あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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マインドを超えて(私の在り方/長文ご容赦;)
 先日、ある方がこのブログに
 「私は感情と意志は相補的なものだと思っています。感情は意志に従うべきだが、しかし意志そのものは、感情が煮詰められることでしか生まれ得ないのではないか」
 「煮詰められた意志を持ちうる人は、感情の奴隷にはならないのかもしれない、しかしそこに至るまでが大変なのではないでしょうか」
 というコメントをお寄せくださいました。大変鋭いご指摘です(コメントありがとうございました♪)。
 また、その方の好きな小説に、こんな一説があったそうです。
 「『……あなたのような人は必ず、精神のどこかに「心臓(ハート)」を隠している。「心(ハート)」と「意志」を切り離し、不死身の怪物として振舞う……』 」
 『ブライトライツ・ホーリーランド』という小説だそうですが。
 確かに。
 そういう一見不死身というか強そうな人(いや実生活では確かに「強い」人)はいますし、物語にもしばしば登場します。
 コメントをくださった方は「心臓を無くした巨人」の話にも言及されていました。
 一見心臓を持たない(つまり誰もそいつを殺せない)ように見えて、実はこっそり秘密の場所に自分の心臓を隠していて、それを見つけ出され破壊されると、他の人と同じように死んでしまう。
 私はこの物語の原典は知りませんでしたが、昔から様々なエンターテインメントに使われてきたエピソードで、目にしてきました。
 そんな魔法使いのように、自分の急所を人に見えない場所に隠して、ふだんの思考や行動からは切り離し、無敵なようにふるまっている人。
 いるいる、いますね。

 一般的な(常識的な)感覚ではそれはそうだと思います。
 しかし、それとは違う「あり方」もあります。あまり「はやらない」あり方ですが(笑)。

 それは「マインドを超えて在る」あり方です。

 「身体」が「私」という存在を構成する一要素に過ぎないように、「感情」や「思考」も、所詮はほんの一要素に過ぎず、私という存在は、それらの総和を超えたものだと思うものです。
 完全な唯物主義で、体がすべてであるというお考えの方とは、まったく立場が異なるので、そういう方には合意できない思想かもですが、これはあくまで私がそういう視点で世界を捉えているということで、ご理解ください。これが真理だとか決め付けるつもりは毛頭ありませんし、どなたにも押し付ける意思もそんな資格もありません。
 感情と思いに捉われて、そこから抜け出られないのが、通常の人間の在り方ですが、それらマインドのぐるぐるを超えて、それらを見守るものとして在る、在り方です。
 一般に「その人の人格」と思われている意識のもっと奥底、根源にある「気づき」「観照者」「自我」etc・・・人によって色んな言い方をされますが、言葉では言い表せない存在。
 有名なところではデカルトの「我思うゆえに我あり」の「我」、それも「思い」のもう一つ奥、「思う我」を見守っている根源の「我」と申しましょうか、私はそこに足場を置くよう心がけています。
 心がけているということは、しばしば失敗しているということであり、むしろ、そこを目指して生きていると言うべきかもしれません(本当に「観照者」に留まれたなら、私はある種の「覚者」です。そんなことはまったくできてません)。

 それは「私」という存在の、これ以上分割不可能な究極の「核」のようなものです。

 今回の記事は、おそらくこれまで書いた「いささか形而上」カテゴリの中でも最も形而上寄りの、つまりは日常感覚からかけ離れた内容になります。また少々長くなりますが、これを機会にざっとまとめておきたいと思いますので、お時間と余力のある方はお読みくださいませ;

 これは奇妙な考えに思われる方もおいででしょうが、けして目新しいものではなく、いにしえのインドに起源を持つ哲学などにあるものです。詳しい説明は長くなるので、また機会を改めます。

 一見心臓がないように見えても、こっそりどこかに隠している者は、いくら強そうにふるまっても、いつかその心臓を見つけ出され、それを壊されて死に至ります。
 でも、もし、心臓がどこにもなかったらどうでしょうか?
 心臓というのは、言うなれば血液の循環を一手に引き受けている中央集権的な器官です。それがなかったとしたら?循環させる機能を全身に分散させていたら?血管それ自体が、血液を循環させる器官として協調して動いていたら?
 言葉の「あや」かも知れませんが、私は特定の「心臓」を持たないように心がけています。
 いや、そういう思いに至ったのはここ数年のことであって、それまでの四十数年の人生で培われ、形作られた「心臓」は確かにあります。そして機能している部分もあります。
 賢者の言葉を模倣するなら、「回り続けた車輪が、それを回転させる動力がなくなっても、慣性でしばらくは回り続けるように」。いや、その他の長年培ったシステム、いわゆる煩悩の類もまだまだいっぱいありますから、完全に動力が絶たれたわけではありません。
 しかし、以前に比べて、それを回転させようとする力は明らかに減りました。
 言い換えるなら「首都移転」ならぬ「心臓移転」、「心臓閉店」の作業が続いており、かつてそこに置かれていた「備品」のいくつかは、すでに運び出され、その内部は段々とすっきりしてきているように思います(笑)。

