あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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人への苦言は・・・
 先日の日記でちょっと触れましたが、友人から、人への苦言の呈し方について訊かれたこと。

 私はそれで(人への苦言、忠告)で、人生ずいぶんトラブりました。
 (って今回ちょっと長いです。すみません。お暇で余力のある方、ご覧ください:)

 だいたい苦言や忠告というのは耳に痛いもので、素直に気持ちよく聞いてくれる人というのはなかなかいません。
 怒って言い返す、反撃する。正当な反論と言うより、自分のプライドが傷ついた自己防衛のための反射的な行動だったりします。
 そうなると冷静な話はできません。
 是非善悪などどうでもよく、自分のエゴを守るためにあらゆることをします。
 先日アップしました「傷つけば正義?」みたいな論理が大手を振ってまかりとおります。

 ちゃんと聞いてくれるのは、ある程度「人間ができた」冷静な人だけです。
 それでも、何か心のすみにしこりが残ったり、納得いかないことが少なくありません。

 私は若いころ長いこと「人は本当のことはなんであろうと受け入れるべきである」という信念の持ち主だったもので(笑)、それが受け入れられないというのは本人の責任だと思っていました(自分が誰かから何か指摘を受けた場合もそうです)。
 でも人間は感情の生き物です。
 いついかなる場合でも真実と向かい合うハラをくくってる人というのは限られますし、時と場合、タイミングもあります。

 過去のトラウマを探る精神分析なども、本人の同意なくなされれば、それは一種の「虐待」であるとも言います。
 一部の犯罪者のように、はっきりと他者に害をなすため、矯正せざるを得ないような場合は別として
 一般の人づき合いで、気安く踏み込むことではありません。

 問題点の指摘は早い方がいいという見方もありますが
 たとえば、誰かがお腹に病気があるからと言って、シロウトが勝手にお腹を切り開き
「ほら、ここに病気があるだろう、早く治した方がいいよ」
 と言ったらどうなるか。
「ご指摘ありがとう、で、治してくれるんですか、あなた」
「それは自分が考えることだろう」
 おーい、せめて開けたお腹縫って行けよー。
 それではただの「暴行傷害」です。

 センセーショナリズム優先のテレビや雑誌、ネットのおしゃべりに至るまで、その種の無責任なコメントが世の中にはあふれていて、
 社会の問題点を暴くとかいうタテマエをふりかざして、ひたすら人を不安にしたり暗い気分にしたり、自己嫌悪に陥らせるだけで、なんの救済策もなく言いっぱなし書きっぱなし。
 それではなんの解決にもなりません。

 「人の目の中のチリを払わせてくれと言う前に、自分の目の中の丸太をどけなさい」
 と言ったのはイエスですが
 確か仏教にも、その種の教え(僧侶同士のルールだったか)があったように思います。
 「人から聞かれてもいないことを、自分からセッキョしない」
 みたいな。

 人間の体には無意識不随意の護身反射というやつがあって、ここの筋が縮んでいるから伸ばしてやろうなどと無理やり外から強い力を加えると、体は身を守ろうとしてかえって前よりそこを萎縮させてしまったりします(だから整体とかはうまい先生にかからないと、かえって体を壊すわけです)。
 心も同じで
 縮こまってる部分を伸ばしてやろうと、他人がドカンと外力を加えると、前よりかたくなになったりする。
 人間体も心も、基本的には本人が自発的に治す、改良するという姿勢が肝心で
 緊急事態で外科的処置を施さないと命が危ないような場合を除いて、他人が介入するのはよくよく考えないと危険だと思います。

 しかし、それより何より、自分が人に対して下した「診断」自体、どれほど正しいんだかわかったもんじゃなくて、ときには、えらい誤解や勘違いをしてたりします。
 自分の判断は絶対正しいとか真実を把握しているとか思い込むのは、自分は神であるとか預言者であるとか言うようなもんで、たいていは一種の誇大妄想。そういう「神様ごっこ」や「預言者ごっこ」にいそしんでいるケースが世間にはいっぱいあって、あちこちでトラブルを引き起こします。


