あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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『奇跡の人の奇跡の言葉』
 原題は『My Religion(私の宗教)』という、1927年にヘレン・ケラーが著した本の全訳(高橋和夫/島田恵・訳 H&I)です。
 前から読みたかったのですが、この1日に東京の八重洲ブックセンター中二階の喫茶店で私は集英社の方と待ち合わせがあって、その前に時間があったので書店内を散策していて見つけました。ラッキー!!♪

 ご存知のとおりヘレン・ケラー女史は二歳になる前に熱病で視力を失い、耳と口も不自由になりました。盲聾唖の三重苦を、克服した人です。

 この本は、女史の形而上的な世界観を語った本で、有名な18世紀の科学者にして霊能力者エマニュエル・スウェーデンボルグの著作に触れ、多くの蒙が開かれたこと(旧弊なキリスト教会的世界観から脱し---女史はいわゆる「異教徒」にも立派な人物はたくさんいるのに、ただクリスチャンでないというだけで否定されることが堪えられなかったようです---より大きな視点で世界を見ることができるようになったこと)。
 自分がどのように三重苦と対峙し、それを克服して生きてきたかについて述べられています。

 スウェーデンボルグというと、たぶん霊能力者と言うだけで拒絶反応を示す読者もおいででしょうから、この本はそこが人によっては、大いなる「つまづきの石」になると思われるのですが(それゆえ、近年まで日本でも訳が出なかったのではないかと)(蛇足ですが私はスウェーデンボルグは霊能者という側面もさることながら、思想家としての側面が大きいように思います)。
 そういう賛否分かれる部分を差し引いても、幾多の価値ある内容が含まれた、貴重な一冊だと思います。

 以下いささか長くなりますが、いくつか心に残った下りを抜粋します。

「私は自分の身体的障害を、どんな意味でも神罰だとか不慮の事故であると思い込んだことは一度もありません。もしそんな考え方をしていたら、私は障害を克服する強さを発揮することはできなかったはずです」

「あらゆる障害は無関心という眼帯をはぎ取ってくれます。それによって私たちは他人が運んでいる重荷を正視し、憐れみの心の指示に従いながら彼らを助けることを学ぶようになるのです」
「これについては、人生の半ばで失明した人の例がきわめて具体的なので、それをあらゆる生命鍛錬の典型として使わせてもらいたいと思います。
 視力を失った人が最初に考えることは、自分に残されているのはもはや悲嘆と絶望だけということです。彼は人間らしいことのすべてから閉め出されたと感じます。彼にとって生命は、冷えた暖炉の灰も同然です。野望の火は消えうせ、希望の光もありません。かつては喜んで使っていたものも、手探りで歩き回る今では、彼に鋭い刃(やいば)を突きつけているかのようです。もはや彼を愛している人たちを働いて支えてやることができなくなったため、そういう人たちですら知らず知らず彼の感情をいらだたせるような振舞いをします。
 さてそこへ、教師でもあり友人でもあるなかなか賢い人が来て、こう保証します。
 たとえ目が見えなくても、手を使って働くことはできるし、かなり訓練すれば聴覚が視覚の代わりもする、と。
 傷心の人というものは、なかなかこういうことを信じようとせず、絶望しているせいか、自分がからかわれているのだと誤解してしまいます。そして、溺れかかっている人のように、自分を救おうとしている人を相手かまわずむやみになぐりつけます。
 それでも、本人がどう思おうと、彼を励まして前進させなければなりません。
 そしてひとたび彼が、社会に復帰して人間として価値ある仕事を遂行することもできるのだと気づけば、かつては夢にも思わなかったような存在が彼の中に花開くのです。もし彼が賢ければ、幸福というのは外的境遇にほとんど影響されないということを最終的には理解し、目が見えたときよりもしっかりとした足取りで闇路を歩いてゆくことになるでしょう」


 これはまったく同感です。
「幸福というのは外的境遇にほとんど影響されない」という重要なポイントに気づかないがため、どれほど多くの人が、見果てぬ「青い鳥」を探してさまよい苦しんでいることか。
 私もそういう日々がありましたし、それはそのことに気づくために必要な日々だったのでしょう。
 上記の内容(目の不自由な人にたとえた)は、恵まれた健常者が言えば「何を奇麗事言ってやがる」と反発する人もいるのでしょうが、盲聾唖のケラー女史にとっては、目が不自由な人というのは、耳も聞こえれば普通に口もきける、自身よりも二段階も「恵まれた」境遇なわけです。
 実に味わい深い話だと思いました(転載にあたり、ネット画面で読みやすいよう一部改行しました。あしからず)。


「この世はただひたすら歓びに満ちた住処となるように創られているわけでもなければ、怒りに満ちた場所となるように創られているわけでもありません。アザミは土から生い立ち、バラにもとげがあるのなら、どうして人生に試練があっていけない理由があるのでしょうか?
 それは不思議でも残酷でもありません。
 試練は私たちの生命を拡大し、この限られた地上では達成不可能なあの高い天命にそなえて私たちに強さを身につけるよう促す、神の激励なのです。自分を超えたものに向かって努力してこそ、意識の拡大と歓びが獲得されるのです。
 ですから、弱い人や試されている人、意気消沈している人に、生命を吹きこむ思想と意欲を授ける輝かしい霊感の与え主になろうとして、この世の十字架を華奢な肉体の肩に背負われた主イエス・キリストの模範を見習って、私たちもそれぞれ自分の障害を担ってゆこうではありませんか」


追記
 私はこの女史の最後の言葉に、植木ひとしの有名な歌の歌詞
「金のない奴ぁ オレんとこへ来い。オレもないから心配するな」♪
 を思い浮かべてしまいます(笑
 けしてちゃかしたりバカにしてではなく、こういう話はともすると深刻で眉間にシワをよせた語り口になりがちなのですが
 そういう明るいノリで乗り越えていっていいものではないかと。
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