あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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夢には夢のオトシマエ
 この世や人生は、すべて、ある意味「夢」のようなものです。
 たとえご自分でそうは思われなくとも、そういうことを言ったり書いたりした人のことを、小耳にはさまれたり、ご覧になったことがある方が大半ではないかと思います。

 以前の日記でも触れましたが、仏教の華厳経に
「三界は虚妄にして、これ心の作なり」
 とあります。
 人の心は言うにおよばず、すべては心の作り出した幻であるという。
 ある種の形而上的思想は、そうした前提の元に構成されています。
 インドの覚者などが語る教えがそうですし、仏教もそもそもインド起源ですね。

 この世は夢である、というのは、私はおおむね賛成、納得しているんですが、それには条件がありまして、自分でそれを夢として処理できるものまでが、本当に私にとっての夢である、あるいはそれが夢であると言い切る資格が自分にあるという。
 何言ってるわかりにくいですよね;(笑)

 私はまだ、人生のすべてを幻としてコントロールするような境地には行っていませんから「三界は虚妄」というのは、あくまで、そういう思想があるという「伝聞」として伝えることしかできない。これが真実だ!などと人様に語るだけの資格はないということです。
 その辺のバランスと言うか分別は忘れないようにしませんと、 身についていない先人の言葉を、自分の言葉と錯覚して、オウムかキュウカンチョウのように繰り返している勘違いな人になってしまいます。
 いや、そこに向かうために唱えることは有意義なのですが、あたかも自分が身につけたかのごとくに勘違いして唱えることは、それこそがただの錯覚「まぼろし」であり、つきつめればある種の詐欺にもなりかねません。

 mixiなどのコミュニティをのぞいても、そういった勘違いな人のひしめくサークルがいっぱいあって、形而上的志向を持つ私が、その種のものに参加しない最大の理由です。無論中にはまっとうなものもありますが、人数が増えるとどうしても勘違いな人の参加は避けられないものがあり、厳密な資格審査でもしない限りはクオリティの維持は難しいものがあります(そもそも誰がどうやってその判定を下すのか、という問題も)。
 中にはコミュニティの管理人さんご本人が、そういう錯覚に陥った典型的なタイプで、せっかくのすばらしい覚者のコミュがだいなしになっている例もありました。
 私が見たある例では、そのご本人はいたって真剣で、その道の先輩から自分の錯誤ぶり(あなたは先人の言葉を復唱しているだけで、何もわかってはいない)を指摘され、素直に認められながら(認められたところはエライと思います)、でも自分はほかにどうしていいかわかりませんと答えておいでなケースもありました。悲喜劇と言うか、いささか嘆息したことがあります。

 話は戻りますが、冷静に自分の感情を見つめ、そのコントロールが行える人にとっては、日常の大半のできごとの意味、それも感情的な意味は、大半が幻想と言えます。
 人が「傷ついた」「傷つけられた」という言葉を使うとき、身体的物理的側面よりも、むしろ精神的感情的な意味で使うことが多いように思うのですが、それは大変に主観的なものなわけで、同じ出来事が心の持ちようによってまったく違う意味を持ってしまう。

 たとえば、二階からゴトゴトと、寝ている人の起き出す物音がした。
 これが大好きな恋人だったりすると、うれしくてうきうきする、幸せな気分になります。
 一方、大嫌いで長いこといケンカを続けている隣人だったりすると、不愉快、怒り、フラストレーションなどに襲われ、身体的にも不調が現れたりします。
 同じ位置から同じ音量の同じ音がしても、心の持ちようでまったく正反対のことが起こる。
 ここには、出来事の絶対的な価値などというものはなく、すべては受け取る人の心が作り出している幻があるわけです。いや、幻が作り出した現実があると言うべきでしょうか。
 私はひどい苦しみを受けた、という場合、それを苦しみにしているのは自分なのです。

 精神的に追い詰められ病んでいる方は、他人からかけられた優しい(少なくとも悪意のない)言葉一つでさえ傷つき、場合によっては自殺さえ選びます。
 一方、自己と感情の一体化という錯覚を手放し(感情の否認ではなく認めたうえでの客観視)喜怒哀楽のからくりを見抜けるようになった人間は、普通の人が傷つき怒り落ち込むような他者からの攻撃や不幸(と一般には言われるような)出来事に出会っても、傷ついたり「被害者」になったりしません。
 もはやそういう幻想の虚偽を見抜いているからです(誤解のないよう、再度申し上げますが、あくまで精神的内面的な話です。交通事故にあってはねられて「被害者」になる、というような、物理的法的な話をしているのではありません)。
 そもそも。精神的な「加害者」「被害者」などという図式そのものを手放しているわけです。

