あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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『戦闘女神アヌンガ』3巻の情報・その他
『戦闘女神アヌンガ』31話14ページ部分
 いつも当「あつじ屋日記」を、お読みいただきありがとうございます。
 現在Bbmf社のケータイ配信マンガとして連載中の『戦闘女神アヌンガ』ですが、この2009年一杯で完結の予定です。
 ついては、単行本3巻を、いつもよりも厚めの作りとすることで、完結編までを収めて出す予定です。
 クライマックスの対決は、また手間をかけて執筆スピードが低下すると思われますので(笑)予定は未定、決定にあらず(多少ずれこむかも?)ですが、だいたいそんなスケジュールです。
 3巻をお待ちの方、お手数ですが今しばらくお待ちくださいませ。

 それから、先日、お読みくださっていられるお客様より、私宛のメールアドレスが不明とのコメントをBBSの方にいただきました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
 このブログの左下にメールフォームを設置いたしましたので、お気が向かれましたらご利用ください。
 

 それから、もう一つ蛇足ですが
 このブログには「下書き」保存機能があり、何日も前から書き溜めた記事を更新時間を設定してアップしたりもできます。自動でアップされている時間に、私本人は作画追い込み中などということもあります。
 こんな長たらしい記事を書く暇があるのにコメントのレスがないぞ!とかお怒りになりませんよう、どうぞよろしくお願いします;
 ではではまた♪
電子書籍版『紅壁虎(ホンピーフー)』
 「あつじ屋」の「著作」コーナーにも更新アップしましたが
 イーブックジャパン社で、昔集英社ビジネスジャンプ誌で連載しました拙著『紅壁虎(ホンピーフー)』全4巻電子書籍版が販売スタートしました。
 興味がおありの方はご覧ください。
 なお、この記事の添付画像は連載当時の2巻書店用ポップです。
『紅壁虎(ホンピーフー)』2巻書店用ポップ

 
夢について/青い鳥≒探し物は今ここに
 有名な『青い鳥』の物語を、たいていの方はご存知だと思います。
 しかし、きちんと全文を読んで、ぞのディテールを記憶していらっしゃる方は、おそらく多くないと思います。
 私も、あまりに幼い頃、ダイジェストで目にしただけのようで、ほとんど忘れ去っています。
 ただ、有名なオチの部分。
 捜し求めていた「青い鳥」はどこでもない自分の所にあった、というのは、記憶しています。

 大変象徴的な話ですが、人生の大きなテーマはこれに要約されているように思います。
 チリから生まれチリに還る、空(くう)より出でて空(くう)に還る
 その途中、私たちはチリでないもの、空(空)でないもの(色)に一時的になりますが
 いずれもといたところに還っていきます。

 もっと小さなテーマでも、これと相似なものがあるように思います。

 実は『青い鳥』以前から、同様の物語は世界の各所に見受けられ、それが同一起源のものなのか、平行進化の産物なのかは私にはわかりません。
 たとえば、ユダヤ教ハシド派にこんな物語があるそうです。

<エイジークは、赤貧で困窮している敬虔なユダヤ教徒である。彼は助けを求めて心から神に祈るのだが、はっきりした何の応えも返ってこない。それから彼は、彼のいる小さな町から離れた大きな大都市で彼を待ち受けている燦然と輝く財宝があるという夢をくり返し見始める。初めのうち、彼はこの夢をナンセンスだとみなし、自分は狂乱しているにちがいないと推断する。しかし夢は鮮明に繰り返され続ける。財宝はある特定の橋の下に隠されているのだ>

<イェーケルの息子エイジークは、この不可解な妄想から自分を自由にするために、とうとうその都市へ旅することに決める。多くの苦難の後にたどり着くと、彼は自分の夢と完全に一致していることを発見する。まさに財宝が発掘されるはずの橋の下に、驚きあきれて立ちつくしているうちに、彼は橋の番をしている兵士たちに捕まってしまう>

<やけになってエイジークが護衛隊長に自分の夢を物語ると、この農民の信じやすさをおもしろがり、二度と再び夢を信じてはならないと諭して、彼を釈放する。一例として、隊長は彼自身のばかげた体験---財宝は、都市から離れた小さな町に住んでいるイェーケルの息子エイジークとかいう男のストーブの下で見つかるはずだという、彼が繰り返し見る夢---を引き合いに出す>

<呆然としてエイジークは家に帰り、彼自身のストーブの下に黄金を見つける>

    『カミング・ホーム-文化横断的<悟り>論』
    レックス・ヒクソン・著/高瀬千尋・訳/高瀬千図・監訳/コスモス・ライブラリーより

 自分が捜し求める宝、夢の結論を求めて、遠く旅した主人公が、結局振り出しに戻ってそのゴールを見出すというこの物語は、ある意味元祖『青い鳥』と言ってもいいかもしれません。
 同様の物語が日本の地方の民話にもあると何かの本で読んだ覚えがあるのですが、どこかへやってしまって今確認がとれません。ご存知の方がいらっしゃいましたら、お教えいただけますと幸いです。
 蛇足ですが、有名なパウロ・コエーリョの小説にも、このハシド派の物語そのままと言っていいエピソードがあったように思います。ネタバレなのでどの作品化は伏せておきます。
 それはけしてパクリではなく、たとえば私が日本の有名な昔話(『桃太郎』とか)からエピソードを自作に挿入したようなものではないでしょうか。
 ユダヤ教ハシド派などと言われても我々日本人にはちんぷんかんぷんですが、あちらでは全然違う認知度なのだと思います。あるいはもっと別に、同様のバリエーションがあるのかも知れません。

<この聖なる財宝の循環(円環)的な探求には、その真剣さや苦悶さえも>
<帰郷した者の照明を受けた見地からは、強烈なユーモアがある>
 と著者ヒクソンは書いています。
 世界の各地に、こうした物語が見られるのは
 ただ単に、人間の素朴な願望を表している、だけではなく、人生の奥底にある真実も表しているように私は思います♪

追記
 追記
 さっそくお客様から、以下のリンクを教えていただきました。
 コメント欄を開けば読めますが、飛ばされる方も多いかと思い、一応本分に追記しておきます。
 飛騨高山の民話「味噌買い橋」
 これはロンドン橋の翻案なんだそうです。興味深いですね。
 おそらく私の読んだものもこれではないかと。
 となると少なくとも日本製は「平行進化」ではなく「外来生物」ならぬ「外来説話」ということになりそうですね。
「飛騨高山むかし話」
 貴重な情報ありがとうございました。
コメント欄・不調レポート<禁止ワード>
 先ほどお客様のコメントにレスを入れようとしたら
「禁止ワードが含まれています」
 になったんですが
 私今、禁止ワードってひとつも登録してないんですよね(これまで、それでコメントが書き込めないトラブルが多かったので)。
 しかし、何も登録されてないのに、このテロップって・・・??? 
 意味不明です。
 時間帯によるサーバー不調なのかもですが

 もし同様の症状が出て、何かお書きになりたい方がいらっしゃいましたら、「あつじ屋」のBBS「あつじ屋仮設掲示板」をご利用ください。
 お手数おかけしましてすみません;

追記
 今、このブログの管理ページで自分が設定した「禁止ルールを適用する」を「適用しない」にセットしなおして、レスを入れようとしたら、それでも「禁止ワード」表示が出ました。こうなると私のセッティングの問題じゃないんじゃないか?FC2ブログの大本のセッティングなんじゃないか?そう考えて文章を読み直したら
 「生きて死ねるように」の「死ね」のところじゃないかと閃きました。(ネット世界にはそういう攻撃コメントを寄せる「荒らし」さんがおいででしょうから)。
 んで、そこを「終われ」(つまり「生きて終われるように」に変えてみたら、無事にするっと書き込めました。
 偶然の一致????
 そうでないとしたら

