あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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不機嫌な創作
 先日NHKの番組で宮崎駿氏を取材したドキュメンタリーがありました。
 その中で、延々と追い回す取材カメラに、宮崎氏があからさまに不機嫌な態度を見せる下りがあり
 「ボクは不機嫌でいたいんです。
 ここは笑わなくちゃいけないからということで笑ってたりするだけで
 本来は不機嫌でいたいんです」
 みたいな意味のことを言っておいででした。

 これは批判ではなく、私個人を振り返っての感想なんですが

 宮崎氏の言葉は半ば共感し、半ば反対です。
 まず創作者として言うなら、にこにこ楽しく悩みない状態で創作し続けられるわけはありません。創作とは困難との闘いであり、ブレイクスルーを求めてもがく、いやぬかるみの中で必死に出口を求めてもがくマドルスルーの繰り返しだったりします。

 昔私も外からアシスタントを読んで手伝ってもらっていた頃、つまやアシスタントに
 「機嫌が悪いと怖い」
 と非難されたことがあります。
 しかし、今言ったとおり、ご機嫌で創作なんかし続けられるものではありません。
 番組中でも、スタジオにいる宮崎氏の大変険しい表情が何度か映し出されます。
 創作者ならわかるでしょう。共感できるでしょう。
 周囲への気遣いはある方がいいけれど、弾丸の飛び交う戦場でそんなきれいごとを言っていられる人がどれほどいるでしょうか。
 そういう机上の空論をかざして人に要求する人は、自分で創作の地獄を見たことがあるのでしょうか。
 
 アシスタントは全員がプロの創作者じゃないんだから、とつまは言ったものですが、私は創作者のハートがない人と創作したくはないし、原稿に触れても欲しくありませんでした。プロでなくともプロのハートがある人はいますし、プロでもプロのハートがない人もいます。

 そんな私ですから。PCの進歩で、アシスタントを呼ぶことなく一人で執筆ができるようになったことは、私にとっても、アシスタントにとっても幸せなことでした。


 常にそれまでの自分を越える新たな地平を目指して苦闘する、それが不機嫌となって現れるという意味でなら
 私も「不機嫌で居続けたい」とは思います。
 ここまでが「共感」する部分ですが
 その一方で反対の部分(いや「補足」と言うべきでしょうか)もあります。

 不機嫌なのはあくまでやむなくであり、究極の目標は「ご機嫌」で創作することです。
 これは、ネガティブな意味での自己肯定、進歩に背を向けて「オレってサイコー」みたいな妄想的万能感に囚われると言う愚かな意味ではありません。

 ちょっと話はずれますが、人生の求める道の一つに、どれほどすべてを肯定できるかというのがあります。
 人は狭いエゴで、人生のさまざまな出来事を「運不運」「幸不幸」とレッテルを貼り、一喜一憂して暮らします。
 しかしそれは愚かな道です。永遠の苦悩の道です。
 本当は一見「不運」「不幸」と思える出来事が、振り返ればかけがえのない贈り物であったことがわかります。
 それをハラの底から実感していけば、すべてを肯定し感謝して受け入れることができるでしょう。

 なんの覇気もない無気力な人間は、とりあえず怒りや復讐心を杖にして、何事かをなすことができます。それは虚無的であるよるりはましかもしれません。
 しかし、そういうネガティブな感情を手がかりに出せる力は、あるレベルまでのものに過ぎません。

 武術の世界でも、本当に効く技は、効かせようとかいう意思、敵愾心に燃える状態では出せません。そういう意思を捨てたところから、本当の技が始まります。これは禅問答や机上の空論ではなく、私自身様々な武術家さんたちとお会いして体で実感してきました。

 スポーツの世界でも、会心のホームランが打てたとき、腕に全然衝撃を感じなかった、という選手の話など聞いたことがあるでしょう。
 すべてが理にかなって強調して動く時
 それは限りなく抵抗がない境地です。
 抵抗があるというのは、どこかに無理があるということです。
 古代中国の包丁名人が、あまりにも技を極めたため、どこに包丁を入れれば目の前の肉が綺麗に解体できるかが手に取るようにわかり、何年も使った包丁が刃こぼれ一つしなかったという伝説がありますが
 要はああいう境地です。

 それは、自己満足の妄想的万能感ではありません。
 信仰のある方はそれを神と一体になると表現するでしょう。
 唯物的に見ても、すべてが理にかない、あるべきものがあるべきところに落ち着く、ドミノ倒しのようにすべてが成就されていく場合があることは否定できないでしょう。
 そこに、怒りや不機嫌はもはや存在しません。

 創作の原動力は、そもそも現実に存在していないものを作ろうということですから、なんらかの現実否定、不満や怒りといったものが存在するのはやむを得ないことですが
 それらは打ち上げられるロケットの最下段のブースターのようなもので、高度が上がれば切り離し、捨て去られるものではないでしょうか。

 私は確かに不機嫌で創作する時があります。
 しかし永遠に不機嫌でいたいとは思いません。
 極端な例えですが、弥勒菩薩のような表情で、大いなる慈悲と至福の中で創作できれば、それに過ぎる幸せはありません。
 先日の宮崎氏のドキュメンタリーに
 そんなことを思いました。


追記
 それはある種のプチ「悟り」と言ってもいいかもしれません。
 そういう事柄に不案内の方は、多幸症と言うか、ヤクでラリってハッピーになり、思考能力が低下した状態と間違えられるかもしれませんが
 まったくの逆で
 「悟る」方向に向かうということは、すべてが明晰になるということです(「悟り」は、とは申せません。「悟った」ことなどないのですから。しかしその途中や方向性はわかります)。
 つまらぬ私情や感情に翻弄されることなく、あるべき姿、すべきことを瞬時に把握し、こなしていく。
 それは武術の達人が激情とは無関係に、無心で箸を使うように人を捌くのにも似ています。
 「限りなく透明に近い私」
 とでも言うのでしょうか。でも私は在るのです。
コメント
この記事へのコメント
まったく悟れ無い人生してます(笑)
くまくまでございます。透明な、あるいは必要でありながらその存在を意識されない空気のような。その領域たどり着けません。(笑)ある方と気配のお話の折に「石の気配、木の気配なんてのは自分の気配の投射で初めて判るんで、石や木は自分のこと石だとか木だなんて思っちゃいないのさ。そう思っているうちはそれは石でも木でも無いんだよ」と伺い、これは私には到達できない領域だな、と感じました。少々ずれた話になってしまいました、思った事を伝えるのさえこの始末、ん~難しい?
2007/03/29(木) 20:33:59 | URL | くまくま #eI0qnTzk[ 編集]
いいお話です♪
>くまくまさま
 石や木は自分のこと石や木なんて思っちゃいない<わははまったくです。
 ただ「在る」境地はなかなかたどりつけませんね。
 でも、ここが難しくて
 たどりつけないのに簡単に「たどりつける」と誇大妄想に陥るのも嫌だし、「そんなの無理だ」とマイナスの自己暗示をかけて自ら遠ざかるのももったいない。
 なので、まあ、しかるべき準備が整えば自然に近づけるだろうくらいの気持ちで私は試行錯誤しております。
 砂漠で迷った人が天上の星を目印に歩いて砂漠を抜けるようなもので
 「あいつ星なんか目指して馬鹿じゃねえの」
 とか言う人には勝手に言わせておけば。
 人は、月にも行く者ですしね。
2007/03/29(木) 22:25:34 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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