あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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無執着
久しぶりにカテゴリ「いささか形而上」です;

「もし、ある人の性格を正しく判定したいと思うなら、彼の大きな行為を見てはなりません。どんな馬鹿でも、ある場合には英雄にもなるものです。人が最も普通の行動をしているのをごらんなさい。それがほんとうに、偉大な人の真の性格を示すものです。大きな機会というものは、最下等の人間をも、ある程度の偉大さにまでは奮いたたせるものです。しかし、どこにいても同じようにその性格が常に偉大である人だけが、真に偉大な人であります。」
    スワミ・ヴィヴェカーナンダ著 『カルマ・ヨーガ』 (日本ヴェーダーンタ協会)より

 なかなか味わい深い言葉だと思います。昔から抱いていた疑問の答えでもあります。
 例えて言うなら、ふだん子ども殴ってばかりの親が、クリスマスに気まぐれでオモチャを買ってくれたから、だからなんだと言うのか?そんなもんでちゃらになったと思うなよ。本当は優しい人だなんて思うなよと、子供の頃より思ったものでした。
 というのは、まあ枕で、本題は別なんですが(笑

 このスワミ・ヴィヴェカーナンダという人は、インドの覚者で、もう100年くらい昔の人です。
 この講演も19世紀のものです。
 かの岡倉天心が心酔したこともあり、ご存知の方もけっこういらっしゃるかと思います。
 インドのものゆえ、ヒンズー教のバイアスはかかっていますが、それにこだわることなく、特定の宗教宗派を超えた普遍的な真理を語っている部分があります。
 彼の僧院では当時から現代に至るまで、異なる宗教(イスラム教キリスト教仏教その他)の信者が、それぞれの神に対して祈りをささげることができるといいます。数年前に岡倉天心の足跡をたどるNHKのドキュメンタリーが放映されましたが、その中で、現在の院長(と言うのでしょうか)がインタビューに答えていました。
「現代の宗教は「争い」に名前をつけただけ」
 のモノだらけだと。

 今、スワミ・ヴィヴェカーナンダの講演記録を読むと、私には、さすがに昔の倫理観で共感しかねると思う部分と、世紀を経ても色あせない、いやこんな時代だからこそ味わうべきものだと思う部分がそれぞれあります(まあ、たいていの聖賢の教えがそうですけど)。
 その中から、今回は、「無執着の行い」について少し引用します。

 ちなみに同書のタイトルの「カルマ」は、よく一般に使われる「前世の因縁」とかの意味ではなく「労働」の意味です(誤解のないよう)。「カルマ・ヨガ」は特定の神を拝んだり、教祖を拝んだりではなく、日々の自分の労働を通して真理に至る道のことです。

「ある人が、哲学の一つの法則も学んだことがなくても、いかなる神も信じたことがなくても、全生涯にただの一度も祈ったことがなくても、もし、単なる善い活動の力のひとつが、他者のために自分の生命も他のすべてのものも喜んで捧げる、という境地に彼を導いたのであれば、彼は、宗教的な人が祈りによって、または哲学者が知識によって達するであろう境地と同じ境地に達したのです。ですから皆さんは、哲学者、カルマ・ヨギおよび信仰者、これらすべては自己滅却という一点で合い相会うのだ、ということを知るでしょう」
 と彼は言います。

 世の中に「善行」を進める教えは色々ありますが、その何割かは、一種の「神との取引(良いことをして天国に行く、とか、地獄へ行くのを免れるとか)」のための方便であったりします。
 己の過去への罪滅ぼしであったり
 自分の無価値感を補う手段の一つ(自分はこんなに良いことをする善人なんだ、世の中の役に立つ価値ある人間なんだ、自分は無価値じゃないんだ、という自己確認)であったり
 中には、自己満足の優越感にひたりたいがため、「善行」にまい進しているケースさえあります。

 私は別にそういう人、そういうケースを否定非難するつもりはありません。何より自分の中にも、分析していけばそういう要素(さまざまな打算)はあると思います。。
 いわゆる悪行を行うよりはずっとましですし、世の不幸を見て見ぬふりをするよりはいい。
 水上勉氏の言われた「たとえ偽善であっても、しないよりはした方がいいものもある」だと思うものです(記憶違いだったらすみません。はるか昔テレビで見ただけの言葉なので)。

