそ楽しいもので、不マジメや中途半端はつまりません。でも、お母さんが夕食に呼びに来れば、躊躇なくうちに戻る。人生はそれに似た感覚があります。
 これは、「死生観」というテーマでまた日を改めて書くことにします。

 話が長くなりましたが、と言うわけで
「オモチャは飽きるためにある」
 をもう一歩進めて
「世界は飽きるためにある」
 と言い換えてもいいのではないか。
 近年わたしは思っています。

「飽きる」というのが、なんだかバカにしているように感じられたり、冒涜的に感じられてどうも、といわれる方には
「超える」と言い換えてもいいかもです。

「オモチャ」も「世界」もともに超えて
「マインド」を超えて

などと言いながら己の後ろを振り返ると
新婚旅行に出かける自動車のように、引きずるたくさんのガチャガチャが目に入ります(笑
やれやれ;
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