あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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さらば友よ
 先ごろ、学生時代からの友人で、時折私のサイトのBBSなどにもコメントをくれていたI氏が、亡くなりました。
 最近音沙汰がないので、どうしているのかな、あまり私が「いささか形而上」な話など書くので、唯物合理主義者のI氏はあきれて近寄らなくなったかしらんなどと思っていたのですが
 奥様からのお電話で知りました。
 昨年からのガンでした。
 発見した時は手遅れだったそうです。
 
 世の中には、人の不幸を嫌がらせの種にするタチの悪い人もいますので、最近友人知人の不幸はブログ等には書かないことにしていますが、もはやご本人がいらっしゃらないので、書きました。

 I氏は医師でした。
 白血病なども診た方で、その道のプロでしたが、ご自身の病には間に合いませんでした。
 検査後は自分の状態については無論すべてご存知で
 最後の最後まで仕事を続け、最終入院の数日前まで抗がん剤を打ちながら遠方への出張もこなし、入院して一月も経たぬ間に逝かれたそうです。
 まだ50代のはじめでしたが、生涯を人助けに勤めた、意義ある人生だったと思います。
 
 山本に言うと悲しむから死ぬまで言うなと奥様には言っていたそうです。
 I氏には、故郷に老いたお母様がいらして、奥様はそこへ越して行かれるそうです。一時は自分も死にたいくらいだったけど、お母様の方が元気なくらいで、とおっしゃってました。
 今の奥様にとっては、ある意味お母様は天使かも、菩薩であるかも知れません。


 さらば友よ。
 多くの思い出をありがとう。恙無い黄泉路を。また逢うことあらば話はそのとき。
 すべて無ならばそれもよし。

 私もできることをできる限り、最後の日までして逝きます。
生きる思い
 あちこちのネットニュースで取り上げられてますが
 ピクサーのアニメーション映画『カールじいさんの空飛ぶ家』を、死ぬ前に見たいという米カリフォルニア州に住む末期ガンの10歳の少女コルビー・カーティンちゃんの願いをかなえるため、両親からのリクエストを受けたピクサーのスタッフがDVDを携えて同家を訪問。
 無事全編を見たコルビーちゃんは、「おもしろかった?」という両親の問いに「うん」と答え、その7時間後に亡くなったとか。
 両親はピクサー社に感謝の意を述べているそうです。

 ええ話や;
 と思ったんですが、それで思い出したのが、数日前に読んだ新聞のこと。
 2009年6月21日の読売新聞に載っていた
 「猫ばぁ娘の夢と歩む」
 という記事です。
 同紙より一部引用しますと

<東京都多摩市のマンションの一室で、「猫ばぁ」こと南里妙香(なんりみょうこう)さん(90)が3匹の猫と暮らしている。妙香さんは「猫の森 多摩」の住み込み管理人だ。
 生前の契約に基づいて飼い主の死後に猫を引き取り、快適に暮らせる環境を最後まで提供する---そんな「猫の森」の仕組みは、妙香さんの一人娘、秀子さん(51)が考えた>

 この猫ばぁこと妙香さんは、尼僧さんです。

<最初の夫は戦死し、次の夫とは離婚。茨城県の寺の住職だった3人目の夫との間に、秀子さんをさずかった。
 その夫は約10年後に脳梗塞で倒れ、寝たきりになった。檀家の葬儀や法事の時は知り合いの僧侶に代役を頼んだが、やがて「自分たち夫婦の寺なんだからわたしがやろう」と思い立った>

 妙香さんは、夫の介護を娘さんにまかせ、猛勉強を始めます。資格取得に必要な修行にも参加。

<4年かけて資格を得た日、夫は泣いた。亡くなったのは翌日のことだ>


 私はこの記事を読んだ時、胸打たれるものがありました。
 コルビーちゃんとピクサーの話を聞いたのはその数日後。
 目的はまったく違うし、細部も違うけれど、この二つには、何か「生きること」と人の「思い」というテーマで共通するものがあるように思います。
 この世に気がかりや心残りを置いて死ぬことを「念が残る」などと言いますが、すべての願いをかなえることはできなくとも、一番の気がかり、一番の願いをかなえて逝ける人は、それさえかなわぬ多くの人に比べれば幸せではないでしょうか。
 そういう最後を迎えられるというのは、世の中でも限られたケースなように思います。
 ある程度年齢がいって亡くなられた妙香さんのご主人と、わずか10歳で亡くなったコルビーちゃんを同列に語るわけにはいかないでしょうが、お二人の「思い」に思いをはせると、いずれも何か厳粛な気持ちにさせられました。

 ご主人の寺をついで20年以上もがんばってきた妙香さんもさすがに高齢になり、そろそろ引退かというころ、キャットシッターをしていた娘さんから、「猫の森」を始める話を聞き、こっちにこないかと誘われ、今はそちらの管理人になられたとか。
 新聞には娘さんと並んで座る妙香さんのひざで、頭をなでられて目を細める大きな猫が写っていました。

 どんなに願っても人の力では伸ばせぬ寿命というものもありますが、時として「思い」の力が小さな奇跡を生むように思います。

 生きとし生けるものが幸せでありますように。
 生きとし生けるものの苦しみがのぞかれますように。
 生きとし生けるものの願いがかないますように。
 生きとし生けるものに悟りの光があらわれますように。

 きょうも良き日を。
ターミケーコー
ターミケーコー
 配信中のケータイマンガ『戦闘女神アヌンガ』27話より
 遊びのネコ絵です。
 主人公の親友、聖君のくしゃみしている後ろの映画の看板。
 ケータイ画面だとフキダシに隠れてあまり細部まで見えないかもですが
 締め切り間際の修羅場にこんなことに一時間以上費やしてしまった猫馬鹿山本です。
 コラージュのにゃんこは言わずと知れた愛猫・故・ミケコです♪

