あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
200811<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>200901
よいお年を
虹(フィルムカメラ時代に写した資料から)
 2008年も最後になりました。
 一年間、このブログをお読みくださった方々、本当にお世話になりました。
 日本だけでなく世界じゅうが、困難な時代に突入しています。
 スポーツでも武術でも、体の軸をぶらさないことが肝心と申します。どんな波にも、心の軸を忘れないで、すてきな「今ここ」を歩まれますように。喜びも悲しみもすべて「いただきます」。そして「ごちそうさま」。
 すてきな明日への架け橋になりますように♪
 ありがとうございました。
 良いお年を。
『ポケットの中のダイヤモンド』
『ポケットの中のダイヤモンド』
 ポケットの中のダイヤモンド
        ガンガジ・著/三木直子・訳/徳間書店

 先日の日記マインドを超えてで、自分の根底の意識、気づきに気づく方法があると申しました。
 その昔(って言ってもそんなに昔じゃないですが)(笑)私がそれに気づくきっかけ、いや、気づく方向に向かうきっかけを与えてくれた本です。
 あくまで私にとってのきっかけであり、人それぞれで違うと思います。
 禅の修業で見出す方もいられれば、日常のふとした出来事ではっと気づかれる方もおいででしょう。
 ですので、これが唯一のものだとか申し上げるものではまったくありません。そこはご理解いただきますようお願い申し上げます。

 著者のガンガジという人は、アメリカの女性です。ガンガジと言うのは彼女がインドで師匠からもらったニックネーム、法名のようなものです。
 私が尊敬するインドの覚者にラマナ・マハルシ(故人)という人がいますが、その弟子にパパジというニックネームで呼ばれるH.W.L.POONJAという人がいました(この人もすでに故人です)。プンジャジと呼ばれることもあります。
 ガンガジは、長い人生の試行錯誤の果てにその人にたどりついたのでした。
 パパジはインドのそれもヒンズー教の文化圏の人なので、人に何かを語るとき、その慣れ親しんだヒンズー教の言葉や表現を使って語りますが、彼の教えは別にその枠に人を押し込むものではなく、誰かに何かの教義を押し付けるでもない。ただ本当のあなたに気づいてそれに留まりなさいというシンプルなものです。

 いくつか同書から引用して、そのニュアンスなりともお伝えできればと思うものです。

 ガンガジも、多くの人と同様、人生に悩み苦しみ、解決の糸口を見出そうとさ迷う人でした。
 キリスト教文化の中で育ちましたが、宗教もどんな哲学も、彼女を救ってはくれませんでした。
 そしてパパジのことを知り、インドに会いに行きました。
 にこやかに彼女を出迎えてパパジは言います。


<「何が欲しいのか言ってごらん」>

 ガンガジは答えました。

<「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください」>

 パパジは

<「何もしないでいなさい。あなたの問題すべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも探し求めることも、言い訳することも。そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間にじっとしていなさい」と言いました。

 私はそのときじっと坐っていたので、いったいパパジが何を言っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止(や)めるように指示していたのです。
 頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、仕事に行くこともできない。>


 無論これは勘違いで、パパジはそういうことを言ったのではありません。
 今とりあえず止めてみることです。

 ガンガジは、師匠の言葉を信じてそれを実行してみます。
 そしてそこに、不断のマインド、感情や思考のぐるぐるの彼方、奥底に、限りない静かな気づきを見出します。
 少し長くなりますが引用します。


 <私(ガンガジ)にとって、この「止めろ」という言葉を聞くのは非常な驚きでした。私は彼がある秘密の知識を教えてくれるものと信じていたのです>
 
 <彼は「止めなさい」と言ったのです。あまりのシンプルさに私は腰を抜かしました。>

 <パパジは私に、あらゆる戦略、あらゆるテクニック、あらゆる手段を捨て、ただそこに居て、彼が差し出すものを受け取るように言いました。間もなく私はそれを理解しました。「この人は本気だ。私に新しいマントラを教えてくれる気も、新しい信仰体系、礼拝、問答、宇宙感を教えてくれる気もない。『すべてのものの意味』も、『何が起きるか』も、『なぜそうなったのか』も、教えてはくれないのだ」。パパジは私にそのすべてを頭から捨て去ってくれと言っていたのです。>

<すべての状態には、始まりがあり、経過があり、そして終わりがあります。それは、幸福だったり悲しかったり、非日常的だったり日常的だったり、高揚していたり沈滞していたりします。けれども、状態とは無関係の存在、それがすなわちじっとして動かない静寂です。意識とはすなわち静寂です。そしてあなたはすでに、この静寂なのです。>

 ガンガジの「あなたはすでに、この静寂なのです」という言葉は、非常に詩的に、自分と言う存在の本質を言い表しているように思います。
 その「静寂」を「体感」したとき、それまでの人生で、自分の意識が、どれほど「騒音」に満ちた存在であったか、無駄にうるさい状態であったかがわかります(と言うか、私(山本)はそうでした)。
 
 よく、悟りを開いたり何かに目覚めるには、精神の成熟が必要と言われます。
 ガンガジは
<最も基本的なところで、精神的成熟とは、自分は人生をコントロールできない、ということに気づいているかどうか、にかかっている>
 と言います。
 無論、人がコントロールできるものは、いくつもありますが、すべてをコントロールすることはできません。

<何もかも失う心の準備をしましょう!それは死と向き合うことと同じです。意識的に死と向き合う、ということはコントロールの不可能なことや、どんな人のコントロールする力も及ばない、もっと大きなものを発見する、ということです>
<もし、あなたが安全で快適な人生を求めているのならば、私があなたに指し示している自由はあなたに向きません>
<決して安全ではなく、快適でもない人生を、完全かつ徹底的に生きることをあなたに促すのです>

 彼女は、人が目をそらし、逃げている心の傷や不安、すべてと向かい合えと言います。
 別に目新しいことではありません。
 人は自分の影から逃げ切れるものではなく、戦って勝利できるものでもなく、ただ抱きとめて一つになるしかないということは、古今の賢者が語ってきました(あの『ゲド戦記』にもあります。アニメではなく小説しか知りませんけど)。
 それをガンガジは、興味深い言葉でこう語ります。

<もしあなたがたった一つ、恐れのない状態であることだけを望み、そのために恐れから逃げ出したり、恐れがそこにあるのを認めなかったりするとします。すると、(中略)恐れはあなたに取り憑(つ)いてあなたを放さないでしょう。逆に、あなたが欲しいものを追いかければ、それはいつまでたってもちょっとだけ手の届かないところにあるものです。
 これは精神的探求においても同じです。>

<これまでのあなたの人生に取り憑いていた恐れが何であったにしろ、あなたが立ち止まって「さあ、恐れよ、やってきなさい。私にはあなたと向かい合う準備ができています」と言うとき、恐れが部屋の隅を逃げ惑うのがあなたにはわかるでしょう。>

<恐れに向かって心を開くとき、恐れはどこにありますか?恐れとは不思議な生き物です。それは、その存在に対する抵抗があるときにだけ存在するのです!抵抗を止め、長年にわたって抵抗を続けてきたものに対して心を開くとき、恐れは恐れでなくなります。恐れとは、エネルギーであり、空間であり、仏陀であり、あなたの心を開くキリストの心なのです。>

