あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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前個と超個・2 人それぞれの理想の道
 先日の日記「誇りは徳ではありません」→「前個」と「超個」についてで、少しずつ補足記事をアップさせていただきますと書きました「前個」と「超個」のお話です。

 とにかく、モノがわからなくて「個」が確立されていない(区別がつかない)のか、わきまえた上で「個」を「超えて」いるのかを判別することが重要で

 唐突ですが私は山口県人ですけれど、故郷の有名人に、幕末の久坂玄瑞(くさかげんずい)という人がいます。
 この人のことばに、
「失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても、大儀なれば苦しからず」
 というのがあります。
 日本の国の行く末のためであるなら、あなたの藩(土佐)が滅ぼうが、私の藩(長州)が滅ぼうが、いっこうにかまわない、という意味です。
 これは無論、自分の利益や欲望のために国を売ろうという意味ではなく、己の命など日本のためには投げ出すし、自分の藩もあなたの藩もどうなろうと気にしないという、ハラをくくった決意の表明なのですが

 ジェットに乗ればあっと言う間に地球を回れる現代と異なり、自分の国といえば自分の藩という意識が濃かった当時の日本を考えれば、このセリフは、例えて言うなら現代において、地球のためなら日本だろうがアメリカだろうが中国だろうがなんだろうが、どうなろうとかまわんと言ってるようなものです。
 今から見れば、日本が西欧列強の食い物にされ分裂、植民地化の危機さえあった当時、玄瑞の言葉はしごく当然なもののように思われますが、あの時代の伝統を重んじる一部の人々からすれば、とんだ危険思想のテロリスト、裏切り者の売国奴と思われたかもしれません。(まあ幕末の志士は多かれ少なかれ反体制のテロリストとも言えますが)(笑)。
 
 ただ、きちんとした己という個を確立する以前の段階にしか至っていなくて、めちゃくちゃを言ってるだけなのか、個は確立した上で、それを超えた話をしてるかで、内容は大きく異なるわけでして

 その感覚について、百年以上昔、インドの覚者のスワミ・ヴィヴェーカーナンダという人がこんなおもしろいことを言っています。
 少し長いですが、興味深いので引用します。

「国(インド)にいたとき、私はある非常に愚鈍な男にあいました。彼は何も知らず、知ろうともせず、獣のような生活をしている、ということを私はすでに知っていたのでした。彼が私に、神を知るにはどうしたらよいか、どうしたら解脱できるのか、と尋ねました。「あなたはうそをつくことができるか」と私は尋ねました。「いいえ」と彼は答えました。そこで私は言ったのです、「ではまずそれを学ばなければいけない。獣か丸太のようでいるよりは、うそをつく方がましである。あなたは無活動だ。しかし決してすべての活動を超越した、静かで穏やかな最高の境地に達しているわけではない。悪いこともできないほど、怠けものなのだ」と。これは極端なケースであって、私は彼をからかったにすぎません。しかし私が言おうとしたのは、人は活動を通り越して完全な静寂の境地に至るには、活動的でなければならないということでした。」
 (『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』スワミ・ヴィヴィエカーナーンダ/日本ヴェーダーンタ協会 より)

 大変味わい深い話だと思います。
 ヴィヴィエカーナーンダは、いわゆる無抵抗、非暴力の理想についても触れていて(この問題は、昔から多くの論争の種になってきました。理想か机上の空論かなどなど)こんなことを言っています。

「ブッダは王位をすてて彼の地位を放棄しました。それは真の放棄でした。しかし、すてるべき何物も持たない乞食の場合には、放棄の問題は起こりようがありません。ですから、この無抵抗と理想的愛について語る場合は常に、われわれはその真の意味を注意深く考えなければなりません」

 要するに抵抗するだけの力を持ちながら、それを使わず、愛の行為を行っているのか、ヘタレの臆病者で何もできないだけなのに、それを愛の行為だと言いつくろっているのか、きちんと区別しないといけないと彼は言います。