 では人の心の解釈に左右される「苦しみ」ではなく、もっと直接的、身体的な「痛み」はどうか。
 実はこれも同様で、以下のような有名な話があります。

<痛みの研究では先駆者ともいえるヘンリー・ビーチャーは第二次大戦のさなか、重症を負った兵士には痛み止めのモルヒネがほとんど、あるいはまったく必要ない場合が多いことに気づいた。兵士たちはひどい傷を負ったにもかかわらず、命が助かったことを心から喜び、二度と戦場の恐怖に向き合わないで済むこと、これからは手厚く看護してもらえることに心底ほっとして、痛みを感じることがほとんど、あるいはまったくなかったのだ。これもまた心のもつ力を如実に示す、注目すべき事実である。一般の市民生活で同程度の傷を負えば、とてつもない不安に襲われ、必要なモルヒネも半端な量では済まないだろう>
  (『心はなぜ腰痛を選ぶのか』J.E.サーノ・著/長谷川淳史・監修/浅田仁子・訳/春秋社より)

 普段なら悲しんだり不幸に感じたりする大ケガを、自分を幸せにする、不幸から遠ざける前向きな出来事として捉えることで、痛みの感覚さえも異なるものにしたということです。
 私はそんな境地に至ったことはないので、あくまで「だそうです」としか言えないのですが(笑)、一応オカルトや形而上学ではなく、医学的な事実としても、そういうことはあるようです。

 瞑想の達人になると、精神を統一することで、麻酔なしにある種の外科手術に平然と対応したという例もあります。
 このくらいになると、もう日常の出来事の大半は「心の作なり」として対応可能になっているわけです。
 無論どの世界にも本物とニセモノはあって、自分は修行ができているので何を聞いても大丈夫だと言っていたお坊さんが、ガンの宣告を受けて呆けてしまったり、悲観するあまり自殺したなどという笑えない実例もあります。

 「本物」のもっと極端な例としては、イスラムの聖者でしたか、火の中に投げ入れられて焼き殺されながら笑っていたという人もいたと聞いたことがあります(出典不明)。

 それはさておき
 神秘思想などで言う「世界は夢である」というのは、もっと次元の違う意味で言ってたりしますが(世界は神の見ている夢であるという宗教もあります)そこまでいくと、共感できる読者の方はほとんどおいでにならないでしょうから、今は置きます(ご理解のある方は、私などが語るまでもなく、すでにご存知でしょうし)。

 人生は一つの夢であり、幸も不幸も、人が心で作り出した勝手な幻想に過ぎない。
 それはおおむねその通りだと私は思うのですが、
 この手の考えの危ないところは、ともすると非常に投げやりで無責任な人間を生み出しかねない点です。
 人にひどいことをしても、なにかをいい加減に行っても、その言い訳として
 「だってみんな幻なんだろう」
 みたいな。
 でも、たぶん、そういう人の財布からお金を拝借したり、その人に暴力をふるったりしても、
 「みんな夢まぼろしだから」
 と笑って許してはくれないようなんですが(笑)。

 まあ、それは極端な例としても、この世は幻であるという思想にかぶれて、何か見失ってしまう人は少なくないように思います(形而上的世界に浸ってる人の中にしばしば見られます)。
 ちょっとぶっそうなことを言わせていただければ、私のマンガのファンで長年読んでこられた方は、山本がどれくらいエグイことを思いつくか多少ご存知だと思うのですが
 人間の拷問にかけては、本当に指を鳴らすように思いつく才能がありまして
 私に前世と言うものがあるとすれば、いったい何をしていたのだろうと思ったことは一度や二度ではありません(笑)。
 平和な恵まれた環境に身を置いて、この世はすべて幻想であるとお気楽に語っている方の多くを、道具と機会さえ与えられれば、一時間以内、いや数分で「棄教」させる自信があります(そんな無用な業を作るつもりはありませんけど)(笑

 だから私も、自分が幻想として取り扱う能力もないことを幻想として語らないよう、充分気をつけていたいと思うのですが
 この「この世は夢である」について、座布団一枚あげたくなるようなエピソードがあります。
 私の尊敬するインドの覚者、ラマナ・マハルシ(マハリシとも)が、弟子のプンジャジに対して語った言葉なんですが
 プンジャジというのはご記憶の方もおいででしょうが、以前このブログで紹介いたしました本
 『ポケットの中のダイヤモンド
 の著者ガンガジの師匠であるパパジのことです。
 マハルシ(マハリシ)はそのパパジの師匠です(今はいずれも故人です)。

 生前パパジ(プンジャジ)が色々な人に語った話を集めた本(『真理のみ』(原題“THE TRUTH IS”私家版)から、紹介します。

<1947年、インドが分裂する前に、私はラマナアシュラム(ラマナ・マハリシのそばで人々が修行する場所のこと/山本・注)に滞在していた。七月の中頃、ある日誰かが私に(中略)国家の危機について話した。私は新聞を読む時間も政治にかかわる時間もなかったのでそれについてはほとんど知らなかった。彼が言うには来月の中頃、国は二つに分かれて、ラホールとぺシュワーの間に住んでいる私の家族は、もし私が救い出さないと、虐殺されてしまうだろうというのだ>