 私がこの本と出会ったのは、2006年の暮れでした。
 そしてそれは、私にそれまで味わったことの無いメウロコ、思っても見なかった発見と遭遇させてくれました。
 悟りとか啓示とかいうような大それたものではありません。それは実にささやかなものでした。ただ、小さいけれど私の人生に、二度と消えることの無い感覚を残していきました。
 たとえるなら、ちょうど自転車に乗れたようなものです。
 乗れるか乗れないかは、その人の人生にとって、とても大きなことでもあり、とても小さなことだとも言えます。乗れないからといって、困らない人は何も困りません。乗れた人が偉いわけでも乗れない人が劣るわけでもなんでもありません。ただ、乗れると乗れないでは、その後の人生はかなり違ったものになるでしょう。
 人はこの「自転車に乗れるようになる」ように、次々と新たなささやかな「目からウロコの落ちるような何か」と出会うこと、を繰り返して、成長していくもののように思います。

 今、この記事を書くために久しぶりに同書を手に取ると、ほかにも興味深い、しかしもはや自分にとってはあたりまえになってしまっている(でも、その本当の深みには至っていない?)内容が、あちこちに見られます。
 それは、この本で学んだことと言うより、他の本でも人生でも同様のことを学んで、この本にも書かれているに過ぎないこと、です。
 無論、すべてに同感するわけではなく、違った人生、違った魂と心を持つガンガジとは、相容れない部分もあります。
 しかし、彼女の語る核、一瞬でいいからすべてを手放し、すべてを止めて、その静寂の中に在れ、その静寂があなたである、というメッセージには、私は心より同意します。

 文字や絵で隙間なく埋め尽くされた壁には、何も描けません。
 騒音でいっぱいの場所には、どんな声も届きません。
 まずハートの中に空間をつくる。頭の中に余白を作る。そしてそこに何が映るか、何が聞こえていたかに目を凝らし耳をすませる。そこから新しい自分が始まります。
 いや、何もしない、ですから、わざわざ「目を凝らし」たり「耳をすまし」たりも必要ないんですけど。

 その状態を作り出しているのはあくまで自分であるところがポイントです。
 薬物や洗脳によって作り出された状態は、その薬物の効果が切れるか、洗脳を解かれない限り、元には戻りません。
 しかし、自分でOFFにしたものは自分でいつでもONにできます。
 心を静寂に憩わせたからといって死ぬことはありませんし、その最中に声をかけられれば返事もする、宅配便屋さんが来れば玄関に出る、ハラが減ったら何か食べる。すぐにONにして活動を再開できます。
 自分のいる場所でいつでも試してみられることであり、いつでも撤退できることです。
 その安全性がいい点です。

 ただこれは、あくまでその時の私に「きっかけ」を与えてくれたものであり、今この記事をお読みのかたに当てはまるかはわかりません。
 それは保証はできないし、したらインチキセールスか詐欺勧誘になります。
 TVショッピングであれば、ここで同じことを試して人生が変わったという「友人」が、満面の笑顔で登場したりするんでしょうが、あいにくと言うか幸いと言うか(笑)そんな人はまだいません。
 と言っても、私が同書を、よかったらお読みくださいと手渡した(一冊買って)相手はまだ一人だけ。
 人生に行き詰っておいでのようだったので、もし参考になればと思ったのですが
 なんのリアクションもありませんでした。
 もう一年以上前になりますが、感想はおろか読んだかどうかも聞かされていません。
 何か感銘を受ければそれなりの反応があるでしょうから、きっと読了する前に退屈されたのだと思います。もしかしたら手にとってさえいないのかもしれません。
 無理に進めるようなことではありませんし、尋ねもしません。
 
 それから、これはガンガジやその書籍とは関係ないのですが
 どこにでも「まがいもの」はいるという話で

 彼女の師匠であるパパジや、その師匠であるラマナ・マハルシは、インド哲学で言うところのアドヴァイタ(不二一元)の流れを汲む人々です。
 マハルシの弟子でありガンガジの師であるパパジは、高尚で凡人には近づきがたかったマハルシの教えを、彼なりの説き方で説きました。それがガンガジの言う「今ここですべてを止めてごらんなさい」です。
 どこかに探求の旅に出かけたり、何か宗教に入信して修行したりとか、何も必要ない、ただこの一瞬にあなたがいるそこで、すべてを手放し止めてごらんなさいと。
 それは、「悟り」や「覚醒」への道が、特殊な才能や環境に恵まれた一部の人のものでなく、誰にでも手にすることができる(いやすでに手にしている)ものと気づかせてくれた点で、大いなる功績なのですが
 問題はそこからで

 パパジやガンガジの言う「気づき」と仏陀の到達した「悟り」がまんまイコールだと思う方は、おそらくこれを読んでいられる中にはおいでにならないと思うのですが
 パパジがあまりにも、その平易さを説いた副作用でしょうか
 その後困った人々が現れたようで、自分はこれで究極の悟りを得た、もうなんの修行も成長もいらないんだと自己完結したり、その勘違いした「悟り」(と本人が思い込んでいるもの)を他の人々に広めに回ると言う、勘違いだか詐欺だかわからないムーブメントが、一部で繰り広げられたという話を聞きました。

 誤解のないように申し上げますが、私がこの本で得た感覚は究極の「悟り」でもなんでもない、ささやかな「気づき」「状態」です。
 ただ、それまで下ろせないと思っていた心の中の多くの「荷物」を下ろすことがきでると気づかせてくれた。自分の中にいつでも、きれいな空きスペースを作る方法に気づかせくれた。
 それは何も書かれていない白板(その大きさは人それぞれですが)のようなもので、そこに何を書くか、何を築き上げるかは、完全に個人の自由、好みに任せられているのです(私は実際そうしています。そこに何を書くかは、同書には何も書かれていません。そこに一方的な何かの教えを吹き込んだりしたら、それこそがカルトの洗脳です)。

 あなたが、今ここにいて、目覚めることができるというのは、ガンガジ以外にも様々な人、エックハルト・トールなどが書いています。私もトールはガンガジ以前に読んでいましたが、なるほどと思ったものの、イマイチぴんと来ませんでした(今読み直してみるとそうでもないのですが、それがまあ、タイミングというものなのでしょう。トールについてはまた後日語ります)(笑)。
 たまたま、当時の私に一番しっくりくるのがこれだったということです。

 今回この記事を書くにあたり、アマゾンの同書のレビューを読んでみました。
 おおむね好評なようですが、中に、訳が悪い、何が書いてあるのかわからない、というものがありました。
 その「悪文」(と、そのレビューを書かれた方が思われたもの)の具体例が挙げてあったのですが、私には何がわかりにくいのか逆にわからない。ガンガジの言わんとすることは、素直に頭に入ってくるもので、人それぞれなのだなあと思いました(てゆーか、そんな文章でつまづいていては「哲学」はできないですし、一方でその難解さが人を、「哲学」から遠ざけてもいるのでしょう)。
 逆に言うと、私の書いていることも何を言いたいのかわからんとおっしゃるお客様が大勢いられるということで、表現者の道は困難なものだと改めて思いました(極力これでも噛み砕いて語るよう努力しているのですが);

 今回の記事では、私に気づくきっかけを与えてくれた具体例として、この本とガンガジについて書いていますが
 これは私がこの人の「信者」であるという意味ではありません。
 私はこの本の中にあるガンガジのメッセージ以外、彼女について知りませんし、その後どこでどうしているのか(おそらく講演や執筆でもしておいでなのでしょうが)まったく存じません。
 私は、神仏は敬し、他の宗教やそれを信仰される方には敬意を忘れませんが、自分が特定の宗教などに「入信」することはありません。私はあくまで特定の教義に自己の判断をゆだねたくないのです。
 先日も紅白歌手が麻薬所持で逮捕などというニュースがありましたが、人間どこでどうなるかわからないし、人は見かけによりませんから、立派なことを言ってる人がとんだくわせものだったというのは、よくある話です。中でも形而上的なジャンルにおいては、何かの覚醒を得たという人が、舞い上がり物欲や支配欲にまみれていわゆるインチキ宗教の教祖になったりすることがよくあります(その方面では「教祖落ち」と言うようです。「ああ、あの人も『教祖落ち』しちゃったね」というように使います)。ガンガジは自分の語っていることは宗教ではありませんと断っていますが、その後のことは私は知りません。
 特定の個人を妄信するという道は、私は断じて取りませんので、その点は誤解なさらないでください。