「カルマ・ヨギ(「労働を通して理想の道を歩む人」の意味/山本・注)は、最高の理想は無抵抗である、ということを理解している人です。そしてまた、この無抵抗は実際に持っている力の最高の表現である、ということを、そしてまた、悪への抵抗というのは、この最高の力の表現、すなわち無抵抗へ向かう道の、一段階に過ぎないのだ、ということを知っている人です。
 この最高理想に到達する前には、人の義務は悪に抵抗することです。彼をして働かしめよ、敢然として行かしめよ。そうして初めて、彼が抵抗するだけの力を獲得したとき、無抵抗は一つの徳になるでありましょう」

 つまりヴィヴェカーナーンダは、人にはそれぞれの発達成長の段階に応じた義務と理想があるのである、と。これは彼のバックボーンであったヒンズー教の中にある思想でもあるのですが
 例えて言うと、非暴力に殉じたガンジーと、正義のために戦って死んだ勇者はどちらが正しかったか、どちらが悪か、いずれが賢者でいずれが愚か者であったかというような不毛な論争を取らず
 それぞれに歩むべき道を歩んだのだと。
 みなさんも、それぞれの選んだ道で、すべきことをなさいと言っているわけです。

 前にも引用したときお断りしましたが、彼はすでに一世紀も昔の人であり、今読むと現代の感覚では共感できかねる内容(自分の両親に対してはらう礼儀の内容とか)もあるのですが、私は別に彼の信者でもありませんし、そういうことはスルーして、
 自分の共感できること、心中思い続けてきたことを明快に言葉にしてくれているところなどを
 見繕ってアップしています。

「「誰々を憎むな、悪にさからうな」と言うのは大変にやさしいが、実際にはその種の事柄が何を意味するか、われわれは知っています。社会の目が自分に向けらているときには、無抵抗のふりをするかも知れません。しかし常に心中は痛烈な悩みです。われわれは無抵抗の静けさなどはまったく感じません。抵抗する方がまだましだと感じるでしょう。もし富を欲していても、同時に、富をめざす人を世間は非常に悪い男とみなす、と知っているなら、あなたはおそらく富の獲得に身をささげるようなことはしないでしょう。それでも、あなたの心は昼夜、金の後を追いかけているでしょう。これは偽善であって、何のためにもなりません。世間にとびこみなさい。そして、時がたち、そこにあるものすべてを苦しみ、また楽しみつくしたとき、真の放棄がやって来るでしょう。そのとき、静寂がやってくるでしょう。ですから、力およびその他一切のものに対するあなたの願望を、満足させなさい。願望が満たされたら、それらはほんとうにつまらないものである、と知るときが来るでしょう。」

「各人が、彼みずからの理想をとり上げて、それを成就するよう努力すべきです。これが成功の見込みのない他の人びとの理想をとり上げるよりも確実な進歩の道です」


 もっとも
 世界中の「願望」の充足をはかっていては、地球が幾つあっても(人類が住める環境という意味で)足りないでしょうから
 2、3回やけどすれば、煮えたお湯はさました方がいいと学んでもいいとは思うし、あえて飲もうという人には忠告してもいいと私は思います(笑)。
 しかし可能な限り、人それぞれが納得のいく試行錯誤を行っていくことが理想だと思います。

 前個→個→超個の道も
 どんな道も


 私がもっとも尊敬する覚者(イエスや釈迦は別として、現代あるいはそれに近い時代の人で)に
 インドのラマナ・マハルシという人がいます。彼もまた、こんなことを言っていました。

「まだ成熟しないうちに放棄する人は、ただ新たな束縛を作りだしてしまうだけだ」
       (『ラマナ・マハルシの伝記』アーサー・オズボーン著/福間巌・訳/ナチュラル・スピリット)より


