あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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めざせ奇麗事♪
 私はこのブログの中で、「生きること」「ゆるすこと」「いささか形而上」などなど
 色々「奇麗事(きれいごと)」を書いていますが(笑

 奇麗事上等。奇麗事万歳♪

 前科を隠して選挙に出るとか、裏で買春してる教育者とか、そういう論外のケースは別として
 人は多かれ少なかれ「偽善者(ぎせんしゃ)」です。
 今回は少しだけ、いつにも増してジジ臭いことを書きます(いいんです、もうすぐ50のジジイなんですから)。

 何かを行うことを「為(な)す」と申しますが、「為す」に「人」をつけると「偽(いつわり)」になります(おお、ジジイ全開だあ!)。
 いや、「為」という字そのものも、古い意味を中国の古典にたどると、「まねをする」「いつわる」という意味があったようですが、ここでは現代の一般的な意味の話をしています。

 「為には作りなす意味がある。偽は人が後天的に作りなすこと。とくに悪い方の意味が強くなって、『いつわり』の意味になった」(新選漢和辞典・新版/小林信明・編/小学館より)

 人間、悟りを開いた覚者でもない限り、どんなにピュアな心と言ってもどこかに「我欲」や「偏見」が、掃除したつもりの部屋の隅のホコリのように、残っているものです。そんなもんいちいち指摘して「偽善者」扱いして否定してたら、何も言えないしできません。
 逆に言うなら、どんな悪どいことを言ったりしてる人でも、よほどの極悪人でない限り、つい傷ついた生き物をかわいそうに思ったり、困っている老人に席をゆずろうかな(本当にゆずるかどうかは別として)と思ったりする瞬間はあると思います。
 その重箱の隅をつついて「偽悪者」と言うのでしょうか(笑)。
 
 見過ごしに出来ない犯罪は別として、日常生活のレベルにおいて、人が「善人」か「悪人」かをヒヨコの雌雄判定のように色分けすることは、不可能ですし意味がありません。

 ちなみに、私は色々「きれいごと」を書いてますが
 自分が善人か悪人かなどということには興味がありません。あえて言うなら「極悪人」でもなければ「極善人」いやそんな言葉はないか、もとい「聖人」でもなんでもないと思っております(あたりまえですが)。

 ジジイのたとえ話に戻りますが
 本当に「己(おのれ)」をむなしゅうして、100%のピュアな心で善を行う「為善者(いぜんしゃ)?」は、ふつういません。みんな、どこかに自分の欲や利益を思いながらピュアを目ざしている「偽善者」です。
 言い換えれば「偽善者」というのは「人間」というのと同じことではないでしょうか。

 誰かに「偽善者」と呼ばれたら、そうなんですよ、と笑って返せばいいのではないか。
 「そうなんです。あなたと同じですよ」(笑)
 それとも、そういう指摘をする人は、日々最初から最後まで悪いことしか言ったりしたりしないんでしょうか。
 そもそも「偽善者」と言うのは、「善人」でもないのに「善人」のふりをしている人のことです。
 善を行ったり言ったりするからと言って、別にその人が100%の善人でもなければ、本人が「私は善人です」とか言わなければ、別にいいんじゃないでしょうか。
 「きれいごと」とセットになった「偽善者」が嫌われる最大の理由は、そういう人物が、その「きれいごと」に自己陶酔して、自分が立派な人物になったと勘違いして優越感に浸ったり、自分を正義と思い込んで人を裁いたり責めたりし始めるからです。
 その双方を手放してさえあれば、別にかまわないんじゃないでしょうか。

 これまでにも何度か引用してきましたが、昔テレビで見た水上勉氏(だったと思うんですが、昔のことで記憶違いの別人だったらすみません)のインタビューの言葉
 世の中にはたとえ偽善と言われようと、しないよりした方がいいことがある
 というのが好きです。

