あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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『ポケットの中のダイヤモンド』
『ポケットの中のダイヤモンド』
 ポケットの中のダイヤモンド
        ガンガジ・著/三木直子・訳/徳間書店

 先日の日記マインドを超えてで、自分の根底の意識、気づきに気づく方法があると申しました。
 その昔(って言ってもそんなに昔じゃないですが)(笑)私がそれに気づくきっかけ、いや、気づく方向に向かうきっかけを与えてくれた本です。
 あくまで私にとってのきっかけであり、人それぞれで違うと思います。
 禅の修業で見出す方もいられれば、日常のふとした出来事ではっと気づかれる方もおいででしょう。
 ですので、これが唯一のものだとか申し上げるものではまったくありません。そこはご理解いただきますようお願い申し上げます。

 著者のガンガジという人は、アメリカの女性です。ガンガジと言うのは彼女がインドで師匠からもらったニックネーム、法名のようなものです。
 私が尊敬するインドの覚者にラマナ・マハルシ(故人)という人がいますが、その弟子にパパジというニックネームで呼ばれるH.W.L.POONJAという人がいました(この人もすでに故人です)。プンジャジと呼ばれることもあります。
 ガンガジは、長い人生の試行錯誤の果てにその人にたどりついたのでした。
 パパジはインドのそれもヒンズー教の文化圏の人なので、人に何かを語るとき、その慣れ親しんだヒンズー教の言葉や表現を使って語りますが、彼の教えは別にその枠に人を押し込むものではなく、誰かに何かの教義を押し付けるでもない。ただ本当のあなたに気づいてそれに留まりなさいというシンプルなものです。

 いくつか同書から引用して、そのニュアンスなりともお伝えできればと思うものです。

 ガンガジも、多くの人と同様、人生に悩み苦しみ、解決の糸口を見出そうとさ迷う人でした。
 キリスト教文化の中で育ちましたが、宗教もどんな哲学も、彼女を救ってはくれませんでした。
 そしてパパジのことを知り、インドに会いに行きました。
 にこやかに彼女を出迎えてパパジは言います。


<「何が欲しいのか言ってごらん」>

 ガンガジは答えました。

<「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください」>

 パパジは

<「何もしないでいなさい。あなたの問題すべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも探し求めることも、言い訳することも。そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間にじっとしていなさい」と言いました。

 私はそのときじっと坐っていたので、いったいパパジが何を言っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止(や)めるように指示していたのです。
 頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、仕事に行くこともできない。>


 無論これは勘違いで、パパジはそういうことを言ったのではありません。
 今とりあえず止めてみることです。

 ガンガジは、師匠の言葉を信じてそれを実行してみます。
 そしてそこに、不断のマインド、感情や思考のぐるぐるの彼方、奥底に、限りない静かな気づきを見出します。
 少し長くなりますが引用します。


 <私(ガンガジ)にとって、この「止めろ」という言葉を聞くのは非常な驚きでした。私は彼がある秘密の知識を教えてくれるものと信じていたのです>
 
 <彼は「止めなさい」と言ったのです。あまりのシンプルさに私は腰を抜かしました。>

 <パパジは私に、あらゆる戦略、あらゆるテクニック、あらゆる手段を捨て、ただそこに居て、彼が差し出すものを受け取るように言いました。間もなく私はそれを理解しました。「この人は本気だ。私に新しいマントラを教えてくれる気も、新しい信仰体系、礼拝、問答、宇宙感を教えてくれる気もない。『すべてのものの意味』も、『何が起きるか』も、『なぜそうなったのか』も、教えてはくれないのだ」。パパジは私にそのすべてを頭から捨て去ってくれと言っていたのです。>

<すべての状態には、始まりがあり、経過があり、そして終わりがあります。それは、幸福だったり悲しかったり、非日常的だったり日常的だったり、高揚していたり沈滞していたりします。けれども、状態とは無関係の存在、それがすなわちじっとして動かない静寂です。意識とはすなわち静寂です。そしてあなたはすでに、この静寂なのです。>

 ガンガジの「あなたはすでに、この静寂なのです」という言葉は、非常に詩的に、自分と言う存在の本質を言い表しているように思います。
 その「静寂」を「体感」したとき、それまでの人生で、自分の意識が、どれほど「騒音」に満ちた存在であったか、無駄にうるさい状態であったかがわかります(と言うか、私(山本)はそうでした)。
 
 よく、悟りを開いたり何かに目覚めるには、精神の成熟が必要と言われます。
 ガンガジは
<最も基本的なところで、精神的成熟とは、自分は人生をコントロールできない、ということに気づいているかどうか、にかかっている>
 と言います。
 無論、人がコントロールできるものは、いくつもありますが、すべてをコントロールすることはできません。