 ただ、それらは、あくまで一つの「通過点」であって
 最終的には、そんな損得勘定やこだわりは捨てて、ただ善のために善をなす、自分はそうありたいからそうあるだけ、であるのが、ベストではないかと思うものです。私もそれを目指しています(目指しているということは全然到達していないということですけど)(笑)。
 前置きが長くなりましたが、ヴィヴェカーナンダの講演から、それについての彼の言葉、私の好きな下りを抜粋します。


P.112
「われわれはなぜ、世のために善を行わなければならないのでしょうか。外見は世を助けるためですが、ほんとうは我々自身を助けるためなのです。われわれは常に、世を助けるよう努めなければなりません。それが、われわれの内部の最高の動機であるべきです。
 しかしよく考えてみると、この世は決してわれわれの助けなどを必要としてはいない、ということがよくわかります。この世界は、みなさんか私が来て助けなければならないように、できてはいないのです。あるとき私は、つぎのような説教を読みました、「この美しい世界全体は実によい、われわれに他の人びとを助ける時間と機会を与えてくれるのだから」と。これは非常に美しい感情です。しかしこの世界がわれわれの助けを必要とする、というのは冒涜ではありませんか。そこに多くの不幸があることは、われわれも否定することはできません。ですから、出かけて行って他者を助けるのは、われわれにできる最善のことです。
 しかし長い間には、他者を助けるのは自分自身を助けているのにすぎないのだ、ということが分かってくるでしょう」

P115
「われわれはみな、自分たちがいなくてもこの世界は十分にうまくやって行くのだから、われわれがそれを助けようなどと頭を悩ます必要はないのだ、ということを、はっきりと知るでありましょう。
 しかしわれわれは、善いことをしなければなりません。もしわれわれが、他を助けるのは特典である、ということを常に忘れないのなら、善いことをしたいという願望はわれわれが持つ最高の動機力です。(中略)
 貧しい人がそこにいるおかげで、彼にものを与えることによって私は自分を救うことができるのだ、と思って感謝なさい。恵まれているのは貰う人ではなく与える人なのです。自分がこの世で慈悲の力を行使することを許され、それによって、純粋に完全になることができるのを、在り難く思いなさい」

P.117
「われわれは誰かを助けたと思うから、その人が自分に感謝することを期待します。そして彼が感謝しないというので、不幸になるのです。なぜ、自分がすることに対して、お返しに何かを期待しなければならないのですか。あなたが助ける相手に感謝をし、彼を神とお思いなさい。われわれの仲間を助けることによって神を礼拝することを許されるのは、大きな特典ではありませんか。もしわれわれがほんとうに無執着であったなら、空しい期待という、すべての苦痛を逃れ、この世で快活に、善い働きをすることが、できるでしょう。執着なしに行われた仕事を通じては決して、不快や不幸はやって来ません。世界は永遠に、その幸福および不幸を抱えて行きつづけるでしょう」   (太字強調・山本)


 私(山本)のつまは、時々うがったことを言ってくれるので私は重宝尊敬しています(笑
 昔冗談半分で(マジ半分で)
「どうせオレは(この世に)いらない子だー!」
 とふてくされて見せたところ、つまは間髪入れず
「心配するな、おまえだけじゃない。(私もふくめ)みんないらない子だ」
 とツッコミを入れ、大笑いしたことがありました。
 これはけして、人様の命や存在をあざ笑ったり軽んじようという意味ではありません。
 オレがオレがと「自分病」に陥りがちなエゴのあり方を笑い飛ばし、もっと肩の力を抜いて生きようよという意味です。
 ある意味、上記のヴィヴェカーナンダの話にも通じるものです。

 ヴィヴェカーナンダの説話は、自分が価値ある存在だと思いたくて善行に励んでいたり(自己否定感が強すぎて、それを修正するために、一時的にそういう状態であることは、それはそれでありだと思います)、優越感を感じたくて善行に励む人々に、強烈な一撃を加えます。
 「世界は私やあなたの助けなどなにも必要としていない」のだと。