<止める、それは過激な提案です。止めるのを提案しているのは、今、この瞬間だけです。この先一生何もするな、家から一歩も出ず、決して物語を語らず。考えることもするな、と言っているわけではありません。私が言っているのは、今、この瞬間、すべてをストップして、ただ存在してごらんなさい、ということです。>

 本のタイトル ポケットの中のダイヤモンドは、あなたの求めるものは誰かが持っていて与えてくれるものでも、どこか遠くにあるものでもない、あなた自身のポケットの中にあるダイヤモンドなのだという、ガンガジが師匠から聞いた話からきています。

 私が同書を読んで、ある種の「気づき」を得たのは、2006年の大晦日でした。
 人間関係でも悩みをかかえ、おまけに暮れもどん詰まりになってひどい歯痛で、珍しく痔までも痛くなって、明日はとんだ誕生日、とんだ新年だなあと思っていたとき、まるで台風の目の中にでも入ったかのように、思わぬ「静けさ」の中に在る自分を見出しました。それは、一時的な再現不能な不思議体験などではなく、今でも自在にON/OFFできる、「すべての雑念のキル・スイッチ(バイクなどに付いている一発でエンジンを停止するスイッチ)」として私とともにあります。
 都会暮らしの人間が、車も鉄道の音もしない、人々のざわめきも聞こえない田舎に泊まり、体験したことの無い静けさの中で目覚めた朝のような、いつでもそこにある(昔から変わらずそこにあった)私の中の静けさに驚き、感動しました。
 その時長いことどうしても許せなかった知人のことも、本当にどうでもよくなりました。
 その人が私にしてくれた厚意を思い出し、「それで十分だよ」と思いました。
 「それで十分だよ。ありがとう、お幸せに。私はあの人を許しました。いやそもそも『許すべきコト』も『許せないコト』もありはしないのですから」
 と、翌日2007年元日の日記に書いています。
 「幸せとはすべてが思いどおりになることではない。『日々是好日』」
 と。
 自分の48歳の誕生日を一日後に控えて、私は生涯忘れられない(消えない)「贈り物」を得たのです。
 「修行中の体験」について、修行者同志が語り合うことは、密教などでは禁じられているそうですが、思うにそれは、未熟な修行者が他人の体験に引きずられ、自分も同じような体験を得ることを願って、本来得られたその人独自の体験を見失ってしまうせいではないでしょうか(ほかの理由もあるでしょうが)。ですので、私も、これ以上具体的に、そのときの自分の体験を語ることは控えようと思います。
 私もいまだに「未熟な修行者」です。

 もしまだそういった感覚を未体験でいらしたら、一度試しに、ご自分の「ポケットの中身」を調べなおしてみられるのも
 おもしろい試みではないでしょうか。
 その「起爆剤」になるのが同書であるのか、他の何かであるのかは
 人それぞれだと思います。
 長文、お読みいただきありがとうございました。
山本流作画術/星空
『戦闘女神アヌンガ』より星空
 『戦闘女神アヌンガ』14話より星空です。
 天文台にある高解像度の望遠鏡で見たようなクローズアップされた星々を全天に配して、非現実的なイメージを作ってあります。実際の夜空ではこういう見え方はしないわけで、それゆえ、寝ている少女(カナ)が目覚めて、自分はこの世にいるのかあの世にいるのかと一瞬とまどうシーンに移るのですが。

 こういう絵を作るには、まず黒い紙(マンガ雑誌を開いたくらいの大きさ~閉じたくらいの大きさ)に、目の細かい金網と歯ブラシをつかって白いインクでランダムな(でもバランスを考えた)手製の星々である白い点を散らします(下の二枚がそれです。二枚目はところどころ手描きで大きな星も書き加えてあります。こういうものを何枚も作っておいて、場面に合わせて使い分けます)。
 それにペンとインク(別に黒紙に白いインクで描く必要はありません。白い紙に黒インクでいつもどおり描いて、パソコン内で白黒反転させればいいです)で手描きの星(縦横斜めに光芒を放ったような、いわゆる煌く星)を数種類作り、パソコンのフォトショップのフィルタ(放射状ぼかしのズーム)を使って、より輝きの効果を加えて、拡大縮小を行い、メリハリをつけたものを重ねます。
 モノクロ画面なので、簡単ですが、カラーとなると、少しカラフルさが必要になって、何倍か面倒な作業になると思います。
星空素材1
星空素材2
どんなときも、どこででも
 私のお付き合いいただいている編集部も、友人の漫画家さん方の描いていられる編集部も、だいたいは昨日12月26日が仕事納めのようで
 私も無事、年内に納めたり打ち合わせしたりすべきことは、無事昨日で終了しました。
 と言っても手元の仕事は残ってて、年越しでずっと描いてます。

 今朝はめっちゃ寒くて、湘南の我が家でも庭のバケツの水に6ミリくらいの厚さの氷が張ってました(湘南かよ!)傾けても全然水がこぼれません!野良猫やその他動物さんたち寒いよー!;
 あと路上生活の方も;


 先日新聞読んでたら、この不況とリストラの嵐で、「寝袋買ったか?」が合言葉の職場さえ、あるそうですね。
 今この記事をご覧の方も、色々な状況で年の瀬を迎えていられると思います。
 順風満帆の方もいられれば、職をなくされて明日の見えない方もいられるでしょう。

 これまでの記事でも何度か触れてきましたが、私のような「水のみ」漫画家は、明日が見えたことなんかほとんどありません。
 デビューして30年、いつも綱渡り手探りでやってきました。
 こんな先の見えない人生がいつまで続くんだろうと、「うつ」のころには本当に早く死ねたらと思ったことも何度もあります(自殺には昔から反対なので死にませんでしたけど)。

 今だって別に状況は変わっちゃいないんですが
 「失業」は若いころから恐怖でした。
 これも以前書いたことがありますが
 若いころ食休みに寝転がって、翻訳モノのB級ハードボイルド小説を読んでたら、主人公が失業して町をさまよう下りで、ソッコー感情移入してストレスで神経性の大下痢を起こし、トイレに駆け込んだことがありました。
 それくらい失業は私にとっていつも背中合わせのことであり、失業者の方への同情は「見下ろし目線」のそれではなく、まったく同じ地平に立った「わがこと」としてのそれなんです。全然他人事じゃないんです。
 実際、仕事が何も無くなった瞬間というのは人生で何度か経験してきました。
 昨年の秋もそうでした。

 幸い今年は、なんとか執筆進行しながら暮らし、暮れを迎えることができました。
 読者の皆様と編集部の皆様、お世話になった皆様すべてに心より御礼申し上げます。
 蛇足ですが、私がいつも忙しくしてるのは、仕事が多いと言うより執筆速度が遅いためです。
 あの絵柄でアシスタントなしの一人作業なもので、どうしてものべつ幕なしに描いている状態です。スピードアップの方法を日々模索しております;