<私はすでに全ての家族を忘れてしまっていた。全ては夢であった。両親、家族、子供達、国家全ては夢で全ては終わったと彼に言った>

 これはプンジャジが無責任な人だったというのではなく、すべての執着を手放す修行がそこまでに至っていたという証(あかし)なのですが、それを聞いた相手の人は、そのことを師匠のマハリシに伝えます。
 ラマナ・マハリシは、本当にこの世のすべては夢であると説いた人で、究極、「私は在る」というあなたの「真我」以外何もない。究極的には輪廻もあなたの外にある神も宗教もすべて幻想であると言った人でした。ただ、けして誰彼かまわずその教えを押し付けるようなことはなく、相手の段階や状況を見て、多神教の人にはそのように、一神教的な人にはそのように、また、その種のすべては幻想であると言う人にはそのように、文字通り「人を見て法を説いた」人でした。
 プンジャジのその言葉を聞けば、よしよし、私の教えをよく学んだねと誉めそうなところですが、そこが一味違っています。

<私達がマハリシと一緒に朝の散歩に出かけた時、マハリシは私に尋ねた。
 “なぜラホールに行って、家族を救い出さないのかね”
 私は言った、“私がここにやって来た時、私は、妻や子や両親がいたが、あなたが一瞥を与えてくださった時、全てが終わりました。
 今は、あなたが唯一の身寄りで、この世に他の誰もいません”>

 そこでマハリシが、穏やかながら実に鋭いツッコミを入れます。

<“それを夢だと言うのなら、なぜ夢を恐れているのかね?”>
<“夢の中で、あなたの妻や親戚の面倒を見に行ったほうがよい。なぜ夢を恐れているのだ。あなたの夢の手は、夢の虎の口の中では全く安全だ。このように世間で生きなさい、そしてそれを夢と呼びなさい。恐れないで、夢の中で働いているように働きなさい。夢は夢で、本当のものは何もないが、息子としてあなたも夢の中にいる。だから、夢の息子を夢の国に行かせて、夢の中で夢の両親を救い出しなさい”>
<“あなたがどこにいようとも、いつもあなたと一緒に私はいる”>

 こうマハリシにさとされて、プンジャジはメウロコし、敬拝してマハリシの下を去り、故郷に戻って自分の家族や親戚を救い出します。
 それはまた別の物語ですが
 私(山本)は、このときのマハリシ(マハルシ)の
「あなたの夢の手は夢の虎の口の中では全く安全だ。このように世間で生きなさい、そしてそれを夢と呼びなさい」
「恐れないで、夢の中で働いているように働きなさい」
 という言葉は、大変胸に迫ります。
「だから、夢の息子を夢の国に行かせて、夢の中で夢の両親を救い出しなさい」

 すべては夢であろうとも、夢には夢のオトシマエを、きちんとつけて生きなさいと、彼は言っているように思います。
 私はかねがね、その種の思想につきまとう無責任な現実逃避の影が嫌いで、一抹の胡散臭さが拭えなかったものですが、「すべては夢」をつきつめたマハルシのような覚者が、こういうことを言っているのを聞いて、胸のつかえが下りました。

  未熟者の私にはまだとても、世界のすべてを夢としては扱えませんが、その大半、少なくとも自分が精神的に翻弄されるできごとの大半は、己の心の生んだ夢だとは思います。
 夢には夢のオトシマエをつけて
 生きてみたいと思っています。
コメント
この記事へのコメント
修行者に訊く
ともすれば哲学はお皿に綺麗に飾りつけられた美味しそうな料理をおもむろにぐちゃぐちゃと混ぜている姿に似る。

正直私は自身の言にもそいう所があるのではないかと恐れを抱きます。

プンジャジは、執着を手放すことに執着していたとも読み解くことができそうに思います。

マハリシの覚者たるところはブンジャジの修行への執着をその姿のままに動かし家族への人としての思いを引き出していることかと感心します。




修行する者に尋ねてみたいこと。・・・貴方の修行が成された時貴方は何を得ると想像されますか?


覚者が表すものを見る時、凡人はよくよく注意が必要です。なぜなら凡人には覚者のような思慮は到底及ぶところでないから、覚者の表現を深く理解できないのです。理解できないことで成される行動では覚者に近づくことは出てもそうなることはできません。

人の近づこうとする思いこそ世に多く、覚者は世に僅かばかり。前者こそが人の世を形作っているものです。それが示す方向が調和と思慮と深化に富むものであらんことを願います。己がその一滴であるゆえに。v-264
2009/02/26(木) 00:31:25 | URL | やすやす #-[ 編集]
人生いたるところに落とし穴
>やすやすさま
 解脱は、解脱に執着した時点で、新たなエゴを肥え太らせる肥やしになってしまいます(笑
 その辺のバランス感覚は言葉では表現できないものがあります。
 覚者は本来言葉にできないことを言葉で語ってるものですから、字面のみを追っても新たな迷いを生み出すだけですね。

 修行への執着をその姿のままに動かし家族への人としての思いを引き出し<そうなんですよ!
 ニサルガダッタ・マハラジが、あなたが誰かを助けたいと思うなら、その人の欲望を通してしか助けられないと言っていますが、まさにそれだと思います。
 なかなかマネができませんが、自分もそういうことのお手伝いができるようになれたらという願いはあります。
 ありがとうございました。
2009/02/26(木) 18:35:17 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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