 「われわれの務めは、誰もが彼自身の理想に従って生きるように人々を励まし、同時にその理想を真理に近いものにするよう、努力することです」
 というスワミ・ヴィヴェカーナーンダの言葉に、私は賛成です。
 もっとも「真理」という言葉も、使い方しだいでは戦争の種にもなり、危ないカルトの名称にさえ使われる世の中ですから、
 私は
「神が真理であるというよりも、真理が神である」
 と言ったガンジーのスタイルに習いたいと思っています。
コメント
この記事へのコメント
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2008/11/15(土) 01:33:16 | | #[ 編集]
そうですね♪
コメントありがとうございます。
 そうなんですよ、真理だからって鋳型にはまったような堅苦しいシロモノではなく、むしろ柔軟で人それぞれにフィットするものだと思っています。
 無論根底を貫く基本原則のようなものはあると思いますが
 そもそも真理を言葉で表現できるわけがなく、たとえどんな表現を使おうと、それはすべて月を指差す指に過ぎません。指はどこまで行っても指。月じゃないんですよね。
 あのあいまいさを許さない数学でさえ解は複数あるんですから(笑
 おおらかにかまえて生きたいと思います。
 ありがとうございました。
2008/11/15(土) 06:23:54 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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2008/11/15(土) 15:10:01 | | #[ 編集]
ヴィヴェカーナーンダ
このような名前で投稿するのも何ですが(笑)

ヴィヴェカーナーンダはインド向けにはカルマヨガ的に「働け」と訴え、またアメリカでは逆に形而上の面を強調していたようで、それぞれに必要なことが違っているという前提があったのですね。

現代のインドにはカルマヨガとは別の教えが必要なのかもしれませんし、個々人でまた時に応じてと、何が課題かは決して一概に言えるものではないとつくづく思います。
2008/11/15(土) 21:59:43 | URL | カルマヨギ #-[ 編集]
教えも世につれ
>2008/11/15(土) 15:10:にコメントくださいました方へ
 コメントありがとうございます。
 不確定性原理の概念は存じております。見るものと見られるものが無関係には存在しえない。見ること自体が相互に影響をを与えるという。
 世の中には、明確に表すことの出来ないものがあるわけですよね。
 なんでもきっきりぱっきり白黒つけるのが好きな人にはストレスかもしれませんが(笑)。
 人が手にできるのは、あくまで近似真理でしかないと私も思います。
 また限りなく真理に近づくほど、それは言語化不可能なものになっていくでしょう。
 こうしてこういう場で語り合うことも、あくまでそこへ至る道の途中の手がかり足がかりかと。
 こうしてお話させていただけるご縁をを、感謝しております。
 ありがとうございました。

>カルマ・ヨギさま
 ヴィヴェカーナーンダは、当時(一世紀昔)それぞれの社会の状況に応じて語ったのでしょうね。
 今の日本に必要な在り方はなんでしょうね。
 この不況で、日々生き抜くのが精一杯な世の中では、労働を通して真理へ至ろうとするカルマ・ヨーガ(労働のヨーガ)は、十分使える道だと思います。
 ただ、その枠に入りきらない何かもあると思います。
 先達の教えは尊いものですが、それが導きでなく足かせになる副作用もあることを念頭に置きながら、己の道を模索していきたいと思っています。
 そういえばかの覚者ラマナ・マハルシも、スワミ・ヨーガーナンダの「人々の精神的高揚のためにはどんな霊的指導を与えたらいいでしょうか」という質問に答えて
「それは個人の気質と霊的成熟度による。大衆を対象とした指導というものはない」
 と言っていたようです。
 宗教にせよ、哲学、イデオロギーにせよ、ある人には薬になるものが、別の人には毒になる。
 そういう意味では、一般に公開の場で語り合えるものは、言うなれば市販のサプリメントのようなもので、医師の処方がいる危険性のある薬品のようなものは扱えないのかも。
 しかしネットの発達した現代、非常に危険な情報が一人歩きしているのが現実です。
 電子レンジでペットをかわかす的な愚まで考慮するとすれば、己の生死にこだわらない在り方も、勘違いされ人命軽視や自殺奨励の後押しに使われることまで考えないといけないのかもしれません。
 私は、できるだけどんな思想や宗教の人でも受け入れられる(また悪用されない)ような、内容を選んでアップしていければと思っています。
 司馬遼太郎氏が生前、昭和を分析するのに、マルクス・レーニズムなど規制の鍵を使うのではなく、自分独自の手製の鍵で開けてみたいと言っておいでなのをNHK教育テレビで見ましたが、私たちが自分を目指す地に導いていくには、結局一人一人が手製の鍵を作り上げていくしかないのでしょう。少なくとも私はそうしてみたいと思っています。
 道はまだまだ長いですね♪
2008/11/16(日) 12:57:51 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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