 私が、自分の生死を気にかけていないことは、すでに何度か触れてきたように思います。
 別に自殺願望はありませんし、誰かに襲われれば常識的な範囲で正当防衛は行うでしょうが、突然不治の病の宣告を受けたりしても、別に何もこだわることころはないつもりです。私には、私をこの世に引き止めるべき何物もありません。
 と言って、何かの宗教で説かれるような天国とか良き来世といったものにも興味はありません。
 
 私の人生と同義と言ってもいいマンガも、最愛のつまも、私の「心臓」ではありえません。
 それぞれ大好きですし、愛していますし、それとともにあるのは大いなる喜びですが、執着しすがりつく対象ではけしてないのです。
 私はただ「在る」者として満たされた存在であり、それは生まれながらにして与えられた(形而上的な視点に立つなら生死も越えて)不動の一点であって、別に特別なことでもなんでもなく、今この文章をお読みくださっている皆様も同じようにその一点をお持ちのものです。ただ気づいておられるかおられないかの違いであり、それは特別な能力や恵まれた環境、特殊な修行など何も必要としない、誰でも得られる、いやそもそも奪われていない生得のもの。必要なのはそれに気がつくだけのことです。
 私はそう理解しております。

 どうやって、それに気づくかは、また別の機会に一項を設けてお話したいと思います(長い話になりますので)。

 さて話は元に戻りますが、「心臓」は英語で言うなら「ハート」ですよね。
 おまえは心臓がないのか、ということは「ハート」のない人間、ゾンビのようなうつろな存在を目指しているのかと思われる方もおられるかもしれません。
 いや、私は別に感情も思考も否定はしていません。マインドを否定はしません。それなしには、人間は何もなしえないでしょう。
 ただそこに自分のセンターを置かない。それらを見守る(庭で駆け回る愛犬や愛猫、野鳥を見守るように)位置に己を置くよう心がけているのです。時にはそれらといっしょになって駆け回り、抱きしめ、頬ずりしたりもしますが、「このわんこが私自信だ」とか「このにゃんこが私そのものだ」などとは思わないだけです(分け隔てない一体感というものは肯定しますが)。

 無限に長いテコがあれば、地球だって持ち上げてみせると言ったのはピタゴラス?でしたっけ??(記憶違い?間違っていたらすみません.って、あ、アルキメデスだそうです。情報感謝です♪)
 大きな仕事をするために、それに比例した大きなな感情というものを、私は必要としていません。
 私はそもそも感情の振幅の激しい人間で、今でもちょっとしたことでうるうるしますし(もおネコがゴハン食べてる背中だけでも涙ぐんだり)(笑)その心中に去来する感情を否定せず認めます。ただ無用のものは浮かんでもそれと己を一体化させず、浮かんだ泡のように去るに任せます。誰かに対するネガティブな思いや、不安、恐怖といったものは、それが指し示す意味を理解して、対処が必要であればそれを行い、その後は不要なのです。

 人は歩くとき、一歩一歩足のどの筋肉に力を入れるか、どう体のバランスをとるかなど、悩みはしません(何か事故や病気で障害を持たれた方は無論別です。あくまでわかりやすい一般の例として申し上げています)。
 同じように、私は日々の多くを、自然に行うようにしています。
 物事の多くは、人生が自然に次に進むべき道を示してくれるもので、そこに無理して差しはさむべき我欲というものは、あまりありません。日常のどうでもいいこと、アイスクリームが食べたいとか、この美女のほかの水着写真が見たいとか、は、ありますけど♪
 私にも私の個性があり、私なりの願望や欲望は浮かんできますが、そのどれを実現するか、いつどのように実現するかは、私は大半を人生にゆだねています。果報は寝て待っているわけでは、けしてなく、常に誠実にベストを尽くします(その辺の真面目さには、僭越ながらいささか自信があります)が、その結果にはこだわらない。失敗すれば分析し、同じ失敗を犯さないための資料にはします。しかし罪悪感には捉われません。
 積み上げては崩される「賽の河原」のような体験は、マンガ家人生で何度も経験してきました。
 何ヶ月もタダ働きして、何も得られなかったこともあります。生活費を工面するのに苦労しました。
 けれど私は無駄が嫌いなのです。
 つっぷして声を上げて泣いても、すぐに顔を上げて
 「ダメだ、泣いててもちっとも幸せにならねえ」
 と、次に移ってしまうのです。自信があるわけではありません。保証された未来などカケラもありません。ただ無意味なことが嫌いなのです。
 ですので、結果がだめなら、また新たに取り組みなおす、。ただシンプルにそうするだけです。