<何もかも失う心の準備をしましょう!それは死と向き合うことと同じです。意識的に死と向き合う、ということはコントロールの不可能なことや、どんな人のコントロールする力も及ばない、もっと大きなものを発見する、ということです>
<もし、あなたが安全で快適な人生を求めているのならば、私があなたに指し示している自由はあなたに向きません>
<決して安全ではなく、快適でもない人生を、完全かつ徹底的に生きることをあなたに促すのです>

 彼女は、人が目をそらし、逃げている心の傷や不安、すべてと向かい合えと言います。
 別に目新しいことではありません。
 人は自分の影から逃げ切れるものではなく、戦って勝利できるものでもなく、ただ抱きとめて一つになるしかないということは、古今の賢者が語ってきました(あの『ゲド戦記』にもあります。アニメではなく小説しか知りませんけど)。
 それをガンガジは、興味深い言葉でこう語ります。

<もしあなたがたった一つ、恐れのない状態であることだけを望み、そのために恐れから逃げ出したり、恐れがそこにあるのを認めなかったりするとします。すると、(中略)恐れはあなたに取り憑(つ)いてあなたを放さないでしょう。逆に、あなたが欲しいものを追いかければ、それはいつまでたってもちょっとだけ手の届かないところにあるものです。
 これは精神的探求においても同じです。>

<これまでのあなたの人生に取り憑いていた恐れが何であったにしろ、あなたが立ち止まって「さあ、恐れよ、やってきなさい。私にはあなたと向かい合う準備ができています」と言うとき、恐れが部屋の隅を逃げ惑うのがあなたにはわかるでしょう。>

<恐れに向かって心を開くとき、恐れはどこにありますか?恐れとは不思議な生き物です。それは、その存在に対する抵抗があるときにだけ存在するのです!抵抗を止め、長年にわたって抵抗を続けてきたものに対して心を開くとき、恐れは恐れでなくなります。恐れとは、エネルギーであり、空間であり、仏陀であり、あなたの心を開くキリストの心なのです。>

 私がこの本と出会ったのは、2006年の暮れでした。
 そしてそれは、私にそれまで味わったことの無いメウロコ、思っても見なかった発見と遭遇させてくれました。
 悟りとか啓示とかいうような大それたものではありません。それは実にささやかなものでした。ただ、小さいけれど私の人生に、二度と消えることの無い感覚を残していきました。
 たとえるなら、ちょうど自転車に乗れたようなものです。
 乗れるか乗れないかは、その人の人生にとって、とても大きなことでもあり、とても小さなことだとも言えます。乗れないからといって、困らない人は何も困りません。乗れた人が偉いわけでも乗れない人が劣るわけでもなんでもありません。ただ、乗れると乗れないでは、その後の人生はかなり違ったものになるでしょう。
 人はこの「自転車に乗れるようになる」ように、次々と新たなささやかな「目からウロコの落ちるような何か」と出会うこと、を繰り返して、成長していくもののように思います。

 今、この記事を書くために久しぶりに同書を手に取ると、ほかにも興味深い、しかしもはや自分にとってはあたりまえになってしまっている(でも、その本当の深みには至っていない?)内容が、あちこちに見られます。
 それは、この本で学んだことと言うより、他の本でも人生でも同様のことを学んで、この本にも書かれているに過ぎないこと、です。
 無論、すべてに同感するわけではなく、違った人生、違った魂と心を持つガンガジとは、相容れない部分もあります。
 しかし、彼女の語る核、一瞬でいいからすべてを手放し、すべてを止めて、その静寂の中に在れ、その静寂があなたである、というメッセージには、私は心より同意します。

 文字や絵で隙間なく埋め尽くされた壁には、何も描けません。
 騒音でいっぱいの場所には、どんな声も届きません。
 まずハートの中に空間をつくる。頭の中に余白を作る。そしてそこに何が映るか、何が聞こえていたかに目を凝らし耳をすませる。そこから新しい自分が始まります。
 いや、何もしない、ですから、わざわざ「目を凝らし」たり「耳をすまし」たりも必要ないんですけど。

 その状態を作り出しているのはあくまで自分であるところがポイントです。
 薬物や洗脳によって作り出された状態は、その薬物の効果が切れるか、洗脳を解かれない限り、元には戻りません。
 しかし、自分でOFFにしたものは自分でいつでもONにできます。
 心を静寂に憩わせたからといって死ぬことはありませんし、その最中に声をかけられれば返事もする、宅配便屋さんが来れば玄関に出る、ハラが減ったら何か食べる。すぐにONにして活動を再開できます。
 自分のいる場所でいつでも試してみられることであり、いつでも撤退できることです。
 その安全性がいい点です。

