あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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二人の賢者
『あるがままに』
『アイ・アム・ザット 私は在る』
ニサルガダッタ・マハラジ模写
 これまで何度かその言行を取り上げてきました、私の尊敬する現代の賢者の中でももっとも際立った存在である二人、ラマナ・マハルシ と ニサルガダッタ・マハラジ の顔写真です(と言ってもいずれも20世紀の故人です)。
 一枚目がマハルシ、次がマハラジ
 ともにインドの覚者です。
 勝手に転載もできないでしょうから、あくまで本の紹介としての表紙の画像に留めます。

 一冊目が『あるがままに-ラマナ・マハルシの教え』
 (デーヴィッド・ゴッドマン編/福間巌・訳/ナチュラルスピリット・刊)

 二冊目が『アイ・アム・ザット 私は在る』
 (モーリス・フリードマン/スダカール・S・ディクシット/翻訳・福間巌/ナチュラルスピリット・刊)

 3枚目は私の描いたニサルガさんの模写です。大好きな一枚なのですが、本の中の写真を使うと、書籍の表紙と違って「紹介」の域を超え、無断転載になるでしょうから、こういう形でご容赦ください。

 同じ覚者でも対称的な二人でして
 前者マハルシ(マハリシともいいます)が若くして悟りを開き、そのままアルナーチャラという聖山の麓に留まって一生を送ったのに対し、
 後者マハラジは中年になってから悟りを開き、一度は放浪の出家者になりかけたものの、途中でふと、そんなことをしても意味はないと思いなおして家に戻り、一生を家業の雑貨屋(子供服とかたばこを売る)を営みながら暮らした人です(先日の日記「熱烈に冷静でありなさい」の人です)。
 
 どちらがエライとか、立派だとかいう話ではなく、それぞれにタイプの異なるキャラクターと人生を歩んだ二人ですが
 共通するのは、ともに人の奥底、喜怒哀楽や思考の根底にある「真我」、「私は在る」という「気づき」を見出し、それに留まることを説いた点です。

 私は今さらあこがれのイケメンとかいないんですが、このマハルシの笑顔はあこがれでして、こういう穏やかな顔の人になれたらいいなあと思うものです。

 ご記憶の方もおいででしょうが、マハルシとは先日の日記「夢には夢のオトシマエ」で、戦乱の故郷に戻ることを拒否した弟子のプンジャジに
 「なぜ夢を恐れているのだ。あなたの夢の手は、夢の虎の口の中では全く安全だ。このように世間で生きなさい、そしてそれを夢と呼びなさい。恐れないで、夢の中で働いているように働きなさい。夢は夢で、本当のものは何もないが、息子としてあなたも夢の中にいる。だから、夢の息子を夢の国に行かせて、夢の中で夢の両親を救い出しなさい」
 と優しく諭したあの師匠です。
 こんな笑顔とまなざしであんなこと言われたら、私だったら泣いちゃいますが(笑

 実はこれ、私のあこがれでして
 こんな顔で微笑むことのできる人になれたらいいなあって(笑

 何がいいって、誰も責めず批判せず、あるがままを受け入れて愛しているからです。
 批判がましい正義の人とか、押し付けがましい賢者とかはいただけません。
 立派な人だの尊敬される人だのになりたいのではなく、誰にとってもなんのプレッシャーもなく安心していられる人がいいなと思うからです(え?いたの?と思われるならそれもよし)。

 しかしですね
 トイレの後とか髭剃りの時とかに私が鏡を覗くと、そこには厳しい顔をしたオヤジがいるわけです(爆
 マハルシとは天と地ほども隔たった、気難しそうなオヤジです。
 ダメだこりゃ;
 ってまあ、四六時中原稿とタイムアタック状態で、気の抜けない日々ですから、なかなかふにゃ~とリラックスした顔にはならないんですが

 でも先日、友人にこの写真を見せてその話しをしたら友人がマハルシの笑顔を評して
「確かに素晴らしいお顔だと思うけど、この顔では『しめ切り』はクリアできないと思いますよ」

 え?

「これって、むしろ、原稿落としちゃったー、って顔とか(笑)」

 わははははは。
 確かにこの顔で「しめ切り」タイムアタックは難しいです。
 むしろ二枚目の写真、いや三枚目の模写のニサルガさんのお顔でないと
 過酷な「しめ切り」は超えられません。
 「あ、そこ背景描き直して」
 とかセリフつけても違和感のないお顔かと♪

 いやマハルシのような賢者は別でしょうが、私のような凡愚に、あの笑顔では無理なように思います。

 マハルシは無理でも、マハラジ目指して(顔だけでも)日々行きたいと思います(笑
遠景近景
『淡雪記』#5原画
『淡雪記』#5完成稿
 原稿上がったー♪
 『戦闘女神アヌンガ』21話を完成しました。
 でも、配信前の画像を公開してはフライングなので、今回は集英社の雑誌「小説すばる」で連載中の馳星周先生の小説『淡雪記』5話の挿絵から。作画術と言うほどのものでもないので、今回はそんなタイトルをつけませんでした(笑
 雪の中で主人公とおっさんが出会うシーン。
 原稿では一枚の紙にご覧のように遠景と近景を描いてあります。
 これをスキャンしてパソコン内で二枚に分離し、重ねて合成したのが完成図。
 このように遠景と近景を別々にしておいた方が、後ろの軽自動車のヘッドライトの効果とか、つけやすいんですよね。
 スキャン前の原稿は、主線のほかに、部分的に筆塗りで影がつけてあるのがおわかりいただけると思います。そこから先の効果はすべてPC内のフォトショップによるものです(あ、一部トーンの貼りこみもあります)。

 ではではまたー♪
夢には夢のオトシマエ
 この世や人生は、すべて、ある意味「夢」のようなものです。
 たとえご自分でそうは思われなくとも、そういうことを言ったり書いたりした人のことを、小耳にはさまれたり、ご覧になったことがある方が大半ではないかと思います。

 以前の日記でも触れましたが、仏教の華厳経に
「三界は虚妄にして、これ心の作なり」
 とあります。
 人の心は言うにおよばず、すべては心の作り出した幻であるという。
 ある種の形而上的思想は、そうした前提の元に構成されています。
 インドの覚者などが語る教えがそうですし、仏教もそもそもインド起源ですね。

 この世は夢である、というのは、私はおおむね賛成、納得しているんですが、それには条件がありまして、自分でそれを夢として処理できるものまでが、本当に私にとっての夢である、あるいはそれが夢であると言い切る資格が自分にあるという。
 何言ってるわかりにくいですよね;(笑)