 同じことを繰り返しながら、違った結果を望むのは狂気だと、言った方がありますが
 まったく同感です。ダメなら違う何かを試す。ほかにどんな人生があるでしょう?

 疲れたら休みます。
 動けるなら動きます。
 ただ、依存したり執着して身動き取れなくなる何かを持つこと、握り締めることに、私はなんの興味も持てなくなりました。

 人生が私を導くとき、私は何か心地よい風に包まれているように感じることがあります。
 安楽な恵まれた人生とか、幸運ばかりが巡ってくるという意味ではありません。
 人生はときに、過酷なカードを差し出します。
 命をかけた願いが粉砕されることもあるし、愛する者との長く深い交流が絶たれることもあります。
 でも、獲得したものは必ず失われ、登った日は必ず沈みます。必ず移ろい行くものにしがみつくのは、無益なことではないでしょうか。
 咲く花の美に無感動でいる「禁欲」などではなく、花を愛でて枯れるに任せるということです。

 私は、私を包み、私の中を吹き渡る風を、どう表現していいかわかりません。
 「愛」とか「神」とかいう言葉は、あまりに多くの色眼鏡と誤解にまみれているので、あまり安易に使いたくないのですが、「愛」で言うなら、私は「愛」を人間が作り出し生み出している人間メイドの生産物とは思わず、太陽の光線を植物や動物、人間が思い思いに加工してエネルギーとしているように、どこか別の場所から来たエネルギーと捉えています。私がゼロから作り出した愛などというものはなく、誰かから何かから手渡されたものを、ただ自分味に加工してまた世界に手渡しているだけではないかと。
 私の言う「風」も、何かそんなものだと思ってください。

 蛇足ですが、私にも嫌いな人はいます。
 愛せない人はいます。
 そういう人に私のできる最大の好意は、その人の不幸を願わないこと。
 その人を攻撃したり貶める思いや言葉や行いをしないこと。それがそういう人に対してできる私の最大限の善意であり、それはその時点での私の人間の小ささ、視野の狭さを現すものです。
 ネガティブな思いを伴った言動しかとれない相手には、毒を手渡すくらいなら何も語らず何も行わない。それが私流の最大限の好意。別にシカトして傷つけようとかではけしてなく、それ以上の接し方を思い浮かばない己の限界を申し訳なく思いながら、無用に相手を傷つけないよう距離を置くものです。

 以前「千の風になって」という歌がはやりましたよね。はやったはやらないと言うより、もはや一つのスタンダードナンバーとして定着しているのでしょうが
 あの歌のパロディで言うならば

 私の○○の前で泣かないでください。

 ○○の中には色んなものが入ります。
 「誇り」「プライド」でもいいし「マンガ」でもいい。「身体」でも「愛する人」「愛するもの」でもいい。
 私がそれらを奪われれたり、失ったりして、傷つき嘆き悲しんでいるのではないかと同情してくださる方、泣いてくださる方に、捧げる歌です。
 私の○○の前で泣かないでください。
 私は(私の「心臓」、「思い」「執着」は)そんなところにいません(ありません)。どこか特定の場所や何かにこだわるものはありません。
 私は千の風になって、吹き渡っていきます。
 本来あの歌は、死者から残された生者に捧げる歌の形をとっていますが
 私はあえて生きながら、あの歌を、私とともに今を生き、私を思ってくださるすべての方に捧げたいと思います。

 私は生きながらにして、思いにおいて「千の風」になりたいと思っています。
 私はどこにもいません。無責任に逃げを打つという意味ではけしてありません。果たすべきことは命ある限り最善を尽くします。
 ただ、あなたが思っておられる「そこ」にも「どこ」にも、私はいようと思っていません。
 身体を持つ一人の人間として、日々の大半を生活に追われているとき、物質的な意味では確かに、「そこ」に私はいます。しかし、それは「私」と言う不動の一点が、世界と接するために現れた一つのアバターのようなものです。私の肉体はもろく傷つきやすく、それは精神にも大いに影響を与えるでしょうが、そのいずれとも、私は完全な同化をしていようと思いません。
 できることなら作品や、こうしたメッセージを通して、ご縁のあった方を憩わせる風の一吹きにでもなれたらと思うものです。
 風に名前はありません。吹かれて数歩も行かぬうちに、人はそれを忘れるでしょう。風は、それでいいのです。
 頭ではなくハートで、このニュアンスをお聞きいただければと思います。

