あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
200907<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>200909
31話執筆中
『戦闘女神アヌンガ』30話19ページ
 近況報告。
 『戦闘女神アヌンガ』31話執筆中です。
 まだかよ!(というお声が聞こえてきますが)(汗
 すみません、まだです。
 途中、歯医者に行ったり、壊れたサブの冷蔵庫や食器洗い機を買いにつまを乗せてバイクで隣町にでかけたりというイレギュラーが入り、スケジュールが順調に?遅れております。
 逆に言うなら、そういう「放置できない必要事項」以外、何もしておりません。夏休みも気晴らしも一切ありません。ずーっと執筆しております。

 添付画像は前回30話からですが、昨年秋、夕刻に横浜でロケハンした画像と、この夏、追加で夜間ロケハンした画像を駆使し、アヌンガ、バトルを繰り広げております(ホテルまでとって一泊追加ロケハンしただけの甲斐はありました♪)。

 しかし、ただでさえ手間のかかるアヌンガの処理に、前回の軟体魔神の攻撃によるダメージ表現が加わり、敵の魔神も加わって、平均すると一日1ページくらいしか進んでません。アナログ執筆を除いた、デジタル処理だけで1ページ7~8時間とかのケースもあります。
 毎日つけている日記を見直すと、いつもの1.5倍くらいかかってます;(馬鹿です)
 こんなコストパフォーマンスを無視した執筆は早く改めたいとおもうのですが、一度手を入れ始めた画面は、急に変えると手抜きと思われますし、何よりテンションが下がりますので、当面はこのままいくしかありません(泣
 編集部の皆様とお客様にはご迷惑をおかけしまして恐縮です;
 たぶん次回配信は再来週ではないかと;
 あっ、問題のバトルは今回で一段落なので、次回はスピード元に戻るはずです。

 先日書いた夢についての話の続きとか
 読んだ書籍のレビューとか色々あるんですが、それはまあぼちぼち;

 では仕事に戻ります。
 みなみなさまもご自愛くださいー;


追記
 添付画像の主人公、巧馬は、先の魔神ミュランバ&ミリンギ戦のダメージを癒すため、女神アヌンガの胎内で療養中です(生体ICUとでもいいますか)。女神の身長が十数メートルですので、ボディラインには影響しません(笑)。
 女神が攻撃を受け意識を喪失したりすると、爆雷攻撃を受けた潜水艦内のように一瞬暗転非常灯モードっぽくなるのは、お遊びと思ってご鑑賞ください。
 ではではまた~♪
「私は笑って死ぬだろう」
 新聞の書籍広告を見ていたら
 昇幹夫という方の書かれた
 『泣いて生まれて笑って死のう』(春陽堂書店・刊)
 という本を見つけました。
 著者は<「逝き方は生き方」「笑進笑明」こそ自分を変化させる生き方>として<「日本笑い学界>副会長として笑いの医学的効用を説いて>いられるお医者さんだそうです。
 「逝き方は生き方」私もまったく同感です。
 内容は読んでいないので、まだ感想は書けないんですが
 このタイトル、実は私の信条でもあります。

 20世紀のインドの覚者、タバコ屋のおじさん、ニサルガダッタ・マハラジの言葉に以下のようなものがあります。

<私の態度は異なっている。子供の誕生を祝わないように、私は死を災難としては見ないのだ。子供は困難の中へと生まれ出てきた。死者はそれから立ち去るのだ。生命への執着は不幸への執着だ。私たちは私たちに苦痛を与えるものに執着するのだ。私たちの本性とはそんなものだ。
 私にとって、死の瞬間は恐れではなく祝福の瞬間だ。私は泣いて生まれてきた。私は笑って死ぬだろう。
  『アイ・アム・ザット 私は在る』
 (モーリス・フリードマン/スダカール・S・ディクシット/翻訳・福間巌/ナチュラルスピリット・刊)より

 人によってはショックを受けられたり、嫌な印象を持たれる方もいられるかも知れません。
 暗く後ろ向きな感じを持たれる方もいられると思います。
 自殺願望と勘違いされる方さえおいでかもしれません(とんでもないことです)。
 これは、すべてにこだわりなく、恐れや不安を手放して今を十全に生きる、晴れ晴れとした人の想いです(ニサルガさんの場合、マインドを手放しているんで、「想い」と言っていいのかどうかわかりませんが)(笑)。
 ちなみに、私は生まれてくる赤ちゃんを見ると、この大変な世界に恐れも知らず参加してきた不敵な魂として、敬意の念を抱きます。
 そうか、これから荒波の海に漕ぎ出していくのか。
 がんばってください。よい旅を。
 心中敬礼して見送っています。

 実は今年の四月にニサルガさんの言葉を引用した記事を書きかけて、どう補足すれば真意が伝わるのかと、考えあぐねて据え置いていたものです。
 きょう、冒頭の一書を見つけて
 ああ、視点のポジションは異なるけれど、似たようなことを言っておいでの方がいらっしゃる。
 たぶん、こっちの先生の言葉の方が、多くの方に届くんだろうなと思ったのでした。

 ふだんから「生死は問わない」と言うのはこのことです。
 「まだ生きていていいんですか、ありがとうございます」
 「もう死んでいいんですか、ありがとうございます」
 どっちにころんでも「はずれくじ」なしです(笑)。

 もっとも、冒頭の本も読んでみないことには比較はできませんが、私はたぶんニサルガさん寄りだと思います。

<私にとって、死の瞬間は恐れではなく祝福の瞬間だ。>

私は泣いて生まれてきた。私は笑って死ぬだろう。>

 きょうも良き日を♪
『弾(アモウ)』4巻<業務連絡)
『弾(アモウ)』4巻
『弾(アモウ)』4巻
 アマゾンで先ほど検索したら古本二点出品中でした。この日記のタイトル文字(色が変わっているところ)のリンクで該当ページに飛ぶはずです。
 お客様のお尋ねコメントにお答えしまして緊急アップいたしました。
 もし行き違いで品切れでしたらお詫びします;(2009年8月24日現在)