 ちなみにこの、しょーもないだじゃれは一作目の時から言ってました。
 え?無論あの映画の一作目です(笑
甲骨文字で入試答案<あると思います♪
 ニュースを見ていたら、中国は四川省で、大学入試の答案をすべて甲骨文字で書いた学生さんの話を見ました。
 すごいと言えばすごいかもですが

 甲骨文字の作文、それほど不可能なことでもないかもです。
 美しい形をしてますし、私も好きです。
 実は私、中国で出された甲骨文字の書道?の本、持ってまして(たぶん、そっち方面に詳しい方ならお持ちの方もおいでではないかと)、マンガのすみっこの掛け軸とかそれを参考に書いたことがあります(最近使ってないんで、どこにしまいこんだか。昔、青心社の雑誌『コミック・ガイア』で古代中国の夏商時代の物語を連載した当時、かなりそっち方面の資料は調べました。ページ数が少ないまま雑誌が休刊したため、単行本にもなってません)。
 また「篆書」(始皇帝のときに定められた)の辞書も持ってます。
 んでやはりマンガでTシャツの文字とか決める参考にときどき使ってます。
 趣味でこういうものをマスターすれば不可能なことではなかろうと思うのですが
 問題は、今に生きる我々が使う文字は、それらのずっと後になって作られたものがあるため、そういう文字を古代の文字で文章化する際、どう変換するのかがわかりません。
 きっと何か方法があって、この学生さんはなさったのでしょう。
 さすがは漢字の母国です。
 そこがぜひ知りたいものです♪

追記
 ニュースをよく調べたら、答案は
 「甲骨文字のほかに、青銅器銘文体、篆書体などの文字」
 が使用されていたようで、それならばかなりの範囲がカヴァーできます。
 クールですううう(笑
行き詰まった時は1コマ戻る
『戦闘女神アヌンガ』4話コンテと完成稿
 マンガの原稿を描く前に、作成するのが絵コンテとかネームとかいうものです。
 画像は『戦闘女神アヌンガ』の4話8ページとその絵コンテ(ネーム)。
 ただ「コンテ」と言う場合もあります。
 マンガ好きの方はとっくにご存知でしょうが
 映画やドラマの脚本に当たるもので、絵付きのシナリオとでも言うものです。
 これを編集さんに見せて、OKをいただいたら下絵にかかるわけです。

 調子のいいときは「お筆先」のようにスラスラと描き続けられる(「マンガの神様が降りた」などと言います(笑))ものですが、調子が悪いときは途中で詰まって、どうにも先へ進みません。
 時間ばかりがむなしく流れ、頭をかきむしることもあります。
 若いころは一作に何日も何日も費やしたものでした。今は20代のころの何分の一かの時間ですみます。体で覚えた執筆法です(笑

 んで

 コンテにつまった時はどうするか。
 ケース・バイ・ケースではありますが、つまったコマで悩むより、一つ前に戻って見直す。
 これは私の記憶違いでなければ、その昔、友人のマンガ家・高橋留美子先生から聞いたテクニックです。
 つまった時は1コマ戻って、そこから考え直す。
 1コマでだめなら、物語が分岐した一つ前のエピソードまで戻るのもいいでしょう。
 
 人生は、時間をさかのぼるわけにはいきませんから、そのまま応用することはかないませんが、
 解釈を変えれば、今握り締めているものを見直す、心の決定項を、一つ前の段階に戻って考え直すと思えば、あながちマンガだけのテクニックでもありません♪
 ではではまた。
人は去り際&去ってから
 人づきあいのポイントの一つが
 「去り際」
 だと思います。広くは「去って後」も含みます。
 仲良しのときは愛想がいいけど、意見が食い違ったり不仲になると、とたんに掌を返す人がいますが、人間の底と言うか、器を見る思いがします。

 人の去り際には人間性が出ます。
 いい例(悪い例?)が、強引な訪問販売の人など、えびす顔の猫なで声で近づいてきたのが、だんこ断ったとたん「けっ」という感じで去っていく。そうだとは思っていたけど全部芝居ね、と、しみじみ納得します。
 どうせなら芝居でもいいから最後まで礼を尽くせば、またのご縁もあるのでしょうに
 まあそんなものはないと割り切っているのでしょう。

 蛇足ですが、私は購入した製品その他(インターネット通販のインターフェイスの問題点なども含む)で疑問点があってサービスに問い合わせる際、先に腹をくくっておくことがあります。
 それはいかなる対応をされてもケンカごしにならないこと。
 売り言葉に買い言葉はけしていないこと。
 冷静に疑問点をたずねることに終始し、脅迫的な言動は言うにおよばず、嫌味皮肉当てこすり、捨て台詞など(ある意味で「言質をとられるようなこと」)は一切言わないこと。
 そして、仮に双方の合意点が見出せなくとも(消費者センターなどに言うしかないケースは言うべきことは言うにせよ)おだやかに対話を終えること。

 もっとも半世紀の人生で、その種の連絡を取ったお店というのは、ほとんどありませんが(何年かに一回という感じでしょうか。いつまでたっても連絡がないまま品物が届かないとか、インターフェイスの表示が不親切で在庫の有無や入荷予定が識別不能とか)
 まれにはあります。
 中には穏やかに切り出しても、あちらが最初からけんか腰、と言うか、防衛体制で身構えていて、終始不愉快そうに(こめかみにピキピキマークが浮かんでいるような口調で、話のはしばしに嫌味や当てこすりを乗せてくる)ケースもあります。
 もしかしたら悪質なクレーマーにひどい目にあって、トラウマになっておいでなのかも知れませんが、それはお客とは(少なくとも私とは)なんの関係もないことです。
 そういうお店は二度と利用しませんが、最後まで電話は穏やかに
 「お忙しいところありがとうございました。御社のご発展をお祈り申し上げます」
 と電話を切ります(笑)。