 私はまだ、人生のすべてを幻としてコントロールするような境地には行っていませんから「三界は虚妄」というのは、あくまで、そういう思想があるという「伝聞」として伝えることしかできない。これが真実だ!などと人様に語るだけの資格はないということです。
 その辺のバランスと言うか分別は忘れないようにしませんと、 身についていない先人の言葉を、自分の言葉と錯覚して、オウムかキュウカンチョウのように繰り返している勘違いな人になってしまいます。
 いや、そこに向かうために唱えることは有意義なのですが、あたかも自分が身につけたかのごとくに勘違いして唱えることは、それこそがただの錯覚「まぼろし」であり、つきつめればある種の詐欺にもなりかねません。

 mixiなどのコミュニティをのぞいても、そういった勘違いな人のひしめくサークルがいっぱいあって、形而上的志向を持つ私が、その種のものに参加しない最大の理由です。無論中にはまっとうなものもありますが、人数が増えるとどうしても勘違いな人の参加は避けられないものがあり、厳密な資格審査でもしない限りはクオリティの維持は難しいものがあります(そもそも誰がどうやってその判定を下すのか、という問題も)。
 中にはコミュニティの管理人さんご本人が、そういう錯覚に陥った典型的なタイプで、せっかくのすばらしい覚者のコミュがだいなしになっている例もありました。
 私が見たある例では、そのご本人はいたって真剣で、その道の先輩から自分の錯誤ぶり(あなたは先人の言葉を復唱しているだけで、何もわかってはいない)を指摘され、素直に認められながら(認められたところはエライと思います)、でも自分はほかにどうしていいかわかりませんと答えておいでなケースもありました。悲喜劇と言うか、いささか嘆息したことがあります。

 話は戻りますが、冷静に自分の感情を見つめ、そのコントロールが行える人にとっては、日常の大半のできごとの意味、それも感情的な意味は、大半が幻想と言えます。
 人が「傷ついた」「傷つけられた」という言葉を使うとき、身体的物理的側面よりも、むしろ精神的感情的な意味で使うことが多いように思うのですが、それは大変に主観的なものなわけで、同じ出来事が心の持ちようによってまったく違う意味を持ってしまう。

 たとえば、二階からゴトゴトと、寝ている人の起き出す物音がした。
 これが大好きな恋人だったりすると、うれしくてうきうきする、幸せな気分になります。
 一方、大嫌いで長いこといケンカを続けている隣人だったりすると、不愉快、怒り、フラストレーションなどに襲われ、身体的にも不調が現れたりします。
 同じ位置から同じ音量の同じ音がしても、心の持ちようでまったく正反対のことが起こる。
 ここには、出来事の絶対的な価値などというものはなく、すべては受け取る人の心が作り出している幻があるわけです。いや、幻が作り出した現実があると言うべきでしょうか。
 私はひどい苦しみを受けた、という場合、それを苦しみにしているのは自分なのです。

 精神的に追い詰められ病んでいる方は、他人からかけられた優しい(少なくとも悪意のない)言葉一つでさえ傷つき、場合によっては自殺さえ選びます。
 一方、自己と感情の一体化という錯覚を手放し(感情の否認ではなく認めたうえでの客観視)喜怒哀楽のからくりを見抜けるようになった人間は、普通の人が傷つき怒り落ち込むような他者からの攻撃や不幸(と一般には言われるような)出来事に出会っても、傷ついたり「被害者」になったりしません。
 もはやそういう幻想の虚偽を見抜いているからです(誤解のないよう、再度申し上げますが、あくまで精神的内面的な話です。交通事故にあってはねられて「被害者」になる、というような、物理的法的な話をしているのではありません)。
 そもそも。精神的な「加害者」「被害者」などという図式そのものを手放しているわけです。

 では人の心の解釈に左右される「苦しみ」ではなく、もっと直接的、身体的な「痛み」はどうか。
 実はこれも同様で、以下のような有名な話があります。

<痛みの研究では先駆者ともいえるヘンリー・ビーチャーは第二次大戦のさなか、重症を負った兵士には痛み止めのモルヒネがほとんど、あるいはまったく必要ない場合が多いことに気づいた。兵士たちはひどい傷を負ったにもかかわらず、命が助かったことを心から喜び、二度と戦場の恐怖に向き合わないで済むこと、これからは手厚く看護してもらえることに心底ほっとして、痛みを感じることがほとんど、あるいはまったくなかったのだ。これもまた心のもつ力を如実に示す、注目すべき事実である。一般の市民生活で同程度の傷を負えば、とてつもない不安に襲われ、必要なモルヒネも半端な量では済まないだろう>
  (『心はなぜ腰痛を選ぶのか』J.E.サーノ・著/長谷川淳史・監修/浅田仁子・訳/春秋社より)

 普段なら悲しんだり不幸に感じたりする大ケガを、自分を幸せにする、不幸から遠ざける前向きな出来事として捉えることで、痛みの感覚さえも異なるものにしたということです。
 私はそんな境地に至ったことはないので、あくまで「だそうです」としか言えないのですが(笑)、一応オカルトや形而上学ではなく、医学的な事実としても、そういうことはあるようです。

 瞑想の達人になると、精神を統一することで、麻酔なしにある種の外科手術に平然と対応したという例もあります。
 このくらいになると、もう日常の出来事の大半は「心の作なり」として対応可能になっているわけです。
 無論どの世界にも本物とニセモノはあって、自分は修行ができているので何を聞いても大丈夫だと言っていたお坊さんが、ガンの宣告を受けて呆けてしまったり、悲観するあまり自殺したなどという笑えない実例もあります。

 「本物」のもっと極端な例としては、イスラムの聖者でしたか、火の中に投げ入れられて焼き殺されながら笑っていたという人もいたと聞いたことがあります(出典不明)。

 それはさておき
 神秘思想などで言う「世界は夢である」というのは、もっと次元の違う意味で言ってたりしますが(世界は神の見ている夢であるという宗教もあります)そこまでいくと、共感できる読者の方はほとんどおいでにならないでしょうから、今は置きます(ご理解のある方は、私などが語るまでもなく、すでにご存知でしょうし)。

 人生は一つの夢であり、幸も不幸も、人が心で作り出した勝手な幻想に過ぎない。
 それはおおむねその通りだと私は思うのですが、
 この手の考えの危ないところは、ともすると非常に投げやりで無責任な人間を生み出しかねない点です。
 人にひどいことをしても、なにかをいい加減に行っても、その言い訳として
 「だってみんな幻なんだろう」
 みたいな。
 でも、たぶん、そういう人の財布からお金を拝借したり、その人に暴力をふるったりしても、
 「みんな夢まぼろしだから」
 と笑って許してはくれないようなんですが(笑)。

