あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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おめえに費やす○○・コメント御礼
 仕事に追われ、なかなか更新ままならず;
 申し訳ありません。

 先日の日記おめえに費やす○○はねえ!に、たくさんのコメントをいただきありがとうございます。公開コメント以外にも、「拍手コメント」含め非公開でのコメントをいくつかいただきました。ふだんより多い量で驚いております。
 この問題について、悩んでこられた方の多さ・・・と言うより、人生で一度も悩まなかった方はむしろ少数派なのではないでしょうか。

 私も元来気性の激しい人間でしたもので、若いころから何度も悩んでまいりました。
 先日の日記のような心境になったのは、本当にごくごく近年、40代も後半に入ってのことです。

 子どものころ~若いころは、当然と言うか、許せないと思った相手に、どう思い知らせてやろうか、あんなやつはひどい目に逢えばいい、などなど、ろくでもない考えがぐるぐる心の中を駆け巡っていました。
 歳が進むと、多少の分別が身につくのと体力が低下するのとがミックスして(憎むのも体力がいります)(笑)若いころほど、自分を傷つけた相手を憎むことはなくなりましたが、今度は、どっちが正しかったのか、なぜこういう対立が生まれたのか、その判定を巡ってぐるぐるしました。
 相手を憎んだり、相手の不幸を願うのは自分の身上に反するし、自分のためにも人のためにもならない。でもどうしても許せない。
 そうなると、アクセルを踏みながらブレーキをかけている自動車のようなもので、二つの相反する力にはさまれて、素直に憎悪していたころより、ある意味ストレスは増加します。
 相手も許せない、許せないと言う自分も許せない。
 ほとんど一人SMですね(笑)。

 結論から言うと、一番いいのは「ゆるす」ことなんですが
 そんな理屈どおりに行くなら苦労はしません。
 昔から色んな賢者・聖人が、道徳や宗教を通して「ゆるしましょう」と説いています。
 でも、そう言われて思うのは
 なぜ。傷つけられた自分が(悪くもない自分が)、なお、この上譲歩しなければいけないのか。
 相手にゆずって許さなければいけないのか。
 そんな理屈に合わない話はない。

 でも、本当に自分は正しいのか。相手が間違っていて自分が正義なのか。
 その辺を冷静に分析判断できる人間はほとんどいないと思います。
 明らかないじめや虐待、犯罪行為の被害者は別として、日常の人間関係のトラブルの大半は、それぞれの常識や解釈の食い違い、ボタンの掛け違い、ちょっとした対立が毎日少しずつ積み重なって積立貯金のように膨れ上がったあげく、ある日がまんが限界に達してのブチキレだったりします。

 結局、人は自分が一番かわいいですから(私もです)自分に都合のいい証拠を都合のいい解釈で「被告人不在」の「欠席裁判」で裁いてしまって、自分に有利な「判決」を下す(憎い相手を「有罪」にする)だけです。
 自分自身が誰かにそういう目に合わされて悲しい思いをした人は、これまたいっぱいおいでなのではないでしょうか。

 じゃあ、せめて自分は誰かに同じことをしないでおこう。
 いや、とことん冷静に分析しても相手に非があるのかもしれないけど、感情的になってる今はひとまず置こうと。

 前回も書いたとおり、傷つけられた瞬間の痛みよりも、はるかに人を苦しめるのは、そのあとのエンドレスで繰り返される心の中のぐるぐるです。
 人は、一回犯した過ちに対しては、一回裁かれ、一回謝罪し罪を償えばいいはずですが
 多くの人が、一回犯した過ちに対して何度も何度も他人を裁き、何度も何度も痛めつけ、何度も何度も償わせようとします。そんな理不尽な話はありません。
 実際の社会や生活の中でもそうですし、心の中ででもそうです。
 個人レベルの問題でもそうですし、集団、国家のレベルでもあります。

