あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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どんなときも、どこででも
 私のお付き合いいただいている編集部も、友人の漫画家さん方の描いていられる編集部も、だいたいは昨日12月26日が仕事納めのようで
 私も無事、年内に納めたり打ち合わせしたりすべきことは、無事昨日で終了しました。
 と言っても手元の仕事は残ってて、年越しでずっと描いてます。

 今朝はめっちゃ寒くて、湘南の我が家でも庭のバケツの水に6ミリくらいの厚さの氷が張ってました(湘南かよ!)傾けても全然水がこぼれません!野良猫やその他動物さんたち寒いよー!;
 あと路上生活の方も;


 先日新聞読んでたら、この不況とリストラの嵐で、「寝袋買ったか?」が合言葉の職場さえ、あるそうですね。
 今この記事をご覧の方も、色々な状況で年の瀬を迎えていられると思います。
 順風満帆の方もいられれば、職をなくされて明日の見えない方もいられるでしょう。

 これまでの記事でも何度か触れてきましたが、私のような「水のみ」漫画家は、明日が見えたことなんかほとんどありません。
 デビューして30年、いつも綱渡り手探りでやってきました。
 こんな先の見えない人生がいつまで続くんだろうと、「うつ」のころには本当に早く死ねたらと思ったことも何度もあります(自殺には昔から反対なので死にませんでしたけど)。

 今だって別に状況は変わっちゃいないんですが
 「失業」は若いころから恐怖でした。
 これも以前書いたことがありますが
 若いころ食休みに寝転がって、翻訳モノのB級ハードボイルド小説を読んでたら、主人公が失業して町をさまよう下りで、ソッコー感情移入してストレスで神経性の大下痢を起こし、トイレに駆け込んだことがありました。
 それくらい失業は私にとっていつも背中合わせのことであり、失業者の方への同情は「見下ろし目線」のそれではなく、まったく同じ地平に立った「わがこと」としてのそれなんです。全然他人事じゃないんです。
 実際、仕事が何も無くなった瞬間というのは人生で何度か経験してきました。
 昨年の秋もそうでした。

 幸い今年は、なんとか執筆進行しながら暮らし、暮れを迎えることができました。
 読者の皆様と編集部の皆様、お世話になった皆様すべてに心より御礼申し上げます。
 蛇足ですが、私がいつも忙しくしてるのは、仕事が多いと言うより執筆速度が遅いためです。
 あの絵柄でアシスタントなしの一人作業なもので、どうしてものべつ幕なしに描いている状態です。スピードアップの方法を日々模索しております;

 ブログで、色々と生き方やら考え方やら書いていますが
 根本はいかに幸せに生きるか、心から「無用の重荷」を下ろせるかです。
 いわゆる「成功哲学」とかではなく、成功していてもいなくても、恵まれていてもいなくても、豊かでも貧しくても、健康でも病でも、人気者でも一人ぼっちでも、とにかくそういう外的な条件とは関係なく、いかに安らぎ穏やかに生きることが出来るか。
 そのことのための、ヒントのはしくれでも提供できればと思っています。
 「幸せ」は外的な条件に左右されるが、「至福」はそういうものとは無関係に存在するものだ、だから「幸せ」を求めるのではなく「至福」に在りなさい、という教えもありますが、「至福」と言うとどうも何かの宗教の話と勘違いされ敬遠される向きもありますので、もうちょっと砕けた表現にできればと思うものです。
 いずれにせよ、そういうものを追求すると、実験室の中で物理的に計測できて誰がやっても再現可能な科学の範疇には収まりきらず、あいまいな心の奥底に踏み込まざるを得ないため、どうしても「形而上的」な話になっちゃいます。
 そこはもう、受け付けない方とOKな方が分かれてしまって、私の力ではどうにもなりません(すべての方に伝わるよう表現する能力を持ちません)。

 話は戻りますが
 私の追及しているのは、外的条件に影響されない(肉体を持っている限りゼロにはできませんけど)ある種の「安らいだ在り方」であって、仕事がなくなったらアウトとか、不治の病になったらアウトとか、愛する人を失ったらアウトとかいうような、砂の城みたいなつかの間の幸福ではありません。
 半世紀近く生きてきて、様々な別れや喪失を味わい(無論喜びや楽しみも味わい)夢にせよ愛する人、モノにせよ、何ひとつ永遠普遍のものなどなく、しがみついても執着しても、けして満たされることはないと身染みています。
 想像力だけは人一倍な(なにしろそれでメシ食ってきたわけで)ものですから、病、失業、さまざな状況をイメージし、その状態でも「使える」在り方、考え方以外はどうでもいい。
 今一人孤独死しようとしているときにも、オレはそうして在ることができるだろうか?
 できそうにない考え方、使い物にならない在り方はいらない。
 自分が死ぬ日まで(あえて踏み込んで言うならたとえ死んでも)世界でたった一人になっても、いや世界が滅びても、自分はそう在りながら安らいで生き、安らいで死んでいけるか。
 それが人生のテーマであり、それを追求してきました。

 誤解のないように申しますが、それは何かの宗教のように「今をがまんして来世にそなえる」のでもなく、何かの成り上がり哲学のように「今をがまんして明日の豊かさに備える」のでもなく、「今を十全に生き」(つまり今この瞬間に活かすことができ)死ぬときもまた活かし十全に死ねるものです。


 私どものマンガ業界も、他のジャンル同様、未曾有の危機を迎えています。
 先日も業界通の友人の作家から、笑えない裏事情を聞きました。
 私がアマチュア時代(つまり30年以上昔)にも、オイルショックなどの危機はありましたが、まだ上下の変動はあってもトータルで景気は上昇している時でした。今回は違います。
 そういう私も、明日どうなっているかわかりません。
 