 別にそのままの問題点のある状態で会社が儲かりますようにという意味ではありません。
 仏教にサマタ瞑想というのがあります。
「あなたが幸せでありますように
 あなたの苦しみがのぞかれますように
 あなたの願いがかないますように
 あなたに悟りの光があらわれますよに」
 というワンセットです。
 苦しみがのぞかれますように、はともかく、幸せでありますように、や、願いがかないますようには本当にそれでいいのか?
 犯罪者など他者への害意に満ちた人の願いがかなえばいいのか?人を傷つけることが幸せな人はそれでいいのか?
 良くはありません。だから三番目の
 「悟りの光があらわれますように」
 があるわけです。
 この4つは四位一体?になっていて、悟り云々は別に宗教的境地の話ではなく、その人の偏った(ジコチューとか)思考が正気にかえって、穏やかに冷静に建設的にものごとに取り組むことができますようにということでかまいません。

 まあ、似たような祈りというのは仏教に限らずきっと色々な文化にあるのでしょう。
 あくまでこれは一例です。
 人とのつきあいはこれが基本だと思うものです。

 世の中には「敵に回すと怖い」人というのがいます。
 「味方」のときはいいのですが、何か意見が食い違って袂を分かつと恐ろしいことになる場合があります。
 友人の人間性を見るときは、その人が「敵」に対してどのような言動を取るかで判断しないと危ういものです。
 実体験で味わったことがありますが、中には、やむを得ずお別れしたあとで、きのうの友はきょうの敵とばかりに、執拗な嫌がらせをしかけてくる例さえありました。そういう人物の本質を見抜けなかった自分の馬鹿さ加減を反省したものですが、思い起こせば、普段のなにげない言葉や反応の端々に「それを思わせる兆候」はのぞいていました。見過ごしていた私の失敗です。

 本当に信頼のできる友というのは、たとえ意見が食い違おうと、敵と味方になろうとも
 サマタ瞑想の四つの祈りのように、お互いに相手の幸せを願える人です。
 おそらくそうであろうと思える友は、めったにいるものではありませんが、いるところにはいます。
 私の場合せいぜい「片手」といったところでしょうか(「片手」全部とはいきませんが)(笑)。
 そうでない、嫌いになったり「国交断絶」したとたん、相手の不幸を願い始めるような人間を、真の友とすることはできません。
 もし誰かがそういう行動に出たら、それは友ではなかったということです。
 また、自分が誰かにそういう思いを抱いたら、自分のその人への愛情や友情はまがいものであったと思う(認める)ようにしています。

 以前、好意的に面倒をみていた若手の作家さんに後足で砂をかけられて、編集さんがあの人どうしましょうかと言うのを、才能のある人だから大事にしてあげてくださいと言った作家さんの話に触れたことがあったと思いますが、そういうフトコロのある人間とは、胸襟を開けます。
 世の中にはときどき悪党がいるもので、対立させたい人間の耳に、とんだ作り話を吹き込むことがあります。歴史ドラマなどである、王様の耳に、だれそれが謀反を企てていますなどと嘘の密告をささやくあれです。
 鵜呑みにして処刑したあとで、濡れ衣がわかって頭をかかえる王様、といったお定まりのパターンは、ドラマの中だけで十分です(笑)。

 あっ、そういえば、中学時代こんなことがありました(突然思い出した私)。
 私が小学校のころイジメを受けていたときの主犯格のIという少年がいました。
 中学になって体格が逆転し、私の方が大きくなってしまったためケンカで勝てなくなったIとは、自然にイジメの構図は解消されました(小学校の担任の先生が、私とIを同じクラスにならないよう中学に申し送ってくださったこともあったと思います。そのうち体格差ができてしまったのです)。
 その後I君とは昔のことは水に流して友達づきあいを始めていたのですが、弱い者イジメが好きなI君は別の犠牲者、自分より小柄なG君を見つけてイジメていたようです(ようですというのは、人前で露骨にはやらないので、私もそんな正確には把握していなかったのでした)。
 ある日、G君が私のところにきて言いました。
 「IのやつがW先生に山本がこんなことしたって言いつけていたよ」
 それはまったく身に覚えのないことでした。その場はふうんと聞き流しましたが、後で気になってW先生に直接「ボクに関してこれこれのことを言いつけた人がいると、ある友達から聞いたんですが、それは事実ですか?」と聞きにいきました。
 「いや、そんなことは聞いていないよ」
 とW先生は言いました。
 「キミはそんなことをしたのかね?」
 「いいえ、してはおりません」
 「そうか」
 で話はそれっきりになりました。
 G君の話は嘘だったのでしょうか。先生が本当のことを伏せておいでだったのでしょうか。
 今となってはわかりません。
 ただ、そのときふっと思ったのは、G君は、先生に嘘の報告をした彼に怒った私が、I君をやっつけに行ってくれることを願ったのかなと。
 I君が私をいじめていた過去のいきさつはG君も知っていました。なんでそのころの仕返しをしないのかと聞かれ、あんな小柄な(絶対勝てる)やつをなぐっても仕方がないじゃないかと答えたように思います(母にも同じことを聞かれて同じように返事したことを、先年母に言われるまで忘れてました)。
 すべては私の思い過ごしかもしれませんが、そこでG君の口車に乗って(たとえそれが事実であったとしても)I君を攻撃に行かないで良かったと思います。

 友とは話が異なりますが、私が働いてきたマンガ業界で昔から言われる話に、仕事の依頼を断るとあとで仕事を回してもらえなくなる(から断れない)というのがあります。
 ある程度は伝説、ある程度は本当といったところでしょうか。
 幸か不幸か、私はあまりひどい編集さんというのに当たったことがありません。
 上記のような話が本当かな、と思えるケースとしては
 いつオファーがあるかわからない不定期連載の続編を締め切り間際になって頼まれ、その時間では無理ですと答えたらそれっきり打ち切りになったケースとか、読みきりの打診を二回続けて(と言っても一回目は次の締め切りでどうでしょう、二回目はその次の締め切りでどうでしょう、という、ほとんど間をおかずの打診でした。いずれも手持ちの連載で無理なスケジュールだったのです)お断りしたら音信不通になった編集さん(メールのレスも年賀状もこなくなった)ケースなどがあります。
 できることはできるけれど、できないことはできないと正直にお答えしてるだけなのですが
 まあそういうご縁だったのだなあとあきらめるしかありません。