 というわけで、私は近年、よほどのことがない限り、人様の目の中のチリは払いに行かないことにしていますし、払う場合もいきなり決め付けるのではなく、質問から入る。
 私の目から見るとあなたのこの言動は、別のところであなたのなさった言動と矛盾するように私には見えますが、それはなぜでしょうか。私の勘違いかもしれませんが、お差し支えなければお教えください、みたいな。
 で、自分の勘違いがわかればお詫びして終了するし、疑問点矛盾点がまだあるようなら、続けて尋ねる。
 矛盾点が連続して現れて、納得できるポイントが見出せない場合、お互いの価値観が異なるか、相手の知識知力に偏りや欠落があるか、自分にあるかなので、それ以上対話を続けても今は成果があがらない(むしろ逆効果でさえある)と判断して、そこで話を終了させます。
 その際、無用の捨てゼリフとか皮肉、嫌味など口にしないことがポイントです。
 
 人間日々変わるものですし、将来お互いどう接点が見つかるかわかりません。
 その時、また気持ちよく対話が再開できるような関係を保つことを心がけます(いつも成功するとは限りませんけど)。


 忠告や苦言は、うまい人はうまいもので
 あの人から言われるとなぜかハラが立たない、素直に聞ける、みたいな人いますよね。

 私が高校生のころ、宇野先生という初老の漢文の先生がいまして
 いつも穏やかで、講義に出てくる中国の老賢人とは意外とこんな雰囲気だったかもと思わせる不思議な雰囲気のある方でした。
 ある日、私の友人が授業をさぼって部室で遊んでいたら、その宇野先生が探しにきて
 どなったり叱りつけるでもなく、いつものとおりの穏やかさで
「○○(友人の名前)、そんなことじゃいかんじゃないか」
 と目に涙を浮かべ言葉少なに諭されて、友人は大層胸にこたえたことがあったそうです。
 教師によってはウザかったりムカつく説教に感じる場合もある(むしろそっちのケースが多いかも)ですが、その先生はそういう不思議な徳と説得力のある方でした。
 卒業して何年もしてから、その話を友人から聞いたとき、私は宇野先生の声と風貌を思い出し、自分もその場で諭されているような気さえして、少々涙ぐんでしまったものでした。

 そういう方は、教師と言う立場に限らず、気にせずいろんな方にアドバイスされるのもいいと思います。
 私はどうもそういう徳がない。
 相手の問題点に鋭く切り込んでも、ディベートや論争ならいざしらず(そういうものにはもう興味ないです)、忠告するには適さない。
 そういう人間は黙ってた方がいいなと。

 このブログで記事を書くのは、自分の庭や店先に品物を並べて独りごと言ってるようなもので、共感できない方は無視されればいいだけですが、
 これがどなたかのブログやBBSに乱入して、延々と問題点を指摘したりし始めると、どうもうまくありません。


 あと、人にせよその他の生き物、植物にせよ、変化が起こるにふさわしいタイミングがあります。
 伸びる時期でもないのに、水をやったからさあ伸びろと勝手な都合で引っ張れば草は枯れます。
 その絶好のタイミングを見抜いてアドバイスできる人は、かなり限られることでしょう。
 ずいぶん前になりますが、NHKの番組で、里親に育てられている少女(5~6歳くらいでしょうか?)が幼いころ実の親から与えられなかった愛情の補償行為でしょうか、もうそんな歳でもないのに哺乳瓶を手放さなくて、でも里親さんは暖かく見守って愛していて、やがて少女が自分から納得して、
「もうこれはいらない」
 と哺乳瓶を棚にしまう。
 見ていて泣けるシーンでした。

 人には、色々なことに気づくにふさわしい時期というのがあります。
 自分も人生で、ささいな問題点に気づくのに、長い年月を費やしてきました。これからも費やすことでしょう。
 登ってきたハシゴの途中の段を抜かして、上の段だけ認めるのは不可能なことです。
 人間は、ある意味過ちを犯す(犯して気づく)ために生まれてきたような生き物で、過ち自体を否定するのは生きるなと言うのと同じです。

 昔、中国の荘子が「無用の用」という話をしてました(有名な話なのでご存知の方も少なくないと存じます)。
 人間が立っている地面を、足を置いているところだけ残して(歩くために足を置く場所だけ残して、と言ってもいいでしょう)、あと全部奈落の底まで掘り下げたら、その地面は地面として役に立つのか。立たないでしょうと。
 ということは、一件なんの役にも立たない無用のように見えるものにも、それぞれ意味があるのだと。

 人の成功だけを肯定して失敗を否定するのは、この地面を掘り下げるのと同じことだと思います。他人のことだけではなく、自分に対しても、人はよくこういう愚を犯して、自己嫌悪したり自己否定に陥って思い悩みます。人生の無駄です、と言いたいところですが、その不合理さに気づくための、とても貴重な体験です♪