 まあ、それは極端な例としても、この世は幻であるという思想にかぶれて、何か見失ってしまう人は少なくないように思います(形而上的世界に浸ってる人の中にしばしば見られます)。
 ちょっとぶっそうなことを言わせていただければ、私のマンガのファンで長年読んでこられた方は、山本がどれくらいエグイことを思いつくか多少ご存知だと思うのですが
 人間の拷問にかけては、本当に指を鳴らすように思いつく才能がありまして
 私に前世と言うものがあるとすれば、いったい何をしていたのだろうと思ったことは一度や二度ではありません(笑)。
 平和な恵まれた環境に身を置いて、この世はすべて幻想であるとお気楽に語っている方の多くを、道具と機会さえ与えられれば、一時間以内、いや数分で「棄教」させる自信があります(そんな無用な業を作るつもりはありませんけど)(笑

 だから私も、自分が幻想として取り扱う能力もないことを幻想として語らないよう、充分気をつけていたいと思うのですが
 この「この世は夢である」について、座布団一枚あげたくなるようなエピソードがあります。
 私の尊敬するインドの覚者、ラマナ・マハルシ(マハリシとも)が、弟子のプンジャジに対して語った言葉なんですが
 プンジャジというのはご記憶の方もおいででしょうが、以前このブログで紹介いたしました本
 『ポケットの中のダイヤモンド
 の著者ガンガジの師匠であるパパジのことです。
 マハルシ(マハリシ)はそのパパジの師匠です(今はいずれも故人です)。

 生前パパジ(プンジャジ)が色々な人に語った話を集めた本(『真理のみ』(原題“THE TRUTH IS”私家版)から、紹介します。

<1947年、インドが分裂する前に、私はラマナアシュラム(ラマナ・マハリシのそばで人々が修行する場所のこと/山本・注)に滞在していた。七月の中頃、ある日誰かが私に(中略)国家の危機について話した。私は新聞を読む時間も政治にかかわる時間もなかったのでそれについてはほとんど知らなかった。彼が言うには来月の中頃、国は二つに分かれて、ラホールとぺシュワーの間に住んでいる私の家族は、もし私が救い出さないと、虐殺されてしまうだろうというのだ>

<私はすでに全ての家族を忘れてしまっていた。全ては夢であった。両親、家族、子供達、国家全ては夢で全ては終わったと彼に言った>

 これはプンジャジが無責任な人だったというのではなく、すべての執着を手放す修行がそこまでに至っていたという証(あかし)なのですが、それを聞いた相手の人は、そのことを師匠のマハリシに伝えます。
 ラマナ・マハリシは、本当にこの世のすべては夢であると説いた人で、究極、「私は在る」というあなたの「真我」以外何もない。究極的には輪廻もあなたの外にある神も宗教もすべて幻想であると言った人でした。ただ、けして誰彼かまわずその教えを押し付けるようなことはなく、相手の段階や状況を見て、多神教の人にはそのように、一神教的な人にはそのように、また、その種のすべては幻想であると言う人にはそのように、文字通り「人を見て法を説いた」人でした。
 プンジャジのその言葉を聞けば、よしよし、私の教えをよく学んだねと誉めそうなところですが、そこが一味違っています。

<私達がマハリシと一緒に朝の散歩に出かけた時、マハリシは私に尋ねた。
 “なぜラホールに行って、家族を救い出さないのかね”
 私は言った、“私がここにやって来た時、私は、妻や子や両親がいたが、あなたが一瞥を与えてくださった時、全てが終わりました。
 今は、あなたが唯一の身寄りで、この世に他の誰もいません”>

 そこでマハリシが、穏やかながら実に鋭いツッコミを入れます。

<“それを夢だと言うのなら、なぜ夢を恐れているのかね?”>
<“夢の中で、あなたの妻や親戚の面倒を見に行ったほうがよい。なぜ夢を恐れているのだ。あなたの夢の手は、夢の虎の口の中では全く安全だ。このように世間で生きなさい、そしてそれを夢と呼びなさい。恐れないで、夢の中で働いているように働きなさい。夢は夢で、本当のものは何もないが、息子としてあなたも夢の中にいる。だから、夢の息子を夢の国に行かせて、夢の中で夢の両親を救い出しなさい”>
<“あなたがどこにいようとも、いつもあなたと一緒に私はいる”>

 こうマハリシにさとされて、プンジャジはメウロコし、敬拝してマハリシの下を去り、故郷に戻って自分の家族や親戚を救い出します。
 それはまた別の物語ですが
 私(山本)は、このときのマハリシ(マハルシ)の
「あなたの夢の手は夢の虎の口の中では全く安全だ。このように世間で生きなさい、そしてそれを夢と呼びなさい」
「恐れないで、夢の中で働いているように働きなさい」
 という言葉は、大変胸に迫ります。
「だから、夢の息子を夢の国に行かせて、夢の中で夢の両親を救い出しなさい」

 すべては夢であろうとも、夢には夢のオトシマエを、きちんとつけて生きなさいと、彼は言っているように思います。
 私はかねがね、その種の思想につきまとう無責任な現実逃避の影が嫌いで、一抹の胡散臭さが拭えなかったものですが、「すべては夢」をつきつめたマハルシのような覚者が、こういうことを言っているのを聞いて、胸のつかえが下りました。

  未熟者の私にはまだとても、世界のすべてを夢としては扱えませんが、その大半、少なくとも自分が精神的に翻弄されるできごとの大半は、己の心の生んだ夢だとは思います。
 夢には夢のオトシマエをつけて
 生きてみたいと思っています。
言葉は指にほかならず
月を差す
 この「あつじ屋日記」、なにやかやと思いつくまま語っておりますが

 「言葉は月を指差す指」
 にほかなりません(って、このフレーズは私の思いついたフレーズではなく、昔知り合いから聞いたものですが♪気に入って以後愛用しています)。

 
 「あれだ!」と何かを人が指差しても、犬猫はじめ動物はその指す方向ではなく指先に注目し、その臭いを嗅いだりするだけです。
 目配せする視線の先に何かがあるという意味を理解するのは、高等動物の人類にのみ可能なことで、智慧の発達したサルでも難しいそうですが(一方で周囲の人間の微妙な気配を感じて、回答を選ぶ「学者ウマ」などもいるのですが)(笑)
 言葉もそれと同じです。