 かと思うと、耐え難い事情でこちらから仕事を下りさせていただいた担当さんから何年もして突然電話がかかってきて、他誌の仕事の好意的感想をいただき、感動したケースもあります。
 渡る世間には「仏もいれば鬼もいる」といったところでしょうか。

 自分の思いや行動を鏡のように返してくる(リアルタイムでなくタイムラグの大小はあろうとも)のが人生だと思うもので
 私は近年
 自分がしてほしくないことは人にしないように
 してほしいことだけするように
 心がけて生きています。



  いつも成功するとは限らないんですけれども無論(笑 


追記
 あまりハッピーでない別れ方をした相手を、不快に思うことは今でもあります。
 そういう人のことを悪しざまに言ったことも人生を振り返れば山のようにあります。
 でも、そこでどれほどその人を攻撃しても、それは実は、すべて自分の(私自身の)人生を傷つけ、泥を塗りたくっていたのに過ぎないということが解って、ある日その種のぐるぐるがイヤになりました。
 なんで、いいオヤジになるまで気づかなかったかなあ、と思うものです(笑
『Mr.ボーイ』もお色直し♪
『Mr.ボーイ』4巻・2009年お色直し版
 先日、拙著『エルフ17』のカヴァーの久々のお色直しをアップしましたが、あれほど久々ではありませんが、『Mr.ボーイ』も仕事の合間にお色直ししました。
 すでに私の旧作をネット販売していただいてるイーブックジャパンさんでの配信用です(実は先日のエルフも。実際の配信はまだ少し先、今年2009年の7月後半以降の予定です)。
 これは4巻なので6年ぶりのお色直し。
 肌のムラとかをCGで修正し(手塗りのタッチを残したい部分は残して)背景に横浜のランドマークタワーから写した俯瞰写真を合成してみました。
 初見の方にちょっとだけご説明申し上げますと、これは昔、双葉社の漫画アクション系の雑誌(本誌や別冊)で私が連載していたトランスセクシャルな潜入刑事が主人公の作品で、カヴァーの乙女(と見えて実は男)がそれです。
 ピザーラならぬビザーラという架空のコスプレピザ屋(笑)の配達員に化けて、立てこもりの猟銃男(画面横のうざいおやじ)を逮捕に向かった際のいでたちがこれ。
 右上の女の子は後輩の新米女性刑事です。

 さて、私の方は昨日アヌンガ28話のコンテが通りましたので、きょうから下絵・・・と思ったのですが
 近々道路上のアクションを描く都合上、以前資料用に買っておいた車のプラモを朝から作成、先ほど完成いたしました。
 通常の乗用車やスポーツカーならミニカー(おもに1/18)があるのですが、トラックやトレーラーの類はなかなか小さいサイズしかなく、ここは腹をくくってプラモ(1/32)にしたのです。同縮尺のBMWミニクーパーと比べると4倍以上のでかさです。
 多忙なときではありますが、今使わないでいつ使うと(笑)。
 結果は、作品でお目にかけたいと存じます(って別に気張るようなものじゃない、ただの小道具ですけども、いや大道具か?)。
 ではではまたー♪
『戦闘女神アヌンガ』26話解説
『戦闘女神アヌンガ』26話3ページより
『戦闘女神アヌンガ』26話15ページより
『戦闘女神アヌンガ』26話19ページより(製作途中)
 先日、Bbmf社のケータイマンガ『戦闘女神アヌンガ』の26話が配信になりました。
 あまり自作の解説など書かないのですが(作品は作品の中で語りつくすのが原則ですので)
 今回は例外的に少し補足しておきます。

 ケータイ配信でご覧になってらっしゃらない方には申し訳ありませんが(紙媒体の単行本でお見せできるときまでお待ちくださいませ)あまりネタバレにならない範囲で触れることにいたします。

 まず
 冒頭で回想する巧馬と聖の小学生時代のエピソード。
 遠足に行った先で、クモに食べられそうになったチョウを、聖が逃がしてやろうとする下り。
 結果は間に合わずチョウはクモに食われるんですが、その前後の聖の行動と反応。
 淡々とした慈しみと物事に捕らわれない在り方に、こんな子供がいるのかと思われたかもですが、実はモデルが存在しまして
 昔、武術の取材で私がお世話になった方の子供時代の親友。
 小学生でこそありませんでしたが、ほぼ「まんま」のエピソードがあり、その話をしてくださった方は当時「巧馬と同じような驚き」に打たれたそうです。
 そのお友達は、武術にも才能のある方で、学生時代もはんぱなくケンカが強かったそうですが、後々正式な武術の師に入門されたそうです。そういうネタのような人間が世の中にはひっそりと実在しているというのが、この世のおもしろいところだと思います。

 いつか使いたいと思って二十年近く暖めていました。
 アヌンガのこのエピソードで使えたことを、本当にうれしく思っています。
 ふだんから私も言及しております「とらわれない」生き方の、一つの見本ではないでしょうか。子供にだってできるんだからオレにだってできらあ!くらいに、気楽に思っていただくのも一興かと存じます(笑)。

 26話は、アヌンガが死に瀕した巧馬に手を差し伸べる重要な回でもあり、聖と巧馬の過去と思いを描く重要な回でもあります。いつにも増して力が入ってカラーシーンもたくさんあります。
 今後の展開にもご期待ください。

 それから、もう一点補足ですが♪
 悪役のドクター・レザが手にしたチェスのコマ。
 印象的に思われたお客様もいらっしゃるようですが実はこれ、山本の創作ではなくて、アフリカはニジェールで出土した素焼きの墓標がモデルです。本当にこういう形をしてるんですよ(サイズや質感はいささか異なりますが)。
 どう見てもアレに見えるんですけどね(笑
 側面の表現を見ると、解釈によっては両性具有的なシンボルにも見え、意味深なデザインだと思います。

