あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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『奇跡の人の奇跡の言葉』続き(「歓びこそが生命」)
 昨日に続きましてヘレン・ケラーの著作『奇跡の人の奇跡の言葉』(高橋和夫/島田恵・訳 H&I)より引用します。

 同書の第七章は「歓びこそが生命」と題されています。

「心が冷え切っているような状態にはいささかも面白さはありませんし、歓びのないところには何の刺激もありません。ちょうど時間というものが分や秒の集積であるように、人間らしい幸福というのは数え切れない小さな楽しみが積み重なってできています」

 ケラー女史は、けして、軽薄な快楽主義の話をしているわけではないと断って

「この世はあまりに憂いと悲しみに満ちていますから、薄暗い環境やおっくうな仕事の中にも輝く水晶のような歓びを見つけ出すことは、だれもがお互いに助け合って果たすべき責務です」
 
「助言をしたり、励ましの微笑を送ったり、他人の道の凸凹を地ならししたりする人、心からの善意でもってそうするような人なら誰でも、自分が感じる歓びこそが自分自身にとって本質的なものであり、それによって自分は生きているのだということを知っています」
「幸福を求める人たちがほんの一瞬でも立ち止まって考えてみれば、足もとの草ほどに、花々の上できらめく朝露ほどに、自分が体験できる歓びは無数にあることがわかるはずです」

「なのに、この歓びという財産に気づいている人のなんと少ないことでしょう!彼らが幸せを求めてはるか彼方まで出かけるのを見ることは、私にとって驚きでもあり、悲しみでもあります」
「そういう人たちは(中略)王や女王を尋ねて彼らにひれ伏したり、旅行や興奮の中に幸福を求めたり、秘宝とともに幸せが眠っていると考えて地中を深く掘り下げたりしているのです。そうでない人たちは、宗教やしきたりや政治理念のために自分の知性に迷信的な足枷(かせ)をはめて、自ら歓びを捨ててしまっています。自分自身の中に、心と精神を祝福しようといつも待ち構えているすてきな宝の山があるというのに、気の毒にも彼らはそれに対して眼しいであり、耳しいであり、飢え渇いているのです」

 私(山本)は、これはいわゆる「青い鳥」探しだと思うのですが、青い鳥が自分の家にいる(どこか遠い彼方に存在するのではなく)ことを知るには、一見無駄に見える長い探索の旅にでかける必要がある(そんな遠回りの必要がないほど叡智にあふれた人もいるのでしょうが、それは例外中の例外)と思います。
 聖書には、父の元を去った放蕩息子の帰還の物語がありましたし、真言宗の御詠歌にも同じ意味のものがあるのを近年知って、私は驚き感動したものです。

「たとえ一日に五分であっても、きれいな花や雲を探すとか、詩の一節を暗誦するとか、仕事に飽きた人の心を盛り上げるとか、何か特別な歓びのためにだれもが時間をさくべきであることは疑いを容れません。
 美や歓びを感じて微笑みを交わすことをいつもあとまわしにし、うんざりするような仕事や人間関係にしがみついているだけなら、自分をへとへとに疲れさせてしまうような人間関係がいったい何の役に立つというのでしょうか?」
「地上そのものを観賞し楽しむのでなければ、地上より空のほうが輝いていることに何の意味もありません。地上の美を愛してこそ、日の出や星たちの輝きを切望する資格があるのです」

「この世に聖者や天才はごくわずかしかいませんが、人々が大切にしている純粋な歓びのひとつひとつは、いわば“善意の結晶”のようなものであり、うっとりと眺める光景や、聴きほれるハーモニーや、そっと手で触れる優雅ではかなきもののひとつひとつは、やがて憂いや貧しさや苦痛によって破壊されることのない一群の甘美な想念を飛翔させることだろう------という大いなる希望はだれの心の内にも存在しています。ですから歓びというのはまさに愛と信仰の声とでも言うべきものであって、その声がついには「思い残すことはない」という永遠なる生命の言葉を発することになるのです」


追記
 もっともっと引用したい下りがあるのですが、このあたりでやめておきます(やりすぎは紹介の範疇を超えてしまいますので)(笑)。
 最後に、ケラー女史のバランス感覚(肉体のではなく内的な)について、重要な箇所を上げておきます。形而上的な方面に目が向きすぎて、現実感覚を失い、いわゆる「いっちゃった人」(この種の言葉はある種の侮蔑や揶揄を含むので正直使いたくありません。あくまで世間一般の表現としてです)になる危険性をはらむのですが、それについてケラー女史はこう語ります。

「私の生活は盲・聾・唖という三重苦のためにとても複雑なものとなっていますので、思考と努力で自分の経験を合理化しなければ、ごく単純なことすら行うことができません。
 もし外側の世界を理解しようとせずに、いつも神秘的な感覚だけを働かせていたら、私の進歩は妨げられ、あらゆるものが身のまわりに崩れ落ちて混沌となっていたことでしょう。
 夢と現実を混ぜ合わせ、霊的なものとまだきちんと見たことのない物質的なものをごちゃ混ぜにするのは私にとってたやすいことであり、内的な感覚がなければそれらを分けておくことはできません。ですから、色や、音や、光や、また触知できない現象についての観念を組み立てるときにたとえ間違いを犯すとしても、私はつねに外側の生活と内側の生活との均衡を保つように心がけなければならないのです。
 また、他人の経験を参考にし、それをあてにしなければ、私は自分の触覚を使うこともできません。さもなければ、私は迷路に迷いこむか、闇の中を堂々めぐりするほかはないのです」

 これは今風に言うなら「グラウンディング」についての、大変明快な記述だと思います。私は目も耳も口もいまのところ健常ですが、ケラー女史の言うこの種の感覚は常に忘れないよう努めたいと思います。
コメント
この記事へのコメント
これは凄い・・・
追記部分に大変な衝撃を受け数十回読み直しました。
非常に哲学的で、ケラー氏が三重苦という条件のもとでいかに丹念に思索を重ねたか、その血のにじむような過程を垣間見る思いがいたします。
2007/10/11(木) 14:57:53 | URL | あるカルマ・ヨギ #-[ 編集]
まことに
>あるカルマ・ヨギさま
 本当に淡々と語られているのですが、目耳口を損なわれた環境で、それがいかに大変な、また切実なことであったか、想像を絶するものがあります。
 一方少し視点を変えれば、これはまんま健常者にも当てはまる内容だと思います。
 人がどれだけ偏見や思い込みで、受け取る情報を捻じ曲げて世界を勘違いしていくかを思うと
 このケラー女史の言葉は重く重く(暗くではなく)尊いもののように私には思われます。
2007/10/11(木) 17:42:53 | URL | 貴嗣 #pmWGJPUI[ 編集]
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