 しかし、『弾(アモウ)』って、けっこう古書でも高値のものがあるんですね;
 他の巻も見てちょっと驚きました;
 でも、高値がついても別に私の収入になるわけじゃないんですが(爆
ミケコの思い出久々(お食事中の方はご遠慮ください)
新聞紙の傍らでまどろむミケコ
 二階の部屋を片付けていたら、荷物に埋もれた部屋の片隅、カーペットの上に、猫のゲロの染みを見つけました。
 2000年に他界した愛猫、ミケコのものです。
 もう9年も昔のことで、最近は家のどこを見ても彼女の毛一本見かけなくなってました。
 生前は、時々やらかしてくれるゲロ(ミケコのゲロなので私とつまは「ミゲロ」と呼んでました)の始末は本当に大変で
 とりわけミケコの晩年は、粗相も加わって、室内はしょっちゅうティッシュと新聞紙がころがってました。
 締め切り間際の修羅場の最中とか、本当にブチキレそうになったこともあり、いい加減かんべんしてくれよと泣きが入ったこともありました。
 それも今は懐かしい思い出です。
 今は夢で会うくらいしかできませんが、ミケコとの愛情は何もかわらず続いています。
 寝る前に、その日のすべてに感謝して一日を終えるのが昔から私の日課ですが、その中には通い猫のしろさんと、愛猫(故)ミケコも入ってます♪

 先日は本当にひっさびっさにミゲロを見つけ(無論とうに干からびてただのシミですが)
 なつかしいやらおかしいやらで、つまと大いに笑いました。

 亡くなって9年も経ってから、こんなに私たちを楽しませてくれる愛しい猫の友でした。
 ありがとミケコ♪
夢について(お客様の質問にお答えして)その2
「夢について(お客様の質問にお答えして」の続きです。

 私がマンガ家になってからも、いくつか夢はありました。
 多くは作品に関してのものですが。
 自分なりに試行錯誤し努力はしたつもりです。
 でも、ほとんど、かなったことはありません。
 その他の夢も同様です。
 ちっちゃな夢(ちょっとあれが買いたいとか)はいくつかかないましたが、ほとんど思いどおりになったことはありません。

 絶望しました。
 夢とは壊れるためにあるのかと思いました。
 夢を見ることさえやめてしまった時期もあります。

 細かなことを書くと、山本貴嗣半生記みたいになるので省略しますが
 本当にもう夢など見まいと思っていた時期があります。

 しかし、ある時気づいたのです。
 人は、自分の夢や願望をそのままかなえることが、イコール幸せであるとは限らないと。
  
 物事には時期というものがあります。
 森の木にむかって、伸びろと言っても仕方のないことですし、実がなれと言っても無駄なことです。
 東洋的な言い方をするなら、願いがかなうには天地人、それぞれの時がシンクロする必要があります。
 それを人生は教えてくれました。
 失敗から学んだことも多いです。
 私の一番のオブザーバーである妻が、その作品は今描いても実がならない、十年は待った方がいいというのを無視して、どうしてもやりたいと、大量の手間と資金を投入して、失敗。大赤字になった作品とか、ありました(だいたい妻の読みは当たります)。
 それはもう、仙女さまの忠告を無視してひどい目にあうピノキオ並に、ありました(笑

 それで、ある時期から、投げやりとは別の意味で、すべてを流れにまかせることにしました。
 浮かんだ夢は、時期が来るまで暖める。絶対に無理はしない。
 いくらオキニのレインコートでも雨が降るまでは着て歩かないように、時期が来るまでは何年でも待つ。来たら動く。
 それまでは、タイミングのあった夢から順にかなえるようにしていく。
 永遠に時期が来なかった夢は、かなえられなくてもかまわない。一生来なければ、気にせず死ぬ(笑)。
 
 かなう夢であれば世界がそう動く時が来るし、来ない夢はかなわなくてもいい夢。
 それくらいに思っています。

 たとえば、マンガ家になる時抱いていた私の夢は、強く美しいヒロインが活躍するシリアスなアクション作品を描くことでした。
 この話は以前もどこかでしたことがあるので、お読みになった方もおいでと思いますが、
 19歳のとき双葉社の週刊漫画アクション誌でデビューしたときは、ギャグと言うかコメディ漫画でした。
 私はコメディも好きでしたし、何よりシリアスなアクション漫画はページ数を食い、デビューしたての新人の手に負えるようなものではありませんでした(少なくとも当時の私の能力では)。
 当時、編集長のSさんに、一応シリアスヒロインのラフスケッチなどもお見せしたんですが
 「キミの画力では無理だねえ」
 と言われました。
 誤解のないように申し上げますが、ギャグやコメディ漫画を描いておいでのマンガ家さんにも画力のある方はたくさんおいでです。
 ただ、シリアス漫画に必要な画力と言うのは、また別のものがありました。
 コメディも好きだった(今でも好きです)こともあり、以来私は長いこと、コメディマンガ家、ギャグマンガ家として暮らすことになりました。

 でも心中、シリアスアクションヒロインものへの情熱(夢というより野望といった方がいいかも)は絶えることなく、日々ラフスケッチや構想を練っていました。
 その夢は80年代末にコミック・ノイジィ誌での『剣(つるぎ)の国のアーニス』の連載と単行本化でかなうのですが、かなった時は30歳近く。デビューから10年近い年月が流れていました。

 今ではギャグマンガ家としての山本よりも、シリアスヒアクションマンガ家としての山本の方が、定着しております(そこがつまらんとおっしゃる昔なじみのお客様もいらっしゃるでしょうが)。

 夢の実現には、そういう執念が必要だと思うのですが、けして特別なことではなく、好きだから見続けてそれに向かって歩んだというだけの話です。
 「努力」と言うと、苦しい嫌なことを無理して続けるというニュアンスがありますが、好きで好きで忘れられない捨てられないから続けていたら結果が出たというだけです。

 私の親しい武術家さんのお友達に、ある沖縄古流空手の達人がおいでです。
 小学生のころから修行を始め、中年になった今でも修練は欠かさない。
 一般の道場生とは違う特別な教わり方を師匠からされた方で(いわゆる「真伝を得る」というやつです)腰を落として大変負荷のかかる鍛錬法があるんですが、中年になっても、どんなに酒を飲んで帰宅した晩でもその突きのけいこを千数百本してからでないと寝ないそうです。
 小学生の頃から何十年と続けた成果は、まことに手品のように、敵の攻撃を封じて瞬殺する業の冴えとなっているのですが
 これもやはり「好きこそ・・・」の典型ではないでしょうか。
 いくら師匠に言われようと、好きでなければそんなこと何十年も続きません。

 私がアマチュアだったころは、「一日ペンを持たないと勘が戻るのに三日かかる」などと言われたものでした。ペンを持つ機会がなければ鉛筆でもいいから何か描く。
 剣術を学ぶ人が日々素振りを欠かさないような、そういう姿勢が当たり前でした。
 武術といっしょで、あるラインを超えてしまえば多少のゆとりは生まれていきますが、継続が力であるのに変わりありません。

 部外者から見れば特別なことに思えることも、当人にとっては当たり前の「日常」です。
 草原で草食獣を狩るライオンに、
 「最近何か変わったことありました?」
 とマイクを向けても
 「いや、特にないけど」
 と口の周りを赤くしてシカ食ってたりすると思います(笑

