あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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「六塵を悪むこと勿れ」
一乗に趣かんと欲せば六塵(りくじん)を悪(にく)むこと勿(なか)れ
六塵悪まざれば還って正覚に同じ
                 
                         『信心銘』(僧璨鑑智)

 “宿無し興道”と呼ばれた禅僧、澤木興道師の『禅の境涯』(大法輪閣)によると
 『信心銘』で仏教用語が使われているのはこの「一乗」のみとか(前述の引用文は同書から)。
 法華経にあるもので、ただ一乗の法のみあるというものです。 
 六塵(りくじん)とは
「色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)、眼には色、耳には声、鼻には香(にお)い、舌には味、膚には触覚、意識の対象には法。これを六塵と言う。これらのために誘惑される。それでこれらを六賊とも言う」
 とあります。
 「正覚(しょうかく)ということは仏さんの悟りです。どこにも幸福がある。どこにも道がある。六塵を悪まなければ、どこにも道がある。至る所、道ならざる世界はない。そうすれば、還って正覚に同じ」
 「そうすれば、汝の踏む所、浄土でない所はない。行く所として天国でない所はない。」
 「だから『六塵悪まざれば、還って正覚に同じ』」

 話が前後しますが
 『信心銘』というのは達磨大師から三代目にあたる僧璨鑑智(そうさんかんち)(『禅の境涯』には「鑑智僧璨大師」とあります)(?-606年)が仏教用語を使わずに仏教の真髄?を書き残したもので、禅に関心のある方はご存知かと思います。
 非常に味わい深い内容で、記憶力の衰えた私などには、とても覚えきれませんが、その言わんとする所は(すべてはとても理解できないので、目指す方向を、と言うべきでしょうか)座右の銘としております。
 どこをとっても味わい深いので、ここだけ抜き出す、ということが難しいのですが、あえて一部をとってみました。

一乗に趣かんと欲せば六塵(りくじん)を悪(にく)むこと勿(なか)れ
六塵悪まざれば還って正覚に同じ


 まことにそのとおりなのですが、凡愚の私(山本)にはなお悪(にく)むものもあります。
 人の心は勝手なもので、自分に都合のいいものは好み、都合の悪いものは憎む。
 
 たとえば、子どもがどうしても行きたい旅行の前に風邪で熱を出せば、これを憎むでしょう。
 どうしても行きたくない授業の朝に、同じように熱を出せばこれを喜ぶでしょう。
 風邪の発熱に善悪はなく、ただ自分が意味づけをしているだけです。
 しかし、いい大人になっても、人は自分の勝手な好悪に大義名分をつけて正当化し、さも個人的なことではないかのように合理化して生きていたりするものです。
 個人でも集団でも、国家や民族規模でも犯す過ちです。

 どこまで自分を見つめて行っても、まだまだ私にはそれがあります。
 そんな心が起こった時は、せめて不善をなさず、静かにいるよう心がけています。

 毎度ながら少し補足すると、この種の話をすると時々、犯罪や不当な扱いを受けても笑ってなすがままになることと勘違いされる方がおいでですが、そういう話ではありません。
 それらは適切に対処すべきです。

 「絶望的な状況はない、絶望する人間がいるだけだ」 グデーリアン
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