 とりわけ「形而上的」なテーマを語る際は、言葉の上っ面や、学校で習うような限られた型にはまった取り方をしていては、何も真意は伝わりません(義務教育で学ぶ知識がどれほどかたよって不完全なものであるかは、気の利いた子どもでも知っています)。

 仏教には「不立文字(ふりゅうもんじ)」と言って、釈迦の教えの真髄は言葉では伝えられない、文字通り「形而上的」な感覚によってのみ伝えられるものだという思想があります。
 釈迦の教えに限らず、多くの物事の本質というものはそういうものだと思うのですが、たとえば、山本貴嗣はどんな人物かということを、ノーベル文学賞受賞の作家が文章にしても、それはよくできた表現ではあるでしょうが、真実の山本貴嗣を伝えることはできません(とても「よく書けている」とは言えるでしょうけど)。いや、今私やあなたが見ている風景一つ、それを目にしていない誰かに伝えることはできません。
 それは、人と人とが語り合う際の暗黙の了解だと思うのですが
 ときどきそれを理解していられないか、忘れておいでなのか、それともあえて無視しておいでなのか、な方がいらして、意思が通じ合えないことがあります。

 じゃあ、言葉にできないことをなぜ言葉で語るか。
 それ以上の伝達手段を持たないからです。
 絵画やヴァーチャルリアリティで伝達できない抽象的な内容を表すには、今のところこれしかない。
 持てる最上のものが言語であるため、仕方なくそれを使っているだけで、テレパシーでも持っていればそれを使うことでしょう。

 仏教つながりで言うと、禅には「教外別伝(きょうげべつでん)」と言って、詩歌、俳句などを使って教えを伝える方法(補助的な手段と言うのでしょうか)があり、書は「有声の画」、絵は「無声の詩(うた)」と言うそうです。
 私も、別に釈迦の教えの真髄などというだいそれたものではありませんが、自分なりに見出した、本当は言葉にできない何事かを、こうして文章やらマンガやらをメディアにして、響き合えるどなたかにお伝えできればと試行錯誤しています。

 けして言葉を軽んじるものではありません。
 その限界はふまえつつ、使える部分は十分に使いきりたい。
 同じ仏教でも、密教では言葉の重要性は大変大きなものですし(そもそも「真言」というくらいですから)、聖書などでも言葉は世界の始まりに関わるものです。
 それについてはまた別の機会に♪ではではまた



「もしそれらが無意味なら、どうして使うのでしょうか?」
「なぜなら、いかなる言葉も適さないことに、あなたが言葉を望むからだ」
                   ニサルガダッタ・マハラジ
「オモチャは飽きるためにある」
 以前、昔執筆を手伝ってくれていたアシスタント、X君が、なかなかうがったことを言うという話を書きました。
 彼の言葉で忘れられないことがもう一つ。

 「よく子どもが買ってやったオモチャにすぐ飽きると言って怒る親がいますが、あれは間違ってますよ。
 いつまでもオモチャにしがみついてたら子どもは成長しません。
 オモチャは飽きるためにあるんです」

 なかなかうまいことを言うと笑ったものですが(でも高いオモチャを無理して買って、ソッコー放り出されたときの親の気持ちもわかりますけど)

 近年私は思うのですが
 この世のすべては、似たようなものではないかと(笑)。

 芥川龍之介に『杜子春(とししゅん)』という小説がありますね。
 有名なのでご存知の方も多いと思いますが、ざっとおさらいいたしますと


 大昔の中国に杜子春という若者がいました。金持ちの息子でしたが、落ちぶれて貧しい暮らしをしていました。
 あるとき不思議な老人と会って、お宝を恵まれ、楽しく遊び暮らして使い果たし、また落ちぶれていると同じ老人と会って、また金銀財宝を恵まれ、また楽しく暮らして落ちぶれ、また同じ老人と会って・・・

 しかし杜子春は、その繰り返しと人の世にうんざりし、もうお宝はいらない。あなたと同じような仙人になりたいと言います。
 仙人である老人は杜子春を蛾眉山に連れて行き、何が起こっても声を出してはならないと言って姿を消します。
 様々な恐ろしい目に遭っても声を出さなかった杜子春ですが、亡くなった両親が地獄で責められながら、なおも自分を思っている姿に「お母さん」と叫んでしまう。

 すべては仙人の見せた幻で、「あのとき声を出していなければ、おまえを殺していたところだ」と言って、これからは普通に暮らすという杜子春に家と畑を与えて去るというような話でした(記憶違いでしたらすみません)。


 この話は中国の古典が原典で、そちらでは、やはり口をきかない試練に挑戦する杜子春が、地獄に落とされ女に生まれ変わり、大きくなって結婚しても子どもが生まれてもあくまで無言をつらぬき通すのですが、その態度にキレた夫にわが子を殺され、思わず叫んでしまいます。
 すべては幻だったのですが、おまえが叫んだおかげでせっかくの仙薬が完成まぎわでダメになったと仙人に言われ、見放されて、再び会うことはかなわなかったというような話です(だったと思います。二十年近く昔読んだのでうろ覚えですが)。

 教訓的で人間味を加味した芥川版と、ドライで見果てぬ欲望を追ったような?中国版の違いがおもしろいのですが


 悟りや覚醒への志向というのは
 この杜子春に似たものがあるように思います。
 実際には杜子春ほどに極端に、栄華とどん底を行き来する体験は、なかなかありませんが
 人間長いこと生きていれば、様々な幸不幸、運不運を味わい、人生というものの、おおよその見当がついてきます。いや、つく場合があります(不幸が悪い意味で身につかない、学習能力のないまま老いてしまう人もいますけど)。
 世の無常を思い知り、それらの際限のないぐるぐるから、永遠に撤退しようと思い立つ日が来ることがあります。

 ただ、杜子春の仙人志向は、あくまで「自分が仙人になる」ことを目指している点が、悟りや覚醒とは違っていて、ただ形を変えた新たな欲望の充足を目指したに過ぎません。

 悟りや覚醒への志向は、「オレ」という感覚からの決別であり、禅などに詳しい方にはおなじみですが「オレが悟る」などと言ってるうちは、いつまでたっても悟れない。その「オレが」を落とさない限り、どこまでも偏狭な自我とマインドの囲いの中をぐるぐるしてるだけのようです。
 俗世を離れて、形而上的世界を目指すと言いながら、ただ物質的野望を霊的野望に乗り換えただけだったり、宗教団体での成り上がりを目指すマインドは、所詮は同じ穴のムジナなのです(いい来世を迎えたいとか天国に行きたいなどというのもそうです)。