 だからって鍛錬がラクだというのではありません。
 さる有名な武術家の言葉に
 「本当に敵と戦う方が日々の鍛錬よりずっとラクだ。一瞬で終わるから」
 というのがありました(笑)(うろ覚えなので原文とは異なります)。

 夢を見るのは楽しいことですが、実現するには代償が要ります。
 この世のすべてはそのルールでできています。
 夢はステキなものですが、かなえるためには、いくら言葉で語っていても仕方がありません。やること、マンガ家であれば、まず描くこと。
 それも適当に描き散らかすのではなく、描き上げる。ちょっと描いては途中で放り出すのでは、なんの意味もありません(「完成させていれば傑作だったんだ」という言い訳は無意味です)。きちんと「読み切り」として描き上げるのが進歩のコツだと思います。

 人間は何にでも理屈をつけて正当化する名人です。
 マンガ家には色々な人生経験が貴重な財産ですが、作品を描かずに理屈や理想を語って、人生経験と称してほかのことに精を出していても、肝心のマンガの技術は進歩しません。
 乗っていた船が沈んで泳がなければいけない時に、海中でダンベルを上げ下げして
 「体力つけなきゃ」
 と言ってるようなものです。
 いつか描くのではなく、好きなら今描く。日々描く。
 それが夢への道だと思います。

 若いころ、業界の先輩(さくまあきら先生だったような気がします。30年近く昔で記憶違いかもですが)から聞いた話があります。
 その方のマンガ家志望の友人が、消息不明になって何年かして、ふと道で出会ったそうです。
 道路工事か何か、体を使うハードワークをしておいででした。
 「元気そうじゃないか、あれからマンガはどうしたの?」
 友人は、両手を開いて見せました。
 「これを見てくださいよ」
 ごつごつと、ふしくれだった指でした。
 「この手で描けると思いますか」
 
 労働に貴賎はありません。
 ただ、スポーツカーと重機は目的も仕様も違います。
 F1車両を採石場に持ち込んでも邪魔なだけですし、レース場にダンプを持ち込んでも(まあ、そういう特殊な車両だけのレースもありますが)やはり無意味です。
 無論何事にも例外はありますし、自衛隊の空挺部隊出身の有名マンガ家さんもおいでです。
 しかし、たとえば巻き藁やブロックを叩きすぎて手に震えが来ている空手家さんでは、マンガは描けません。

 それから、歳をとってもある程度は技術と能力を維持できる武術と、若いころの身体能力に頼る部分が大きいスポーツ格闘技の違いと同じように、
 歳をとっても(むしろその方がいい場合もある?)小説家と、若いころの感覚が重視されるケースの多いマンガ家とは、異なるものがあります。
 一番の伸び盛りに描かず、別の修練を積むのは、ある意味まちがったプロセスだと思います。

 夢やロマンはいいものですが、実行を伴わないのはただの妄想と変わりません。

 何日も獲物が来るのをじっと待ち続ける蛇のような・・というのが少しキモければ
 獲物が来るのを微動だにせず待ち続けるハシビロコウのような執念と静けさ
 その一方で、ただ何もしないで待つのではなく
 日々できることを精一杯していく活動性と地道さが大切じゃないかと思うものです。

 話を始めたきっかけが、若いマンガ家志望の方のメッセージだったことで、老婆心から、いささか説教くさい話になってしまいました。お聴き苦しい点はお詫びします。
 テーマを変えて、この夢の項、まだまだ続けます♪(ではではまた)



追記
 少年ジャンプ誌の某有名ヒット作家で、連載と連載の合間に、後学のために巷の仕事につかれた方の話も聞いたことがあります。青年誌系の作家さんで、私よりずっと年長の方でも、似たようなことを今でもなさる方もいられます。
 すばらしい向学心と感心しましたが、それはあくまで長年の連載で鍛えられた技術(あるラインをすでに超えたレベル)を持った方ならではのことだと思います。
 今自分は夢のために何をするのが一番大切か。
 何かから逃げていはしないか。
 本当に歩むべき道はどれか。
 ときどき立ち止まって考えて見るのが、大切なことだと思います。
夢いろいろ
 本来、眠っている間に見る夢というつもりで設定したカテゴリ「夢」でしたが
 人生は一つの夢、などという表現もありますとおり
 見ようによってはその境界はトワイライトかもと思い直し
 とりあえず、強引にすべての夢をこのカテゴリに入れてみました。
 問題があるようでしたらまた分類しなおしますね♪

夢いろいろ

「眠っている間に見るイメージ」としての夢
  いわゆる夢
 (見ている夢を夢と気付かずに見るのが一般的ですが、夢と自覚して気付いて見るものを「明晰夢(めいせきむ)」と言います。研究書も出ています。有名な第一人者としてはスティーヴン・ラバージとか)

「起きているときに見るイメージ」としての夢

 実現不可能な個人的空想としての夢
  (「ほかの人種に生まれたかった」とか「スーパーマンのように超能力で空を飛びたい」とか(おっと、そういう超能力を身につけた方は別です)

 実現の可能性があり、それに向かって努力することができる夢
  (「大きくなったらマンガ家になりたい」とか、「新弟子検査に合格したい」とか)
 ちなみに、努力することは可能で実現も可能な夢と、努力することはできるけど実現は無理かもというものがありますよね(「世界から戦争を無くす」とかですね。努力することはすばらしいことだし、けして反対はしないけど、実現は難しいだろうなあという・・・)

 あと「白昼夢」というのがありますが、これは「幻視」とか「妄想」も含まれるので、ちょっと夢とは別のカテゴリにした方がいいかもしれません。
 思いつくまま書いてみましたが何かうっかり見落としてるようでしたらご指摘いただけますと幸いです。どうぞよろしく御願いします。  
夢について(お客様の質問にお答えして)その1
 先日「なぜマンガを描くのか」というお尋ねをくださったお客様からの、もう一つの質問です。ご本人のお許しをいただき、一部引用させていただきます。

<夢のない人がたくさんいます。夢に向かえない人がたくさんいます。
 世界には夢が必要
 自分は夢がなければ生きていけない。
 でも夢ってなんだろう
 『夢』の存在がとても曖昧なんです。
 やりたい事が
 なりたい自分が夢
 ほしいものが夢
 夢ってなんなんだろう
 夢ってありますか