 お名前を忘れましたが、日本のあるお坊さんの言葉で
 「私は身も心もたよりにせずに生きられる。身も心も弱いゆえに」
 というのがありまあした。
 マインドは貴重なものです。
 しかし、その貴重なものに敬意を払い、大切に取り扱いながら、最後はマインドを越えて在りたい。
 それが、快楽と苦痛、幸福と不幸の間で翻弄され、際限も無い出口の見えない悩みのループに閉じ込められた日々から、自分を解き放ち、生き生きと十全に生きる最良の道ではないでしょうか。

 私の尊敬するインドの覚者、ニサルガダッタ・マハラジの言葉に
 「私はすでに死んでいる」
 というのがあります(笑)。
 『北斗の拳』も真っ青なセリフですが、これは死体のように無能で役立たずな存在になっているという意味ではけしてなく、キリスト教などで言う「死んで生きる」「死ぬことで永遠の生命を得る」というのに等しい、己の生死を越えて在ることで、いかんなく自由自在に、自分と世界を解放していける存在であるということだと私は思っています。

 あなたが、あなたの存在の「核」に気づき、そこに憩われるとき、
 どんな悲しい思い出も、どんな辛い出来事も
 「核」にあるあなたに、傷一つつけられないことに気づかれるでしょう。
 肉体は傷つき、心も傷つく。それは生きている限り避けられません。それらは、うつろいやすく、はかないものです。
 しかし、あなたの根本は、誰にも奪われることも汚すこともできません。
 そこに自分のセンターを置くとき、実は守るべき何物もなかったことに気がつかれると思います。

 体の傷も心の傷も、痛みを取り除き、癒されるべきだと思います。
 しかし、あなたをそれと「同化」させないでください。
 他に何も考えられなくなるような歯痛も胃の痛みも、確かにそれは現実ですが、歯痛が私でもないし、胃の痛みが私でもありません。人は何かを目の前に引き寄せて視界をふさぎます。小さな10円玉は巨大な太陽さえも隠せます。
 私は何事も、たとえ世界が崩壊しようと、それを目の前には置きません。

 最後にマハラジおじさんの名言をもう一つ引用します。

 「苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去ったあとも、あなたは残る。
 はかないのは苦痛だ。あなたではない」

 かなり哲学的な、難解な話かもですが
 これが私の目指して歩む道なのです。
 マインドを超えて、風と共に風となって。
 今生でどこまで行けるかは神の味噌汁。一生かけて試しています。

 きょうの皆様にも、良い風が吹きますように。
 長文お読みくださりありがとうございました。
コメント
この記事へのコメント
ところでセイバーキャット2はまだですか^^
十数年前、私が水産大学の合気道部(兼某古武道部)にいたころ、このマンガを読んでは地道な練習にいそしんだものです。
まあいまじゃメタボオヤジですが。
2008/11/27(木) 21:13:02 | URL | miyosi55 #-[ 編集]
申し訳ありません;
>miyosi55さま
 セイバーお読みくださりありがとうございます。
 なかなか2を描く機会がなくて申し訳ありません。
 合気道をなさっていられたのですね。物騒な今日この頃に心強いことです(突き蹴り系は過剰防衛をとられる可能性が高くて);
 ご自愛くださいませー!
2008/11/28(金) 00:02:47 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
ナックルぽいコメント
>ただ気づいておられるかおられないかの違い

神が死んだ。そして再生の時。
目の前の赤子が神であると信じることが叶うのだろうか?

これは、私が学生の時に思い立った疑問です。

現実の目に見えるもの理解できることの範疇ではありません。勘のような虫の知らせのような世界。
しかし、それがどれほど不条理であろうと現実として受け止めるということは軽々しくありません。

人の営みは自ら自然にと思うにもかかわらず歪で偏るものと思っています。そうでない方も居られると思いますが、大概の人は歪み偏ります。歪みと偏りを見つけ矯正しときに取り除き自身の魂の納得を得ようとするのが人と思います。