 このフィルターはやりすぎでしょう!(笑
 もっとも、そうでもしないといけないくらい、その種のコメントが多いのかも知れませんが・・・

 また何かわかりましたらお知らせします。ではでは;


追記2
 先ほどテストでこの記事にコメントを入れてみましたが、問題なく書き込めました(アク禁IPアドレスとかは有効にしてあります)。
 んで、念のため、また文章に「死ね」の単語を含むものをコメントしようとしたら、「禁止ワード」ではじかれました。
 ううむ。
 これだと「父は安らかに死ねたと思います」
 とかいう文章も書き込めないことになりますね。まあ、そういうことのために昔からネットでは「氏ね」とか書くんでしょうが
 なんだか日本語の破壊のような気さえします。うーむ。
『悩みを聴く技術-ディープ・リスニング入門』
『悩みを聴く技術』
 『悩みを聴く技術-ディープ・リスニング入門』
 ジェローム・リス・著/国永文子・訳/春秋社

 タイトルどおり、人の悩みの聴き方の本です。
 巻末の略歴によると、著者Jerome Lissは1938年生まれ。1964年アルバート・アインシュタイン医学校卒、医学博士、専攻は精神医学。
 だそうです。
 人の話を聴く方法については色々な人が色々な本を書いています。
 蛇足かも、知れませんが私が最後に読んだのは、数年前買った鈴木秀子・著『愛と癒しのコミュニオン』でした。
 同書は私には何か今ひとつピンとこない部分がありました。
 原則的には良いメソッドなのでしょうが、それでは救われないケースが少なくないと思われることと、著者の「信仰」によるバイアスが、「九仞の功を一簣に虧く(きゅうじんのこうをいっきにかく)」下りがあり、私にとっては残念な一冊でした(ファンの方にはお詫びします。あくまで私の感想です)。

 さて、この本『悩みを聞く技術』で語られるメソッドは、けして他ではお目にかからないようなオリジナリティあふれるものではなく、すでにある聴き法といくつかの共通点のあるものです。
 しかし、既成のその種のメソッドに「一手加え」てある部分が、私にはおおいにうなずけるもので、買ってよかったと思ったものです。

 まず著者は
 <この本の中では、悩んだり苦しんだりしている人の話に耳を傾ける方法を「ディープ・リスニング」と呼びます。苦しみや悩みを「わかちあう」ために話を聴く「ディープ・リスニング」は、その二人が大切な人間関係に入ることを意味しています>
 と言います。
 第一章Lesson1のタイトルは「聴くことは手伝うこと」。
 <ディープ・リスニングは援助術>であり<人々が自分が出会った困難や人生の悲劇をのりこえる、あるいは少しでもそれを軽くする手助けをするうえでの大切な道具になると思います。それは一生をとおして使える“普段使いの”援助の技術です>と言います。

 「聴き手」は「話し手」をせかざす<ギアを「ゆっくり」>シフトする。
 <聴き手は舞台にあがらない>
 <「私があなたの話に耳を傾けることは、あなたが何をすればいいかを考える手助けをすることです。あなたの人生が、あなた自身の人生であることを思い出し、人生でのできごとを自分で決めてゆく手伝いをします>
 <親が子供の話を聴く場合、とりわけ思春期の子供が相手のときには、相手を尊重するというこの姿勢が大きな力を持つことが、よくわかります>

 相手の心にあわてて踏み込まないで、相手の「許可を得て」少しずつ話を聴いていく。
 相手の話す内容を、いいとか悪いとか決め付けることなく、静かに聴いていく。
 まず「話し手」が安心できるスペースを作る。
 リス氏は「問題」と「感情」と「からだ」(悩みを持つ人のからだに現れる思い)という3つが鍵だと言います。
 Lesson02に「ダメージを与える12の聴き方」というのがあって、これもなかなか参考になります。

 しかし、私が同書で一番気に入ったのは最後の章
 Lesson07「聴くことをあきらめない」に収められている「メタコミュニケーション」というものです。
 ここから先はいささかネタバレですので、同書をご自分で読まれるまでは知りたくない方はとばしてください。
 相手の自主性を尊重して脇役に徹し、聴くことの大切さを説いたあとで、その聴き方、相手との話し方そのものを再検討する場合もあると言うのです。

<「メタコミュニケーション」は、「話の中身」ではなく、「話し方」「コミュニケーションのとり方」について話すコミュニケーションです>
<私たちはよかれと思って聞いているつもりなのに、思わぬ混線、脱線をして、後味の悪い思いをすることが少なくないでしょう。このような混線、脱線を修復し、「軌道修正」する道具に「メタコミュニケーション」があります。これは話し手、聴き手双方に役立つ基本的な道具のひとつです>

 たとえば

<あなたが話し終わるまで、何も言わずに聞いているほうがいいですか。あるいは何か思いついたり、違和感があったら口を挟んだほうがいいですか>

 と尋ねる。
 なんだそんなことかと思われるかもですが、相手の話に口を挟まないのが正しい聴き方だ、それこそが相手の自主性を尊重した建設的な聴き方だ、などと、教条主義的に思い込んでいる人は、こういう自由度がありません。
 それでは話し手がかえって傷つくとか、救われないという状況でも、自分のスタイルを変えず、相手が異議をとなえると、それを相手の未熟のせいにしたりして無視したりさえします。
 そんな傲慢で不毛な対話はいかがなものか。

<私には何も言わずに話を聞く傾向があります。でもそれだとあなたが不安になるということがあれば、あなたのタイミングで応答することもできると思います>
 あるいは
<話の途中で自分のコメントを挟むとか、質問をする癖があります。でも今あなたが話していることはとてもデリケートで、重要なことなので、腰を折らずに聴いて実際に起きたことを理解するほうがいいと思っています>

 というように、相手の好みに応じて変化を申し出る。また、悩みを話す話し手からも、同じように聴き手に対してリクエストを出す。
 正直言って私(山本)自身、こういう柔軟さに大変欠けるきらいがあり、この記事はそういう自分への自戒もこめて書いています。
 これはほんの手始めで、同書の最終章ではもう少しくわしく、その調整法が述べられています。

<メタコミュニケーションは、聴き手にとって、一つの試練でもあります。しっかり聴いてほしい話し手が、聴き手の「“まちがい”を訂正する」たびに、聴き手自身は「私はきちんと聴いていたのに」と心の中で思い、不快感を抱くかもしれません>

<ある意味では現状(今の話し方/聴き方)を「否定」するため、不快感を生じさせるかもしれません。また話すことも聞くことも、あまりにも「自然」なことに思えるので、それをわざわざ「バージョン・アップしよう」と呼びかけることは、「人為的」で「不自然」な感じがするでしょう。多くの人は「赤ん坊の頃からやっているのだから、今更変えられないよ」と思うかも知れません。
 けれどもメタコミュニケーションは、この私たちの現状を越えていこうという呼びかけです

<「話をよりよく進めるために、話し方について話しませんか」

 話の流れがうまく進まなくなったとき、メタコミュニケーションをとってみましょう>



 この本を読んだからと言って、あすから聴き方名人になったりするとは申しません(少なくとも私はそうでした)(笑)。
 ただ、コミュニケーションが不得手でなんとかしたいと悩む方に、けして無駄にはならない一冊だと思います。
 私がこれを買ったのは、半年以上も前です。
 ブログ記事にしようと書きかけて、下書きのままずいぶん放置してました。
 今回書上げるために久々に目を通して、改めて同書の意義を再確認しました。
 しばらく手元に置いて、読み直してみたく思います♪
人は鏡
 何年か前『鏡の法則』とかいう本が売れてたことがありましたが
 それ以前から、人は鏡であるというのは、色々な人が言ってきました。(鑑ではなく鏡の方)。
 今の自分を写す鏡ということです。

