あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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YESかNOか、だけじゃない
 原則政治問題は取り上げないことにしている私の日記ですが(スレが荒れたりして泥沼になりますので。ちなみに、選挙にはきちんと行ってます)
 最近知り合いの方のブログで某国の大統領候補のお一人が、悪をどうするか?という問いに、やっつけますと完結に答えた対立候補とは対照的に、それは簡単に答えられる問題ではない、一方的な断罪は慎むべきであるという意味の回答を丁寧にしている場面(の翻訳)を目にしました。
 特定の政治家に肩入れすることは公開の場では控えていますが、その人物のその姿勢には大変好感を持ちました。

 世の中には、白黒はっきりつけないといけない場面も無論ありますし、はっきり一言で答えないといけない状況もありますが
 時として押し付けがましくその決断をせまることで、相手をやり込めたり追い込んだりすることがあります。
 これをお読みの方にも、実生活で、そういう目に逢われた方がきっとおられるのではないでしょうか。

「それって一言で答えられる問題じゃないんだけどなー」
 って思いながら、相手は「はっきり答えないのは優柔不断だ」「男らしくない」「逃げるな」とか色んなことを言って迫ってくる。
 親子の間で、学校で、職場で、そういうシーンを時々見ます。

 それについて、私は大変印象に残った記事があります。
 少し長いですがここに引用します。
 アーノルド・ミンデルの『24時間の明晰夢』(藤見幸雄/青木聡・訳 春秋社)からです。
 ミンデルは知る人ぞ知るプロセスワーク心理学の創始者でユング派の分析家です。好きな学者の一人なんですが、彼がある問題で訴訟を起こされ、裁判で苦しい立場におかれたときのこと。
 よくある法廷劇そのままに、「YESかNOか」と迫られて追い詰められて取った行動が、思わぬ結果を引き起こします。

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 相手側の弁護士は自分が訓練された通りの仕事を果たすべく、私に執拗に質問を浴びせた。私がいつも通りに事実とそれに対する気持ちを組み合わせながら答えはじめると、彼は「イエスかノーかで答えてください」と鋭く言った。
 私はすでに自分の弁護士からもイエスかノーかで答えるようにと同じ事を言われていた、と答えた。私は声に出して自分に問いかけた。なぜ私はイエスかノーで答えるようにという彼らの指示に従うことができないのだろうか?そのとき、カメラや陪審員の前に立たされて緊張しているにもかかわらず、瞳が熱く燃えているように感じて、しばらくまぶたを閉じなければならなかった。
 (中略)
 法廷の証人席に立ったときの宣誓の記憶が流れ込んできたのだ。
 (中略)
 「あなたはすべての真実を、ただ真実だけを語ることを神に誓いますか?」私は厳粛に「はい」と答えたことを思い出したのだ。

 今、力強い相手側の弁護士と向き合い、つるし上げられながら、この宣誓の記憶が暗闇にきらめく閃光のように突然現れたのである。彼が「イエスかノーかだけで答えたください」と要求を繰り返したとき、私は「すべての真実だけを語る」宣誓を守る義務があると答えた。彼が私に要求する「イエスかノーか」による答えは、すべての真実ではないと彼に告げ、そのことをわびた。私は、真実をすべて告げることは彼にとっては不適切な答えになるかもしれないが、けれども、それこそが真実であることを説明した。

 すると相手は私を自由に話させてくれた。私は、さまざまな考え、事実、そして気持ちを含む、すべての真実を話した。それは印象的な体験だった。私は、ゆっくりと、かつ明確に、彼が私を犯罪者に仕立て上げようとしており、それが彼の仕事であることは理解している、と筋道を立てて説明した。私は実際、彼が自分の仕事を非常に良くやっていると感じていた。心の中では、彼に対して敬服さえしていた。私は、彼のクライアントは彼の卓越した仕事を賞賛すべきだと言った。もし私の立場を弁護する味方を選ぶとすれば、彼が最適の弁護士かもしれないと考えた。しかし私はまた、自分の意見として、彼が推理小説を読みすぎているのではないか、と自分の心が言っているのも聞こえた。
 このとき、私は自分が勝ちつつあるように感じていることに気づいた。私は自分に自信を持ちはじめていた。
 (中略)
 そのとき私の心の中で何かが変化し、少なくともしばらくの間、謙虚な気持ちが戻ってきた。私は自分の満足だけではなく、彼の満足や、対立する相手との今後の友情にも関心がある、と自分が言っているのが聞こえた。心からそう思っていた。

 手短に言うと、対立する相手と彼らの弁護士は裁判から降りることを決め、すぐに和解の手続きに入っていったのだった。どうしたことか、相手側の弁護士は立場を転換し、私の味方をしはじめたように思われた。裁判の手続きが終了したとき、対立する相手と彼らの弁護士、エイミー(ミンデルのパートナー)と私は、みんなで手を握り合っていた。私たちは自然にどちらからともなく抱き合っていた。これは夢ではなかった。現実だった。コミュ二ティの感覚が生まれたのだ。最終的な和解が成立する前だったが、みんなが勝ったのである。

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 みんなが勝ったのである、というミンデルの言葉が好きです。
 誰かが誰かを叩きのめして勝利するのではなく、自分も相手もともに活きる道を探す。
 いつもそううまくはいかないでしょうが
 そういう活路もあることを忘れないでいたいです。
コメント
この記事へのコメント
大変良いお話をありがとうございました。

「みんなが勝ったのである」

たしかに、何かと勝敗や白黒つけたがるご時世ですが、「共に生きる道はないのか(何かのアニメにもそういうセリフあったな・・)」ということを模索するのは価値があることですね。
憎しみからは何も生まれない・・・

民事と刑事ではまた事情は違うと思いますが、世の人がみな、今よりちょっとだけ勇気を出せば、もっと優しく強い世の中になるのにな・・・と思いました^^
2008/08/30(土) 22:31:04 | URL | にゃん #cwHBdaMk[ 編集]
ありがとうございます
コメントありがとうございます。
アヌンガ執筆で忙しくて更新もレスもままならずすみません。
 なんでもいいから「勝ちたい」人多いですよね。
 人間勝負しないといけないときはありますが、なんでもかんでも勝負に持ち込むのは間違いだと思っています。
 ほんと憎しみのねずみ講みたいなシステムは捨て去りたいものですー;
2008/09/01(月) 03:31:51 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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