生涯の歪みと偏りを持する個の集まりながらベストチームであれということを人の人生と思い日々をすごすそういう気持ちがあります。より良い集団であるためにその集団で優れた能力を持つものが集団を牽引すべきで時に劣るものを競争でやぶり支配することが必要な場合はあります。しかし、優れた能力を持つものが集団から搾取するようでは話になりません。そういうものに支配をゆだねるべきでない。そうでないものはそういうものに打ち勝つ力を必要とします。

「力が正義ではない。正義が力だ。」みたいない言い回しをどこかで聞いたことがありますが、現実はもっと創造的で悪が勝つもあり。世の中を良く出来ると思う者はだからこそ現実に負けない強さを持たなくてはいけないと強く思うようになりました。

ずいぶんな心の修行を生涯経ることで人の魂は磨かれ力を生み出してゆくと思います。

話にうまく絡めない。そんなコメントもまた面白いかと。(微妙に絡んでいるつもりですが)ただ単に絡めるだけの文章力が無いとの指摘は今回はあえて却下ということで、勝手ながら宜しくお願いいたします。m(?」?)m
2008/12/05(金) 00:52:48 | URL | やすやす #-[ 編集]
すべての中に
>やすやすさま
 赤子の中に神を見れるか<学生時代にそう思われたのはすごいことですね。
 私は言うなればすべてのものの中にどこまで神を見出せるかだと思っていますが、あくまで理屈であって体得はできていません(爆
 心の修行は最初しんどいですが、だんだん無駄な荷物を下ろしてラクになっていくように思います♪色々書いてます私のキレイゴトも、用はいかに人生無理なくラクに生きるかだとも言えます(笑)
 あ、そうそう、話は先日いただいたコメントに戻りますが、先日、松本仁一という人の「アフリカを食べる」という本を読んでたら、その方は信州育ちで、故郷ではたんぱく源として蜂の子、ザザ虫、そして蚕のさなぎも食べたと書いてありました♪
2008/12/05(金) 20:49:02 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
コメントくろすおーばー
ナメクジのてかりがみょーにリアル・・・。
なにもこんな絵にそこまでこだわらなくてもと思った人は私だけでしょうか?

蛋白源・・・なかでもざざ虫はかなり地域限定なのかと。生活圏とは微妙にずれるので見ることもほとんどかなわない。

ハチのこはクロスズメバチだそうですがクロスズメバチは小さいですよ。たまに飛んでいるのを見ますが、これにコヨリで印して巣を見つけるという気持ちになるにはちょっとした壁があるように感じますね。
刺されて痛いのか試して見る気にもちょっとなれないし。(子供のころマルハナバチをビニール袋で採って遊んでいて2度ほどやられた経験はあるんですけどね。)製品を扱う店は限定され見る機会は少ないのが現実。

カイコとイナゴは普通に需要があるようでスーパーで購入できます。

カイコは、蚕糸試験場という機関が閉鎖したりで供給はどうなのかなと心配ですね。

そうした中、今日のテレビで宇宙農場での食料生産にカイコが考えられていると紹介されてました。いまや多くの人がゲテモノ扱いのこういう食材に光が・・・。

ちなみにナメクジですが、フランス料理じゃあナメクジの親戚みたいなエスカルゴ料理がありますね。ナメクジを食べるというと「うえー!」な人がトレビアンとか言いながらエスカルゴ料理食ってたりして。まあ安全性の問題もあるでしょうが、結構いろいろ食べられるってことですね。

>心の修行
しんどいです。そのしんどさは私の場合たぶん永遠かと。新しい出来事がつぎから次です。生涯に亘って色々な出来事を楽しめると考えればちょっとお得かもです。

血(>口<)血

1月・・・・首をながーくしてまってます。インフルエンザとかありますし健康第一、Good job2番ということで・・・ではでは。
2008/12/07(日) 00:35:31 | URL | やすやす #-[ 編集]
やはり質感が(笑
>やすやすさま
 ナメクジ質感<私も描きながら、なにもこんなカットにこう質感出すことはないよな、と思いながら描いてましたが(笑
 あれくらいソッコー作業なので、なんの苦も無く描けてしまうんですよね。
 あの二枚のカットはサインペンでざくざくっと描いてPCで仕上げて、合計30分もかかってないんです。

 蚕とイナゴをスーパーで<すごいですねー。
 もっともこっちのスーパーは鮮魚コーナーで時々イルカ売ってましたが(最近は知りません)。

 心の修行<生涯に亘って色々な出来事を楽しめると考えればちょっとお得かも<そうそう、そうなんですよね。もおなんでも来るもんは楽しんでしまえってのが人生の極意かもです(やけくそと言う人もおいででしょうけど)(笑
 ありがとうございました。
2008/12/08(月) 01:00:44 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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