 人生はうまくしたもので、自分の愚かな部分、未熟な部分を映し出し反省させるのに最適なタイプの人間同士を出会わせてくれます。
 神仏の計らいと見るか、ただ単に「類は友を呼ぶ」人間の傾向から自然とそうなっているだけと見るか、その辺は人それぞれです。生物は意外と単純なシステムで複雑な行動を取れたりしますから、そういうものもあるかもです。
 自分も含めた友人知人、その他見ず知らずの方(ブログなど含めて)を見ていて、私はそのことを痛感します。

 「あなたがその問題をクリアしたとき、もう、そういうトラブルを引き起こす人はあなたの前に現れなくなる」
 という人がいます。
 ある種の形而上的な考え方ですが、言葉通りに受け取るとおかしいことがすぐわかります。
 この理屈だと、ものがわかればわかるほど(悟れば悟るほど)、わかってない人間とは出会わないようになるわけですから、釈迦やイエスが通りを歩くと、ゴーストタウンのように人がいなくなることになります(笑
 そういうことはありえないわけで
 物理的には現れても、もはや自分にとっては昔のような問題ではなくなるという意味にとるべきでしょう。

 自分のことをわかってくれないと言って、一方的な被害者意識で怒り悲しむ人がいます。
 誤解した人にはした人なりの解釈があって、それはその人の自由なのですが、そっちの立場は認めません。世間的にはそいうい解釈も可能だということを指摘されてもなお、「でも」この場合は自分の気持ちを汲み取ってくれるのが当たり前だろう、とゆずりません。
 見ていると、誤解した人のかたくなさと、合わせ鏡のようにかたくなです(あるいはそれ以上にかたくなだったり)。
 こういう人は、自分のエゴを握り締めていて、ちっちゃな自尊心が満たされたか傷ついたかが常に人生の重大事です。ささいなことで傷つき、そのことを訴えます。すると「類友」でそのことを慰め賛成意見を述べる友人が集まってきます。そこに発展性の無い依存の輪ができています。

 私が生きてきて、ある時メウロコだった教えの一つに
 「人は過度に他人の感情の面倒をみるべきではない」
 というのがあります。
 うすうす感覚的には解っていたことでしたが、そうはっきりと文章化して明確に指摘されたのはその時が初めてでした。
 世間的には、人の悲しみや苦しみのフォローにまわるのは優しいこと、愛情あることと短絡的に解釈されることが多いですが、それをしすぎた子育てなどが、どうしようもない人間を作り出すことはよく知られています。
 しかし、そのルールは成人した人間に対しても当てはまるのではないでしょうか。
 人間が助け合い、いたわりあっていくことはステキなことですが、そこに依存が生まれては、なんにもなりません。
 以前「すべてのモノはアヘンである」という記事を書きましたが、人間関係も同じです。
 本当に心身に再生不可能な障碍があって介護を必要となさっている方のことではありません。
 自分の意識や思考法、生き方あり方を変えるだけで解消できる問題を、いつまでも放置して他者に依存しているケースのことです。

 そういう人は、それを自分で変えない限り、いつまでたっても同じ苦しみが訪れます。
 後に廻すほど悪化すると言ってもいいかもしれません。

 私はこの春に「朝(あした)に悟りを得れば 夕べに死すとも・・・」という記事を書きました。
 その中で、どうしても一日も早く悟りを得たいと言って釈迦に立ったまま教えを説かせたバーヒヤという人の話を書きました。あの話で釈迦がバーヒヤに言った
 「見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない(対象にはとらわれないという意味)。内にもいない(心の中にも執着・煩悩が生まれないという意味)。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない(解脱の状態)。それは一切の苦しみの終わりである」
 という教えは、バーヒヤ一人に当てはまるものではなく、私ども人間すべてに当てはまる教えだと思います。
 「あなたが変われば、あなたに問題を起こした人は、もうあなたの前に現れない」
 というのが、物理的な言葉どおりの話でないように、上記の釈迦の教えも、何も考えられないアホになることのススメではありません。
 対象に囚われて終わらぬマインドのぐるぐるをおやめなさいと言っておいでなのだと思います。
 世の中には知識や科学を否定する宗教もありますが、お釈迦さまは、そういうものはどんどん学んで見識を深めることを奨励した人でした。そのことと、意識の持ち方は別のカテゴリーです。

 話を戻すと、
 相手の立場に立てない、自分の立場だけを正しいとして嘆き怒る人には、その問題点をクリアしない限り、同じように自分の立場からだけ一方的にモノを言う人が、いつまでもいつまでも送り込まれてきます。
 それはこの世に尽きない存在であり、日が昇り月が沈み星がめぐって雲が飛ぶように、私たちが死ぬときまでも、この世界にあるでしょう。
 その人たちを変えよう(消し去ろう)というのは無駄なことであり、変えられるものは自分だけです。
 「私の言ったことはうまくつたわらなかった。思ったとおりに解釈してくれない人がいた」
 事実はそれだけであり、何も嘆くことも相手を悪く言うこともありません。
 私の感情の面倒を誰かに見てもらう必要もありません。
 つき合いたくないなら絶交するだけであり、つき合いたい、あるいはつき合わざるをえないなら、泣きごとを言うヒマに双方の妥協点を探るだけです。
 「自分が学んだ旧来の日本語とは別の受け取り方をする人が世間にはいる。言葉というのは時とともに変わっていくものだから、これからももっと、そういう人は増えていくことはあっても減ることはないだろう。ではもっと誤解の無い話し方をするように工夫しよう」
 そう思って努めるだけです(うまくいくかどうかは別として)(笑)。
 そう視点を改めたとき、同じような人がまた現れたとしても、それは敵でも攻撃者でもなく、一人の貴重なデータの提供者か、ただの人、少なくとも以前のようなストレスは感じない存在であることでしょう。
 そこに加害者も被害者もありません(物理的な犯罪者、ストーカーとかは警察に)。 


 というのは一応の一般論、原則論ですが
 中には、そんな言葉の行き違いではなく、もっと大きなトラブル、理不尽なテロや事故のケースはどうなるのだ、と言われる方もおいでだと思います。
 原則論は原則論であって、ソバはうまいという話をしている時に、まれにいられるソバアレルギーの方を対象とした話はしていないわけです(だからと言って、ソバはうまいと言う人が、アレルギーの人を否定しているわけでも攻撃しているわけでもないです)。
 すべてはケース・バイ・ケースですが
 たとえそういう「非日常的な惨事」であっても、そのことを活かしてより高みへ自分の意識を進める糧(かて)にすることが可能であることは、先日の「ゆるす人・1(参考資料)」に書きました、河野さんのような方を見ればわかります。
 出会う人、できごとを活かすか活かさないかは個人の決めることで、これが正しいとか間違いということはありません。
 ただ、活かさないのは「もったいない」なあと、思います。

 ちなみに私がここ10年くらいの間で出会った、不愉快な人ベスト3いやワースト3、は、
 その時はどうにも耐えられない人でしたけれど、今振り返ればそれぞれに自分(山本)の愚かさや未熟さを写す鏡であり、また、それを教えてくれた貴重な師でもありました。
 その時その場で感謝できなかったのは、私の未熟さだと思うものです。

 「日々是好日」について「これでいいのだ」という記事を書いたことがありますが

 「人々是好人」

 これでいいのだ♪
飲み合わせ×
 知り合いの方の日記で、寝る前の緑茶がおいしいというのを読んで

 そう言えば東海道線をまだ寝台車が走っていた頃
 私は帰省途中、寝台で導眠剤を飲むのについヘルシア緑茶を使ってしまい
 カフェインと相殺したのか全然寝付けなくて困ったことがありました(爆

 お茶はおいしいけどナメちゃいけませんね(笑
“An Atlas of Anatomy for Artists”
“An Atlas of Anatomy for Artists”
“An Atlas of Anatomy for Artists”  Fritz Schider 著

 作画資料としての蔵書の一冊。
 いわゆる人体デッサン、解剖図の本です。
 実は驚いたのが、先ほど覗いたアマゾンの洋書部門ベスト100の5位にこれがランクされていたこと。

 なんで???