 さまざまなことに気づくための体験が積み重ねられるまで、私に生きることを許してくれた世界を、私も同じように許しあるがままに行かせてあげたいと思います(本当は許す許さないという意識自体放棄していきたいと思っているのですが、それはまた別の機会に語ります)。
 だから、もし誰かに忠告したり苦言を呈したりすることで(また、されることで)、人間関係でお悩みの方がいらっしゃいましたら、
 どうかご自身も相手の方も、裁かずOKと思ってさしあげてください(と私は思います)♪

 人はそれぞれの時間と場所で、それぞれの発達段階に応じて、ふさわしいことをしています。
 その道は一本道ではなく、ある面ではすごく優れている人が、別の面ではひどく幼かったりします。
 気づきや成功は、いくつもの失敗、つまづきの上にあるもので、すべては意味ある体験だと思います。すべてはかけがえのない神聖な時です。
 その人がどこで失敗や道をはずれてさまよい、どこで気づくかは、誰にもわかりません。
 クリスチャンの方なら、その方と主との(いや、イエスとの、と言うべきでしょうか)間で決めることであり、仏教徒なら御仏との間で、唯物主義の方なら、世界を世界たらしめている(花を育て、生き物を育て、天体を運行せしめている)宇宙の原理法則が、決めることだと思います(不確定性の部分があるので厳密に一点を示すことはないですが)。少なくとも私が決めることではありません。

 誰かに忠告してもしなくても、受け入れなくても受け入れても、それぞれに意味があり
 「忠告によって相手を変えること」に失敗することはあっても、人生においての失敗はないと私は思います(たとえ死んでもです。私は人生の「オチ」には重きを置いていません。問題なのは「プロセス」であって、「オチ」だけで判断するならみんな最後は「死ぬ」だけです)。
 自分や人の成功や気づきが尊いものであるのと同じように
 その失敗や過ちも尊いもので
 私はそれに対して、その人とそのかけがえのない神聖な時に、敬意をはらいたいと思います。

 人が誰かの言葉に学ばなければ、代わって人生が教えてくれます。
 人生で学べなかったことを、言葉で教えてくれる人もいます。
 いや、百万言より雄弁な一滴の涙、一瞬の笑顔もあります。
 人は取りたいときに取りたいものを取る。好みの教師を選ぶだけで、人生ではすべての人、存在が教師であり生徒でもあると思います。

 きょうが豊かでありますように。いや、豊かであるきょうに気づけますように。
 長々失礼いたしました。


追記
 補足記事として
シナリオを押し付けない
 をアップしました。
コメント
この記事へのコメント
他人への苦言・忠告は・・・・
ネット上ではだめですね。
すぐに「誹謗・中傷」としか受け取ってもらえないようです。

ひとつには、リアル社会での面識がないという事と、もうひとつは「私はこう信じているんだ!」と言う宗教観にも似た頑迷さで凝り固まっている方が多いようです。

あるいはネットの世界では「何も信じない」と言う方も居るのかもしれません(そのくせ発端はネットの書き込みだったりします)

苦言・忠告は「相手の顔を眼を見て」するのが(またはその状態で)まず第一の条件かもしれません。

でも私は「江戸弁」なまりの直言癖なので、忠告や説得には向きませんが・・・・・
2008/07/23(水) 01:56:01 | URL | ぬうぼマン #x9c5GV3o[ 編集]
私のつまも
>ぬうぼマンさま
 私のつまも江戸っ子なんで、つい口調が荒くなるようです(笑
 文章は微妙な表情ニュアンスが伝わらなくてきつい感じになることがありますから、なるたけ対面で伝えるのがいいのかもしれません。
 一方、口頭だとつい言い忘れたり脈絡が乱れたりすることもあり、文章には文章のよさもありますけど;
 難しいですねー。
2008/07/23(水) 11:15:36 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
ああ。。
最近自分が思っていたことがそのまま文になっているので、なんか感動しました。
対面での話ですが、冷静な指摘と感情がぶつかり合うと、不思議と感情が勝つ。。色々と面倒くさいことに気が付いたので、意味不明な言い争い(←相手が反感を覚えるなら忠告等も言い争いの一種になるのだと思います)になった時、私はもう一言一句人数分の台詞を再現したり冷静に指摘したりする悪癖を改めることにしました。感情的な人というものは、結局のところ理屈や経緯や常識なんて自分のプライドを守るためならどうでもいいらしいですからね。自分が聞きたい言葉しか聞こうとしません。
ということで、否定しようがない事実を形にして用意できない場合は、色々言いたくてもぐっと我慢して、軽めの口調で「貴方のために言っているのだとわかる形で」告げて流しておくに限ります。経験上、そうしておけばいつか自分で気が付くみたいですからね。
まぁ、なんていうか冷静になった方が負け、という気がします。
2008/07/29(火) 01:33:48 | URL | とと。 #DaqWDIIE[ 編集]
> 縮こまってる部分を伸ばしてやろうと、他人がドカンと外力を加えると、前よりかたくなになったりする。