 この場面はレザが一人チェスに興じながら今後のアヌンガ攻略に思いを馳せるシーンです。
 ご覧の画像は製作途中の図なのでチェス板の塗りわけもまだしてありませんが、コマは通常のチェスのコマをアフリカ風に私がアレンジしたものです。
 レザはチェックメイトしようとコマを進めているのですが、相手が女神アヌンガですので、左隅の本来キングであるはずのコマをクイーン(?)にしておきました(笑)。
 仮面の呪術師みたいのが「ビショップ」、のっぺらぼうの卵型頭のが「ポーン」、レザの袖に隠れて彼のサイドの「キング」がいます。
 レザの持つコマはいわゆる「ルーク」です。
 本来は古代ペルシャの二輪馬車だったそうですが、変化して今のような塔になったとか。アフリカンで塔と言えばこれ!と思って私が「採用」したのが、これでした。ちなみにレザはアヌンガを象徴する女神像の二つ横にコマを置きます。バックランクメイトと言われる有名な手で(と言ってもシロウトな私、うっかりコマ配置を間違えてるかもしれませんけど)(汗)、ゲームはこれで「つみ」なんですが、あくまでチェスはチェス。現実の戦いはマンガをご覧ください♪
 ではまたー。 
22年ぶりのお目汚し・2
22年ぶりの『エルフ17』3巻カヴァー改訂版
 全回に引き続きネット配信用『エルフ17』カヴァーです。
 これは3巻用。
 ジャイブ版の3巻裏表紙のカーサのイラストと、22年前(いや正確には少し前後するかもですが)白泉社の月間コミコミ誌連載時、読者プレゼント用目覚まし時計(昔からある定番タイプ。ベルが二個ついたアナログのやつ。つまはあれを「ちゅんりー」と呼びます。
 使用例 「うるせえ!そのちゅんりーを黙らせろお!」)
 のために描いたイラスト(モノクロ)にCGで彩色し、自分で撮影した空の写真と合成したものです。
 ちなみに、その目覚まし時計は何年も前に壊れて廃品に出してなくなっちゃいました。
 ではでは。
22年ぶりのお目汚し
22年ぶりの『エルフ17』5巻カヴァー改訂版
 某社でネット配信する拙著『エルフ17』の5巻カヴァー絵に
 最初に単行本化された白泉社版5巻のイラストだと上下が余るため、忙しい仕事の合間をぬってヒロインの上にヒーロー(?)のKKを描き足しました。
 同書の奥付は1987年4月となっていますので
 22年のギャップを超えての一枚です(配信画像ではタイトル文字は日本語になってると思います)。
 お目汚しにどうぞー♪
東西賢者の共通項
 歴史をひもとくと、様々な賢人の言葉に共通するものを発見して、ほくそ笑むことがあります♪
 ローマ帝国の皇帝で「哲人皇帝」と呼ばれたマルクス・アウレーリウスという人がいました。
 有名なので歴史に興味はなくとも、名前くらいは聞いたという方も少なくないと存じます。
 生前、彼が自分のために書いた文章をまとめた『自省録』という本があります。その中にこんな下りがあります。

<「この胡瓜はにがい」捨てるがいい。「道に茨(いばら)がある」避けるがいい。それで充分だ>

<最初の知覚が報告する以外のことはいっさい自分にいってきかすな。だれそれが君のことをひどく悪くいっている、と人に告げられた。これはたしかに告げられた。しかし、君が損害を受けた、とは告げられなかった。私は自分の子供が病んでいるのを見る。それは見る。しかし彼が危険に陥っているとは見ない。かように、つねに最初の知覚に留まり、自己の中から何ものもこれに加えないようにすれば、君になにごとも起こらないのである>
 『自省録』 マルクス・アウレーリウス・著/神谷美恵子・訳/岩波文庫


 実はこれに類する下りが、これまで何度か引用したインドの覚者、ニサルガダッタ・マハラジの対談記録にあります。

質問者 あなたの子供が病気になったときは気にかけるのではありませんか?
 マハラジ 私はあわてない。ただ必要なことをするだけだ。未来について心配したりはしない。あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ。(中略)
 それらが何であれ、あるがままだ。もしふたたびそれが起きるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる>
 『アイ・アム・ザット 私は在る』
 (モーリス・フリードマン/スダカール・S・ディクシット/翻訳・福間巌/ナチュラルスピリット・刊)より

 1800年近くの隔たりがある東西の賢者の言葉に、共通するものを感じます。
 そしてこれは、以前アップしました記事「朝(あした)に悟りを得れば 夕べに死すとも・・・」の中で引用しました釈迦のことば

「見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない(対象にはとらわれないという意味)。内にもいない(心の中にも執着・煩悩が生まれないという意味)。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない(解脱の状態)。それは一切の苦しみの終わりである」
 『賢い人 愚かな人』 アルボムッレ・スマナサーラ・著/大法輪閣より

 とも通じるものではないでしょうか。

 マルクス・アウレーリウス(121-180)はストア派の哲学を学んだローマの皇帝。
 ニサルガダッタ・マハラジは1981年に亡くなったインドの覚者にして雑貨屋のおじさん。
 そして釈迦は紀元前数百年に生きた、同じくインドの覚者です。

 彼らが説くのは、状況に対応できない無能な現実逃避の思考停止ではなく、必要なときに必要なことをする(考える)以外、無用な感情や思考、マインドのぐるぐるに一切自分をゆだねないと言うことだと思います。
 私は大いに共感し、そうするように努めています(いつも成功するとは限らないのですが)(笑)。

それらが何であれ、あるがままだ。もしふたたびそれが起きるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる
ただ必要なことをするだけだ。未来について心配したりはしない。あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ
 