 ちなみに1位はマイケル・ジャクソンの“Dancing the Dream”でした♪

 ここ最近、日本人は急に人体解剖作図に目覚めたんでしょうか。
 いやまさか(笑)。

 ゲスの勘ぐりかもしれませんが、
 先の児童●ル●法問題で、児童の裸体が掲載された書籍やビデオの類は取り締まり対象になることが懸念され、私もお客様のご質問に応じてBBSでもちらっと触れましたが、美術解剖書の中にはそういう写真があるものもあり、それまでもポ●ノと判定され、所有者が犯罪者扱いされたら、それは現代の焚書、思想弾圧であろうと。
 その辺の流れで同様によそでも話題になっていて、本来美術になんの興味もない方まで、購入に走られたのではないかしらんと(全然はずれてるかもしれません、あしからず;)

 アマゾンのレビューの中にもありますが
 この本はいい本です。
 その中に、いくつかの年齢別の男女の裸体写真(あくまでプロポーションの資料ですので、ただ「きをつけ」をして写っているだけです)が複数掲載されています(白人ですが)。
 年齢別の描き分けをリアルに行うには貴重な資料で、本門の骨格、筋肉の図ともあわせて、これが千円ちょっと買えるというのはかなりなコストパフォーマンスだと思います。
 
 門外漢がよこしまな願望でお買いになられても、想像するような扇情的なカットはないと思いますが(笑)、リアルな人体を志向されるマンガ家志望者さんには、オススメの資料の一つです。 
報道のウソ
 昔から報道にどれほどやらせとウソがあるかは、このブログをご覧いただいてる皆様もよくよくご存知じのことと思いますが
 先ほど知り合いの唐沢なをき&よしこ両先生のブログに以下のような記事がありましたのでリンクさせていただきます。
 「マンガノゲンバ」の件

 該当記事は奥様の唐沢よしこ先生の書かれたもの。
 ご記憶の方もおいででしょうが、よしこ先生は私がかつて美術出版社から出しました『本気のマンガ術』の共著作者です。
 ふだんからキレやすくコミュニケーションに問題のある方ならともかく、人当たりもよく温和なご夫妻がなぜ途中で取材をキャンセルなさったのか、よほどの事情がおありだったのだろうと思っていましたが、果たしてかくのごとき次第であったようです。

 昔私も日記で書きましたが
 知人の漫画家さんが某有名新聞の取材を受け、大都会の高層ビルが破壊されるシーンを描いたことについて、
「●●氏は若いころいつかこのビル群を破壊して見たいと思った」
 みたいな、言ってもいないことを勝手に書かれ、抗議したら、謝罪されるどころか
「だって本当はそう思ってたんでしょ」
 みたいな決め付けをされて困惑したそうです。

 私が以前インタビューを受けた有名紙と言うと読売新聞でしたが、そういう無法はありませんでした。
 担当記者さんがまともな方だったのでしょうが、ある意味運が良かったのかもしれません。
 この種のトラブルは新聞テレビを問わずあちこちで見受けられ、俗に言うマスコミ「マスゴミ」説にも、火のないところに煙が立っているわけではないなと思わせるものがあります。

 人間、自分が好意を持っている人については、あの人がそんなことを言うはすがないとか「ちょっと待てよ」の修正がききますが、嫌いな人、ふだんから敵視している人のネガティブな報道に関しては、そういう人物の「悪いうわさ」を見たい聞きたい(自分の嫌悪感を正当化してくれるデータが欲しい)というバイアスが働くため、あまり批判することなく
「やっぱり思ったとおりイヤなやつだった」
 とか
「思ったとおりバカなやつだった」
 と受け入れてしまいがちです。
 しかし、実は報道が作り上げたまったくの虚像である可能性も忘れないのが大切だと、この件は改めて思わせてくれました。

 唐沢先生ご夫妻の、ご心中お察し申し上げます。
 どうかお心を安んじられて、恙無く執筆が行われますように。


追記
 あっ、そう言えば私も駆け出しのころ
 ある雑誌でインタビュー受けて普通に答えたら、掲載時すっげーうわついたバカみたいなしゃべり方に書き換えられてて、それが取材に来られたライターさんが以前から顔見知りの方で信頼していただけにショックだったことがあります(笑


追記2
 その後、よしこ先生より、ご夫妻が途中で取材を拒否される決定打になったディレクターの要望をうかがいました。
 ブログにもありますとおり、視聴者を楽しませる罪のないレベルでの演出ややらせは「大人の事情」で許容範囲だと思いますが、マンガ家としてのなをき先生の根幹にかかわるウソをつけというのは、とても受け入れられるものではありません。
 お断りになってよかったと思います。何よりでした。

追記3
 追記2の事情がブログにアップされています。
からまんブログ 「ネタバレになっちゃいますが」
手相/KY線
手相/KY線
 近年テレビなどでも話題になっていた、お笑い芸人の島田秀平氏の手相鑑定。
 実は氏の書いた本を私も一冊持ってます。
 手相鑑定が当てになるか迷信かは、人それぞれお考えがおありでしょうし、それについては断定は避けます。
 氏が語る手相の話で、興味深いのが「KY線」。
 上の添付画像は私がざっと描いたものですが、一般の人は、運命線と頭脳線がその起点で一つになっているのが、少数ですが離れている人がいて、それを島田氏は「KY線」と呼んでおいでです。
 直訳すると「空気読めない線」ですね(笑)。
 手元にある氏の著作によると

<頭脳線と生命線の起点が離れている。5mm以上離れていれば、より強い傾向が>

 だそうで

<マイペースな人です。我が強く、人の意見に合わせず、自分の意見を通すタイプ
 自分が認めた人以外の話は聞けないようなところがあります。
 デスクワークより人と接する派手な仕事を好み、平凡を嫌う傾向があります。
 芸能界ではモデルさんにこのKY線が多く、ボクが見たモデルさんは、ほぼ全員、この相でした。
 また、テレビのディレクターや本の編集者など、クリエイティブな仕事をする人にもこの相は一定割合いるのですが、みなさん「いい仕事」をされるようです。相手の都合を優先するのではなく、「こうすべき」と理想に突き進むので、いい結果が出るのです>

<女性の場合は、家庭にじっとしていることができない人が多く、専業主婦になりづらいという傾向があります>

<この手相の人は、プライドが高く、繊細な神経の持ち主である反面、周囲に認めてもらえないというジレンマをもっています
          (太字・原文ママ)


 さて、私は思い切りこのKY線タイプでして、この人の本を読むまで、手相はそれが当たり前と言うか、誰でも頭脳線と生命線は離れて始まっているものと思っていました(笑
 島田氏の文章には「5mm以上離れていれば、より強い傾向が」とありますが、しっかり5mm以上離れてます(と思ったんですが、よくよく見直すと右手はそうですが左手は4mmでした。mixiのお客様からいただいたコメントによりますと