 ここでは物理的法的な問題ではなく、あくまで心の中での問題について書いています。
 ゆるすと言うのは相手の無法を放置するとか自虐のススメではけしてありません。
 心の中で相手を痛めつけるのは、その瞬間はある種のうさ晴らしにもなりますが、長い目で見ると結局自分を痛めつけることになります。
 何しろ現実の相手にはダメージがないんですから、「夢」からさめるたびにフラストレーションを感じる。何度同じことをしても賽の河原、見果てぬ夢です。
 難しい話はすっとばして、ちょっと視点を変えて見てみますと

 誰かとの人間関係で疲れ傷ついた人に向かって

「これからあなたは毎日決められた時間、あなたを傷つけた相手のことを考えて暗い気分にならなくてはいけません。怒って憎んで悲しんで、その間はほかのことを考えたり楽しんだりしてはいけません。そうですね、とりあえず毎日○時間必ずそうしてください。できれば半年、いや最低○年は続けてもらいましょう。おいしいものを飲んだり食べたり、何か楽しいことが始まりそうなときには必ずそれを考えて、気分が悪くなるようにしてください。いいですね」

 という人物が現れたらどうでしょう。
 まず100人が100人、ふざけるな、冗談じゃない、何の権利があって私にそんなことを命令するんだと怒りだすでしょう。

 多くの人が自分に対して行っているのは、これと同じことだと思います。
 それを止められるのは自分だけです。
 
 私は自分にふりかかるできごと、自分以外の何かを変える力はないかもしれないけれど、自分の思いは自分で変える。
 私はあちらを選ばない。私はこちらを選んで生きる。
 そう思うことだと思います。

 人をゆるすのは素敵なことですが、ゆるせない相手は無理にゆるすことはないし、無理をすればまた、新たな怒りや悲しみが生まれます。
 ゆるせない自分への怒り、自分にできないこと(「ゆるせないこと」を「ゆるさなくてはいけない」)を自分に押し付けた「人」や「教え」への怒り。罪悪感とか絶望とかetc・・・;
 だからできる範囲で努力して、あとは
 熟した木の実がふくらんで、自然に枝から落ちるように
 ある日ゆるせるようになっていた自分に気づけばいい。
 それまでは、ゆるせないことはゆるせないでほっておく。
 でも、そのことに私の「思い」は使わない。

「おめえに費やす感情はねえ!」
 で、ひとまずスルーしていくのも手ではないかと思います。

 蛇足ですが、昔私がどうしてもハラにすえかね、ケンカ別れではないけれど、それに近い殺伐とした絶縁に至った人がいて、私は飯を食うたびにその人のことを思い出し、ムカついて仕方がありませんでした。
 当然おいしさも半減です。
 食事は人生の大きな楽しみの一つですから、それを奪われるのは大変な苦痛です。
 仏教説話に、食べ物を食べようとするとそれが燃え上がって食べられない地獄なんてのがあったように思いますが、これってある意味それに近いなって、悲しくなっていました。
 そんなことが何日も何十日も続いたある日、つまのおいしい手料理を食べていて
「ああ、うまいなあ、これをあの人といっしょに分け合って食べられたら楽しいだろうなあ」
 という思いが、突然心に浮かびました。
 そしたらなんだか涙がぽろぽろこぼれてきて

「ああ、自分は本当は憎んだり恨んだりしたいんじゃない。ただわかり合いたかっただけなんだ。
 本当は仲良く、笑ってともに在りたいだけなんだ」

 って気がつきました。
 食事のことはただその象徴に過ぎず、心の底を気づかせてくれるきっかけでした。
 それを境に、なんだか恨みも怒りも手放して、その人のことで思い悩むことは、風の前に置かれた灰の山のように、消えてなくなっていきました。
 もしどこかで再会することがあっても、今は笑って会食できると思います(笑)。
 
 そのことは自分が今のような考えに至る大きなきっかけにもなりました。
 だから、私の思い悩んだ日々はけして無駄ではなかったし、そういう機会を与えてくれたその人にもありがとうと思っています。