 世界には愛と夢が必要だと思うんです。
 愛と同じくらい夢は大事だと思うんです。

 夢ってなんですか
 山本先生の思うもの良かったらお聞かせ下さい。
 また世界にとっての夢もお考えがあれば聞きたいです>

 私の、「手渡すべきものは愛しかない」に対するお返事としていただいたメールの一部です。
 お若いのに、いやお若いからこそでしょうか、大変熱く真摯な想いが伝わってきて感銘を受けました。
 順を追ってお答えしたいと思います。

 まず最初の二つ「やりたいこと」「なりたい自分」の最たるものは、私の場合実現し、また日々実現を維持しています。そのことは先日の日記「なぜマンガを描くのか<追記>」に書きました。

 「ほしいもの」
 というのは、今はほとんどありません。生活に必要なもの(食器洗い機が壊れたとか冷蔵庫が壊れたとかで新しいのが必要とか)以外は、「読みたい本」くらいです。
 自分の見聞を広めるために必要なもの以外、ほとんど物欲と言うものがありません。
 ちょっとこのTシャツ欲しいなとか、たまにこのCDが聞きたいなとか、せいぜいそんなレベルです。
 若い頃はオーディオマニアだった時期もありましたし、新しいバイクが欲しいとか、物欲が強かった時期はあります。
 でも、そういうものは渇きを癒すために飲み続ける海水のようなもので、飲めば飲むほど喉が渇く。
 生存に必要な最低限のもの以外、物質的にも精神的にも何にも依存しない道を模索し、歩み始めてから、そういうものはどんどん希薄になりました。
 自分のあこがれとか、何か心の隙間を埋めるため、あるいはストレス解消のために、外的な何かを必要とする段階は過ぎてしまいました。

 私の夢は、自己の内的成長であり、それは若い頃から漠然とあった志向でしたが、歳を取るにつれはっきりと、それ一本に絞られていきました。

 質問をくださった方はご自身の夢について以下のようにメッセをくださいました。

<夢は世界をかえる事です。

もっと世界をよくしたい
もっと世界に夢を愛を溢れさせたい

この世界は自由で不思議で奇跡的、そんな事を伝えていきたいです

だからたくさんのモノや偉大な人を知ってほしい、伝えて生きたい
そんな中、自分はモノを生み出したい創りたい
そんな情熱を溢れる想いを無駄にせずに生きたいです。
カラダに湧き上がる感情
アタマに思い描く物語を
全て形にしたい、し続けたいそれが、自分の夢だと思います。
そして、創る事を楽しみたい
たくさんの人と協力して、
創る事、その酸いも甘いも最高に味わいたいです。

あと、
『人はみなアーティストだよ』っていう言葉から影響受けた夢ですが、
自分の人生が生きる事自体が、愛を表現したり、元気づけたり、笑わせたり、したいです。
人の生きる人生、その歩んできた道、『線』がアートなら、
そんなアートにしたい、失敗したり、臆病だったり、ふられたり、そんな全てを曲がりくねった道を、
アートだって呼べるなら、
そんなアートにしたいです

そして、今また思う事は、
いろんな人が人生を表現します、メッセンジャー、アーティスト、ゲーム、ダンス、チャレンジ、一時の夢。。
そんな全てでありたい
人生を楽しいダンス
愛のメッセンジャー
曲がりくねったアート
興奮するゲーム
夜空に光る星空。。
そんな全てでありたいんです。何より情熱そのもので

創り手になりたい
創り手でありたい
創り続けたいどうしようもなく愉しみたい。

それが夢です。
その先、その瞬間に、
愛や夢を与え続ける存在でありたい、どんな逆境も笑い飛ばして周りも笑わせる人でいたいです>


 一部ご本人のプライベートに関する部分を削らせていただきましたが、ほぼ原文のままです。
 何か一篇の詩のような。
 私が付け加えるべきことなど何もないような気さえしました。
 
愛や夢を与え続ける存在でありたい、どんな逆境も笑い飛ばして周りも笑わせる人でいたいです
 そのまま私の夢でもあります。
 すてきなメッセージをありがとうございます。
 しかし、これで完結して終わらせては、お約束しました「お返事」をさし上げたことになりませんし(笑)
 少しだけ私の補足を申し上げようと思います。

 「夢について(お客様の質問にお答えして)その2」
 に続けます。
なせマンガを描くのか<追記>
 先日の日記「なぜマンガを描くのか(お客様の質問にお答えして)」に補足です。
 mixiでも同じ記事をアップしたんですが、そこで同業の方からいただいたご意見を少しまとめてみました。

 まず

<マンガには、何重もの「達成感」があるからでしょう>
 とのご意見。

 まず作品のストーリイ(主人公が苦難を乗り切って成功するとかサバイバルするとか)そのものの
 「劇中の達成感」
 があり、
 作者としては、そのお話を思いついたときの達成感
 原稿を描くときの達成感(「お、この表情いいじゃん」とか「このアクション迫力あっていいじゃん」とか「以前は描けなかった難しい構図が描けるようになったぞ!」とか)
 描き上がって、原稿を編集さんに渡したときの達成感。
 雑誌やら、本になったときの達成感。
 読者に喜んでもらったときの達成感。
 売れて、儲かれば、そこで「金銭面での達成感」
   etc・・・。
<漫画は、ほとんどの作業を一人でやろうと思えば出来ますから・・・
普通の職業にはない、「何重もの達成感」があると思います>

 だから、やめられないんじゃないでしょうか?とのコメントをいただきました。
 確かに執筆中はそれぞれの段階での苦労もある代わり達成感もあって、金になったかどうかというのは、あくまで結果であり、そんなこと関係なく途中途中の喜びがあります。
 以前も書いたかと思いますが、原稿料や印税というのはあくまで結果であって、描いている最中に、いちいち
 「このページでいくら儲かった」
 とか
 「この1コマで何円の利益」
 とか、考えながら描いているマンガ家というのは、そういないのではないでしょうか(少なくとも私は聞いたことがありません。例外的に考えられるのは、生活のためすごく不本意なやりたくない作品を描かざるをえない作家が、そうでも思わないと仕事する気になれなくて、「こんなに嫌だけど、これ描いてナンボ」とわが身を励ますために考える、という状況でしょうか?)。
普通は、しんどくて、儲からなきゃ、そんな仕事はやめます。

<漫画の場合は・・・
「何重もの達成感」があるから、そして、
しんどいぶんだけ、達成感に酔いしれるから。
いつまでもやめられないんだと思います。
「ウケた時の達成感」「金銭面での達成感」「社会的評価の達成感」なんか、
最後の最後のモノなので・・・案外、どうでもよかったりする>