「大阪大学手相研究会の秘伝では、
・生命線と知能線は離れていると気が強い。
・5mm以上離れていると大雑把。」

 だそうです♪)。
 島田氏は左手で占う人のようですが、どちらの手を見るかは手相見の流派によって異なりますので、あくまでここは氏の流儀ということですが、
 ちなみに私、左右どちらの手もKY線です(笑)。

 んで当たってるかどうかですが、幼いころからクラス全員が白と言っても先生が白と言っても、私は一人でも納得いかなければ黒という性格でした。
 マイペースという点では、大当たりです。
 昔から真実至上主義で、本当のことを言われて怒るのは怒るやつが悪いという主義でしたから、人生で破綻した人間関係というのは、たいがい私のキツイ一言が原因です。それも悪意ではなく、ただ相手の問題点を指摘しただけということが少なくなく、言って見れば「王様は裸だ!」と直球で言ってしまった結果です。
 私も命は惜しいですから、たとえば暴力団員に向かってそういう発言をしたりはしませんが、友人などに言う場合、この人は己のプライドよりも真実を優先して、提言を真摯に受け入れるだけの知性と度量を持っているだろうと思うか、あるいは、一緒に仕事をしている相手などに、このままの状態では進行に支障をきたすため、改善を願ってか、だいたいそんな理由で言うのですが
 冷静に淡々と要点を指摘するだけで、怒ったり悲しんだりして心を閉ざしたりする人が少なくなく、そのため近年はよほどのことがない限り、人に苦言は呈さなくなりました。人の目の中のチリを払う前に、自分の目の中の柱をどけることに専念しています。

 ちょと話が長くなりましたが、相手の打たれ弱さを見越して適当なパンチを出すということがヘタクソな性格で、その点でもKY線大当たりです(笑)。

 ただし、<平凡を嫌う>のは大当たりですが<デスクワークよりも>というところは、ほぼ100%がデスクワークなマンガ家の私には当てはまりません(笑)。
 <プライドが高く><周囲に認めてもらえないというジレンマ>は当たっています(もっとも最近はプライドなどくそくらえの方向で生きてるんで、ある意味半分過去の話ですが)。
 
 さて、実はこの話、私の妻にも当てはまりまして
 つまも見たら、ばっちり同じKY線。
「えー?手相ってこういうものじゃないの?」
 と、私同様半世紀にわたって勘違いしてたようです(笑)。

 道理でお互い意見の激突を見てもゆずらないし話が平行線なままになることが多いわけです。
 なんで状況を見ないでこのタイミングでそういう話するかなーとか思うことが時々ありますが、たぶんむこうにとってもそうなのかもしれません。
 さて、こんな「空気読めない」同士がなぜ四半世紀も夫婦でいられたのか。
 一言で言うと「神の味噌汁」(笑)なんですが
 一つには私が妻をずっと大好きだったことと(ちゅーか、若い頃より右肩上がりに好き)裕福でなく慰謝料を支払うに十分な財力が無かったので離婚できなかったことが二大原因ではないでしょうか(爆
 あと、どんな怒りのツッコミを受けても私が感情的に返さないことと(若い頃はうっかり同じ土俵に上がって感情的になったときもありましたが)、何を言われようとその後根に持たないことで、かなりスルーできてる面もあります。
 ただ、冷静さが返って火に油を注ぐ結果になる際もありますが(笑
 
 島田氏のKY線解説の
<家庭にじっとしていることができない人が多く、専業主婦になりづらい>というのは、もろに妻は当てはまっていて、世の中で主婦業くらい退屈なものはないという人で、そういう人が主婦になってしまったのは、なんの修行か知りませんが大変なことだと思います(なので、妻には密かな野望があるようです。何かは教えてくれません)。
 昔からとにかく<平凡を嫌う>性格で、おかげで私のようなイカレた男と結婚し、苦労する羽目になりました。
 何にせよ、ずっとつきそってくれている妻には申し訳ないことです。

 有名なオスカー・ワイルドの短編で『幸福な王子』というのがありますよね。町の広場に立ってる石造の王子と、そこに立ち寄ったツバメとの話。私は、王子でもないし人々に与える宝石など何一つ無いけれど、一つところでずっと世の中に何かを発信していて、それをかいがいしく手伝ってくれてるツバメのような妻がいるところは、「幸福な貴嗣(あつじ)」だなあとか思うことがあります(笑
 いつも妻には感謝してます♪

 話を戻して

 島田氏の言うところでは、世の中の大半は上の図の左側のようなパターンの手相で
 KY線は少数派らしいのですが
 これって皆様はいかがですか?
 ではではまたー♪


 参考文献/『島田秀平の手相占い』河出書房新社
いいからみんな赦しちゃえ(笑
 これまで色々と「ゆるすこと」について語ってきました。
 あまり極端なことを書くと、一部のお客様が引いてしまわれると思って、書きあぐねていたことですが(いや、もう書いてましたかしらん)
 ぶっちゃけ私の目指す方向としては

 「ぜんぶゆるす」

 「いいからみんなゆるしちゃえ」
 です(笑)。

 すでに何度も触れてきましたが、世の無法や犯罪者を見て見ぬふりをしたり、再犯の可能性が大きい凶悪犯をどんどん無罪にして野に放つといった物理的な無法状態の推進ではありません(誤解なさいませんよう)。
 あの無抵抗、非暴力をかかげたガンディーでさえ、その思想を勘違いして、暴行を加えられる女性を助けないでシカトした男性に対し「私は卑怯者になれと説いた覚えはない」と嘆いたという話があります(ちゃんと止めに入れということです)。
 法を守ることは言うまでもなく、危険な人物と罪のない一般市民を隔離しておくのは大いに賛成です。
 私が言うのは、われわれ個人の心の中の話です。

 私は根が小人で、もともとは復讐心の強い方で、つまらぬことで頭にきた相手のことを何年もムカついていた経験が何度もあります(「小人の恨みは深し」と申します。ストーカーの逆恨み殺人とか、いい例です)。
 いや、実は今でも、完全には落としどころの見つからぬまま、どう解釈していいのかわからない相手がわずかですがいます;
 ただ昔と違って、あくまでその悩みは、相手をどうしてくれよう、ではなく、そういうことで考え悩む自分をどうしてくれようなんですが(笑

 ゆるせないままいることは、一種の地獄です。
 誰のためでもない、まず自分にとって地獄です。
 ゆるすのは、自分が無理にがまんをして、ひどいやつによくしてやる(ひどいやつを甘やかす)こと、ではなく、自分の心身と魂を際限ない恨みの苦しみから解放してあげることです。
 あんまり受けない内容なので、今一つ書きあぐねていたテーマなのですが、先日
 同じようなことと取り組んでおいでのお客様のメッセをいただき、そうか、わずかでも共感してくださる方もおいでなのかも、と、少し励まされた気がしました♪(ありがとうございます)。

 私はこれまでの人生で、誰かをゆるさないでいて幸せになった記憶がありません。
 無論なんとかしないといけない相手や、状況はあります。それに的確に対処する必要はあります。
 雨漏りがするなら修理しなくてはいけません。
 犯罪行為をしかけてくる人がいたら、警察やしかるべき場所に訴えたりして(あるいは、その余裕さえない路上のトラブルなどであれば、自分自身で)問題を解決しなくてはいけません。
 でも、「耐えられない悪天候」はあっても、「ゆるせない悪天候」がないように(私にはありません)
 「絶えられない(放置できない)人物」はあっても、「ゆるせない人物」とはとらえないように私はしています(いつも成功するとは限りませんが)。