 それよりも幸せな生き方があるなら、また別ですけども。
人生はなんでもないこと
 「人生はなんでもないこと」

 私が手を変え品を変え語り、訴えたいことは何かと言うと
 実はこのことに尽きるのではないかと思うものです。
 ブログでは色々なカテゴリに分類してますが(「いささか形而上」とか「生きること」「人づきあい」etc・・・)
 その根底に流れるのはこれ。
  中には、少々哲学宗教めいた話もありますが、これらはみなすべて、遠い空の彼方の星のことではなく、誰でも「徒歩で」到達できる「地続き」のことで、大層なことでもなんでもない。
 ただ自転車に乗れるか乗れないかの違いに過ぎない(無論乗れた人と乗れない人の間に、どっちがエライとかダメだとかはない)。
 そういうことを語りたいのです。

 自転車のたとえは、乗れる人と乗れない人いう二つの分類しかありませんが、あくまでひとつのたとえであって、人生は無数の段階の「自転車」がどこまでも続いているような感じがします(自転車の次はバイク、その次は自動車・・・とたとえてもいいかも)。

 誰かに説教などするつもりはなく、半ば自分に語りかけているようなものです(完全な独り言ではなく、無論読んでくださる方のことも考慮しております)。


 昔から思うことで、テレビや映画、マンガも含むマスコミの報道(フィクションからニュース等のノンフィクションすべて)の「演出」というものが、私はどうにも肌に合わない人間でした。
 基本的にマスコミの戦略は「センセーショナリズム」です。
 いかに人の注目を集め、つなぎとめておくかが原則であり、それには、平たく言うと常に
 「何かすごいことがある(起こっている)」
 と言い続けるのです。
 でも、本当にそうでしょうか?
 確かに、その瞬間は「すごいことに思えた」何か、というのはあります。
 しかし長い目で見たとき、すべてははったりと錯覚、デコレーションであり、何事もなく過ぎ去っていく日常の一こまではなかったでしょうか。
 「××××年に人類は滅亡する」
 といった類の虚しいタイトルと大同小異の、誇大宣伝。
 それがほとんどのように思います(百歩譲って、いや千歩譲って本当だとしても、滅亡するならするだけです。私は日々を悔いなく生きるだけで、なんの関係がありますか)。

 ドラマもニュース報道も、人の注意を喚起するためには、常になにか「問題が起こっている」といい続けます。「今からお見せするのは大変なこと」で、この番組や作品を見ないとあなたは「乗り遅れる」とか「後悔する」とか言います。
 そうでしょうか(笑)。
 近所で凶悪犯がうろついているとか、通勤通学のコースでテロが行われた、あるいはどこそこで強毒性のインフルエンザが発生した、などという重要事項は例外として、それ以外で人生を振り返って
 あの報道に乗り遅れたので取り返しがつかない、というようなことがあったでしょうか?
 私はありません。
 要するに、ほとんどはみな、どうでもいいことなのです(個人の力でどうにもできないという点で「人類滅亡」も同じです。核戦争を起こさないように平和に向けて働くとか、環境破壊を進めないよう生活のあり方を見直すとか、個人レベルでできることはすればいいし、できないことはできません)。

 世間に警鐘を鳴らすとか、貴重な問題提起という名目で、ひたすら世の中の悲惨な面や暗い面を並べ立て、人の不幸は蜜の味を提供する下種な部分がマスコミにはあります(本当に貴重な問題提起もあることはありますが)。
 国民の目を本当に重要な問題からそらしておくために、常に隣国が攻めてくる(から隣国を憎んで戦争の準備をしよう)とプロパガンダを続けている独裁国家の政府と、「偏向洗脳報道」という点で似たものさえ感じます。

 そして、まれにですが、わが身を省みず人を助けた人など、「感動的」なことがらを語るのですが

 それは、それなりに意義あることだとは思うのですが
 そこにもやはり、マスコミの悪しきセンセーショナリズムの一端を私は見ます。
 それはいったい何かと言うと

 「大変なことが起こっている」
 の延長として
 「これは(我々にはありえないような特別な)すごい人(できごと)なのだ」
 という語り方、見せ方をしてしまう点です。
 あれもCMと同じ、一種の洗脳教育、プロパガンダではないでしょうか。

 ちょっと見、自分にはできないような高尚なことがらを行う「偉人」はいます。いや、その中には本当に逆立ちしてもマネできないような、「偉人」としか言いようがないような人もいるにはいます。
 しかし、そうでない大半の「偉人」は、別に奇跡でもエイリアンでもない、私どもの日常の延長線上に「徒歩で」到達可能な、一見遠くに見えるだけの「隣人」に過ぎない。
 それを、自分たちとかけ離れた偉大な人、立派な人に祀り上げ、その間に溝を作ってしまうのは、大きな間違いではないでしょうか。
 それは、ある種の犯罪者を、実は私たちもちょっとボタンのかけ違いでそうなってしまう別バージョンの自分ではなく、自分たちとは無関係のエイリアンのような鬼畜として演出し、さあみんなで怒り笑い石を投げようという「あおり」報道と、ひとつコインの裏表ではないでしょうか。
 「悪人」の報道においても「善人」の報道においても、そこには大きなイマジネーションの欠落、バランス感覚の欠落、意図的な無視があります。

 一見難しそうに見えるが、方法さえ解れば誰でもできることがらを、普通の人にはできない限られ選ばれた人だけの特別なものに見せかけ、この特別なことを特別に教えてあげようというのは、昔から多くの詐欺師が行ってきた常套手段です。
 そういうインチキはすべて日常から排除して、なんでもないことをなんでもなく語り、誰でも出来ることは誰でもできるようにしていく。それが正気な道ではないでしょうか。

 自転車というものがなかった時代、初めて自転車を見た人はどう思ったでしょうか。
 あんな不安定な、すぐ左か右に倒れてしまうような乗り物が使えるかと、何割かの人はきっと思ったと思います。
 ライト兄弟が飛ばした当時の飛行機に、現在のような大量の人や貨物を輸送する交通網の実現を見抜いた人は少数だったと思います。
 でも、歩んでしまえばなんでもない。
 あたりまえの地続きの道です。