 ただこれは、あくまでその時の私に「きっかけ」を与えてくれたものであり、今この記事をお読みのかたに当てはまるかはわかりません。
 それは保証はできないし、したらインチキセールスか詐欺勧誘になります。
 TVショッピングであれば、ここで同じことを試して人生が変わったという「友人」が、満面の笑顔で登場したりするんでしょうが、あいにくと言うか幸いと言うか(笑)そんな人はまだいません。
 と言っても、私が同書を、よかったらお読みくださいと手渡した(一冊買って)相手はまだ一人だけ。
 人生に行き詰っておいでのようだったので、もし参考になればと思ったのですが
 なんのリアクションもありませんでした。
 もう一年以上前になりますが、感想はおろか読んだかどうかも聞かされていません。
 何か感銘を受ければそれなりの反応があるでしょうから、きっと読了する前に退屈されたのだと思います。もしかしたら手にとってさえいないのかもしれません。
 無理に進めるようなことではありませんし、尋ねもしません。
 
 それから、これはガンガジやその書籍とは関係ないのですが
 どこにでも「まがいもの」はいるという話で

 彼女の師匠であるパパジや、その師匠であるラマナ・マハルシは、インド哲学で言うところのアドヴァイタ(不二一元)の流れを汲む人々です。
 マハルシの弟子でありガンガジの師であるパパジは、高尚で凡人には近づきがたかったマハルシの教えを、彼なりの説き方で説きました。それがガンガジの言う「今ここですべてを止めてごらんなさい」です。
 どこかに探求の旅に出かけたり、何か宗教に入信して修行したりとか、何も必要ない、ただこの一瞬にあなたがいるそこで、すべてを手放し止めてごらんなさいと。
 それは、「悟り」や「覚醒」への道が、特殊な才能や環境に恵まれた一部の人のものでなく、誰にでも手にすることができる(いやすでに手にしている)ものと気づかせてくれた点で、大いなる功績なのですが
 問題はそこからで

 パパジやガンガジの言う「気づき」と仏陀の到達した「悟り」がまんまイコールだと思う方は、おそらくこれを読んでいられる中にはおいでにならないと思うのですが
 パパジがあまりにも、その平易さを説いた副作用でしょうか
 その後困った人々が現れたようで、自分はこれで究極の悟りを得た、もうなんの修行も成長もいらないんだと自己完結したり、その勘違いした「悟り」(と本人が思い込んでいるもの)を他の人々に広めに回ると言う、勘違いだか詐欺だかわからないムーブメントが、一部で繰り広げられたという話を聞きました。

 誤解のないように申し上げますが、私がこの本で得た感覚は究極の「悟り」でもなんでもない、ささやかな「気づき」「状態」です。
 ただ、それまで下ろせないと思っていた心の中の多くの「荷物」を下ろすことがきでると気づかせてくれた。自分の中にいつでも、きれいな空きスペースを作る方法に気づかせくれた。
 それは何も書かれていない白板(その大きさは人それぞれですが)のようなもので、そこに何を書くか、何を築き上げるかは、完全に個人の自由、好みに任せられているのです(私は実際そうしています。そこに何を書くかは、同書には何も書かれていません。そこに一方的な何かの教えを吹き込んだりしたら、それこそがカルトの洗脳です)。

 あなたが、今ここにいて、目覚めることができるというのは、ガンガジ以外にも様々な人、エックハルト・トールなどが書いています。私もトールはガンガジ以前に読んでいましたが、なるほどと思ったものの、イマイチぴんと来ませんでした(今読み直してみるとそうでもないのですが、それがまあ、タイミングというものなのでしょう。トールについてはまた後日語ります)(笑)。
 たまたま、当時の私に一番しっくりくるのがこれだったということです。

 今回この記事を書くにあたり、アマゾンの同書のレビューを読んでみました。
 おおむね好評なようですが、中に、訳が悪い、何が書いてあるのかわからない、というものがありました。
 その「悪文」(と、そのレビューを書かれた方が思われたもの)の具体例が挙げてあったのですが、私には何がわかりにくいのか逆にわからない。ガンガジの言わんとすることは、素直に頭に入ってくるもので、人それぞれなのだなあと思いました(てゆーか、そんな文章でつまづいていては「哲学」はできないですし、一方でその難解さが人を、「哲学」から遠ざけてもいるのでしょう)。
 逆に言うと、私の書いていることも何を言いたいのかわからんとおっしゃるお客様が大勢いられるということで、表現者の道は困難なものだと改めて思いました(極力これでも噛み砕いて語るよう努力しているのですが);

