あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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愛だろ愛♪
 なんか日記書こうと思ったんですが、書きたいことはいっぱいあるんだけど、いずれも帯に短しタスキに長しで悩んでました。
 でもいいや。きょうはあえて、ざっくり誤解を恐れずに言いますと

 愛だろ愛♪
 です。

 愛し合ってるかーい?
 てのもありましたね♪

 先日の中島みゆき姐さんの新譜についての日記でも少し触れましたが
 「無条件の愛」とか「アガペー」とか言うと、そんなものは信じられないとか存在しないという方もいらっしゃいますし、悪いものでも食べたか変な宗教にでも入ったかと誤解されるので、あまりまっこう直球勝負では書けません。
 ですのであたりさわりのない(誤解を受けない)範囲でなにか語ろうとなって、
 実は言いたいことの核心からははずれた、本当は二の次三の次の話に終始することになります。

 ブログはまだダイレクトに言葉で語れるからマシで、漫画などの作品になるともっと難しいです。

 あくまで「もののたとえ」ですが、人は自分がいる場所からあまりにかけはなれた「天国」を提示されると、そんな幸せすぎる境遇はありえない絵空事か詐欺に違いない、リアリティがない、信じられない、という反応を示す場合が大半のようで、仕方ないからそういう人には、その人が今いる「地獄」よりも、少しだけマシな「ぬるい地獄」を提示します。すると安心納得してその「ぬるい地獄」でささやかな幸せにひたるという・・・

 私は多くのエンターテインメントを見て、あまりにその一見多様に見えて実は似通った「ぬるい地獄」としか思えない「擬似天国」に満ちていることに呆然となります。

 いい加減もうちょっと率直に「天国」を語る作品があってもいいのではないかと思うのですが、そういうものには説得力がないので、ほとんど支持されないのでしょう。そのうち描けるものなら描いてみたいものですが(笑)。

 「無条件の愛」の具体例として、すぐに思い浮かぶのはマザーテレサです。
 インドで路上で行き倒れた人を助け最後を看取る活動をしていたとき、人々はマザーを、口では奇麗事を言ってるが所詮気の毒な人に恩を売ってキリスト教に改宗させるための計略、偽善者だろうと笑ったわけですが
 マザーは、その人の信ずる宗教に従って葬り、仏教徒は良き仏教徒であればそれでいい(ヒンズーその他の宗教もそれぞれ)という態度でのぞみ、けして自分の信仰を押し付けたりしませんでした。
 それは、ほんの一例ですが

 そういう見返りを求めない、値札のついてない愛に、ふだん出会う機会は確かに少ないです。
 でも少ないことと、存在しないことは別です。
 あるところにはあるし、あっても気がつかないことが多い。

 でも、この歳まで生きてくると、あるところにはあるし、自分もその恩恵を受けてきた。またけして、遠い手の届かない他人事ではなく、不完全ではあっても自分もいささかなりとも、そういうものに関われると思います。

 「生み出す」と言わずに「関われる」という微妙な表現をしたのは
 私は愛は、人間がゼロから(無から)生み出すものではなく、太陽光や石油などのエネルギー同様、宇宙にすでにあるものを、いろんな形で受け取って、形を変えて外に出しているのに過ぎないのではないかと思っているからです。
 だから、「オレが生み出した」のではなく「加工して次に渡した」くらいのことではないかと♪

 愛とは何かについての詳細はまたの機会に書きますが(近いうちに)
 
 人間が物理的肉体を維持し、死ぬまで生きる活動のために必要な、いたしかたない殺生を始めとするもろもろの作業は別として
 どこまで日々愛でいられるか(厳密には殺生も無益でない限り区別はできないと思うのですが、それはさておき)。
 てのが私には近年の人生のテーマです。

 日々の出会いや出来事の中にどれだけ愛を見出せるか
 どれだけ心と魂を励まし、世界のあらさがしではなく、美しさや素晴らしさを見出すことにフォーカスできるか。

 それは、いろんな問題から目をそらすことではなく、問題は問題としてきちんと認識し取り組んだ上で、という前提のもとにです。
 問題は日々次々と発生し、無視しては先に進めません。
 けれど解決すべきことに取り組むことと、それを敵視することとは別問題です。

 世界はあまりに多くの、怒り、恨み、不平、呪いに満ちていますから
 そこに私が何を今更、加える必要があるでしょう。
 そういうことの一言も、語りたいとは思いません。語ることで私か、ほかの誰かが、1mmでも幸せになるのなら別ですが。
 
 聞くところでは、マザーテレサは、平和のための集会ならば参加するけれど、「反戦」集会には興味がない人だったとか。
 事実とすればわかってる方だなあと思います(と言うか、まあ私などが言うまでもなく、いや思うよりもずっとずっとわかってる方だったと思うのですが)(笑)。

 「地獄」はその人がそこに飽きるまでは、その人の大切な「天国」であります。
 不完全な私が全能力を動員してイメージしても、それは所詮「不完全な天国」に過ぎず、もしいつの日かそこに到達しても、それはいつの日にかまた、打ち捨てられる「仮の天国」に過ぎないでしょう。
 それは永遠に(人間に本当の「永遠」の意味などわかりませんが)続くプロセスです。
 では、そんなものなど求めず、この「地獄」で良いではないかという方もおいででしょうが、そういう方も、おそらく雨が降れば軒下を探し、酷暑の夏にはエアコンの部屋を求め、腹が減ったら何か食べることでしょう。真実そうした作業をすべて放棄した方がおいでであれば、たぶんその方は「この地獄で良いではないか」などと誰か(私にも)言うことさえないでしょう(笑)。

 人はより良い「天国」を求めるものです。
 ただ、その歩幅にものすごく個人差があり
 ステップアップと勘違いして同じ階の別の部屋をぐるぐる移動しがちな存在のように思います(そのことだけでも、また一項を設けないと語れないくらいです)。

 ちょっと話の風呂敷を広げすぎたかもですが

 バカを承知で書きますと
 私が少しでもきょうも愛であれますように。
 あなたが少しでもきょうも愛であれますように。
 きょうが豊かな日でありますように。

 何を言おうと何を書こうと
 人生はただ、手を代え品を代え、化粧を代えて
 ただそれだけを語るプロセスに過ぎないのではないかと。

 そんなことを思う日々です。

追記
 別に何から何まで無条件の愛でないといけないとかいうのではありません。この世で生きていく以上、ギヴ&テイクは避けられないことです。
 ただ、その場合は、それはまるごと愛なのではなく
 その何割かは「取引き」であると自分で自覚しておくことだと思っています。
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