 とりわけ自分の内的成長という視点で見た場合、誰かへの悪意や敵意、恨みや呪いというのは、建設的なものは何も生み出しません。
 成長を後戻りさせたり、何よりメシがまずくなります。
 メシを食いながら思い出すゆるせない奴のことくらい、メシのうまさを損なうものはありません(笑)。
 なぜ私は私にそんなくだらないことをしかけ続けなければいけないのでしょうか。
 それらは全部手放したいと思うものです。

 大昔、借金に困った人々が、金貸しの家になだれこんで借用証文を焼く、
 政府も政府で、それまでの借金をチャラにする「徳政令」という法令を発布したことがありました。
 人々がちょんまげを結っていたころのことですが
 私は、もしこの世で誰か私に精神的に「借りがある」と思っている方がいらしたら、その方の「ココロの借用書」はすべて火にくべ、「魂の徳政令」を発布して生きていきたいと思っています。繰り返しになりますが、それは、誰かのために自分が無理をするのではなく、自分が一番気楽な生き方だからです。
 日常のバランス感覚を維持したギヴ&テイクは否定しません。
 あくまで恨みやゆるせない(から、あいつをどうしてくれよう)の感覚のことです。

 ある種の道徳や宗教は「因果応報」を説きます。
 それは、ある意味で良いことであり、また現実にあることだと思います。
 ただ、自分の復讐心を満たすための「錦の御旗(にしきのみはた)」、水戸黄門の「印籠(いんろう)」代わりに、その思想を用いるのは、一つの愚かさであり狂気だと思います。日常のささいなしかえしから、隣国へのエンドレスの悪意、爆弾テロに至るまで、根底には同じ狂気が潜んでいます。
 悪事を働いた人が、自分の悪事を思い知るために、同じような目に逢う、というのは、ある段階ではいい「教育」とも言えるでしょう(実際、本当にそういうことが必要な人もいます)。しかし、すべてのケースに適応するのは、ミソもクソもいっしょ、高血圧の患者と低血圧の患者に同じ薬を飲ませるようなものです。

 一つのシミュレーションとして考えていただきたいのですが、誰かがひどい犯罪を犯したとして、その罰として、じゃあおまえはそこの廊下で1000年腕立て伏せをしていろ、と言う神がいるでしょうか。
 その人が心から反省し、償いとして何か世の中にお返しをしたい(傷つけた相手にお返しをしたい、でもいいです)と思っても、そんなことにはおかまいなしに、腕立て伏せを続けるよう命じるでしょうか。
 仮にそんな人がいたとしたら、それを見た通りすがりの人間としては、すみません、そこで腕立て伏せしてる方、よかったらこの荷物、車に載せるの手伝っていただけませんか、とか言うのではないでしょうか。
 仮に天罰を下す神がいたとしても、それならおまえ人助けをして償えと言うのではないでしょうか。
 もっとも、世の中にはもっと極端な刑罰を下す神を信奉する宗教もあるようですが、私はそういうものを信じません(それに関して神学論争をする気もありませんし、その種の信仰に介入する意思もありません)。

 以前も書いたと思いますが、正確には人間、いかなることも「取り返し」はつきません。
 したことはすべてしたことであり、なかったことにはできません。
 法律の世界には「慰謝料」などというものもありますが、あくまで便宜上のものであり、心や体に重大なダメージを負い、後遺症が残った方が、いくら加害者にお詫びの金を積まれようが本当の意味でチャラになるものではありません。

 一方で視点を変えれば、一銭も積まれなくてもチャラにできます。
 それは心の中のことだからです。

 加害者からの謝罪、などというのも、本当に申し訳ない、心よりお詫びしたいと思ってのことか、裁判で罪を逃れたいための演技か、人間にはけしてわかりません。
 あの態度は本当だ、あの目は嘘をついている、など、すべてただの想像であり、仮定に過ぎません。
 たとえある時点で、心よりの謝罪を受けた(ので、一応報われた、納得できた)と思えたとしても、後になって実は演技だったとわかったり、演技だったのではないかというウワサを聞いただけでも(実はそのウワサはデマで、本当は加害者が心底改心していたとしても)心は乱れ、手放したはずの怒りや悲しみ絶望が舞い戻ってきます。

 そういう誰かや何かの状態に影響を受ける心の平安というものに
 うんざりしての在り方です。
 自分にとってはゆるすことの方が苦しみである、という方は、無理してゆるす必要は無いし、それは無理だと思います。
 自分にとってはゆるさないことの方が苦しみであるという方、ゆるさないことの地獄に本当にうんざり辟易(へきえき)された方が、手放しゆるす道を歩まれるだけです。
 
 一人でも多くの方が、つまらない人やつまらないことのために終わりのない不幸や苦しみに落ち込むことなく、つまらないことは打ち捨てて、勝手に幸せになり、勝手に幸せに生きられますように。
 山本心よりそう願っております♪


関連記事
 「おめえに費やす○○はねえ!」
ゆるす人・1(参考資料)
 カテゴリ「ゆるすこと」の参考資料として
 世の中で、一般には「ゆるせない」と思われることを実際に「ゆるして」こられた人の例を、思いついたものから並べていこうと思います。
 本当の第一回は2008年8月15日の日記にアップしました「アガペー/お婆ちゃんの愛(再録)」ですが。

 一回目は、あの有名なカルト教団の殺人事件、松本サリン事件の被害者、河野義行氏。
 
 今更説明するまでもないですが、カルト教団の信者が撒いた毒ガスで、多くの方々が死傷された事件です。くわしいことは、検索すれば、ネットにもいくらでも出てくると思いますが
 河野氏の悲惨だったのは、被害者でご家族まで倒れられている(障碍を負って寝たきりになられた奥様は昨年亡くなられました)にも関わらず、当時、早合点した警察と偏向したマスコミの報道とそれに乗せられた無責任な一部の人々によって、事件の加害者、犯人であるとの決め付けを受け、多くの嫌がらせや苦労をされたと言う事です。
 おそらく言葉では言い表せない大変さ、我々の想像を超えたものがあったと思うのですが
 河野氏のすごかったのは、それでブチキレたり折れることなく、すべてを忍んで切り抜けていかれたことです。

 この夏、読売新聞に、改めて事件の今を取材した記事がありました。
 以下は現在(2009年)の河野氏についての抜粋です。

<8人が死亡、約600人の重軽傷者を出した松本サリン事件から27日で15年。第一通報者で、事件直後に疑いをかけられた河野義行さん(59)が読売新聞に、事件を起こしたオウム真理教の元信者らを許す心を語った。>

 河野氏は、今年(2009年)2月に東京拘置所を訪れ、地下鉄サリン事件などで死刑判決を受けて上告中の教団元幹部に面会、謝罪を受けられたそうです。

<1994年6月27日。犬が泡を吹き、澄子さん(奥様/山本・注)が倒れたあの夜は脳裏に刻まれている。「疑惑がなければもっと早く看病に専念できた」と心残りだ。誤認逮捕されて死刑になる可能性もあった。それでも警察やマスコミを恨まない。「相手を許す態度で臨めば、精神的に負けないと思った」>
                  (2009年6月28日(日)・読売新聞より)

 私(山本)の個人的見解ですが、氏は元々非常に知的で冷静沈着な方であったように思います。
 それゆえ、事件直後の悲惨な状況、混乱の中でも、あまり取り乱されることなく感情的にならず淡々と取調べ官や報道陣に対して思うところを述べられた。
 当時の報道を見ていて私はそういう印象を持ちました。
 そういう河野氏ならばこその、今日のこの心境だと推察されるのですが