 今回の記事では、私に気づくきっかけを与えてくれた具体例として、この本とガンガジについて書いていますが
 これは私がこの人の「信者」であるという意味ではありません。
 私はこの本の中にあるガンガジのメッセージ以外、彼女について知りませんし、その後どこでどうしているのか(おそらく講演や執筆でもしておいでなのでしょうが)まったく存じません。
 私は、神仏は敬し、他の宗教やそれを信仰される方には敬意を忘れませんが、自分が特定の宗教などに「入信」することはありません。私はあくまで特定の教義に自己の判断をゆだねたくないのです。
 先日も紅白歌手が麻薬所持で逮捕などというニュースがありましたが、人間どこでどうなるかわからないし、人は見かけによりませんから、立派なことを言ってる人がとんだくわせものだったというのは、よくある話です。中でも形而上的なジャンルにおいては、何かの覚醒を得たという人が、舞い上がり物欲や支配欲にまみれていわゆるインチキ宗教の教祖になったりすることがよくあります(その方面では「教祖落ち」と言うようです。「ああ、あの人も『教祖落ち』しちゃったね」というように使います)。ガンガジは自分の語っていることは宗教ではありませんと断っていますが、その後のことは私は知りません。
 特定の個人を妄信するという道は、私は断じて取りませんので、その点は誤解なさらないでください。


<止める、それは過激な提案です。止めるのを提案しているのは、今、この瞬間だけです。この先一生何もするな、家から一歩も出ず、決して物語を語らず。考えることもするな、と言っているわけではありません。私が言っているのは、今、この瞬間、すべてをストップして、ただ存在してごらんなさい、ということです。>

 本のタイトル ポケットの中のダイヤモンドは、あなたの求めるものは誰かが持っていて与えてくれるものでも、どこか遠くにあるものでもない、あなた自身のポケットの中にあるダイヤモンドなのだという、ガンガジが師匠から聞いた話からきています。

 私が同書を読んで、ある種の「気づき」を得たのは、2006年の大晦日でした。
 人間関係でも悩みをかかえ、おまけに暮れもどん詰まりになってひどい歯痛で、珍しく痔までも痛くなって、明日はとんだ誕生日、とんだ新年だなあと思っていたとき、まるで台風の目の中にでも入ったかのように、思わぬ「静けさ」の中に在る自分を見出しました。それは、一時的な再現不能な不思議体験などではなく、今でも自在にON/OFFできる、「すべての雑念のキル・スイッチ(バイクなどに付いている一発でエンジンを停止するスイッチ)」として私とともにあります。
 都会暮らしの人間が、車も鉄道の音もしない、人々のざわめきも聞こえない田舎に泊まり、体験したことの無い静けさの中で目覚めた朝のような、いつでもそこにある(昔から変わらずそこにあった)私の中の静けさに驚き、感動しました。
 その時長いことどうしても許せなかった知人のことも、本当にどうでもよくなりました。
 その人が私にしてくれた厚意を思い出し、「それで十分だよ」と思いました。
 「それで十分だよ。ありがとう、お幸せに。私はあの人を許しました。いやそもそも『許すべきコト』も『許せないコト』もありはしないのですから」
 と、翌日2007年元日の日記に書いています。
 「幸せとはすべてが思いどおりになることではない。『日々是好日』」
 と。
 自分の48歳の誕生日を一日後に控えて、私は生涯忘れられない(消えない)「贈り物」を得たのです。
 「修行中の体験」について、修行者同志が語り合うことは、密教などでは禁じられているそうですが、思うにそれは、未熟な修行者が他人の体験に引きずられ、自分も同じような体験を得ることを願って、本来得られたその人独自の体験を見失ってしまうせいではないでしょうか(ほかの理由もあるでしょうが)。ですので、私も、これ以上具体的に、そのときの自分の体験を語ることは控えようと思います。
 私もいまだに「未熟な修行者」です。

 もしまだそういった感覚を未体験でいらしたら、一度試しに、ご自分の「ポケットの中身」を調べなおしてみられるのも
 おもしろい試みではないでしょうか。
 その「起爆剤」になるのが同書であるのか、他の何かであるのかは
 人それぞれだと思います。
 長文、お読みいただきありがとうございました。
コメント
この記事へのコメント
 今年ももう終わりですね。旧暦だと正月はまだまだ先で、師走も始まったばかりだったりしますが。