<でも、こういう「達成感」は、それなりにマジメに漫画に取り組まないと
得られません>

 確かにおっしゃるとおりです。
 真剣さの欠如は、「報酬」もそれなりなのだと思います(笑)。

 ただ、マンガ以外のお仕事でも、程度は違っても、それぞれに段階ごとの達成感はあるのではないでしょうか。
 無論ピンキリで、本当に給料以外なんの喜びも感じられない苦行のようなお仕事というのもあるのでしょう。
 私はマンガ以外の仕事というのは、ほとんど学生時代ソバ屋のアルバイトとかいった、ごく限られたものしか知りませんので、その辺の実情は人づてに聞くしかないのです。
 こういう点は、一度会社勤めや一般的な職業を経験されてから、マンガ家になられた方の経験にかなわないところです。
 言うなれば「世間知らずの箱入りマンガ家」でしょうか(笑



 それから
<(自分は)何かの目的があって、その手段として漫画を描くのでなく、
漫画を描くのが目的で、描き続ける手段としてプロになりました>
 とのご意見。

<漫画家志望の人にときどき
「プロの漫画家になるにはどうすればよいか・・・?」
 という質問をされますが、これは私的には答えようがない問題
だったりします。
 なんせ、プロの漫画家というのは、そうでない人からは目標だったり
夢だったり目的のように思えるのかもしれませんが、
 私が出会った限りの作家さん達は、自分が描きたい漫画を描くために
漫画家という職業を手段にしているにすぎないのです>

 ああ、そう言えば私もそうですね。
 私は幼い頃からマンガ家を目指し、19才でデビューして一直線にその夢をかなえました。
 しかし、その後のマンガ家人生は色々と苦難の連続でした。
 オレの夢はマンガ家になること以外何もかなえられない人生なのかと絶望したものでした。
 しかしそれは勘違いでした。

 マンガ家になるというのは、あくまで自分がマンガを描いて暮らすための方便とか象徴のようなものです。
 極端な話、私がドラマに出てくるような大富豪の息子で、なんの労働も無く暮らせる資産家であれば、別にプロにならなくても日々好きなマンガを描いて暮らせばいいわけです。ただその場合、自己満足の退屈な作品の繰り返しになる可能性が大ですが(笑)、もっとも今でもお口に会わない読者の方にとっては同じことかもしれません(爆)。
 何かの大会、コンテストで優勝するとかいう夢なら、一度かなえれば終わりですが
 マンガ家になるというのは、一度なって終わりという夢ではなく
 マンガ家であり続けるという夢です。
 と言うことはつまり、30年以上に渡ってマンガで飯を食い続けてこられた自分は、若い頃一度夢をかなえて思い出に生きている存在などではなく、それからずっと今日まで
 「日々夢をかなえ続けてきた」
 人生だということです。

 先に「なぜマンガを描くのですか」というお尋ねをくださった方から、私の夢についての質問もいただき、もっかまとめている最中なのですが
 その回答の一つはこれです。

 私が独力でなしえた何か、などと言うものは人生にほとんど存在しません。
 それは、たなびく鯉のぼりが自力でたなびいていると言うのに等しい話です(笑)。
 鯉のぼりなくしては、何もたなびきようがありませんが、たなびかせている風は鯉のぼりのものではありません。
 きょうまで私をあらしめてくださった読者の方々と編集者の方々、その他有形無形のお力添えをいただいたすべてに、心より感謝いたします。本当に本当にありがとうございました。
 これからもどうぞよしなに♪
禁止キーワード
 お客様からBBSへのコメントで
 またブログのバグかなんか知りませんが
 コメント不能状態になっていたようです。
 エロ系の禁止キーワードなどを増やしていくとある日急に飽和点になって書き込めなくなるような。
 最近テストコメントを忙しさにかまけてやってませんでした。
 あいすみません。
 とりあえず登録禁止キーワードを全削除しましたのでなんとか?

追記
 一つ前の記事にコメントテスト成功しました。
なぜマンガを描くのか(お客様の質問にお答えして)
 先日、ご縁があって、やりとりさせていただいたお客様から
 「なぜマンガを描くのですか」
 との、お尋ねをいただきました。
 ご本人もマンガ家志望のお若い方です。
 その方の周囲には、マンガなんか全然必要とされてない方がいっぱいで、それにもかかわらずなんで描いているのだろうと。
 以下はそれについてのお返事を、まとめたものです。いささか長文なので、お暇な方はご覧ください。


 なぜマンガを描くのか。
 他の方のことはわかりません。
 私は「好きだから」が、まず最大の理由です。
 次が仕事の(生活の)ためです。
 自分の生きている証(あかし)、生きていることの確認だからだろうと言う人もいますが、まあ確かにそういう面もあるでしょうが、何より率直に好きなんですね。
 それはもう、連続殺人犯(それも快楽殺人の)が、「好きだから人殺しがやめられない」のと同じように、執筆が好きだからやめられないんです(笑
 それは蛇が噛んだり鳥が飛んだりするのに近いものではないでしょうか。

 確かにおっしゃるとおり、マンガを必要とされない方は昔にくらべて増えています。
 それはそれで仕方が無いし、無理に必要とするものでもないでしょう。
 そもそも、私、山本貴嗣という存在は、別にこの世にあってもなくてもどうでもいいものです。その作品も同じです。
 自分には存在価値がない、とか言って嘆く方がおいでですが、そもそもそんなものはないのです。
 視点を変えて見るならば、無論人にはそれぞれにかけがえのない存在意義があると思いますが、それはまったく別の次元の問題で、よく人が言うような(嘆くような)次元での存在意義と言うのは、なくて当たり前だと思っています。
 でも描く。
 描きたいから

 私は昔からマイナーなマンガ家でした。
 どかんと当たった大ヒット作などありません。何十年も描き続けてきましたから、総計すれば何十冊もの単行本がありますが、
 友人知人師匠筋の巨大なヒットメーカーの前には本当にかすんでしまうような存在で
 つくづく自分は無価値だなあと何度思ったか知れません。
  
 少し話はズレますが、ときどき東大とか、東大を目指す進学校とかに入学できた優秀な生徒が、何か悲観して自殺したみたいな話がありますよね。
 なんでそんなエリートコースに乗れた恵まれた人が?と、一般人は思うわけですが
 そこに行くまでは、地元の高校とか中学とかで御山の大将だったのが、いざ進学校だの東大だのに入ってみると、全国から優秀な生徒が集まっているため、自分程度の人間は優秀でもなんでもない、その他大勢のどうということもない存在に過ぎなかったことに直面(例としては、必死に勉強して勉強してそこまで来た自分と、別にたいして苦労もせず、適当に遊びがてら片手間で入ってきた天才との比較とか)し、衝撃を受けて落ち込むわけです。
 当然成績も、そういう優秀なクラスメートにはかなわなくって下の方。
 んで、自殺しちゃったりする人が出ます。
 