 私は私など風の前のチリのようなものだと思っています。
 世界は私の助けなど何も必要としていません。
 でも、とりあえず命ある限りはできることをして(それがどれくらい良いことでどれくらい悪いことなのか、どれくらい意義あることでどれくらいつまらないことなのか、そんなことを的確に判定する能力はありません。ただ日々試行錯誤して少しでもましな道を探ることしかできません)最後まで歩みたいと思います。
 それはあくまで、そうありたい、したいことをするのであって、何かの教義や道徳で奨励されいていたり、義務とされているからではありません(ヴィヴェカーナンダ師の場合、「~ねばなりません」という語り口になっていますけど、それは立場上しかたのないことだと思います)。
 仕事に関して言うなら、商売ですから、お客様の反応は無視できませんし、より良い「製品(作品)」を作るための分析検討は不可欠です。万事にこだわらないということと、相手を無視して自閉することを混同するつもりは無論ありません。

 「空しい期待という、すべての苦痛を逃れ、この世で快活に
 思うところを為して生きたいと思っています。


 とか言って、この腰痛膝痛なんとかならんかな、いててて(湿気がきついのと坐りっぱなしで、なんともはや);

 寝覚め良き、ことこそなさめ
 世の人の 良しと悪しとは言うにまかせて♪
コメント
この記事へのコメント
軽い感じにしたいが重い?
かるーくコメントしているつもりが重いってことがありますよね。

なるべく軽く。

私にあっては、善とか悪とかいう価値の基準がしだいに自身のありたいと思う行動との価値基準とずれました。

複雑でどちらともつかない世界にあって善と悪の基準は、それがなされる場における裁判官から見た視点での判断の基準です。

それは、人が地球上でのひとつの生物種であるということに、生物としての生き方に、矛盾なく沿い馴染むことはできません。

そのことを踏まえた上でなお善といい悪という必要があるというのが私の今たどり付いたところです。

特に某米国とかが正義の名の元にふるっている圧倒的力を見るとそう思ってしまいます。

種々の思い込みにとらわれず自身を傷つけている思いからの開放ということ、なるほどです。
2008/06/22(日) 11:06:09 | URL | やすやす #-[ 編集]
私は裁判官にはなるまいと
>やすやすさま
 素敵なコメントありがとうございます。
「そのことを踏まえた上でなお善といい悪という必要があるというのが」<そうですね。
 私は近年、すべてに対して軽はずみな裁き、裁判官の立場に己を置かないように努めていますが、それは世の不善をなあなあで見すごそうと言うのではありません。
 進むべき道をきちんと判断し、己を律していくつもりです。
 ただ、世間的な善悪とは価値基準が異なる場合もあります(国によっては、ひたすら「敵国」をののしり蔑むことが正義だったりしますよね。どこの国とは申しませんが)。
 時と所を越えて、自分の良心に恥じない道を選ぶ(可能な限り)ことだと思っています。
「思い込みにとらわれず自身を傷つけている思いからの開放」<まったく同感です。
 ありがとうございました。
2008/06/22(日) 13:58:59 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
カルマ・ヨガ
おかげさまで久しぶりにこの本を思い出しました(笑)

しかし本当にコメント難しいですね。味わって終わりということで(笑)
2008/06/25(水) 22:04:55 | URL | あるカルマ・ヨギ #-[ 編集]
実は私も久しぶりで
>あるカルマ・ヨギさま
 実はこの文章、大半は一年前に書きかけていた草稿をまとめたものです。
 いつかまとめようと思っていて果たせず、そろそろころあいと見切ったような次第で。
 お読みいただきありがとうございます。
2008/06/26(木) 00:28:49 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2008/07/30(水) 19:37:10 | | #[ 編集]
コメントありがとうございます
首輪物語、お読みくださりありがとうございました♪
 私とつまですが、けしていつも仲良しラブラブ順風満帆な夫婦などではなくて、色々と合わない部分、しんどい部分いっぱいでもありました。
 つま的にはかなりハードな人生だった(いや、今もか)と思います。
 申し訳なく思うと同時に感謝してます。
 夫婦というより「戦友」みたいな感じでしょうか(笑)(つまもそんなこと言ってます)。
 コメントありがとうございました。
2008/07/30(水) 20:45:46 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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