あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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言葉は指にほかならず
月を差す
 この「あつじ屋日記」、なにやかやと思いつくまま語っておりますが

 「言葉は月を指差す指」
 にほかなりません(って、このフレーズは私の思いついたフレーズではなく、昔知り合いから聞いたものですが♪気に入って以後愛用しています)。

 
 「あれだ!」と何かを人が指差しても、犬猫はじめ動物はその指す方向ではなく指先に注目し、その臭いを嗅いだりするだけです。
 目配せする視線の先に何かがあるという意味を理解するのは、高等動物の人類にのみ可能なことで、智慧の発達したサルでも難しいそうですが(一方で周囲の人間の微妙な気配を感じて、回答を選ぶ「学者ウマ」などもいるのですが)(笑)
 言葉もそれと同じです。

 とりわけ「形而上的」なテーマを語る際は、言葉の上っ面や、学校で習うような限られた型にはまった取り方をしていては、何も真意は伝わりません(義務教育で学ぶ知識がどれほどかたよって不完全なものであるかは、気の利いた子どもでも知っています)。

 仏教には「不立文字(ふりゅうもんじ)」と言って、釈迦の教えの真髄は言葉では伝えられない、文字通り「形而上的」な感覚によってのみ伝えられるものだという思想があります。
 釈迦の教えに限らず、多くの物事の本質というものはそういうものだと思うのですが、たとえば、山本貴嗣はどんな人物かということを、ノーベル文学賞受賞の作家が文章にしても、それはよくできた表現ではあるでしょうが、真実の山本貴嗣を伝えることはできません(とても「よく書けている」とは言えるでしょうけど)。いや、今私やあなたが見ている風景一つ、それを目にしていない誰かに伝えることはできません。
 それは、人と人とが語り合う際の暗黙の了解だと思うのですが
 ときどきそれを理解していられないか、忘れておいでなのか、それともあえて無視しておいでなのか、な方がいらして、意思が通じ合えないことがあります。

 じゃあ、言葉にできないことをなぜ言葉で語るか。
 それ以上の伝達手段を持たないからです。
 絵画やヴァーチャルリアリティで伝達できない抽象的な内容を表すには、今のところこれしかない。
 持てる最上のものが言語であるため、仕方なくそれを使っているだけで、テレパシーでも持っていればそれを使うことでしょう。

 仏教つながりで言うと、禅には「教外別伝(きょうげべつでん)」と言って、詩歌、俳句などを使って教えを伝える方法(補助的な手段と言うのでしょうか)があり、書は「有声の画」、絵は「無声の詩(うた)」と言うそうです。
 私も、別に釈迦の教えの真髄などというだいそれたものではありませんが、自分なりに見出した、本当は言葉にできない何事かを、こうして文章やらマンガやらをメディアにして、響き合えるどなたかにお伝えできればと試行錯誤しています。

 けして言葉を軽んじるものではありません。
 その限界はふまえつつ、使える部分は十分に使いきりたい。
 同じ仏教でも、密教では言葉の重要性は大変大きなものですし(そもそも「真言」というくらいですから)、聖書などでも言葉は世界の始まりに関わるものです。
 それについてはまた別の機会に♪ではではまた



「もしそれらが無意味なら、どうして使うのでしょうか?」
「なぜなら、いかなる言葉も適さないことに、あなたが言葉を望むからだ」
                   ニサルガダッタ・マハラジ
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