 以前見た、ある若い方のブログで(水上氏と同じような意味で)自分はキレイゴトが好きだと書いておいでのものがあって、大いに共感いたしました。
 奇麗事上等♪
 きれいごとを「目指す」のは、まだ自分が完璧にきれいではないからです。何かを目指すのはまだゴールしてないからです。
 誰も地球人になるために日々努力したりはしません。地球人を目指してる人がいるとしたら、きっとどこかよその星から来た、地球外生命体に違いありません(笑)。

 「為(なす)」に「人」を付けると「偽(いつわり)」
 「偽(いつわり)」から「人」を引くと「為(なす)」

 きょうも心置きなく奇麗事を語り、行えたらなあと思っています♪



追記
 この記事をお読みくださった方から、すてきなフレーズを教えていただきました。
 「やらない善より、やる偽善」
 座布団10枚です♪ありがとうございました。
コメント
この記事へのコメント
基本的に・・・
偽善者であることはイイコトだと思いますよ。
変に斜に構えて「偽善はよくない」と言ってる人よりも、よほど健全でしょう。
2008/12/04(木) 16:00:50 | URL | 南の人 #-[ 編集]
おそれいります
>南の人さま
 別に大義名分でやるんじゃなくて、そうしたいからしてるだけなんですよね。そういう意味では自己満足と言われても、そうですねとしか言えません(爆)。
 人の批判を気にしてやらずにすますより、気にせずやっちゃえと♪
 この記事も、そのへんで躊躇なさっていられる(心中はおおいにそういう志向をお持ちの)方へのエールになればという思いもあって書きました。
 私自信はおなんかもお批判したい人は勝手に批判してくださいという心境です(笑
 ありがとうございました♪
2008/12/04(木) 19:26:35 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
こんばんは。
 いつもシロさんの姿、楽しみにしてます。うちには灰と白と黒茶と黒灰がいます。手に負えません(笑

 以前、知り合いに「自分は偽善者だから」と伝えたら、「偽善者じゃないと思うよ」と返ってきました。もしかして、褒め言葉だったのでしょうか…。
 偽善者が自分から『私は偽善者』発言はまず、しないでしょうけれど。一見、偽悪的な人や根っからの「いい人」ほど、自分がまさしく善人だなんて、気づいていないものですよね。優しい人ほど、自分が優しいとは気づいていないのと同じように。

> 人間、悟りを開いた覚者でもない限り、どんなにピュアな心と言っても~

 悟りを開いた覚者でも、エゴは――感情も思考も欲も――一生残るそうです。むしろ覚醒後ほど、エゴの作り出す罠に嵌ってしまうことが多いそうです。それなりにパワーを持ってしまうと、それに伴う責任も重くなる、ということなのでしょう。(お釈迦様やイエス様のような数千年に一人、二人のような聖人は別でしょうけれど)
 覚者と普通の人の違いはただたんに、常に自分が何をしているのか気づいているか、気づいていないか、だそうです。全く普通の人と同じだそうです。
 もしかしたら道で擦れ違った人が、隠れ覚醒者だったり、するのかも知れませんよね。
2008/12/22(月) 23:05:17 | URL | 星 #yxI3bMTI[ 編集]
シンクロニシティ♪
>星さま
 コメントありがとうございます。
 気づいているかいないか<まさにその問題をたった今、アップしたところです(「人生の虚実」)
 してから星様のコメントに気づき拝読しました。
 偶然ですが、すごいタイミングです♪
 びっくりしました;

 無自覚に反射で生きている段階をいかに脱するか(次々脱していくか)が人生の大きなテーマです。
 でも、長い目で見て結局は、そっちの方が楽な道だと思うのですけど♪

 エゴの作り出す罠<怖いですね。霊的唯物主義ともいうべき隘路に陥ってる人や「教祖落ち」してしまう人とか
 人生いたるところに地雷原ありです。

灰と白と黒茶と黒灰<みなさんがきょうもお健やかでありますようにー!
2008/12/23(火) 00:12:37 | URL | 山本貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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