逆にそういう現象を利用して、特定の人間をコミュニティ内で意図的に孤立させたりする事も可能でしょうね。
そうやってその場の雰囲気をメンテナンスしている人を個人的に知ってます。
その人は、全く同じ間違いであっても、人によってそれを指摘する態度や、指摘する場を公開、非公開と分けたりしています。
その基準は個人的感情よりもコミュニティの維持を優先しているようなので、薄々気付いている人も敢えて何も言わなかったりしてますけどね。
もっとも、個人の裁量に依存する運営手法にいささか不安も感じます。
2008/07/29(火) 06:49:58 | URL | タスラム #EBUSheBA[ 編集]
コメントありがとうございます
>ととさま
 相手が反感を覚えるなら忠告等も言い争いの一種に<こちらにその意思がなくても、相手の主観ではそうなる場合がありますね。
 感情で責めてくる相手は、そこにある種の「勝ち負け」を見るかもしれませんが(怒りは自己防衛の一表現だったりしますし)
 私は、忠告は相手の(無論自分やその他大勢にとっても)幸せを意図して行うものであって、「勝ち負け」の基準では計らないように心がけています。
 ただ、あまりに道理が通らないと、少なからぬ挫折感や敗北感がぬぐえない場合もありますが(笑
 その場で納得してもらえなくても、相手の意識の片隅に、ささやかな「種」をまいて、いつの日か、相手が気づくときのきっかけの助けになることもあります。
 それが明日芽吹くか、10年後か死ぬ前か一生芽吹かないかは、人知を超えたところにあるので、私は気にしないようにしています。
 でも、思わぬところで、分かり合えるとやはりうれしいですね♪
 ありがとうございました。

>タスラムさま
 そうやってその場の雰囲気をメンテナンスしている人<個人感情よりもすべての人の気づきや成長を優先していればいいですが、組織の運営が優先の場合、組織の存続、利益のためには特定の個人が犠牲になってもいいとなると(どこかの独裁国家やカルト集団のように)不幸な結果になります。
 ある意味恐ろしい技術でもありますよね。
 最終的には結局使う人の人間性によります(メスで人を救うか殺人を犯すか、のように)。
 指摘する場<「人を褒めるときはみんなの前で、叱るときは他人のいないところで」という言葉があります。人間メンツをつぶされると人を殺すことさえありますから、その辺のバランスは気を配らないといけませんよね(汗
 コメントありがとうございました。
2008/07/29(火) 21:04:09 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
そうです
>その際、無用の捨てゼリフとか皮肉、嫌味など口にしないことがポイントです。

些細なことですけどこれはすごく重要だと思います。

それも、正当性が自身にあるほど人は嫌味の一つも言いたくなります。もう本能って言えるほど嫌味とか喉もと寸前状態になるってものです。

それをあえて踏みとどまる。それがいいんだと思います。

物事への意見は切磋琢磨軌道修正への道に通じますが、実に捨てゼリフと嫌味は破壊的作用しか持ち合わせていないという重大なことを軽んじることはできません。v-12
2008/08/04(月) 06:29:41 | URL | やすやす #-[ 編集]
同感です♪
>やすやすさま
 昔、何か失言して、謝罪するんだけど、そのたびに一言余計でせっかくの謝罪をぶち壊しにする人がいました。
 自分も覚えがあるなあと思ってスルーしました。
 その人もいつか人生から教えられる日がくるのでしょう。
 捨てゼリフはそのときの一瞬の自己満足は得られますが、引き換えに何を失うかに気づくと、自然と手放していけるように思います♪
2008/08/04(月) 20:34:18 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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