 これを読んでくださっておいでの皆様の、今が、きょうが豊かでありますように。
 今あるすべてを十全に活かせますように。
 出来る限り多くのの機会を、無駄に捨てることなく、よりよく使うことができますように。
 良い追い風が吹きますように。
 よしんば逆風であっても、それを斜めに帆に受けて、風上に向かって前進してゆくヨットのように、
 めげすに進んでいけますように。
 休むべきときには休む勇気と、進むべきときには進む勇気と
 その判断ができる英知が宿りますように。
  

 ありがとうございました。
 ではではまた♪
コメント
この記事へのコメント
心の作法
>はるかに人を苦しめるのは、そのあとのエンドレスで繰り返される心の中のぐるぐるです。

おっしゃる通り。私もつくづくそう思います。



傷を負った動物(人も)は、自らその傷を癒すべく行動するものですが、時に癒すつもりで傷を深めてしまうことがあります。
皮膚炎とか掻きすぎて炎症を広げるようなことです。
お医者さんとかに行くと当然さわっちゃだめということに。

心においてこの傷にあたるのは、他とのかかわりにおいて起こる心の状態の変化です。

心の状態の変化は悪いことばかりじゃなくて良いことでも当然おこります。他との触れ合いの中で大小さまざまの凄く沢山のそういう変化があるのがこの世界であり、影響を受け与えあうのが人の世界のありようと考えます。

いずれにしても、心に受けた影響により起こる状態の変化は、その主である自身のみが治めることが出来るのです。(他が癒せるのは主を通して)

悪いことへの変化を持続させるのも自身、気持ちの良いことへの変化を持続させるのも自身ということです。
悪いことへの心の状態の変化をうけて怒りを持続させたり、次にその様なことに出会わぬよう、もし、出会っても上手に乗り切る受け止め方を考える糧にしたり、その対応は人それぞれ。
良い事にあっても喜びの心の状態を増長させたために、そのあと失敗したなんてこともあるのですから悪いことへの対応とある意味同等な心の作法は常に要求されるのだと思います。



「この心の作法は一朝一夕に自身に宿るものではありますまい。」


良い悪いの別なく様々な考えを知りかつ様々な経験を繰り返してそれを過ごして少しずつ形造られていくものだと思います。もう大概なことは自身の心は対処出来ると思った次の瞬間に、居たたまれない感情が沸き起こることなど、日常茶飯事だと思います。そのこところは一生これ修行。

色々思うに任せぬものと割り切り、上手な心の作法を以て日々を過ごすことかな~と。


少し、自身の恥を晒しておきます。

もっとこうすれば効率よく費用も安く上手にいくじゃないかと思えることで職場の人と話をし、全然受け入れてもらえず思わずこう言ったことがあります。
「おかしいんじゃないの。」
この一言で、同僚とは必要最小限の言葉しか交わせなくなりました。当時私は、「どうして?(解ってくれないの?)」との思いで数年の間、心を病みました。自身が任された仕事は職場の他の方の仕事より初物や問題物件が多く独創的な面を現場では多々求められるものでした。同僚はそれにも反発こそすれ理解をしめしてはくれませんでした。勝手にやっとけよと言う感じでした。

まあ、板ばさみな状況に嵌ってしまったわけです。

で、私が学んだことは「どうして?」は自身の心の問題だということです。

現場はそんな状況で仕事上うまく行かないことは当然あるでしょう。でも、それは会社としての戦力の問題。出来ないってことに関して最後に責を負うのは会社。個々の力が及ばず出来ないということは出来れば少しでも改善される方がいいことですが、出来ないなら出来るなりの仕事をするしかないのです。「どうして?」思い悩んだとこで、個々の能力や性格上の噛み合いの悪さは改善のされようもありません。(改善の努力を止めていいという意味ではありません。努力した上での結果として述べています。)噛み合いの悪さは、個々人の心の作法に深く依存するからです。

今の私ならどうするか?おそらく、先の言葉は言わないでしょう。そして、出来ないことは出来ないこととして認めます。歩みは遅くともそれならやってもいいなと同僚に思ってもらえるところまで、自身のエネルギーを尽くしせいぜいの努力をしようと思います。はがゆく大変なこととは思いますが世界の多くはそういうもの。