 私は人生という名の「日常」、なんでもない「散歩」の途上で、人はいかにたやすく気軽にどこまでも行けるかを自分の人生で試してみたい。それを生涯語って行けたらと思うものです。
 語ろうにも語りようのないことは、沈黙するしかないですが、それ以外はどんどん語る。

 人生はすべてなんでもないこと。
 まだそう思えないことも色々ありますが、いつか思えるようになると信じています。
 人はどこまでも歩み、いつの日か、天の星まで行くものですから♪
人様の作品への意見
 たまに人から、作品への意見を求められることがあります。
 マンガ家志望であったり、趣味のマンガ執筆であったり、いろいろですが
 若いころは私もホイホイと身の程をわきまえず意見を言ったものでした。おせっかいもしました。
 でも半世紀近く生きてきて、しみじみ思うのは、私はそういうアドバイザーには不向きだということです。

 原則私はプロとしての立場からシビアな意見しか言えないところがありまして、当たり障りのない、相手の自尊心を満足させていい気分にさせられる意見が不得意でもあります。
 無論、日常の一コマとして、素人の方のイラストなどを拝見して、ああ、この絵のここんとこはすてきだなあ!とか思えば、そのとおり誉めます。それは正直な私の感想です。
 でも、これを作品(人様に鑑賞していただく作品)としてどう思うかと居住まいを正して問われれば、こちらもマジでガチな感想を言わざるを得なくなる。
 そのとき、それに耐えられる人は、世の中にわずかしかいないようです。

 昔、友人が親しくしていた武術家さんの道場(日本武術ではなく中国のものですので、「道場」とは言いませんが(おそらく「把式場」とかだと思いますが、いわゆる道場と思ってください)に、おばさんが連れ立って入ってきたそうです。
 どうやらカルチャーセンターで習うような健康増進太極拳が習いたかったようなのですが、そこは本当に殺人技術としての太極拳を教えるところでしたので、老師は丁重にお引取り願ったそうです。
 健康体操がやりたいおばさんに、あなたのその動きでは誰も倒せないので無意味ですと言っても、それ自体が無意味ですし、言われたほうも困るでしょう。

 「最近の人は・・・」というフレーズには、往々にして嘘がありますので、あまり鵜呑みにしないようにしていますが、「最近の若い人は打たれ弱くなっている」ことは、あちこちで体験します。
 以前、母校のマンガ研究会のBBSに顔を出して、やりとりしていた際も、なにげなく言った言葉(その方への攻撃や批判ではなく、単なる一般論のつもりでした)に現役の学生さんが傷ついてしまわれて、驚くとともに申し訳なく思ったことがあります。
 ぶっちゃけ、なぜそれで傷つくのかがわからないことが多く、近年なるたけ余計なことは言わない(人様の目の中のチリは払わない)ようにしています。

 いささか話がそれますが、私は若いころ(本当に学生のころ)から、真実(事実、現実なんでもいいです)と向かい合えない人というのがダメでした。
 自分にもそれを課してきましたし、他者にも課していたときがありました(大きなお世話ですね。今は自分にしか適応しません無論)(笑)。

 いわゆる「ガン宣告」に代表される、「真実を語るべきか、伏せておくべきか」というテーマが昔からあり、それを題材にドラマになったりしますが、私の場合、宣告はありのままにされることしかありえませんし、それを拒否するという選択自体が理解できないものなのです。
 生き死にという問題は私の最重要事項ではありません。
 この手の問題で、よく「自分がその立場になったとがないからそんなことを言うんだ」といった決めつけをなさる方がいられますが、人は立場によって異なるものであるというのは、以前日記でアップしました私の実母の話(病院でガンかも知れないと言われて、帰り道うれしくて笑みがこぼれて仕方がなかった/2008年6月13日の日記「人生の光と闇」参照。)をお読みいただいても、お分かりいただけると思います。

 それに耐えられない方がいられることは理屈としては知っていますし、そういう方に無理やり現実を突きつけようなどという意思はまったくありません。

 ただ、そういう方と、腹を割った会話はできません。
 あたりさわりのない、その方の脆弱な自我が傷つかないような、皮をかぶった応対をするしかありません。

 これもひとつのたとえ話ですが
 他人の頭に拳銃や刃物をつきつけて、ものを尋ねるのがひどいことであるなら
 自分の頭に拳銃や刃物をつきつけて、ものをたずねるのもひどいことではないでしょうか。
 私の気に入ったような(私が心地よく受け入れられるような)回答をしなければ、おまえを傷つけるというのと、自分を傷つけるというのは、同じコインの裏表です。
 他人を傷つけるよりは自分を傷つける方がまだマシかもしれませんが、相手に罪悪感を抱かせイヤな気分にさせ、望みどおりの回答を迫るるという点では同じ穴のムジナであり、「脅迫」であることに変わりはありません。
 あからさまな悪意や敵意は別ですが、何を言われようと感謝して受け止められない人間に、他人の意見を要求する資格はないのではないかと思います(中傷や荒らしのことではありません)。


 基本的に、近年、私は自分のプライド、自尊心などというものに興味を持てなくなっています。
 自尊心とは、それを持たないと、道を誤ったり己を律していけない段階にある人が、人生のある時期「一時的に」必要な手がかりのようなものであり、その段階を超えれば、もはや無用な過去の遺物ではないかとさえ思うものです。
 自分も昔、自分の自尊心がいかに傷ついたか、いかに満足させられたか、というテーマに、一喜一憂していたころがありましたが、今思うと無駄なエネルギーの浪費であり、実にどうでもいいことです。
 私にも自尊心の名残はありますが、もはや、昔住んでいたことがあっていくつかの荷物が運び出されずに置き忘れられているアパートに近い感覚になっています。
 真実と向かい合うよりも、自分の自尊心の方が大切な方と、本当の話はできませんし、そういう方は、何か同じ志向の仲間とお付き合いされるのがいいと思います。