 私は、ある意味心境的には近年、杜子春にはなはだ近いものがあり、金持ちの息子でもないし栄耀栄華も経験はありませんが、まあお気楽な時代も苦難の時代もともに経て(つーか、苦難の時代の方が圧倒的に多いですが)この世に執着すべき何モノも見出せないようになっているようです(「ようです」と言うのは、人間は愚かなもので、己が見えていないことがままあり、自分ではこだわらないつもりが、心の奥底にとんでもないこだわりを隠していたりもるするからです)(笑)。
 あっ、マンガ執筆の際の、エロとアクションへのこだわりは根深いですが(笑)あれはまあ、このカラダで過ごす今生の趣味、旅先の宿でハマったゲームみたいなものではないでしょうか。宿を立つときは置いていきます(本当かなあ)(爆
 いずれにしましても、仙人なんかになりたくはないなあ(笑)。

 若いころは、病気も老いもない不老長生などというファンタシーが実現できたら、楽しいだろうなあと思ったことはありますが、どんなものにも代償が伴うことを知った今では、なんの魅力も感じません。
 仙人にも様々な段階があって、ひとくくりに語るわけにもいきませんが、いずれにしてもこの世にこだわる義理はないです。

 などと言うと、ひどく虚無的で無気力な人生を歩んでいると誤解されるかもですが
 先日アップしましたニサルガダッタ・マハラジの言葉
「熱烈に冷静でありなさい」
 に表されるように、
 かえって様々なこだわりを捨てていくことに比例して、より意識が明晰になり、気持ちよく無駄に力を分散させることが少なく、日々を歩めるようになっています。
 遊びは一生懸命に真剣に行なってこそ楽しいもので、不マジメや中途半端はつまりません。でも、お母さんが夕食に呼びに来れば、躊躇なくうちに戻る。人生はそれに似た感覚があります。
 これは、「死生観」というテーマでまた日を改めて書くことにします。

 話が長くなりましたが、と言うわけで
「オモチャは飽きるためにある」
 をもう一歩進めて
「世界は飽きるためにある」
 と言い換えてもいいのではないか。
 近年わたしは思っています。

「飽きる」というのが、なんだかバカにしているように感じられたり、冒涜的に感じられてどうも、といわれる方には
「超える」と言い換えてもいいかもです。

「オモチャ」も「世界」もともに超えて
「マインド」を超えて

などと言いながら己の後ろを振り返ると
新婚旅行に出かける自動車のように、引きずるたくさんのガチャガチャが目に入ります(笑
やれやれ;
街の灯
山の上からロケハン中
 きのうは、忙しい仕事の合間を縫って、またロケハンに行ってきました。
 資料用写真撮影というやつです。
 昼間は徒歩で山に登り、夜はバイクであちこちの道路を写して、また別の山に登りました。
 夜間撮影とりわけ遠くの景色には三脚が必須です。
 ご覧の画像はうっかり撮影中に三脚に触れてしまったもので、ぶれまくりです。右上の光はUFOではなく星です(たぶん)(笑
 夜一人で撮影に回っていると、ふだんは見聞きできないものと出会います。
 といっても別に妙なものではないんですが
 ここぞと思うところにバイクを止めてエンジンを切ると、まったく街灯もない真っ暗な場所で、ただ風にざわめく木々の音だけが聞こえていたり。
 そんなところに私がいるとは、遠くからは誰も見えないことでしょう。

 上の写真を撮った場所は、すぐそばにでっかいビニールハウスらしいものがあって、黄色い明かりを灯しておじさんが働いていました。
 中からかすかにラジオの音が流れていました。
 戸外に私がバイクを止めて三脚を立てているとは気づいてないと思います。
 それぞれがそれぞれの仕事、それぞれの暮らしをしています。
 しばし撮影をして、帰り支度を始めるころには、おじさんも照明の数を落として、なんだか帰り支度っぽい感じでした。

 街の灯を写していると、あの明かりの数だけ(多少の違いはあるでしょうが、まあ同じくらいの)人の暮らしがあり、たくさんの喜び、たくさんの悲しみ、数え切れない人生があることを思って、なにか厳粛な気持ちになることがあります。
 若いころ、見た街の灯も、50になった今見る街の灯も、そういう思いに変わりはありません。

 どの明かりにも、またよい夜明けが訪れますように。
「熱烈に冷静でありなさい」
 「熱烈に冷静でありなさい

 すでに何度か引用してきた、尊敬するインドの20世紀の覚者、ニサルガダッタ・マハラジの言葉です。

 マハラジへのインタビューをまとめた『アイ・アム・ザット 私は在る』(モーリス・フリードマン/スダカール・S・ディクシット/翻訳・福間巌/ナチュラルスピリット・刊)より一部抜粋します。

 人はどうやってマインドを超えて在ることができるか、悩み尋ねる質問者にマハラジが答えます。
 途中「ええっ?」と思われる下りがあるかも知れませんが、最後までお読みいただけますと幸いです。

<マハラジ 「あなたに出来事の行方を変えることはできない。だが、あなたの態度は変えられる。そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。そこにマインドの平和を見つけることはできない。平和のためには、あなたは世界を超えていかねばならない。世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。すると画面は変わってくる。創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。世界はそれらを満たすための道具なのだ。魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。そして時間がすべての勘定書を決算する。バランスの法則が究極の支配をするのだ」

質問者 「超人になるためには、まず人で在らねばなりません。人として在ることは、数かぎりない経験の結果によるものです。欲望が経験を駆りたてるのです。それゆえ、その時と段階によっては、欲望も正しいものなのです」

マハラジ 「ある意味では、まったく正しい。しかし、あなたが充分蓄え、築きはじめるべき日がくる。そのとき選別し、不要のものを捨てること(ヴィヴェーカヴァイラーギャ)が絶対に必要となる。すべてを詳細に調べ、不必要なものは無常にも破壊されなければならないのだ。私を信じてほしい。行き過ぎの破壊はありえない。実際には、価値のあるものなどないからだ。熱烈に冷静でありなさい。ただそれだけだ」>


 マハラジは三十代で悟ったあとも、宗教団体の教祖になるでもなく、出家者になるでもなく(なろうとして、その必要性がないことに気づき)、己の家業である雑貨屋を営んで一生を市井の人として送った人です。
 タバコも吸えば肉も食う。
 普通の人生を送り、ただすべての執着を捨ててすべてを超えて在った人のようです(以前も引用しました「私はすでに死んでいる」という言葉にすべてが言い表されているかも)(笑)。
 覚者でもなんでもない山本は、彼の言葉すべてを理解できるわけではありませんが、心の奥底に響くメッセージ満載の同書は、何度も読み直してしまう一冊です(おかげでかなり痛んできました)。

「魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。そして時間がすべての勘定書を決算する」
 という彼の言葉は、実に胸に迫ります。
 
 「三界は虚妄にして、ただこれ心の作なり(この世のすべては人の心が作り出す幻である)」と仏教の経典、華厳教にもありますが、マハラジはそれらを作り出す人の喜怒哀楽の感情も思考もすべてを超えて、「在る」ことを説きました。
 彼は何かの宗教のように「禁欲」を押し付けたりはしません。
 欲望はある段階では必要ではないかと問う質問者に
 「ある意味では、まったく正しい」
 と答えます(私、山本もそう思います)。

 「しかし、あなたが充分蓄え、築きはじめるべき日がくる」
 「蓄え」とは財産や預金残高のことではありません。
 長い人生を歩んできて、何が必要で何が無用か、考え、より分けることをはじめる、それに必要な体験の蓄積のことです。

 つきつめていけば、「価値あることなど何もない」とマハラジは言います。
 びっくりされる方もおいでかもしれません。
 「行き過ぎの破壊はありえない。実際には、価値のあるものなどないからだ」

 大変誤解をまねく言葉で、そそっかしい人が勘違いして悪用に走りかねないメッセージですが(笑)、彼は「(魂と身体の間に)マインドが奈落を生み出し、ハートが橋を架けるのだ」と説いた人で、言うまでもなくけしてテロや打ちこわしを推奨しているのではありません。
 「行き過ぎた破壊はありえない」
 とは、他人の財産だとか命だとかを破壊しようというのではなく、人の心の中に在る無用なこだわり、執着、マインドの作り出すもろもろを破壊することを意味しています。
 字面だけ見て、そこを読み違えると、大間違いなのですが。
 かの空海も言うとおり、ある者にとっては薬になる教えも、ある者には毒になる、の一例だと思います。

<マハラジ 「私はただ、あなた自身を変えずに、世界は変えられないと言ったのだ。私はすべての人を変える前にとは言っていない。他者を変えることは不必要だし、不可能だ。だが、もしあなたが自身を変えたなら、ほかの誰も変える必要がないとわかるだろう。画像を変えるにはただフィルムを変えるだけだ。あなたは映画館のスクリーンを攻撃したりしない」

質問者 「どうしてそんなに自分に確信が持てるのですか?あなたが正しいと、どうやって知るのですか?」

マハラジ 「私は私自身に確信があるのではない。私はあなたに確信があるのだ。あなたに必要なことは、内側でしか見つからないものを外側に探そうとするのをやめることだけだ。行動する前に、あなたの視点を正しなさい。あなたは深刻な誤解に苦しんでいる。あなたのマインドを澄ませ、ハートを浄(きよ)め、生を神聖なものにしなさい。これがあなたの世界をもっとも速く変える道だ」>

 人生を振り返れば、人の苦しみの多くが、変えられないものを変えようとし、かなわぬ望みに絶望することから起こるように私(山本)は思います。
 中でも、他人の心、他人の行動に関する嘆き。
 あの人がこうだったら、あいつをこうしてやれたら、なぜ~~をしてくれない、なぜわかってくれないetc・・・。
 自分の感情を、自分自身さえもコントロールできない人間が、どうして他人を変え、思い通りに支配できましょう。

 別にマハラジ(ニサルガおじさんと親しみをこめて私は呼んでいます)(笑)は、世の中を良くしようという人の行動を否定しているわけではありません。

<マハラジ 「もちろん、あなたが働きかければ世界を変えることができる。ぜひとも働きなさい。誰があなたを止めているのかね?私は思いとどまらせてはいない。原因があろうとなかろうと、あなたがつくった世界だ。あなたはそれを変えることができる」>

<質問者 「私の知りたいことは、世界の不幸をどうすればいいのかということです。

 マハラジ 「世界の不幸と関わるなかで、あなたがあなた自身の欲望と恐れからつくり出してきたのだ。すべてはあなたが真我の存在を忘れてしまったためだ。スクリーン上の画像に現実性を与えた上で、あなたはそれらの人々を愛し、彼らのために苦しみ、彼らへの救いを求める。そうではない。あなたはまず、あなた自身からはじめなければならないのだ。ほかに道はない。そうだ、働きなさい。働きかけることに問題はない」>


「あなたに出来事の行方を変えることはできない。だが、あなたの態度は変えられる」
熱烈に冷静でありなさい
 これは私の座右の銘です。 
苦味(にがみ)
 先日、日本テレビの『所さんの目がテン!』で「苦味(にがみ)」についてやってました。
 最近の人は苦味を受け付けなくなってきていて、苦味を押さえたビールなども作られるようになっているとか。
 苦味の代表ともいえる食物「せんぶり」をちょこっと混ぜて綿アメを作ると、その苦味がかえって甘味を際立たせ、おとなには大好評だったようですが
 子どもたちには不評でした。
 本来生物は苦味イコール毒と認識する回路があるようです。
 しかし、人間は後天的に学習して、その中にも良いものがあると把握する力がある。
 番組では脳に電極をつけて、苦いものを食べた際にどこが反応しているかを調べて、大人も子どもと変わらずちゃんと同じように反応している。けして感覚が麻痺して苦味を感じなくなっているわけではない。しかし、その捉え方が、異なっていると言っていました(もっともこの辺の実験は、どこまで当てにしていいかはわかりません。サイエンスライターのマイミクさまから、「ゲーム脳」などの人がやってるんで、信頼性がないとのご指摘もいただいております)。

 人間は学習によって、苦味を喜びにできる唯一の生き物ではないか、みたいな意味のことを言ってまとめてましたが(うろ覚えなので原文とは異なります)
 なかなか味わい深い話でした。

 人生もそうだと思います。
 
 無腐性壊死という難病を抱えながら、明るくすてきな詩をつづられる「かとうみちこ」さんという方の「しあわせのかくしあじ」という詩があります。

<からいお塩は
 おいしい おしるこのかくしあじ
 からい くるしみ かなしみ
 そして わかれ
 みいんな しあわせのかくしあじ
 ひとふり ふたふり
 ほら!
 しあわせが とっても
 おいしくなったでしょ・・・・・>
  (『しあわせのかくしあじ』地湧社・刊より)