 ブログで、色々と生き方やら考え方やら書いていますが
 根本はいかに幸せに生きるか、心から「無用の重荷」を下ろせるかです。
 いわゆる「成功哲学」とかではなく、成功していてもいなくても、恵まれていてもいなくても、豊かでも貧しくても、健康でも病でも、人気者でも一人ぼっちでも、とにかくそういう外的な条件とは関係なく、いかに安らぎ穏やかに生きることが出来るか。
 そのことのための、ヒントのはしくれでも提供できればと思っています。
 「幸せ」は外的な条件に左右されるが、「至福」はそういうものとは無関係に存在するものだ、だから「幸せ」を求めるのではなく「至福」に在りなさい、という教えもありますが、「至福」と言うとどうも何かの宗教の話と勘違いされ敬遠される向きもありますので、もうちょっと砕けた表現にできればと思うものです。
 いずれにせよ、そういうものを追求すると、実験室の中で物理的に計測できて誰がやっても再現可能な科学の範疇には収まりきらず、あいまいな心の奥底に踏み込まざるを得ないため、どうしても「形而上的」な話になっちゃいます。
 そこはもう、受け付けない方とOKな方が分かれてしまって、私の力ではどうにもなりません(すべての方に伝わるよう表現する能力を持ちません)。

 話は戻りますが
 私の追及しているのは、外的条件に影響されない(肉体を持っている限りゼロにはできませんけど)ある種の「安らいだ在り方」であって、仕事がなくなったらアウトとか、不治の病になったらアウトとか、愛する人を失ったらアウトとかいうような、砂の城みたいなつかの間の幸福ではありません。
 半世紀近く生きてきて、様々な別れや喪失を味わい(無論喜びや楽しみも味わい)夢にせよ愛する人、モノにせよ、何ひとつ永遠普遍のものなどなく、しがみついても執着しても、けして満たされることはないと身染みています。
 想像力だけは人一倍な(なにしろそれでメシ食ってきたわけで)ものですから、病、失業、さまざな状況をイメージし、その状態でも「使える」在り方、考え方以外はどうでもいい。
 今一人孤独死しようとしているときにも、オレはそうして在ることができるだろうか?
 できそうにない考え方、使い物にならない在り方はいらない。
 自分が死ぬ日まで(あえて踏み込んで言うならたとえ死んでも)世界でたった一人になっても、いや世界が滅びても、自分はそう在りながら安らいで生き、安らいで死んでいけるか。
 それが人生のテーマであり、それを追求してきました。

 誤解のないように申しますが、それは何かの宗教のように「今をがまんして来世にそなえる」のでもなく、何かの成り上がり哲学のように「今をがまんして明日の豊かさに備える」のでもなく、「今を十全に生き」(つまり今この瞬間に活かすことができ)死ぬときもまた活かし十全に死ねるものです。


 私どものマンガ業界も、他のジャンル同様、未曾有の危機を迎えています。
 先日も業界通の友人の作家から、笑えない裏事情を聞きました。
 私がアマチュア時代(つまり30年以上昔)にも、オイルショックなどの危機はありましたが、まだ上下の変動はあってもトータルで景気は上昇している時でした。今回は違います。
 そういう私も、明日どうなっているかわかりません。
 
 でも、心配しても始まりません。 
 一寸先は闇か光か、すべては神の味噌汁です。
 「前借り」してまで悩む不幸、苦しみの先物買いはやめましょう。
 ただ、明日を恐れずないがしろにせず、過去を無視せず引きずらず、謹んで今できるベストを尽くしていくだけです。
 それで死ぬならそれまでの山本です。
 けっこう毛だらけ猫かわいいな♪

 性別、経済状態、健康、その他すべての条件と無関係に
 使えるものを考えていきたいと思います。
 2008年もあとわずかですが、皆様にも私にも、よい風が吹きますように、いやこの季節、風は寒いから、よい日差しがさしますように。よいご縁がありますように。

 画像は先日写した湘南の日の出です。
 夜明け前が一番暗いとよく言われますが、夜明けそのものも、意外と暗いもんです。本当にまぶしく明るくなるのは、かなり日が高くなってから。それまでは、けっこうしょぼくて、いつ日が出たのか、横を向いてると気がつかないくらいのもんでした(笑)。
 ではではまたー♪

太平洋の日の出2008年12月
夜明けの海岸2008年12月
めりーくりすまーす♪
whitenight
♪ひーとーりだけのクリスマス
 ふーたーりだけのクリスマス
 みーんなでするクリスマス
 しーあーわーせにー♪
 ふるゆーきのよにあーいー
 ふーりーしきれよあーいー
 みーんーなつつまれーて
 しーあーわーせにー♪

 メリークリスマスえぶりばでー







えーと、「アイ ウィッシュ ユア メリクリスマス」なんですが
おわかりいただけますよね?(爆

さて仕事仕事;
人生の虚実
虚実1
虚実2
「幹」と「枝葉」と言い換えてもいいかもですが
 私がものごとを見る際に、弁別の基準にしていることの一つがそれです。
 その問題はことの根幹に関わる重要なものか
 シロでも赤でもどうでもいい、枝葉末節のことか

 画像は拙著『紅壁虎(ホンピーフー)』の一場面ですが
 この掌で顔面を攻撃すると見せて、肘打ちを正中心に叩き込む技は
 昔、武術の取材で実際に体で味わって悶絶し、一生忘れられない思い出です。
 同じく拙著『セイバーキャッツ』でも、同様の技を主人公に使用させました(と言うより、この『紅壁虎』の方が、その変形バージョンです)。
 
 この場合、攻撃された人間は、迫ってくる掌のアップで視界のほとんどがさえぎられてしまいます。
 反射的に恐れてのけぞれば、突き出たボディがかっこうの「獲物」として攻撃側の肘の前に突き出されます。
 掌はただの目くらまし、「虚」であって、実際の攻撃、「実」は、その下にある肘なのですが

 人は人生において、しばしばこの肘ではなく掌にばかり意識を集中させて、大事なものを見落とします。
 私もいっぱい見落としてきました。これからもまた見落とすでしょう。

 気晴らしの無駄話には、「虚」や「枝葉」もいいですが
 真に問題とすべきこと、悩み解決を模索すべきことは、「実」でなければ意味がありません。
 しかし、世界を見ていると、しばしば人は「掌」にばかり意識を集中し
 その指の形はどうであったか、爪はどんなふうだったか、手首の角度は、素手だったか何か持っていたか、持っていたのはナイフだったかスプーンだったか、などなど
 どうでもいいことを延々と語り合っています。
 中には死ぬまで、そのどうでもいい問題しか意識に上らない人さえいます。

 人生で真に重要なことなどほとんどなく、あとはどうでもいいことです。
 とことんつきつめてしまえば、重要なことなど何もないとさえ言えます(私はとてもそんな境地には遠く及びませんが)。

 こんなことを私が書くと、人生の「枝葉」の代表格と言ってもいい、あってもなくてもいい「マンガ」などというものを生業にしている者がなんだと思われる方もおいででしょうが
 枝葉は枝葉の自覚を持って、幹に貢献できればいい。
 天空を馳せる飛行機が、しばし滑走する間、その脚を支えてある大地は、あとに打ち捨てていかれてもそれはそれが役目でしょう。

 自分が今「幹」を語っているのか「枝葉」を語っているのか
 いったい何と取り組んでいるのか
 忘れないようにしたいと思うものです。 
『良心をもたない人たち』マーサ・スタウト著
『良心をもたない人たち』マーサ・スタウト著
『良心をもたない人たち』
マーサ・スタウト著/木村博江・訳/草思社

 著者は米国の心理セラピスト。
 25年にわたる豊富な臨床経験から
<カウンセリングにくる患者の多くが「良心のない人々」に苦しめられている事実に気づき、本書を発表>
 したそうです。
 この日本版は2006年の刊行となっていますので、すでにお読みなられた方もおいででしょう。