理想が先走りあれもこれも出来て当然という考えは間違っています。現実をよく見てどうなのかをそれぞれが良く考えなくてはいけないと思います。


心の作法の噛み合いが悪い時、それでも人は触れ合い互いに影響を及ぼしあい悩み苦しみ自身の心の作法の明日を模索せねばなりません。それを止めたら人の種としての存続すら危ぶまれると私は思います。幼く気まぐれな者が強力な武器を持つのと思慮深い慈愛に満ちたものが武器をもつのではそれより受ける影響は雲泥の差ということです。(武器とは金も権力も本物も含めます。)


山本先生の記事に感じるとこがあり、少しでも、お役に立てればとの気持ちでコメントさせていただきました。

m(_~_)m
2008/11/18(火) 11:47:56 | URL | やすやす #-[ 編集]
私は、散々のより道をしているのですが・・・
ほんの少しばかり付け足しておくことがありました。

私は、随分に至らぬ者ではありますが、先生の作品のセイバーキャッツの5巻のストーリに随分影響を受けました。

主人公が言います。
「私はただ・・・」「できることをしただけです」「心のファンソン(放松)とでも言いますか」「あるがままを見つめあるがままを受け入れた」「それだけです」

このことは私の心を随分と助けてくれています。紆余曲折はありますがこのことは先のコメントの核に他なりません。

E=mc^2もそうですがものの本質は以外に単純で感嘆にあたいする美しさを持つものです。

m(_~_)mv-273
2008/11/18(火) 20:54:16 | URL | やすやす #-[ 編集]
いつもありがとうございます
先生のブログ記事は、いつも「自分の心の鏡」として読ませて頂いております。

自分の顔は自分のモノでありながら、道具無しでは見ることができません。それと同じで、自分の心も自分のモノでありながら一番わかっていないのも自分自身のような気がしています。
そんな「自分の心」を見つめ直させてくれるきっかけを、いつも先生のブログ記事は与えてくれています。

ぶれない軸としての主観を持ちながら、客観を以てその主観を監察する、とでも言いましょうか、宗教的・倫理的にこのようなスタンスを何と呼ぶのか存じませんが、そんな心の立ち位置を先生のブログは教えてくれているように私は感じています。

今後も、物の理、心の理、倫の理についてのいろいろな立ち位置の可能性についてご紹介ください。

いつもいつもありがとうございます。
お身体を大切に。
2008/11/18(火) 22:11:52 | URL | にゃん #cwHBdaMk[ 編集]
私は私のできることを
>やすやすさま
 出来ないなら出来るなりの仕事をするしかない<まったくそのとおりです。問題の分析はよいのですが、人の「どうして」という思いの裏には、単なる分析ではなく、「なぜできないんだ、なぜやらないんだ」の責める思い、我欲がべったり貼り付いていることが多々あります(自分もそうです)。
 それはまったく非建設的なぐるぐるで、具合を悪くするだけかと;
 セイバーキャッツの「心のファンソン(放松)」なつかしいです♪ご記憶いただきありがとうございます。そうなんですよ。あの頃から、めざす方向はそんなに違ってないですね。
 真理はときにシンプルで美しいものだと私も思います。

>にゃんさま
 ありがとうございます。
 武術では体の中心軸、正中心を作ることを重視しますが、人間、精神、心の正中心もすごく大事だと思います。
 それのない思想は調子のいいときはいいんですが、ともすると簡単に悪用されたり人を不幸にする方向に暴走していくように思います。人生はその軸を確固たるものにしていく課程と思っていますー♪
 
2008/11/19(水) 03:22:54 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
もっと解りやすくの恐怖
>「なぜできないんだ、なぜやらないんだ」の責める思い

先生は漫画家でいらっしゃいます。
・・・・このブログにであって本当に漫画家なのかという疑問が・・・冗談です(^つ^)