 今思うと事件当時はその美点がアダになり、一部の人々の誤解と反感を招いたのではないかと思うものです。
 氏の「冷静さ」が「冷淡さ」と誤解され
 家族が倒れているというのに、あの冷ややかな態度はなんだ、とか
 近所の人々が死傷しているというのに、あのふてぶてしい態度はなんだ、とか
 そういう決め付けや思い込みが、被害者である氏に対して加害者、犯人であるとのレッテル張り(妄想と言ってもいいでしょう)を加速させた一因になっていたように思います。
 無論氏にはなんの落ち度もなく、勝手な妄想を抱いて暴走した短慮な人々の責任でしかありません。
 私は人間の愚かさの最たるものの一つが、自分が知りえない、判断しえないものついて、他者やものごとを裁くことだと思うのですが、あの当時の河野氏にまつわる悲劇は、事件そのものの悲劇の後に、愚かな一部の人々の言動による加害行為が、その悲惨さを倍加したと思います。

 同紙の河野氏へのインタビューは、上記の記事の数日前、2009年6月24日の夕刊にもありました。

<「家族を守りながら疑惑と闘った最初の1年はとてつもなく長く、妻の介護を続けたその後の13年はあっという間に過ぎ去った。3人の子供は当時中高生。ほったらかしにしてきたが、成長した姿を見ると、月日の流れを感じる」
 河野さんは15年をこう振り返る。>

<今年5月30日、山口市の会社員藤永孝三さん(48)は、山口県萩市の海岸で、河野さんと並んで釣り糸を垂れていた。講演で広島県を訪れた河野さんが寄ってくれたのだった。>
 
 藤永氏は、あのカルト教団の「科学技術省次官」で、同教団幹部の指示でサリンの噴霧器を製造した人物です。刑期を終えた人ですので、報道も「「さん」づけになっています。
 
<拘置中に河野さんの著書「妻よ!」を読み、たまらなくなった。殺人ほう助罪などで懲役10年の判決を受けたが、「自分の刑期など、失われた命の前では比較にならない」と思った。
 2006年6月、刑期を終えて、河野さんを訪ねた。目を合わせられず、ひたすら頭を下げた。河野さんは「あなたも運が悪かったね」と声をかけくれた。>


 自分の愛犬や妻を殺した犯人の訪問に、こう声をかけられる河野氏の境地はすばらしいと思います。
 藤永氏は以来
<月一度くらい、河野さん宅を訪れ、刑期中に覚えた剪定(せんてい)の腕をふるう。泊めてもらい、酒を酌み交わすこともある。
 ほかの遺族や被害者を忘れたわけではないが、謝罪など具体的な行動には移せないでいる。「これでいいとは思わないが、今の自分にできることは、河野さんを通じてすべての被害者に謝罪すること。自己満足かもしれないが・・・」と苦しそうに語る。>

 彼の償いは、これからの彼の人生で少しずつ果たしていくしかない課題であり、今ある状況はその一つの通過点に過ぎません。それはまた別の問題です。
 新聞には、今年の春に写した、二人が並んで釣りにでかけた際の写真が掲載されていました。

 ゆるす人が正しくてゆるさないのが間違いとかいうのではありません。
 自分や自分の愛するものを傷つけたり損なった相手をゆるせないと思う感情はしごく当然であり、ゆるせないものはゆるせません。
 ゆるせないと言う方に、あやまちがあるわけではありません。
 ただ、河野氏は、よりよく生きるためにゆるすことを選ばれた。
 怒りや憎しみのあまり心が壊れてしまう方がしばしば見受けられる中
<「相手を許す態度で臨めば、精神的に負けないと思った」>

 「ゆるす」という話において、必ず突き当たるのが
「そんな話はきれいごと、絵空事であり、自分が悲惨な目に逢えば、ゆるせるわけがない」
 というツッコミなのですが
 歴史上の偉人、聖人ではなく、今を生きる市井の人、ごく普通の一般人にも、絵空事ではなく実際に「ゆるして」生きている人がいるという実例を、河野氏は示してくださっているように思います。

 氏の歩まれた苦難の人生に頭が下がるものですが、加えて
 かけがえのない尊い見本を身をもって示されていることに、感謝の想いがこみ上げます。       
なぜ今急に???『淡雪記』
『淡雪記』11話カット2(部分)
『淡雪記』10話カット1(部分)
『淡雪記』11話カット1(部分)
 最近、FC2ブログ管理画面をチェックしてて気づいたんですが
 ここのところ、昨年10月15日の記事
「with馳星周先生ふたたび」
 をご覧くださる方が増えてます。
 もう一年近く昔の記事で、集英社の小説すばる誌の編集部より、馳星周先生原作の小説『淡雪記』の挿絵を描く依頼を受け、スタートしましたという内容。

 連載は先日12話の原稿を納めました。
 ご覧の画像は10~11話のものです。雑誌掲載時よりトリミングしてあります。
 

 「馳星周版フランダースの犬」と言うべきこの『淡雪記』
 ドラマはいよいよ佳境で、沸騰点へ向けて加速中なんですが
 しかしなぜ急にアクセス数が増えたのか?
 少しグーグルで検索したりもしてみたんですが、謎です。
 具体的に言うと、2009年9月7日朝の時点で、「with馳星周先生ふたたび」の「拍手数」は19なんですが、その内8個がここ一月以内のものなんです。
 どこかでリンクでも張られたのか、何かあるんでしょう。
 素直に考えると、物語が追い込みにかかって馳先生の筆が冴え、おもしろさが増すのに比例して、関心を持たれる読者の方が増えた、ということでしょうか。

 そういえば検索すると、この夏の<「FC2ブログ」過去の検索結果>で98位とかになってたようなんですが、なぜ???
 編集さんに尋ねても、別に編集部の方で変わったことがあったわけではないようです。

 どなたか事情をご存知の方がいらっしゃいましたら、お教えいただけますと幸いです。
 ではでは♪
しろさん近影
しろさん090905

 お目汚しに今朝のしろさんです。

 いつも外で呼んでいるので出て行くと、待ちかねたように駆け寄ってきて、サンダルの上から足の甲をアマ噛みするのが習慣です(かわいいです)。

 最近は、近所迷惑にならないようごはんを食べ終わるまで私かつまがそばで見ていて、食べ終わったら、カラスやら他の野良猫が来ないよう、即お皿を洗って片付けてしまいます。

 雨の日も割りと濡れずに現れるところを見ると、どこか雨宿りしながら移動するルートを確保しているのかもしれません。

 昨年、我が家に来始めたころより、気のせいかずいぶん穏やかな顔つきになりました。
 近所でも、色々な人になでられたり、可愛がられているようです。

 そういえば、しろさん以外の動物が来ないようエサを放置しないようになって、めっきり見かけなくなっていたシマネコを先月、何ヶ月ぶりかに妻が見かけました。
 つまんなそうに去って行ったそうです。
 ごめんねシマさん。 
夢について・3<若い人には若い人の夢を>
 執筆に忙殺されて遅れてしまいました。
 いや、今でも忙殺されてるんですが(笑
 先日の日記「夢について(お客様の質問にお答えして)その2」の続きです。