 私のマンガ界におけるポジションというのは、そういう人に近いもんじゃないかと思ったことがあります(笑
 それで自殺しようと思ったことはないですし、そんな衝撃を受けたことはないですが、差は感じる、と言うか感じずにはおれません。
 私などとは桁違いの売り上げを誇るヒットメーカーと、どんなにがんばって試行錯誤してもあるライン止まりの自分。この差はいったいなんだろうと。

 特にショックを受けるのは、自分がおもしろいと思うものと、一般読者がおもしろいと思うものの差です。
 さすがに売れてる人の作品はおもしろいよなあと思えるものばかりなら、そこに向かって努力?もできるのですが、いったいこれのどこがおもしろいのかわからない、という作品が多々あります。
 自分でおもしろいと思えないものは描きようがありません。
 極端な例でたとえるなら、異性愛の人に同性愛(それもハード芸とか)の作品を感情移入して描けと言うようなものです(逆もまたそうでしょう)。
 オレはできるという方もおいででしょうが、私はそんなに器用ではありません。
 結局、自分のできる範囲で、苦しい先の見えない努力を続けていくしかありませんでした。

 そこにゴールはありません。
 日々が積み重ねです。
 同じような道を歩いていた友人の言葉で、マンガ家になってよかったことは
「マンガを描いて暮らせること」
 だけだった、というのがあります。
 それは大変な幸せだと、今はしみじみ思いますが、若い頃はいささかの悲しみを禁じえなかったものです(笑)。


 こんな誰にも求められない無価値なマンガ家はもうやめてもいいんじゃないか。
 オレみたいなやつが描くことはないんじゃないかって思ったこともあります。
 誰からも賞賛されないマンガを描くことになんの意味があるのか?(って本当に誰からも賞賛されないのなら千冊、万冊の本が売れるわけはないんで、まあ、考えすぎでもあったわけですが)
 悩みました。
 でも、すぐ気づいたんです。
 オレは誰かに誉められたいからマンガを描いていたのか?
 そもそも幼い頃、マンガを描き始めたのはなんだったか。
 それは自分が楽しかったからです。
 その気持ちを忘れて、いつの間にか「誉められたい」などという欲が出た。
 そんな後付けの理由はうっちゃって、初心に帰って描いていこう。
 そう思ってスルーしました。

 お客様からお金をいただく以上、お客さまのご期待に応えられるよう努力するのは当然で、それを無視して独りよがりの作品を描いていいということではありません。
 ただ、好きだから描くという自分の原点は、忘れちゃいけないと思うものです。

 私は人は皆「メッセンジャー」であると思っています。
 何を伝えるかは様々ですが
 それ以前に
 私は人が人に手渡すべきものは「愛」しかないと思っています。
 「愛」という単語はあまりにも手アカに汚れまくった単語であり、誤解や偏見にまみれていて使うのにためらわれるものです。
 笑う方もおいででしょうし、偽善者と言われる方もおいででしょう。それは個人の自由です(ちなみに「やらない善より、やる偽善」は私の好きな言葉です)(笑)。
 言うなれば相手の幸せを願う想いが根底にあるかどうかだと思います。
 幸せとは何かというとまた簡単ではないですが、目先の安楽のことではなく、心の奥底での平安と内的成長とでも言いましょうか。

 以前日記で仏教の「サマタ瞑想」というのを書きました。それは四つの祈りでできています。

 ~が幸せでありますように。
 ~の苦しみがのぞかれますように。
 ~の願いがかないますように。
 ~に悟りの光があらわれますように。

 「~」には「あなた」でも「○○さん」でも「生きとし生けるもの」でもなんでも、その人の好きな言葉を入れればいいんですが
 「祈り」と言うと宗教臭くて嫌う方もおいででしょうが、「想い」「願い」と言い換えてもいいと思います。
 キリスト教では、有名な聖パウロの「心に愛が無ければ、神の言葉を語ろうと何を語ろうと、やかましいドラやシンバルの音といっしょで、なんの意味もない」という意味の有名なフレーズがありますが、まったくそのとおりだと思います。

 世の中には、相手への独善的な攻撃「これくらいしてやっても当然だ、思い知らせてやるのだ」といった類の「正義の名を借りた悪意」がたくさんありますが、どんな大義名分をつけようが、それはただの精神的「殺生」だと私は思います。
 上記のサマタ瞑想のような「想い」を根底に持って、何事かを手渡すのが、人として望ましいあり方であって、それを日々の人間関係の中で行うか、商品や作品を通して行うかは、人それぞれだと思うのです。

 私は、こういう言葉によるやりとりでも、作品を介してのやりとりでも、そういう想いをうまく乗せて、なにごとかを伝えていければと思っています。
 相手にとって何が今本当に必要なものか、超能力者でも神でもない自分としては正確に判別することはできません。むしろ、それがわかっていると思い込んでいる独善的な思い上がった人は危険です。
 ですので、上記のサマタ瞑想のような、抽象的な「想い」になってしまいます(具体的に、たとえば、その症状なら何科の医者へ行けばいいとか、わかる場合はそれを語ればいいですが)。

 無論、いつでも誰にでも愛念を持つのに成功するとは限りません。
 どうしても根底に嫌悪感や悪意が拭い去れないという場合は、沈黙することにしています(そんなこと言ってられない緊急事態<早く逃げないとガス爆発が、とかいう「業務連絡」みたいなものとか>は別として)(笑)。

 んで
 「愛は鉄砲玉」
 だと私は思っています。
 鉄砲玉は行ったっきりです。帰ってくることは期待していません。
 当たらないこともあります。効果がないこともあります。
 そんなことはあたりまえで、ダメだったらすかさず次を撃てばいい。
 こんなに愛を放ったのに、反応が無かった。効果が無かった、無視された。そんなことで落ち込んでる暇はありません。
 なぜ当たらなかったのか分析して、すかさず次を撃つ。
 反省はしても罪悪感は持たない。落ち込んでる暇はない。
 人生は、そんなものに費やす無駄な時間はないのです。
(もうあなたの話は聞きたくない、近づかないで欲しいと言われれば、即撤退することも愛です。ストーカーになっては本末転倒です)(笑)。

 愛は感情や気分ではなく、むしろ意図に属します。
 武術の達人が、敵に襲われたからといって、そのたびに怒ったり悲しんだりブチキレて戦う無駄はしないように、ただ顔の前のハエをはらうように敵を処理するように、
 いちいち感情のメーターを振らせなくとも、かゆいとき人が無意識にそこへ手を伸ばすように、相手の幸せを願うこと。
 それ以外思いつかないように、なっていければと日々思って勤めています。