 もともと私は舌鋒が鋭い人間で、それでずいぶんトラブってきました。
 中年になってからも、二十数年来の親友と決別することになりましたし、それはしばらく痛手でした。
 今、真に親しい友人と言える人間は、その辺の分別と腹はくくってる人ですが、それでも、危うくトラブりそうになったことがあります(崖っぷちで正気にかえってくれましたが)。
 
 昔、有名な武術マンガに『拳児』というのがありました。
 実在の八極拳の達人、李書文が「二の打ちいらず」と呼ばれるようになったエピソードが出てきます。
 李がポンと叩くと、相手はそれで悶絶し倒れてしまう。
 「今のはけん制の一打で、これからとどめの一打を入れるのじゃ。立ちなされ」
 「先生、死んでます」
 という、有名な話ですが(笑)。
 私は人生で、何度も、会話においてこれに似たシチュエーションを体験してきました。
 まずは「まくら」(落語のイントロ)のように軽くジャブを出しておいて、そこから本題に入ろうとすると、最初の「まくら」で落ち込んだ相手が、逃げ去ってしまうという;
 「今のはけん制で、これからとどめの一話に入るのじゃが」
 みたいな。

 けしていじめとか悪意ではなく、たとえば、アシスタントさんなどの問題点を指摘して、ワンステップ先に進めてあげたいな、これはまたとない良い機会だな、とか善意でやっても、そういうことがありました。
 親友が、何をトチ狂ったか、自分を見失って周囲に迷惑かけまくっているとき、それをいさめて絶交されたこともあります。

 人の心は弱いもののようです。
 
 守るべき「私」などなにもない。
 傷つく「私」は「側(がわ)」に過ぎず、守るべきものも失うものもなにもない(非本質的なことである)。
 本質的な真の私は、誰かによって傷つけられたり損なわれたりするようなものではない。
 私は真実を見つめて生きる。
 と、腹をくくっている人は少ないですし、わかっていても追い詰められれば、やはり逆上して自分を見失いそうになる。そういうもののようです(無論、そんな段階はとうに超えた境地の方もおいででしょうが、なかなかころがってはいません)。

 作品に限らず人生全般において、基本的に、「人様の目の中のチリは払わない」ようにしていますし、人は自分でころんで覚えるのが一番だと思っています(今声をかけないと、どうにもヤバイというケースは例外としてありますが)。
 それは大きな視点で見てもそうだと思うし、みみっちい私的な視点でとらえても、
 限られた知識と判断能力しかない自分が、不用意に他者に意見して、不用意に傷つけることは(いささか形而上的な表現をするなら)ネガティブな「業(ごう)」を積むことになり、避けたい事柄の最たるものなのです。
 誰かに意見することで優越感を感じたり自尊心を満たしたり、というつまらないゲームは卒業しているつもりですが、だからといって自分がピュアな愛と善意にあふれているなどとは思えませんから、本当に相手の成長を願って呈する苦言であるのか、そうでない何かが紛れ込んでいるのかは、よくよく心を落ち着けて、見直してからでないと決められません(それでも万全ではないところがあります)。

 以前も書いたことがありますが、ある部分の筋肉が縮んでいるからと、へたくそな治療家が不用意にもみほぐせば、人体は護身反射によって、その筋肉を以前にもまして収縮させてしまいます(へたくそなマッサージなどで体を壊す人がいるゆえんです。うまい人に診てもらわないと逆効果です)。
 人は心にも、この護身反射(護心反射?)があると私は思うもので
 かたくなな心をもっとかたくなにしてしまっては
 なんのための忠告かわかりません。

 「人を見て法を説け」
 と言いますが、実に難しいことです。

 ちなみに、私の友人で、漫画家でもあり専門学校のマンガの講師でもある人がいますが
 これが実に人を励ます名人で、私なども会話していて、背中を押され心が軽くなるような一言をかけられることがしばしばあります。
 それが口先だけでなく、心の底から確信を持って発せられたような一言で
 自分にはそういう才能も徳もないなあと感嘆することがよくあります。
 こういう人はどんどん忠告されるがいいと思います。

 もののたとえで言いますが
 医者にもいろいろなタイプがあり、診療の現場で患者に寄り添って人を救うタイプの医者もいれば、そういう対人作業は不得手でも、基礎研究など現場とは離れたポジションで、裏方に徹して医療に貢献する人もいる。
 どちらが偉いとか低いではなく、向き不向き、適材適所なのだと思います。

 なんだか、マンガの作品の話から、人生の話になってしまいましたが
 なんとなく言わんとするところはご理解いただけるのではと思っております。
 長文失礼いたしました。
ぎっちぎち;
 スケジュールが;
 ぎっちぎちで大変です。
 ご存知ケータイマンガの『戦闘女神アヌンガ』と小説すばるの馳星周先生の小説『淡雪記』の挿絵のほかに、実は今もうひとつ進行中の仕事がありまして
 そんなこんなで描いても描いても終わりません;
 必死な思いでスケジュールに追いつくと、予定外の何かが入ってまた差が開きます。

 若い頃友人から聞いた話で
 彼の知り合いにゾクの少年がいて、その少年、ヤバい先輩のヤバい筋から命じられてビン入りのシソナーを売ってたらしいんですが
 「やっと売りさばいたと思ってアパート帰ると、また押入れに新しいビンがぎっしり入ってるんすよー(泣)」
 と嘆いてたとか。

 なんだかふっと、その話を思い出しました。
 いや、そのもうひとつの仕事というのは、あと2~3ケ月もすれば一段落する予定なんですが
 あくまでメインは連載で、その合間を縫ってやっております。
 どれも手は抜けないし、このご時世仕事があるのは大感謝なんですが
 たまにはゆっくり寝たいです。

 というわけできょうはグチタレ日記でしたー(笑
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