 今更言うのもなんですが
 50代の道を歩んでいる私と、これから人生に乗り出して行かれる20代の方とでは
 やはり別の姿勢があるのではと思うものです。
 
 武術の世界でも
 「大きく始めて小さくまとめる」
 というのがあります。
 いきなり初心者が、最小限の動きで最大限の威力を発揮するような達人の技を再現しようとしても、うまくいきません。修練は、最初は、大きく動いて基本動作を身にしみこませるための反復練習を行い、そこがクリアできてから段々ムダをそぎ落とし、コンパクトな動きに移っていきます。
 これを生き方に置き換えて言うと、私の場合は別に達人じゃないんで、「年寄りの技」と言うべきかもですが(笑
 
 夢を追うというのも、そうではないでしょうか。

 最初はムリと思えるものや、一種の誇大妄想と思えるような(だから、あまり大きな声では言えない、人に言うと笑われそうなものも含む)でもいいから、その夢を抱いて歩き出すのがいいと思います。
 ハンドルを右に左に切りすぎて壁にぶつかりながら、まっすぐ進む方法を覚えます。
 ちなみに、自動二輪、すなわちバイクの教習所で教わるものの一つに(免許をお取りになった方は覚えておいででしょうが)「一本橋」というのがあります。
 地面から数センチ高くなったタイヤ一本分くらいの幅のコンクリートの筋の上を数メートル、脱輪しないでゆるゆると進むというものですが
 あれをクリアするコツは、足元を見ないでゴールの先の一点を見すえて進んでいくことです。

 蛇足ですが、昔ある若いバイクレーサーのインタビューで、自分は走る際足元を見ないで遠くを見るということをレーサーになってからもしばらく知らずに走っていた、というのを目にしたことがあります。ある種の天才と言うか、セオリーを無視した我流の走りで、レーサーになった上いくつかレースもこなしてしまうというのが、すごい話で、人間の多様性を示しているようで感動しました。
 しかし、その選手、一本橋はどうクリアしたのか、したけど忘れてしまったのか(笑
 もうずいぶん昔のことでお名前も忘れ、藪(やぶ)の中です♪

 話は戻って
 夢というのは、あの「一本橋」を通過する際の、ゴールの向こうの一点のような効果を及ぼす場合があると思います。
 これはけして足元をおろそかにして現実を見るなというのではなく、足元ばかり見過ぎて不安と緊張に囚われないための秘訣くらいに取ればいいかと思います。

 昨今の失業率の増加、就職難、
 将来に夢が持てないという若者(に限らず中年、老年もでしょうか)の話を聞くにつけ
 確かにその状態で(見据えるべきゴールの先が見出せないまま)歩き出せというのは、けっこうしんどいことだろうなあと思うものです。
 詳しいことは別の回にゆずりますが、私の場合はもはやそういう「行く先に置いた夢」というものを必要としない心境にいるのですが(虚無主義ではありません。まあ、ある種の「自灯明(じとうみょう)」だと思ってください。「自灯明」とはなんだと言われる方は検索かけていただければ、と思います。その話はまた長くなるので別の回にゆずります)(笑)、それは今この歳、昔で言うなら(人間五十年)「老境と」言ってもいい歳になっての在り方であって、二十代の始めにそれで行けと言われたら、おそらく途方に暮れただろうと思います(できる方はできるでしょうし、そういう方はおやりになればいいです)。

 ただ老婆心(男なので「老爺心」でしょうか)から申し上げると、
 あまり遠くにかかげた夢の危険性は
 それに向かって近づいているのかいないのか、わからなくなる場合があることです。
 たとえて言うなら、北極星を目標に歩いている人は、それに遠ざかろうと近づこうと、あまりに遠い目標は大きくも小さくもなりません。変わらず天に輝いています。
 そのことに安心して、気がついたら同じところをぐるぐる回っていただけだったり、うっかり反対方向に進んでいたということさえあります。
 なんだか、先の一点を見据えることと矛盾するようですが
 どんなことにも危険な側面、トラップがあるもので
 遠くの夢は一つ持ちながら
 日々具体的にクリアしていくべきカリキュラム、プロセス(武術や武道で言うなら、昇級試験や昇段試験、あるいは、そこまで行く日々の進歩のチェックポイントでしょうか)を持つことが大切だと思います。

 そもそも今回「夢について」などというテーマで私が語るきっかけになった、若い方からのメールには、自分が実現したい夢と世界に対して働きかけていきたい夢が書かれていました。
「夢について(お客様の質問にお答えして)その1」参照)

 マンガ家になりたいという夢。
 そして世界をよくしたいという夢。
 私も同じような夢を持っていました。どちらもステキな夢だと思います。

 マンガ家になるのは、才能さえあればそんなに難しいことではないと思います。
 「嚢中の錐(のうちゅうのキリ)」
 という言葉がありますが、キリのような鋭いものは、袋の中(嚢中/のうちゅう)にあっても、自然にその鋭い切っ先を袋から突き出すことになる(才能のある者はいずれ知られることになる)という意味です。
 そういうものだと思います。
 大変なのはデビューしてからであり、それは何度も言ってきたとおりです。
 マンガ家であり続ける大変さにくらべれば、なることなどは通過点に過ぎません。

 蛇足ですが、私はよく親族の集まり(法事やお食事会など)で妻や義母から代理のスピーチを頼まれることがあります。私自身の実家は遠い山口県で、集まりと言っても大半が関東地方在住のつまの実家筋のそれなのですが、つまや義母はそういう人前でしゃべるというのは大の苦手で、私にお鉢が回ってくるのです。
 んで
 いつも快く受けさせていただいております♪
 内容が「ウケる」時もあれば、すべるときもあり、けして勝率?は高くはないんですけど(不特定多数の年長者に向かってウケを取るのは難しいです);

 私も本来は上がり症で、若い頃はサイン会の直前にプレッシャーで神経性の大下痢を起こしたりしてました。
 しかし、身内の会合でのスピーチのプレッシャーなど、仕事のプレッシャー(締め切りに間に合うかどうかとか、読者に受けるか受けないか、連載か打ち切りかetc・・・)に比べれば本当に本当に屁(笑)
 無にも等しいストレスです。
 おそらくそれに比べれば、人生のほとんどのストレスはなにほどのこともないでしょう。

 というわけで、マンガ家であり続けるというのは、苦労が多いです。

 しまった、また話がずれた!

 そうそう、夢の話です。
 お尋ねくださった方の、マンガ家になるという夢と、
 世界を少しでもよくしたいという夢。
 どちらもステキなものだと思います。
 後者はともすると誇大妄想とか偽善者とか笑われる場合もありますが
 つきつめると世界と自分は切り離せないものであり、どちらか一方のみの幸せというのは無意味なものだと思います。だからけしてちぐはぐな夢ではありません。
 自分だけの幸せというのは貧しい夢です。
 自他共に幸せになる道を模索するのが、結局は自分も幸せになる道だと思います。
 ただ、それにはそれで落とし穴があるんですが、それはまた項を改めて書きます。
 年寄りはつい先回りして余計な心配と忠告をし過ぎるのが悪い癖です(往々にして好意のつもりだったりするんですが)(汗)。
 若い方のせっかくの夢に、水を差すのはやめましょう。

 「もっと世界をよくしたい
もっと世界に夢を愛を溢れさせたい」
 という質問者の方の想い、私も大いに共感します。
 がんばってください。
 天を仰ぎ、地を省みて。

 最後にまた、おなじみマハラジおじさんの言葉から一言。

<もしあなたの欲望が個人的なもので、あなた自身の享楽のためならば、エネルギーは必然的に限りあるものとなる。それはあなたがもっている以上にはならないだろう>
<あなたが社会のためを思って望むならば、世界全体があなたとともに望むだろう。人類の望みをあなた自身のものとして努めなさい。そうすれば、けっして失敗はありえない>
                         ----------ニサルガダッタ・マハラジ 
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