 スタウト氏によると、米国民の4%つまり25人に一人が「良心をもたない」人なようです。
 幸いと言うか、日本はもっとその率が低いそうですが、近年なんだか近づきつつあるような気がしてなりません。
 彼ら(彼女ら)は、他人から何を奪おうと傷つけようと、なんの良心の呵責もストレス後悔の念も持ちません。他人はただ自分の楽しいゲームのコマでしかないのです。
 文中では「ソシオパス」「サイコパス」といった名称で呼ばれていますが、これらは近年、「反社会性人格障害」など他の呼び名もあり、様々に意見がわかれるようです。

 本書で取り上げられる「良心のない人たち」というのは、けして映画やマンガに出てくる猟奇犯罪者のような、見るからに危ないキレた人たちではありません。
 むしろ、日常どこにでもいる、一見普通の人たちです。
 折り返しの部分の見出しを引用すると

<良心をもたない人の特徴
 一見、魅力的でカリスマ性がある
 嘘をついて人をあやつる
 空涙を流して同情を引く
 追いつめられると逆ギレする
 自分にしか関心がなく、退屈しやすい
 刺激を求めて「支配ゲーム」に走る
 人に依存したがる
 チームプレイがへた
 近視眼的で世間知らず>

 ああ、いたいた、そういうヤツと思われた方、けっこうおいでなのではないでしょうか。
 学校で職場でご近所で、、ときには家庭の中にも、そういう人物は存在します。
 一見人当たりがよく、人をたらしこむのがうまいので、最初はだまされて付き合ってしまったり。
 ぶっちゃけ私も、そういう人物に何年かだまされ、エライ目にあいました。
 全然他人事と思えません。

<ブリティッシュコロンビア大学の心理学教授ロバート・ヘアは(中略)自分の患者についてこう書いている。「彼らには専門家もふくめてだれもがだまされ、あやつられ、甘言(かんげん)にのせられ、目をくもらされる。優秀なサイコパスはどんな相手の琴線(きんせん)にもふれることができる・・・・彼らから身を守る最良の方法は、この捕食者の性質を理解することだ。>

<サイコパスはだれかを格好の獲物と見てとると、その相手をじっくり観察する。どのように相手を操作し利用すべきか、そのためには相手をどのようにうれしがらせ魅了すべきか、考える。そしてさらに、サイコパスは親近感を強めるこつを心得ていて、犠牲者に自分と似たところがあると言って近づく。犠牲者はサイコパスと縁が切れたあとまで、自分の心をつかんだ台詞をよく覚えている。「ぼくと君は似た者同士だ」「あなたとは心が通じあえるの」などだ>

 昔から私は、人が本当になんとかしないといけないのは、世界の果てに住んでる大魔王とかじゃなくて、すぐそばにいるどうしようもない困ったちゃんだと思っていたものですが、これはそのことを大変具体的に解説している一冊です(笑)。

 私は性善説でも性悪説でもなく、人はいずれでもあると思うものです。
 本書では「良心をもたない人たち」と訳してありますが、私は「タガのはずれた人たち」「タガをもたない人たち」と言い換えてもいいと思っています。それもポジティブな意味でではなく、ネガティブな意味でです。
 彼らは自分のしたいことをする。
 それにはなんのルールもない。
 黒澤映画のセリフで「狂犬にまっすぐな道ばかり」というのが、あったように思いますが、ちょうどそんな感じです。
 変な言い方ですが、究極の自由人でもあるわけです。

 著者は、自身の豊富な臨床例から、いくつかの典型的なタイプ(犯罪にならない範囲で、積極的に動いて人を傷つけもてあそぶ者、ひたすらぐうたらで他人に寄生して「かわいそうな人」を装う者、本当に犯罪を犯して殺人にまで及ぶ者、などなど)を挙げて解説、心理学的分析や脳機能の違いについての論文も引用し、その傾向と対策を書いています。
 以下がその目次です。

1 ジョーのジレンマ
2 氷人間スキップ
3 良心が眠るとき
4 世界一、感じのいい人
5 なぜ人は身近なサイコパスに気づかないのか
6 良心をもたない人の見分け方
7 なにが良心のない人をつくりあげるのか
8 となりのサイコパス
9 良心はいかに選択されてきたか
10 なぜ良心はよいものなのか

 サイコパスの脳機能についても興味深い分析が載っています。
 脳のどの部位が活性化するかという検査をすると、一般の人が感情に関わる言語にするのとは別な反応を彼らはする、と言うか同じ反応が彼らはできない。
 「愛」と「椅子」といった、一般の人間にとって重要性の異なる単語に、同じような反応を示す。
 また、感情に関わる意思決定を求められた場合、普通の人間が反射的に解けるような内容を、数学の方程式を解くような脳の部位を使って解こうとする。

<サイコパスに良心が欠如しているだけでも悲劇的なのに、それだけではない。彼らは愛ややさしさといった感情的体験を受け止めることができないのだ---その体験が、仕事として冷たく頭で計算されたものであるとき以外は>

 これはかなり重要なポイントだと思います。
 人生において、人はさまざまな幸不幸を体験し、学んでいくものですが、彼らは同じ体験を通しても「学べない」ということですから。
 しかし、一つ誤解を心配しフォローしておきたいと思うのは、世の中には色々な知的精神的ハンディを抱えた方がおいでで、感情面においても、一般の人間と同じ理解を得られない方もいっぱいです。ただ、その方たちが、イコール「良心のない人たち」ではけしてない。一般人に比べて「劣る(と一般的には思われている」方でも、愛や感情は十分に受け止められたり(逆にもっと豊かであったり)、感情的には「鈍い(と一般的には思われている)」方でも、ちゃんと分別や思いやりをその方なりの方法で持っていられる。そういうケースが多々あります。
 人が「良心をもたない」状態に陥り、他者を傷つけることや支配することに喜びを見出していくには、もう一つ「一線を越える」何かがそこにあるように私には思えます。

<残された数々の記録を調べると、サイコパスはさまざまな呼び名で、古くから世界各地に存在していたことがわかる。例をあげると、精神医学専門の人類学者ジェーン・M・マーフィーは、イヌイットの“クンランゲタ”について触れている。クンランゲタは、「自分がすべきことを知っていながら、それを実行しない人」を指す言葉だ。アラスカ北西部では、「たとえば、くり返し嘘をつき、人をだまし、物を盗み、狩りに行かず、ほかの男たちが村を離れているとき、おおぜいの女たちと性交する」男が、クンランゲタと呼ばれていた。イヌイットは暗黙のうちに、クンランゲタは治らないと考えていた。そして、マーフィーによれば、イヌイットの間では昔から、こうした男を狩りに誘いだしたあと、だれも見ていない場所で氷の縁から突き落とすのが習わしだったという>

 
 以前このブログで『愛と心理療法』という本を取り上げましたが、これはそれと対をなす(対立するのではなく、ともに補い合う)一冊と言ってもいいかもしれません。
 『愛と心理療法』の著者であるM.スコット・ペック氏の著作に『平気でうそをつく人たち』というのがありました。
 発売当時、私も買って一読したのですが、当時は今ほど人間への洞察が至らなかったせいか、そんなこともあるかなあという感じで、手放してしまったものです。今ネットでレビューを検索すると、賛否両論ある本のようです。しかし、問題点は問題点として、身近にいる「危険な人々」への認識を新たにさせたという点では、おおいに意義ある一冊だったと思うものです。
 私の知っている「良心をもたない」人も、平気で嘘をつく人でした。AさんとBさんに双方の嘘情報を流して互いの仲を険悪にさせるとか、平気でします。いや、まるまるの嘘ではなく、ある程度の真実に巧妙にそっと毒をそえて出す。そうして人々と状況を支配することが喜びなのです。
 また、自分の不幸を語って人の関心を引くだけでなく、人の不幸を聞き出して、人を操るネタにします。
 人の精神的肉体的トラブルや、ウィークポイントについての情報は、そういう人間の存在を思うと、あまり軽々しく口外すべきではないと思うようになりました。