 でも、心配しても始まりません。 
 一寸先は闇か光か、すべては神の味噌汁です。
 「前借り」してまで悩む不幸、苦しみの先物買いはやめましょう。
 ただ、明日を恐れずないがしろにせず、過去を無視せず引きずらず、謹んで今できるベストを尽くしていくだけです。
 それで死ぬならそれまでの山本です。
 けっこう毛だらけ猫かわいいな♪

 性別、経済状態、健康、その他すべての条件と無関係に
 使えるものを考えていきたいと思います。
 2008年もあとわずかですが、皆様にも私にも、よい風が吹きますように、いやこの季節、風は寒いから、よい日差しがさしますように。よいご縁がありますように。

 画像は先日写した湘南の日の出です。
 夜明け前が一番暗いとよく言われますが、夜明けそのものも、意外と暗いもんです。本当にまぶしく明るくなるのは、かなり日が高くなってから。それまでは、けっこうしょぼくて、いつ日が出たのか、横を向いてると気がつかないくらいのもんでした(笑)。
 ではではまたー♪

太平洋の日の出2008年12月
夜明けの海岸2008年12月
コメント
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2008/12/31(水) 16:13:49 | | #[ 編集]
コメントくださった方へ
コメントありがとうございます。
私もそういうことを常に語っているつもりです♪
言葉の定義は人それぞれなので、同じ単語に別の意味があてがわれていることがままあります。真意をお汲み取りいただければ幸いに存じます。
2008/12/31(水) 17:45:12 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
追記
しかし心は簡単に傷つき損なわれます。
私はそういう不安定な心を超えたところにある至福、安らぎもあることを主張しております。
 先日の日記『ポケットの中のダイヤモンド』
http://atsujiya.blog96.fc2.com/blog-entry-399.htmlをご覧ください。
2008/12/31(水) 17:48:45 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
宗教という存在が表す人にかかわること
私自身は仏教的な哲学思考を持つ者ですが、現在特定の宗教を持つわけではありません。
迷いにあっていくつかの宗教を経験しました。人は完全な論理をはじめから手に入れることは叶いません。今は枝葉はそれぞれと緩やかに。それに触れて見なければ、理解に至る苦しみも経験できないものでもあります。

何故にこのようなことに触れるのか・・・・。

薬は毒だからであります。インフルエンザのワクチンもインフルエンザウイルスから作られる。テレビでやっていたのを見ました。鶏の卵を培地にしてワクチンが作られているそうです。私自身が飲み下した宗教というものから生じた宗教への理解を、宗教を得体の知れない脅威と思っておられれ方への一助として此処に記しておこうと思ったからです。
うまく伝わらずともそれは覚悟の上。宗教はその特性からもともとそういうものなので。

この世界の人は色々な宗教を持っています。人の最古の商売は売春とかなんとかという話をどこかで聞きかじった記憶もありますが、宗教は人の社会に発生した最古の特定目的組織と言えるのではないかとすら思っています。

しかし、宗教が何故にその様な古来より人の社会に寄り添うように今に至っているのかについて多くの人は考察されていません。宗教が何故人の社会に木に絡まる蔦の様に連綿として続いているのかという理由はこの世にあって人が生きていく上でとても重要な命題です。この事に関しての理解なく、世界の宗教に関わる諸問題を解決に向かうことは不可能と言えます。



「鰯の頭も信心から」ということわざはつまらないものを信じることへの皮肉として使われる言葉ですが、任意の神と鰯の頭の価値の差を考えてみてください。宗教の核心は対象にあるのではなくその行為にあります。




すべての生のもつ共通な行為に宗教の根拠を見ることは物理現象が理論量子力学にあって対称性(陰陽の様な対の物質の在り様らしい)の破れみたいな何か哲学的な匂いのする領域に差し掛かるのと似た感があり大変興味深く感じます。

ここに記したことは、総ての宗教に共通の核です。

「別に秘伝でもなんでもない」セイバー5巻4章より

枝葉に囚われ幹を見ない。幹を幹として見ることが何故か難しい。人とはそういうものだと思います。仕方ない。
でも、それには訳があると思う。核という幹を操る者が兵器を作ることもあれば医療に使うこともある。諸刃の剣になるものに容易に手をだせない生き物であることは、生命の総体が自らに課している繁栄への枷とも思えます。


私はしがない自営兼サラリーマンなもので難解で言葉足らずな表現はご容赦のほどを。そして、この文を読んでくだすった方には、今理解なくともいつか将来にその意を知り、その意を皆が利用しているパソコンの様に有意に、いや、多くの人の幸せな生活に使われんことを願って、山本先生への年越し年頭の祝辞コメントとさせて頂きます。

今後とも先生の胸をお借りいたします。 m(^つ^)m。感謝。
2009/01/01(木) 18:26:06 | URL | やすやす #-[ 編集]
ありがとうございます
>やすやすさま
 宗教にまつわる無数の誤解は、マスコミの変更報道もあって、ほとんど解決のメドの立たない状況が続いております。
「鰯の頭も信心から」<これも深遠な意味が含まれることだと思うのですが、一般にはおっしゃるとおり、無知迷信の類を代表する言葉として浅薄に捉えられ、物笑いのネタにされています。
 祈りとは生き方にほかならないということばもあります。
 私も思うところを生きることで私の祈りとしたいと思っています。
 今年もよろしくお願いします。ありがとうございました。
2009/01/02(金) 08:43:56 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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