 ちょっと話がずれましたが、作品は、私にとってそれを行う一番いい慣れ親しんだ媒体の一つであるに過ぎません。
 もし、明日なにかの病気や事故でマンガが描けなくなったとしても(ああ、それ以前にお呼びがかからなくなる場合もありますね)、それはマンガという媒体が使えなくなっただけであり、私がメッセンジャーであることに変わりはありません。
 よく「~を取ったら自分には何もない」と言う方がおいでです。
 野球選手なら野球、マンガ家ならマンガ。
 でもそうではなくて、たとえ得意の何かをなくそうと、その他の何をなくそうと、その人には誰にも奪えないものがあります。
 世の中には、重大な障害を負って身動き一つできない方もいられますが、そういう方は無価値でしょうか?いいえ、その方々はその方々で、他の方にはない光を放って生きていられます。それを受け取ることができるかできないかは、受け取る側の資質にもよりますが。
 それらの方々もかけがえのないメッセンジャーだと私は思います。

 私は死ぬその時まで、愛のメッセンジャーでいたいと思います。
 人が人に手渡すべきものは愛をおいてほかにありませんし、それは生ある限り、チリになるまで変わらず維持していけることだと思います。
 いや、形而上的な視点からすれば死んでからでも可能ですし、実際問題としてたとえば、私は、十年近く昔に亡くした愛猫(とその思い出)からも、今も変わらず愛をもらっています。それは彼女の肉体が失われても、何も衰えることはありません。

 万一長生きできたらば、私もいつの日か、いや、もしかしたら明日にでも、介護の必要な体になるかもしれません。
 誰かの手を煩わせるということは、ある視点においては迷惑なことのようですが、それを通して伝え気付かせられることがたくさんあります。それはとても尊いことです。
 もしかしたら、私は誰に見取られることもなく、路ばたに死ぬかもしれません。
 その時はその時で、一人穏やかに(いささか身体的苦痛はあるでしょうが)幸せにのたれ死のうと思っています。
 誰かの手をわずらわせるのも愛ならば、わずらわせないのも愛でしょう。

 あなたの命が光り輝かされますように。
 無用なこだわり、手かせ足かせを断ち切って、十全にその人生を生きられますように。
 きょうも良い日を。
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「では絶望するがいい」
 「では、絶望するがいい」

 私の好きな言葉です。
 っていきなりなんだと思われるでしょうが(笑

 すでに何度も引用してますインドの覚者ニサルガダッタ・マハラジの言葉。

 <遅かれ早かれ、あなたの身体的、精神的源泉にも終焉がやってくる。そうなったとき、あなたはどうするだろう?絶望するのかね?では、絶望するがいい。あなたは絶望に疲れてくるだろう。そして疑問に思い始める。そのときこそ>

 あなたが道を見出すのにふさわしい状態になる(マハラジはインドの人なのでそれを「あなたは意識のヨーガにふさわしくなる」と言っていますが)。

 私はこれを読んだとき、うまいこと言うなあと膝を叩いたものでした。
 彼は

<すべてが失敗したとき、人生が教えるのだ>

 とも言います。

 私(山本)は気が短いもので、悲しみや絶望に浸り続けるということができません。
 以前も書いたと思いますが、悲しくて悲しくてつっぷして泣いても、すぐに
「だめだ、泣いててもちっとも幸せにならねえ」
 って、やめてしまう人間です(笑)。
 身体的、精神的源泉が終焉を迎えてはいませんが、絶望はずいぶんしました。何年も、何度も繰り返し、死を望んだこともあり、そして絶望には飽き飽きしました。
 絶望は、ある意味貴重な教師です。それはかけがえのないことを教えてくれます。
 人生は外的な何に頼ろうと、永遠の平安など得られないと。
 ~があれば安心、~が失われたら不安
 そういう条件付きの幸せや安心を求めている限り、不安は足元の影のようにどこまでも付いて離れません。
 真の平安は自分の内面にしか見出すことはできず、それは喜怒哀楽の感情や思考、マインドのぐるぐるの中には見出せないものです。
 と言うと短絡的に、宗教をイメージする方もおいででしょうが、それはある人にとっては一つの解決策になるかもしれませんが、合わない人には合わないし、そんなものなしでも得られるものです。
 2008年12月の日記「ポケットの中のダイヤモンド」なども、その道の手がかりの一つです(ゴールではなく、あくまで途中の手がかりの一つです)。

 マハラジは悟りを開いたあとも教祖になるでもなく宗教団体を作るでもなく、生涯家業のタバコ屋を営んで暮らした人で、「ビーディーババ」と呼ばれたと聞きます(ビーディーというのはインドのタバコの名前)。
 質問者が
 「あなたは宗教を無要だと考えているようですね」
 と聞いたのに対し
 「宗教とは何だろうか?空に浮かぶひとつの雲だ。私は無数の言葉で織り成された雲のなかにではなく、空のなかに住んでいる」
 と返しました(笑)。
 信仰の道も、そうでない道も、頂へ至るルートはさまざまです。

 本当の幸せ、幸福とはなにか、とは、昔から多くの人が繰り返し抱いてきた疑問です。
 いい加減その質問もミミタコなら、その回答もミミタコだと思うのですが、だいたいの賢人の意見は一致しているように思います。
 一時的に現れて消えるのが快楽、時を経ても変わらないのが幸福などというのもありましたが
 私が見るところでは、外的な条件に左右されるのが見せかけの幸福、外的条件に左右されないのが真の幸福、なように思います。

 そういうことは、人生で悲しみや苦しみ、絶望が導き、教えてくれました。
 たぶん、どの人も同じように導いてくれるのではないでしょうか。
 絶望は最良の教師というのはそういうわけです。
 人生で出会う知人友人には様々な方がいられます。
 ちょっと会わないうちに見違えるように変わられる方もありますし、十年一日の如く変わらない方もおいでです。
 昔、話したときに自己憐憫と絶望に浸りきっておいでだった方と、数年ぶりに対話して、あいかわらず同じような自己憐憫と絶望に耽溺しておいでなケースなど
 この方はこの何年かの間、いったい何をしておいでだったのか。せっかくのかけがえのない絶望から何も学ばれなかったのか、と不思議に思うことがあります。
 悲しみや苦しみにしがみついて生きるのは幸せでしょうか。
 ライナスの毛布のように不安や不幸(な気分)にしがみつき、逆説的な表現ですがまるで不安がないことが不安なような、そんな人生に飽きないのでしょうか。
 
 感情は私の部分に過ぎないし肉体も部分に過ぎない。来ては去っていく影のようなものです。
 出来事に踊る喜怒哀楽に翻弄されて、なぜ私は不幸にならねばならないのか。
 私のコントローラーをなぜ私のマインド、感情に渡しておくのか。
 でもそれは人それぞれの、求めるところが違うのでしょう。

マハラジ 解放は自然な過程だ。そして、長期にわたって見れば、不可避なものだ。だが、それを今のなかにもたらす力はあなたのなかにあるのだ。

質問者 それでは、なぜ世界中にこれほど解脱した人が少ないのでしょうか?