 『良心をもたない人たち』は、スコット・ペック氏のその本より10年近く経って書かれたものであり、より現在の状況に即した内容になっていると思われます。
 世間の大多数を占める「良心をもつ人たち(多い少ないはあるにせよ)」は、どうしても自分を基準に考えてしまうため、そこまでタガのはずれた存在というのを、なかなか想定することができません。
 同じ人間ではあるのですが、根本的に異質な存在もあるということを認識するのに、貴重な一冊だと思います。

 すべてには光と影があり、どちらか一方だけ求めても、不足が生じます。
 『ゲド戦記』に「無垢なだけでは真の力にはなりえない」という意味の文章があったように思いますが、まさにそれです。
 ひたすら世間の闇をつついて、ものがわかったような顔をする在り方には、まったく共感しないのですが、時には闇も踏まえておかないと、とんでもないことになるという意味で、今回は珍しくそっち方面の書籍に言及してみました。


良心は愛する能力を欠いては存在しない。そしてサイコパシーの根源にあるのは愛情の欠如なのだ>

<世の中には良心のない人もいるという苦い薬を飲み込もう。
 自分の直感と相手の肩書きにギャップを感じたら、直感の方を信じよう。
 嘘、約束不履行、責任逃れが3回重なったら、その人を信じてはいけない。
 人に同情しやすい自分の性格に疑問を持とう。
 治らないものを治そうとしてはいけない。>
                           (同書から)
身口意/後先になりながら
身口意
 人のすることは、おおざっぱに分けて「すること」「言うこと」「思うこと」の三つです。
 仏教で言う「身口意(しんくい)」というやつで、密教ではまた少し専門的な意味がありますがそれは今は置いといて;

 三つは互いに関連していて、思いがより具体化したのが言葉で、もっと具体化したのが行動です。
 でも、精神が肉体に影響するだけでなく、肉体が精神に影響する(身体的ストレスで精神も病んじゃうみたいに)場合もあるので、これらは互いにフィードバックし合っています。
 乱暴な口のききかたを続けてると、なんか気分まで攻撃的になってくるとか。

 んで、思うんですが
 この三つって、互いに「あとさき」になりながら進んでくもんですよね♪

 よく「心にもないことを言う」とか言いますが
 本当に心と言葉と行動を100%一致させてる人がどれほどいるでしょう。
 私も含めてほとんどの人は微妙にちぐはぐなんじゃないかと思います。

 つい口がすべって、その場のノリできついことを言い過ぎちゃったとか
 かっとなって手を出したが、別に乱暴する気はなかったとか(だんだんシャレにならなくなりますが)
 いうケースが世の中にはままありますよね。
 逆に、思ってることを半分も表現できなくて後悔するとか。

 やりすぎにせよ、不足にせよ、心の奥底で思っていながら意識としては自覚していなかったことが、行動という形で具体化した場合と、本当にもののはずみで心とは別のことが起きちゃった場合と両方あると思います。
 若いころは、えてして潔癖症なもので、自分も昔、この「中身と外見が一致してない」ことがイヤ(自分のことは棚に上げてるとこが、また思い切り若者)だったんですが、あるときエッセイを読んでいて(筒井康隆氏のだったか)いわゆる「だんな芸」というものも、やってる内に誉められながらだんだんモノになってくるんだから、あれはあれでいいんだという文章を目にしました。
 そんときは、小説家という本業の傍ら、役者などもしていられる筒井氏の自己正当化のような気がして(このへんも若者真っ盛りでした)なに言ってやんでえと思ったものでしたが
 今思うと、それくらい良い意味でゆるい視点、生暖かく見守る視点はいいもんだなあと思います。

 武術の取材を通して学んだことに、師匠に姿勢を直されただけで、ふだん効かない技が効いたり、出なかったパワーが出る。
 別に急に筋力が増えたりして強くなるわけではなく(笑)、それはきちんとした「型」の持っているパワーなわけです(無駄なく全身が協調して使えるようになる)。
 あくまで一時的なもので、それが自分の体にしみこまない限りは、もう一度別のときにやってみろと言われても、そばでチェックしてくれる師匠がいないと無理なんですが
 「型」にはそういう威力もある。
 だから、中身によって導かれる外側もあれば、外側によって導かれる中身もある。

 どれか一つだけ突出し過ぎて、歩調があまりにも合わなくなると、それは無理が起こってダメになると思うんですが
 多少のあとさきはあって当然。
 「心口意(しんくい)」、「思い」と「ことば」と「行動」が、同じ旅を行く仲間のように、自分と言う原子の「原子核」のまわりをぐるぐると「電子」のように回りながら、進んでいくのが人間じゃないかと思います。
 三つの足並みをきっちりレーザーのようにそろえられたら、それはまた別の、新たなパワーと境地なのかもですが(ガンディーの言葉に「幸せとは、あなたの考えと言葉と行いが調和してること」というのがありました)。
 それまではまあ、ぼちぼち気楽に、後先に戯れる「旅の仲間」とともに
 人生、進んで行ければと思うものです♪


追記 
 鈴木秀子氏の『奇蹟は自分で起こす-幸せになる1ミリの法則』(海竜社)という本に、ホイヴェルスという人の話がありました。
 生前は上智大学の教師などされて尊敬を集めていたドイツ人の神父さんなのですが、晩年ボケて、食事を食べたあと、それを忘れて食堂に見えるようになった。

<「神父さま、もうお食事は召し上がられましたよ」と言うと「あっ、そうですか」と言って素直に帰っていく。年をとると食べたのを忘れて「いやいや、食べてない、もっと食べる」と言うのが普通ですけれども、「あっ、そうですか」と言って素直に帰っていらっしゃったというのです。長年の修練というものが、ボケてしまっても、現れるものだと、周りの人は感嘆したというのです。>

 見せかけだけの「ものわかりよ良さ」や「善人ぶり」などでなく、外見と中身とこれくらい歩調のあったジジイになれたらうれしいなあと思うものです(笑
ホリゾントではありません(笑
けあらし
 今朝は仕事の合間をぬって、アヌンガの資料写真を撮影に海までバイクを飛ばしました。
 今年一番の冷え込みで、家の外に置いたバケツには氷が張ってました。
 日の出前の海岸は寒く、グローブをとると手がかじかみましたが、すでに浜辺には釣り人や工事の人が何人もいました。
 んで、このスナップですが

 怪獣映画のホリゾントでもドライアイスの煙でもありません。
 大気の温度が低いため、海から登る水蒸気がはしから凍ってこうなってたようです。
 蒸気霧の一種で「けあらし」というと、きょうの夕刊で知りました。

 夜明けの撮影は、ばっちり成功しました。
 水平線から登ってくる朝日に、涙が出ました。
 その成果はいずれまた作品で♪
 ではではまたー。
カレーベジタブル
ゴハン抜きカレー
 ベジタブルカレーではありません。
 カレーベジタブルです(笑
 糖尿ではないのですが、糖質の代謝がイマイチな私が、炭水化物抜きで食事するために、ちょくちょくやってるメニューです。
 カレーライスのライスをキャベツやレタスなど、野菜で代用したものです。だから「カレーベジタブル」♪
 お皿に野菜の千切りなどをしきつめて、カレーをかけ、それだけだと寂しいのでこのようにゆで卵を添えたりします。
 お好みでカツとかカキフライとかなんでもありです。ハンバーグも可。
 ごはん抜きでも野菜だけで十分満足できることがわかって、意外でした。