 実はこの本、私は持っていません。
 でも20年以上も昔、お世話になった先生から教わって、この詩は深く心に残り、座右の銘になっています。
 からみも苦味も、みな人生の隠し味。
 毒も薬も使い方次第かと♪

 きょうも私もみなさまも
 日々是好日♪
 どうかよい一日を


追記
 ちなみに私は、ちっちゃい頃からソーセージなんかの付け合せには苦いピーマンが好きで、ナマで丸かじりもしてましたし、小学校低学年でもお菓子と飲む時のコーヒーは砂糖抜きが好きでしたが
 その辺は早熟だったのかただ鈍かっただけなのか、今となってはわかりません(笑
うっかり合成ミス
『戦闘女神アヌンガ』17話18ページ部分フキダシあり
『戦闘女神アヌンガ』17話18ページ部分フキダシなし
 お久しぶりです。
 仕事修羅場で数日更新できませんでした。
 『戦闘女神アヌンガ』20話を描いたり、小説すばる『淡雪記』の挿絵を描いたりしてたんですが
 一昨日は疲れがたまったのか、デジタル導入後初の凡ミスを犯してしまいました。
 以前も申し上げましたとおり、『戦闘女神アヌンガ』では、セリフや擬音の絵と下の画面を別にして作成(別レイヤーと言います)しております。
 上の画像は20話ではなく17話のものですが
 ご覧のとおり、マンガでは、あるコマのフキダシや擬音が、隣のコマにはみ出していることが少なくなく、雑誌や単行本といった紙媒体でご覧になる際はいいのですが、ケータイ配信のように一コマずつご覧になる際は、せっかくの画面に別のものが乱入してるようで、いささか不都合になります。
 ですので、フキダシ擬音を別レイヤーにしておく(手元の編集作業ではワンクリックでフキダシだけ消したり表示したりできる)のが非常に吉なんですけども

 それが一昨日
 眠気と疲れでヘロってた私は、うっかり作業途中でフキダシレイヤーを下の画面レイヤーに合成してしまいました。

 デジタル作業で使うフォトショップというツールは、お使いの方はご存知のとおり、失敗した場合、何工程か作業を前にさかのぼることができますが(私は10段階かそれ以上戻れるようにしています)そのときは、すでに限界までさかのぼっても、問題の失敗地点に戻れないほど過ぎ去っていました。
 けっこうタイムアタック状態で作業中だった私は、さすがにショックでしたが
 幸いそのページの半分はまだ手付かずだったので、泣く泣くふり出しに近いところに戻って、合成してしまった部分の分離(ぶっちゃけ描きなおし)を行いました。
 一時間以上リカバーに費やし、それ以前の作業と逢わせて2時間以上がふいになりました。

 まあ、おかげで学ぶところもあったのでいいですが
 二度と繰り返したくないミスです(笑

 上の画像をご覧いただけるとおわかりかと思いますが
 一枚目のフキダシ擬音のある画面から、2枚目の何もない画面を「描きなおす」って、冗談きついんですよね(泣笑)。
 もっともデジタルの場合、元絵はデータが保存してありますから、そこは大丈夫なんですが、服の模様とか肌の影とかスピード線とか背景とか、元絵に描き加えたもろもろを一からやり直すのは骨です。
 無論途中の何段階かをこまめに別のデータとして保存しておけばいいんですが、そうそう保存していてはデータが膨大になるんで、一時間やそこらはつい飛ばしてしまいます。
 また一つ勉強になりました。
 くりかえすまじこの悲劇。
 さて仕事仕事♪
山本流作画術/写真合成・夜道と車
『戦闘女神アヌンガ』19話17ページ/車・方向転換
『戦闘女神アヌンガ』19話17ページ/車・方向転換・元絵
『戦闘女神アヌンガ』19話17ページ/車・方向転換・背景写真
 『戦闘女神アヌンガ』19話17ページより、夜の交差点での車の方向転換シーン。
 これは、たまたま撮れたデジカメ写真を背景として合成したものです。
 1枚目が完成原稿。
 2枚目が手描きのアナログ元原稿。
 3枚目がデジカメ写真です。
 写真をご覧になるとおわかりいただけるお思いますが、奥のほうには遠ざかる車のテールが写っています。しかし、手前は路面が光っているだけ。
 実はここにも一台車がいて、画面をさあっと横切ってるんですが、シャッタースピードが遅かったため姿が写りませんでした。と言うわけで、この地面の光は交差点の街灯によるものではなく、移動する車のヘッドライトによる光と思われます。
 私はこれを、舞台で登場人物に当たるスポットライトのように使ってみました。
 光る路面のカーブに合わせて、方向転換する車を描き、合成したものです(写真にはフォトショップによるいつもの加工が施してあります)。
 このときは、三脚を使って画面がぶれないようデジカメを安定させて、ロケーションの最中でした。
 こういうシーンが撮れるとは思ってもみませんでしたが、うれしいアクシデントとして採用いたしました。
すべてのモノはアヘンである
 「宗教は民衆のアヘンである」
 と言ったのは、マルクスですが

 「アヘン」とは、ひととき人に現実を忘れさせ、現実の痛み苦しみから逃れさせてくれる手段でもあり、常用すれば依存が生まれ、心身ともに蝕まれ、現実への対応能力を持たない廃人にもなりうる危険な存在ということです。
 マルクスが上記の文章を書いた際は、後者のようなネガティブな意味だけでなく、応急手当としての前者の意味もあったとも聞きますが、もっぱら共産主義国家においては後者の意味が強調され、宗教弾圧の口実として使われたようです。

 「いささか形而上」などというカテゴリーを書き綴っている私は、無論宗教を否定するものではなく、そのアヘン的な側面という副作用にも注意した上で、形而上的な事柄と向かい合っているのですが
 さてそこで今回の本題。

 ご存知の方も多いと思いますが、すべてのモノ(有形無形ありとあらゆるもの)は「アヘン」になりえます。
 タバコや酒は言うにおよばず、マンガでも映画でもゲームでも、あらゆる人間関係でも、そこに病的な依存が生まれ、心身のバランスが崩れていくとき、すべてのモノはアヘンになります。
 ちなみに「宗教はアヘン」という言葉は、宗教嫌いの唯物主義者の好む文句のようですが、視点を変えれば科学もアヘンたりえる、と言うか、しばしばアヘンとなっています。