マハラジ 森林の中で開花している樹は、一時(いっとき)にはほんのわずかだろう。それでも、すべての樹がそれぞれの時期を持っているのだ。>

 そして冒頭の一文に続きます。

<遅かれ早かれ、あなたの身体的、精神的源泉にも終焉がやってくる。そうなったとき、あなたはどうするだろう?絶望するのかね?では絶望するがいい>

 けして他者を笑うのではなく、不幸を願うのでもなく、その先にある道を知っているからの言葉です。

<では、絶望するがいい。あなたは絶望に疲れてくるだろう。そして疑問に思いはじめる。そのときこそ>

 そのときこそ。


 参考文献
 『アイ・アム・ザット 私は在る』
 (モーリス・フリードマン/スダカール・S・ディクシット/翻訳・福間巌/ナチュラルスピリット・刊)
『戦闘女神アヌンガ』30話完成
『戦闘女神アヌンガ』29話19ページより
  『戦闘女神アヌンガ』30話昨日完成しました。
 本来なら火曜配信なのですが、さすがに先日入稿ではぎりぎり過ぎて、ケータイ配信は来週になりそうです。お待ちいただいてるお客様、申し訳ありません。
 30話は、軟体魔神マカンバとの対決を盛り上げて区切りのいいところまで入れようと私から増ページをお願いして、いつも18前後のところを22ページにしてしまい、先週中に納品できませんでした(爆);でも、それだけ読み応えのある回にできたと思います。
 どうぞよろしくお願いします♪

 蛇足ですが、アヌンガ、トップバストの表現を前回から一手間凝ってみました。よりリアル感が増したかなと思うのですがいかがでしょうか(笑
 ではではまた。
『戦闘女神アヌンガ』30話1ページより
受動曝風(?)(なんて言ったらいいか;
 ウィキペディアによると

 <喫煙者の周囲の人が、自分の意思とは無関係に環境たばこ煙(environmental tobacco smoke:ETS)に曝露され、それを吸入すること>
 を
 <受動喫煙(じゅどうきつえん)>
 といい
 <ときに「間接喫煙」、「不随意喫煙」、「不本意喫煙」ということもある。

環境たばこ煙とは、副流煙(喫煙者が直接吸う主流煙に対し、たばこの先から立ち上る煙)と、呼出煙(喫煙者の吐き出す煙)が混じり合った煙である。 副流煙には不完全燃焼からくる多くの有害物質が含まれており、非喫煙者であっても喫煙者の煙を吸うことで、健康に悪影響を及ぼす危険性が増大する>

 だそうですが

 私もつまもたばこは吸いませんが、つまは私に比べて暑がりで、風呂上がりに平気で扇風機に間近で当たりながら寝ます。
 かなりの強風で首もふらさぬまま、タイマーかけて平気で寝てしまうんですが
 対して私は冷え性というか、昔から一方的に風に曝されるのが大の苦手。

 さっきも3時間差くらいでつまが寝たんですが、隣のふとんで当たっている扇風機の風のとばっちりで、私は具合が悪くて起きてしまいました。
 タイマーかけてるし短時間だけ当たってるんだから関係ないとつまは言い張るのですが、その短時間の受動喫煙ならぬ受動曝風?が私には大ダメージで、明らかな寝不足ですが起きてしまいました。
 とばっちりで風に曝されている左半身が、ひざからわき腹から肩から背中から冷えて痛くて、起きて数十分経ちますが治りません。
 とりあえず風邪の引き始めに使う漢方薬飲んで、仕事にかかります。

 歳をとって不仲になっていっしょに寝られない夫婦の話はよくありますが
 仲がいいのに寝られないのもなんだかなーです(爆

 みなさまの扇風機暮らしはいかがでしょうか。
デジコミダイエット?
体重は変化しないのでダイエットと言うには難があるんですが

 皆様はパソコン作業で体脂肪率が変化されるということはおありでしょうか?

 私の場合てきめんに変化します。
 メタボではないですが、ふだんは18.5から多いときは20.5%まで行くんですが
 デジタルなパートに突入、パソコンに向かってフォトショップ作業に入るとあっと言う間に下がりまして、通常でも一日で16.5%。
 先月の集英社の小説すばる誌『淡雪記』(馳星周・原作)のイラストでは15.0%のレコードを達成(笑)しました。

 運動もしてないのに許せん!とかつまには言われてますが、
 体脂肪率体重計は確か電気抵抗で計測するんだったような。つまり実際に脂肪率が変化してるのか、ただ体内の電気抵抗が変化してるだけなのか、わかりません。

 この現象のからくりをご存知の方いらっしゃいますでしょうか。
 ちなにみ16.0%とかになった脂肪率は、デジコミ作業をやめると翌日の入浴時には18.5%に戻ります。
 短い夢だったな、と思います(笑



追記
 私のアナログ手描き作業とパソコンの作業の差と言えば
 前者はアーロンチェアの背もたれに体を預けて行うのに対し、後者はあぐら椅子にふつうに座って背もたれなしで背筋を割とまっすぐにして行うことです。
 筋肉の使い方が明らかに異なるので、それが影響してるのかも??
8月のしろさん
8月のしろさん

 この時期にしては少しだけしのぎやすい日々が続いてます。
 通い猫のしろさんも、ご覧の通り。
 そういえば先日、近所のおばさんやおじさんに愛想を振りまいて、なでられている姿を見ました。
 もともと凶悪でブサネコなしろさん、うちに通いだして少し丸くなったような気がするんですが、ご近所との間合いもうまく取れるようになっているのは、うれしいことです♪
 最近、近所にハクビシンが出没、ベランダに置いてる鳥かごが狙われたおうちとか、畑のトウモロコシがごっそり食われた農家とか、被害が出ています。
 たまにしろさんのケンカする声が聞こえてくるんですが、んで、たまに顔に斜めにキズつけて現れるんですが、相手の猫の声が聞こえないのは、もしかしてハクビシンと戦ってるのかも?
 成獣になると猫にはやっかいなサイズ(ハクビシンは尻尾を除く体長50センチくらいだそうですから互角とも言えますが、深手を負う可能性もあり)、気をつけるように言ってきかせております。
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