 一時体調不良が続いた時に、勝手に自分糖尿じゃね?とか思って、ゴハンや麺類をこうして全部野菜に置き換えて、おやつも抜いてくらしたら半月ちょっとで2キロ近くやせました。
 でも、その後病院で検査してシロだと判明、サプリ出されて体調も戻ったんで、また粉モノもおやつも食べるようになったら、あっという間にリバウンドしましたが、でも今でもこのタイプの食事はちょくちょくとるので、元ほどには体重上がってません。 ちゃんとメタボにならない範囲です(って、元からセーフな範囲ですが、でも、理想を言うともう何キロかやせた方がいいんですよね、無理だろうけど)♪

 ただ先生が言われるには、あなたの生活(すわったっきり中年の漫画家)ならふだんのゴハンや麺類は全部抜いても大丈夫ですと(笑

 野菜はスーパーなどで、千切りのパック入りを買っておいたりします。
 数十~百数十グラムで100円~300円前後です。色々あります。
 一気に一パック食べるものもあれば、半分ずつのこともあります。
 栄養学的にどうかではなく、あくまで自分の「満足感」ですので、専門知識のある方は何かご意見がおありかもしれません。
 ただ、これでフルメニューではなく、ほかに色々惣菜をつけますけど♪
 ではでは~~。
山本流作画術/写真合成(戦場のガレキ)
 前回に引き続き、私の写真合成作画の作例をアップします。
 Bbmf社で配信中のケータイマンガ『戦闘女神アヌンガ』の15話より。
 まず私がインクで紙に描いた元絵
アヌンガ#15戦場元絵
 をスキャナでパソコンに取り込みます。
 次に、手持ちの資料写真の中から使えそうなカットを選びます(雑誌などからのパクリではなく、無論自分で撮影したものです。出版社から回してもらった使用許可のある資料もあります)。と言うか、先に選んでおいて、その資料を使うことを前提に最初の元絵も描いておきます。
アヌンガ#15戦場ガレキ資料写真
 これは横浜を散策中に見つけた建物の取り壊し現場の画像です。
 次に、最初の手描き画像をパソコンの中でフォトショップを使って遠景と近景の二枚の画像に分割し、フォトショップを使ってお化粧、煙や影を描き加えます。
アヌンガ#15戦場元絵分割処理
 で、この遠景近景二枚の画像の間に、資料写真を加工して作ったガレキを挟み込みます。
 写真を処理した段階の画像がこれです。
 余計な背景や、画面を横切る邪魔なロープは念入りにフォトショップで消してあります。
 写真の加工手順は何段階かあるんですが、それは省略します(コレサワシゲユキ氏のデジタルコミック講座で教わった手順です)。
アヌンガ#15戦場ガレキ資料写真処理
 これらを合成して出来上がったのが下の完成画像です。
 日常の工事現場を加工してどこまで非日常の戦場のガレキが再現できるか実験的にやってみたカットですが、それなりに説得力はあったかもと(笑)。ただ、手前の人物をピンボケに加工して遠近感を強調するとかいう芸もありだったかなとも思います。
 こういう「使える」資料写真をゲットするのは、無論「運」もありますが、何より執念というか、ふだんからデジカメを手放さず、ぼうっとしてただ移動するのではなく、歩いていようが乗り物に乗っていようが、常に使える画像がないか、と目を凝らして、それが無意識でも行われている、パソコンのアンチウィルスソフト状態になるまで、もっていっておくのがポイントかと思います。
 ではではまた♪
アヌンガ#15戦場完成図
山本流作画術/写真合成(夜景と草むら)
『戦闘女神アヌンガ』#15草むら
『戦闘女神アヌンガ』#15夜景団地
『戦闘女神アヌンガ』#15
 久しぶりに山本流作画術です(って言うほどのものじゃないんですが)(笑)。
 『戦闘女神アヌンガ』15話より。
 自分で撮影した団地夜景のデジカメ画像(カラーデータは破棄してグレースケールにしてあります)と、手描きの草むらの合成です。
 一枚目が手描きの草むら。
 二枚目がデジカメ画像(手持ちなので手ぶれしてます。それも効果として使います)。
 三枚目が完成画像。川原で芋○坂係長ならぬ吸血魔人がこれから犠牲者の血を吸うとこなんですが
  上のコマがデジカメ画像と手描きの草むらを合成したもの。ポイントはデジカメ画像の手ぶれと同じ角度で同じくらい手ぶれの効果を、手描きの草むらにもほどこしてあるところです(フォトショップのフィルタ「ぼかし」の「移動」を使います)。
 下のコマは、ナマ原稿では、奥の草むらと人物を描いたカットに、一枚目の草むらの下の部分を重ねてあります。
 風のラインは、黒インクで白い紙に描いたものを、白黒反転して合成してあります。
 ロケハンと写真合成はデジタル作画においてかなり主要な部分なので、またこれからも作例をアップしていきたいと思います。ポイントは、手描きの絵と写真をどうなじませるかです。
 ではでは♪
『戦闘女神アヌンガ』近況♪
『戦闘女神アヌンガ』#15より
 私がBbmf社のケータイマンガとして連載中の『戦闘女神アヌンガ』ですが
 お客様から、自分はケータイマンガは見られないんで単行本二巻を待ってるところですが、最近はどんな運びになっていますか?とのお尋ねをいただきました。
 ありがとうございます。
 まず、二巻ですが、だいたい10話で一巻分ですので、2巻は20話まで描いたらまとまる予定です。
 今17話の後半を描いてるとこでして
 たぶん1月には20話に行くでしょうから、2009年春先3月前後に出せるのではないかと思います。
 どうか気長にお待ちください。

 それから配信中の物語ですが
 お金を払ってダウンロードしてくださっているお客様のことも考えて、ここであまりネタバレな内容をお話するわけにもいかないんですが、物語のおおまかな運びとしましては
 一巻では、ウルトラマソが毎回完結で個別な怪獣を倒すように、女神アヌンガもそれぞれ個別に魔神を撃破と言うか、異界に転送してました。
 しかし二巻にきまして、ばらばらに見えた魔人(作中では魔神に憑かれている人間(人間の姿をしているとき)が「魔人」、それが変身して中の魔神が現れたのが「魔神」と定義しております)たちでしたが、裏でその糸を引いている納豆、じゃない黒幕、ドクター・レザという呪医が登場します。
 そのエージェントだった少女が寝返って、主人公たちに加勢することになるんですが
 いいことばかりはありゃしねえと歌の文句にもありますとおり
 ええ、気がつくと思わぬ危機にハマっていきます。
 主人公を窮地に陥らせるのが大好きな山本の面目躍如な展開ですのでお楽しみに♪

 ちょっとだけ予告でネタバレを申し上げますと、神話にはよくある多臂(ひ=腕)の怪物ですが、これまであまたの映画やマンガがありましたが、武術的に考証された多臂の殺陣というのは、私は見たことがありません。せっかくの多臂を活かしたアクションがない。ただやみくもに振り回してるだけ。
 これはベースとなる武術の知識が乏しいためと思われます。
 通常の二本腕でどう戦うかの基本戦術がわかった上でないと、多臂のアクションも設計できません。
 その辺、私の武術造詣とファンタジー&怪物趣味をミックスさせた、山本ならではのアクションを設計しております(そう言えば中国映画なんかでは殺陣のことを「武打設計」とか言ってましたっけ???)。また、それを打ち破る方法もそのラインに沿ったものを考えてあります。
 けして武術マンガではありませんから、『セイバーキャッツ』のような厳密さは無論なく、凝るにも限度がありますけど;
 どうかそっちもお楽しみにですー♪