 古い話になりますが、私は幼いころから大のSF好きでした。
 私が子どもであった昭和30~40年代は、まだ科学がバラ色の未来を築いてくれると思わせてくれた時代でした。
 公害や核など、暗い面もありましたが
 まだ未来(21世紀と言えば遠い未来でした)(笑)と言えば、ガンは征服され家庭にはロボットがいて月旅行も可能になり、透明なチューブをエアカーが走る、夢のような世界でした。そんな少年漫画雑誌の巻等カラー図解に胸ときめかせることができた時代でした。
 そのまま中学高校と進み、当時はばりばりの唯物主義だった私は、科学大好き少年でした。
 コースは文系でしたが、一番好きだったのは数学です。
 シロだか黒だかわからないあいまいな答えではなく、かっちり明快な回答がある数学の世界が大好きでした。
 歴史や地理のような大量の知識を記憶する必要も無く、最低限の方程式さえ覚えてしまえば後は己の頭脳次第な数学が、本当に気持ちよく楽しかったものでした(記憶すべき事柄が多いという点で、化学は嫌いでした)。

 でも、そういう自分が、作家としては致命的な欠陥を抱えていることに、やがて気がつくことになります。

 私のSF志向やオーディオマニア(マニアでした)がアヘンであると最初に指摘したのは、20歳前後に何度かアシスタントに通った師匠のはるき悦巳先生でした。
 私の人間への理解が遠い部分を指摘して
 「山本君、人間から遠いトコで遠いトコで勝負しよとしてるやろ」
 と言われたものです。
 と言っても、はるき先生は、人に押し付けがましい物言いとか一切しない穏やかな人でしたから、言われたのは上記のような、やんわりしたことです。
 君の科学思考はアヘンと同じだ、みたいな激烈な表現はされていません。
 また、その当時の私は、先生の指摘を充分に理解するだけの段階に至っていませんでした。
 しかし、なんとなく、先生のその言葉は正鵠を射ているという感覚はあり、その後もずっと忘れられないテーマとして頭にありました。

 次に指摘したのは中学時代からの親友Mでした。
 マンガ家になって私が何で苦労したといって、登場人物の性格づけです。
 業界用語で言うところの「キャラ立て」というやつ。
 これがうまくできないと、その後の人物の行動パターンが読めない。必然的に話もころがらず、おもしろい展開が作れない。
 本当に苦労して苦労して、一話のストーリーを作るのに何日も何日もかかっていました。
 そんな私に、業を煮やしたMがある日、いつものように色々な科学雑誌、メカニックマガジンだの月刊Gun誌だの、買い込んでうれしそうにしている私に言いました。
 「そんな本ばっか買ってないで、もうちょっとキャラクターのこと考えたらどうだ」
 おお!
 と私は思いました。
 何年も前、はるき先生に言われたことと、Mの言葉がリンクしました。
 そうだ、オレは逃げていた。
 自分の好きなものに逃げ込み、「資料集め」という大義名分のもと、もっとも大切なことをほっぽらかして、「仕事」をしているつもりになっていた。オレの科学も趣味も、ただの逃避にほかならない。少なくとも今、オレが血道を上げるべきは、こんなことではないはずだ。

 そして私の脳裏に、有名な寓話が思い浮かびました。
 明るい街灯の下で、探し物をしている男に、通りすがりの人が尋ねます。
 落し物ですか?
 ええ。
 どこら辺に落とされたんですか?
 あっちの暗がりですよ。
 え?じゃあなぜ、こんな街灯の下で探してらっしゃるんですか?
 いやあ、あっちは暗くて探しにくいんで、こっちの明るいところで探そうと思って。

 ・・・・・・・。


 オレはこの男と同じではないか。

 そう思った私は、その日を境に何年か、その手の雑誌を買うことも見ることもやめました。
 いわゆる封印というやつです。
 こんなことしてる場合じゃない。
 オレのマンガ家生命に関わる重大事。
 趣味への逃避はきょうからやめて、オレはキャラのことを考えよう。

 それから何年、封印が続いたか覚えていません。 
 しばらくして、本当に資料集めの意味もあって月刊Gunなどは、また購読を始めましたが、科学は遠くなりました。SFも読むには読みますが、かつてのような情熱はなくなりました。これはSFそのものの変質もあったと思います(私が大のSFファンだったのは、バロウズからニーヴン、なによりクラークやアシモフが元気だった、その黄金期のことです。町の書店で、ハヤカワのハードカヴァーを普通に眼にすることができた時代でした)。
 ウィンドウズ以前のパソコン雑誌ももう買うことはありませんでした。
 数学好きで科学好きの以前の私のままでしたら、あのままその手の雑誌にも入れ込んで、きっとそこそこのパソコン青年になっていたかと思います。
 でも、そっちへは行きませんでした。

 元々人間というものに興味がなかったわけではなく、思索も大好きで、大学も哲学科の心理学を専修してました。しかし、大学時代はマンガの修行にも忙しく、本当の意味で、そっち方面の勉強を始めたのは、皮肉にも、こうした転機を迎えた後の人生でした。
 思えば大きく不思議な分かれ道でした。


 誤解のないよう申し上げますが、これはアンチ科学志向ではありません。
 科学には科学の役目があり、現代文明を成り立たせ、こうしてネットを含め自分も多大な恩恵をこうむっているかけがえのないものです。
 ただ、そのときの私にとっては、ある種のアヘンにほかならなかったということです。
 今後も科学は人類ある限り発展していくでしょう。
 それについて耽溺していけば、私は永遠にそこに浸りきっていけるでしょう。
 しかし、真の意味での人間、人の内面というものについては、少なくとも命ある間に、とりくむことはできないことでしょう(脳内の化学などとは問題が異なります)。
 また、形而上的な問題と形而下の科学は、重なり合う部分が限られており、科学でそれを語るのはカテゴリーエラーであると思っております。
 それぞれに、それぞれの領分があるかと。

 私に忠告したM氏から、あの時はよけいなこと言ってすまんかった、などとその後言われたこともありますが、私は感謝しています。
 あの一言がなければ、今の私はなかったでしょう。
 まったく別の山本貴嗣。になっていたかもしれません。
 でも私は今のこの人生が好きです。
 M氏は貴重な人生の岐路を指し示してくれた親友です。
 
 探し物は探すべきところで探す。
 暗がりで落とした落し物を明るいところで探し、無駄に人生を費やすようなマネはしません。
 「いささか形而上」な話にしても、十全に人生を生きるためであり、依存的な逃避対象を求めてのことではありません。そうなっては、それはアヘンにほかなりません。
 アヘンはいらない。
 下戸な私は生涯を、シラフで生き切りたいと思っています。



でも、頭痛や外科手術の際の鎮痛剤まで否定はしませんけど;
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