私の場合、法律で規制がかかっていますので規制値をクリアすることを要求されます。そのためクリアできないと能力がないという評価になってしまいます。

たとえ話をします。
車は誰もがちゃんと走る機能を持つことを前提として作られていると考えますが、要求する人は車作れるでしょうか?大概作れません。ちゃんと走れる製品にするため購入者にわからぬ技術の集積があります。車の構造欠陥に気が付かねばその責任をメーカーは問われます。

問題を起こさぬための未知への挑戦は随分な苦労と困難があるのですが、その多くは表にはでません。
そして、それに関わらねばその大変さは理解できません。残念ながらそれに関わり共に解決に協力できる関係を築けませんでしたし、周りも築こうとはしませんでした。
当時は、ただ何とかしなければとの思いだけですごしていました。

欲としては協力が欲しかったと思います。

・・・・・


難しい内容ですが無駄なく書かれている本の著者に、理解に至らぬ者が問います。貴方は説明がだめだ。もっと解りやすく書かなければ誰も理解できない。何故もっと解りやすく書かないのか?と。

モノにはそれ以上分解できない点が存在します。PCは、部品が集まって機能を持つ。ばらしたらもうPCではなくなります。

現在も当時より建設的な意味で「橋渡し」にも悩む日々です。

先生は自身の作品をどこまで良いものに仕上げるかということに尽力されているので責める気持ちを強く感じられたのかと思います。

ちなみに私が去った後その悩みの種は結局上手な解決には至らず、人も随分変わったようです。まあ、みんな力が至らなかったということでしょう。

色々壊れましたがよくやってたなと結構満足してます。

ちょっとまとまりのない展開ですがご容赦ください。ではでは。
2008/11/22(土) 01:53:20 | URL | やすやす #-[ 編集]
解らないのか解る気がないのか
>やすやすさま
 色々とご苦労なさったのですね。
 お疲れ様です。
 解らない本<私も極力このブログも解りやすくとは思って思案の末に書いているのですが、私の能力では今のところこのへんが限界でして(汗
 解りにくいと言われるお客様には申し訳ないと思っております。
 ただ、SEXで言うなら、裸になってマグロ状態で寝てるだけなのか、自分も能動的に動いてしたいのか、みたいなもので、解りたいのか解る気が無いのかでも大いに違ってきますよね。
 解りたいのに解らんぞおまえという方には、本当に頭を下げるしかないです;
2008/11/22(土) 06:51:18 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
解らないことは本当に解っていないのか?
人の体は変です。いや自然に倣えば変でもないかも。

PCならメモリに読み込みタチドコロに計算しその性能に応じてその結果が表示されます。

人にあっては?

人はものを忘れます。時に思い出す。

理解しようとしたものがどうして風呂の中とか便所の中とかで閃かなきゃならないのだろうかと思いませんか?で、ノーベルなんとか?   それっていったい?!

人の理解には、即座にできるものと自身のどこかに植わりある日突然理解に至るものとがあります。

家の庭にはプチトマトが生えます。今年の秋には収穫しておいしく頂いたんですが、全部を取らずに残しておくとまた来年の夏に芽がでて実を着けるんです。
そこにはチューリップの球根もあって毎年花を咲かせます。

しかし、春に芽が出ていないからといって庭の土をどうかしてしまったら・・・。
人の理解にも、人の記憶、もしくは心、もしくは生命に、もぐりこんだ理解したいものの種が、環境が維持されることで芽吹く時を待っていると思えることがあります。
理解できないと切るのではなく理解に至るまでそっと土をかけて環境を少しずつ整えるような気持ちが良いのではと思うしだい。

豊かな実りを願って・・・
2008/11/22(土) 07:33:02 | URL | やすやす #-[ 編集]
そうなんですよ♪
>やすやすさま
 時が満ちるのを待つって言いますか
 その人にふさわしい変化のときが訪れるのがいつか、人知を越えたものがありますよね。
 伸びないからって若木を無理やりひっぱったら、根がぬけちゃって枯れたりします。
 それぞれの豊かな実りを願って、生暖かく見守るのも愛かと♪
2008/11/22(土) 08:42:22 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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