>私が同書を読んで、ある種の「気づき」を得たのは、2006年の大晦日でした。

 よく、分かります。私のきっかけは『マスターの教え』という本でした。 鬱々として、先も見えず、苦しみに耐えかねて、とうとう、「苦しんでいる可哀想な自分」を止めた時でした。
永遠の安らぎ、完全な幸福、静けさの中にひとすじの光。
 例えは何でもいいんですが、絶望の中に本当の安らぎがある、と理解できた瞬間でした。以来、望めばすぐに軽い瞑想状態(すべての雑念のキル・スイッチと同じだと思います)に戻れます。今では、このような体験、理解をされるかたも増えているようです。いい時代になったものです。

 ある人が言うには、本に書いてあることが役に立つのは実際に苦しみ抜き、行動した人だけだそうです。何もしない人にはただの絵に描いた餅。精神的な成熟度が達していなければ、ダイアモンドもただの石にしか見えず、文字での理解は難しいそうです。勿体無いですねぇ…。

 あちこち旅をして、探し回ったけれど、探していたものは既にポケットに入っていた。此処にあったのに、気づかなかった。気づこうとしなかった。
そして、もしかしたら、そのポケットのダイアモンドが本当の貴方なのかもしれない…。

 読んでみようかと思ったことのある、本でした。

 よいお年を。
2008/12/31(水) 20:42:31 | URL | 星 #yxI3bMTI[ 編集]
空間の風
完全静止状態の空間に自身がいるとしましょう。v-219

自身が疾走すれば完全静止の空間は風になる。

今貴方は地球上に完全静止しているとしましょう!v-219

地球がもの凄い速度で宇宙空間を運動しているとも知らずに・・・!

貴方は地球が空間を切り裂いて進んでいることをご存知ですか?

貴方の周りにはいつも風が吹いている。
しかし、それを感じる貴方はいますか?
時に風に沿い時に風に対抗し時に自らが風の基となる。いや、矛盾した言い回しだが、総てが同時に起こっているかもしてない。

すばらしい!認識のともし火が暗闇を照らし出す様に人は感動を覚えるものです。

この風を感じ始めたのは長谷川先生のマップスをなんとなく読んでいたところからです。感じたのは多分私の癖ともいえる想定外読みのせいだと思いますが。

「一つの門派を修めれば他の門派のことも解る」「できるわけではないが解るようになる」「逆に一つも修めなければ」「その一つすら解らない」

事の肝要を身に受け入れる。理解の核心とはその様なものと。
逆に肝要を受け入れられないならば、理解に至ることはできません。ホンの僅かな心の働きなのですが。

賀正
2009/01/01(木) 01:38:20 | URL | やすやす #-[ 編集]
あけましておめでとうございます
>星さま
 年越しのレスになってしまいすみません。
 「苦しんでいる可哀想な自分」を止めた時<いい言葉ですね。そうなんですよ「被害者」を止めるのは自分です。人間(運命の)「被害者」になることは無論あっても「被害者」であり続けるか否かは自分の意識にかかっています。
 悩み苦しみ絶望も、それを乗り越える真実に気づかせてくれる尊い贈り物とわかったとき、人はまた一歩救われるものだと思います。
 ありがとうございました。

>やすやすさま
 おそれいります。
 おっしゃるとおり、ことの本質を捉えるのと、枝葉末節をコレクションするのとでは、天地の開きがあります。
 後者を私は、永遠に滑走路を飛び立たない飛行機(飛行機なのか?本当に)と呼んでいます。でもそれはそれで、何か理由とお役目があるのかもですが。
 ありがとうございました。
 今年もよろしくお願いします。
2009/01/01(木) 12:24:01 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
四不像・・・セイバー5巻2章より
>何か理由とお役目がある

ですね。思わぬこと。多様性の優位は尊重せねば。それは楽しみ。多様性に馴染むことは心の豊かさに通じますね。
2009/01/01(木) 19:00:34 | URL | やすやす #-[ 編集]
単一化は死
>やすやすさま
 単一の遺伝子しか持たない種は、特定の環境変動で一瞬に絶滅します。
 心のありようにおいても多様性は不可欠だと思います。
 その存在意義が理解できないケースも多々ありますが、それは私の理解力が及ばぬだけなのでしょう(笑
2009/01/02(金) 08:46:32 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2009/01/03(土) 06:55:16 | | #[ 編集]
同感です
コメントありがとうございます。私も理屈でわかっていることと、自分の生き方在り方でそれを体現することとは、大きく隔たっていると思います。日々思うところに近づいていくよう努めております♪
2009/01/04(日) 00:50:25 | URL | 山本貴嗣 #-[ 編集]
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