 以上アヌンガ近況報告でした!
『戦闘女神アヌンガ』#15より2
 画像は配信中のアヌンガ15話より。
 女神とからんでるのは芋洗○係長ではなく、スーツ姿のおっさんに憑いてた吸血魔神です。本来は首筋から吸うのがお約束ですが、アヌンガは首にごついチョーカーをつけてて邪魔で吸えないので、中国の水棲吸血鬼の蛟(みずち)ふうに、急遽脇の下にとりついてます(拙著『超(チャオ)』(集英社)を思い出される方もおいでかと♪)
 横でビビってるのが、悪のボスから逃げてきた少女カナです。
 ではでは~♪
『淡雪記』#3
 小説すばる誌の馳星周先生の連載『淡雪記』三話目のイラスト。
 余裕で上がるかと思ったら、思いのほか手間取る処理でバイク便の来るぎりぎりまで引いて、ライダーさんに20分待ってもらいました。
 こんなことは初めてです;
 でも手間かかっただけの絵は出来たので勘弁してください(と編集さんに謝りメールを打ちました)。
 
 今回はちょっとブチ荒業を使いました。
 ヒロインの顔が、清書したあとで気に入らなくて、でも時間的に別紙に新たに描き起こしてる暇はなく
 どうしたかと言うと、トレスコで透かして見ながら原稿の裏側に顔を描き直し、原稿スキャンするときに裏の顔もスキャンして、PC内で左右反転させて表の絵に合成しました。
 うまくいったー!

 さてこれから『戦闘女神アヌンガ』#17の後半作画に戻ります。
 がんばー♪
めざせ奇麗事♪
 私はこのブログの中で、「生きること」「ゆるすこと」「いささか形而上」などなど
 色々「奇麗事(きれいごと)」を書いていますが(笑

 奇麗事上等。奇麗事万歳♪

 前科を隠して選挙に出るとか、裏で買春してる教育者とか、そういう論外のケースは別として
 人は多かれ少なかれ「偽善者(ぎせんしゃ)」です。
 今回は少しだけ、いつにも増してジジ臭いことを書きます(いいんです、もうすぐ50のジジイなんですから)。

 何かを行うことを「為(な)す」と申しますが、「為す」に「人」をつけると「偽(いつわり)」になります(おお、ジジイ全開だあ!)。
 いや、「為」という字そのものも、古い意味を中国の古典にたどると、「まねをする」「いつわる」という意味があったようですが、ここでは現代の一般的な意味の話をしています。

 「為には作りなす意味がある。偽は人が後天的に作りなすこと。とくに悪い方の意味が強くなって、『いつわり』の意味になった」(新選漢和辞典・新版/小林信明・編/小学館より)

 人間、悟りを開いた覚者でもない限り、どんなにピュアな心と言ってもどこかに「我欲」や「偏見」が、掃除したつもりの部屋の隅のホコリのように、残っているものです。そんなもんいちいち指摘して「偽善者」扱いして否定してたら、何も言えないしできません。
 逆に言うなら、どんな悪どいことを言ったりしてる人でも、よほどの極悪人でない限り、つい傷ついた生き物をかわいそうに思ったり、困っている老人に席をゆずろうかな(本当にゆずるかどうかは別として)と思ったりする瞬間はあると思います。
 その重箱の隅をつついて「偽悪者」と言うのでしょうか(笑)。
 
 見過ごしに出来ない犯罪は別として、日常生活のレベルにおいて、人が「善人」か「悪人」かをヒヨコの雌雄判定のように色分けすることは、不可能ですし意味がありません。

 ちなみに、私は色々「きれいごと」を書いてますが
 自分が善人か悪人かなどということには興味がありません。あえて言うなら「極悪人」でもなければ「極善人」いやそんな言葉はないか、もとい「聖人」でもなんでもないと思っております(あたりまえですが)。

 ジジイのたとえ話に戻りますが
 本当に「己(おのれ)」をむなしゅうして、100%のピュアな心で善を行う「為善者(いぜんしゃ)?」は、ふつういません。みんな、どこかに自分の欲や利益を思いながらピュアを目ざしている「偽善者」です。
 言い換えれば「偽善者」というのは「人間」というのと同じことではないでしょうか。

 誰かに「偽善者」と呼ばれたら、そうなんですよ、と笑って返せばいいのではないか。
 「そうなんです。あなたと同じですよ」(笑)
 それとも、そういう指摘をする人は、日々最初から最後まで悪いことしか言ったりしたりしないんでしょうか。
 そもそも「偽善者」と言うのは、「善人」でもないのに「善人」のふりをしている人のことです。
 善を行ったり言ったりするからと言って、別にその人が100%の善人でもなければ、本人が「私は善人です」とか言わなければ、別にいいんじゃないでしょうか。
 「きれいごと」とセットになった「偽善者」が嫌われる最大の理由は、そういう人物が、その「きれいごと」に自己陶酔して、自分が立派な人物になったと勘違いして優越感に浸ったり、自分を正義と思い込んで人を裁いたり責めたりし始めるからです。
 その双方を手放してさえあれば、別にかまわないんじゃないでしょうか。

 これまでにも何度か引用してきましたが、昔テレビで見た水上勉氏(だったと思うんですが、昔のことで記憶違いの別人だったらすみません)のインタビューの言葉
 世の中にはたとえ偽善と言われようと、しないよりした方がいいことがある
 というのが好きです。

 以前見た、ある若い方のブログで(水上氏と同じような意味で)自分はキレイゴトが好きだと書いておいでのものがあって、大いに共感いたしました。
 奇麗事上等♪
 きれいごとを「目指す」のは、まだ自分が完璧にきれいではないからです。何かを目指すのはまだゴールしてないからです。
 誰も地球人になるために日々努力したりはしません。地球人を目指してる人がいるとしたら、きっとどこかよその星から来た、地球外生命体に違いありません(笑)。

 「為(なす)」に「人」を付けると「偽(いつわり)」
 「偽(いつわり)」から「人」を引くと「為(なす)」

 きょうも心置きなく奇麗事を語り、行えたらなあと思っています♪



追記
 この記事をお読みくださった方から、すてきなフレーズを教えていただきました。
 「やらない善より、やる偽善」
 座布団10枚です♪ありがとうございました。
てぶくろ
 買い物に出かけたマーケットでてぶくろを落としました。
 ポケットにつっこんで買い物をすませて、マーケットから出て外気に触れて、さあはめようと思って無いのを発見。
 急いで回ったフロアを順に見回ったんですが
 片ッポだけしか見当たりません。
 もう片ッポはどこ?どこ?
 うろうろしてると、私の黒い皮手袋のかわりに、ちっちゃなピンクの毛糸のてぶくろ値札つきが、衣料品とは関係ないコーナーに落ちてるのを発見。
 周りを見ても誰もなし。
 店員さんに届けようと思って、手に持ったまた、また自分のてくぶくろを探して少しうろうろ。
 やっぱりなくてレジに行くと、精算中のお母さんらしい人が
「どこへやったのかなー」
 と困り顔。
 ふと近づいていく私の手元を見て
「あ!」
 もしかして、この手袋、お母さんの?
「これをお探しですか?」
「はい!よかったよかった、○○ちゃーん!あったよー!」
 と向こうをみやると、うれしそうに駆けてくる小学生の女の子が。
 ナイスタイミングで届けて上げられたようです(笑
 喜ぶ親子の傍らの店員さんに
「実は私もてぶくろを落としたんですが、こんな手袋(と手元にある片ッポを見せ)落ちてませんでしたか」
「そういうてぶくろは届いてないですねー」

 全店の落し物が集まるサービスカウンターにもないようで
 きょうはあきらめて帰りました。
 でも女の子のてぶくろ、拾ってあげられてよかったー!

 片ッポなくして一そろえ拾って、差し引き得点1だな(何がだ)。
 ちゃんちゃん♪
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