昔友人の漫画家さんから聞いた言葉ですが
その人が好きでやっていたゲーム。なんというタイトルだったか忘れました。
色々な「徳」を集めて世界を回るシナリオだったか、ある街に行くと
「あなたは『誇り』がありますか」
と問われ
「はい」
と答えると
「誇りは徳ではありません」
と言われる。
なかなか至言だと思ったものですが、それから十年以上いやもしかして二十年近く?も生きてきて
そのセリフの意味するところに、しみじみ笑みがこぼれます。
今回も、少々長い話になります。
お暇な方はお読みください。
いきなり結論から申しますが
「誇り」や「プライド」を抱きしめている人とは、真実を語り合うことは難しいです。
なんでも心置きなくハラを割って語り合えるのは、己のプライドを捨てた人だけです。
これは、ともすると誤解を招く表現で、いささか解説が必要なのですが
よく卑劣な犯罪者や、無責任きわまりない人物に対して言われる
「あなたに人間としての誇りはないのか」「プライドはないのか」
という段階の、誇りやプライドの有無を言っているのではありません。
そういう段階は通り過ぎた、つまり他者への思いやりや責任感はわきまえた人が、次に進む段階の話です。
トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーが用いる分類に、「前個」「超個」というのがあります。
とりわけ形而上的な問題を語る場合、この問題は避けて通れないことだと私も思うのですが、
たとえば荒っぽい例で言いますと、
幼児や反社会的な人格の人間が、自分のものも人のものも区別がつかず、平気で人の品物に手を出す、というのと
分別は十分にわきまえた人格者が、自他の区別をつけず、人の苦しみも自分の苦しみと同様に考えて、困っている人に自分の財産を見返りを求めず分け与える、ということは
言うまでも無くまったく別のことなわけですが
自他の区別が無い、という一点にのみフォーカスして、これをいっしょくたに狂気や愚かさとしてしまう論法が、世の中にはよくあります。
「ミソもクソもいっしょ」というやつですが
人は他人を非難攻撃する際、よくこの混同をする、と言うか、意図的に相手を低いレベルに「分別」してあざ笑ったり侮辱したりします。
ウィルバーの言い方で言うなら
自分のものと人のもの区別がつかないで犯罪的行為に及ぶ人はきちんとした「個」を確立する以前の「前個」段階であり
分別をわきまえた上で慈悲の心から自他の区別無く尽くす人は「個」を超えた「超個」の段階にあるわけです。
その間に無論、その過渡期に当たる「個」の段階もあるわけです。
私は特にウィルバーのファンというわけではなく、と言うより、彼の学説すべてに共感するわけではないのですが、彼のこの視点は、多くの問題を語るに有益なものだと思っています(彼の「前」「超」の区別にもいささか異論もあるのですが、今回は置きます)。
今回、触れた「誇り」「プライド」も、同様に私は思っています。
一般に「プライドがない」というのはネガティブな意味で使われることが多く、人として最低限の気構えが無いとか、覇気が無い、ヘタレなどと同じ意味で、使われることが多いように思うのですが
確かにそういう人もいますが、似て非なる人もいる。
ポジティブな意味で、もはや己のプライドなどというものは捨て去った人。
「なにがあろうと、自分は人間としてのプライドは捨てたくない」
というと、逆境にあっても己を見失わない立派な人の決意表明として見られることがありますが、それはある視点ではその通りですが、もう一つ上の視点に立てば、無用なものとも思われるのです。
人は自分を律するのに、いつまでも誇りやプライドに依存する必要はありません。
自分のメンツや自分の属する集団のメンツなどとは無関係に、ただ自然体でなすべきことをなす、もっともベストと思われることにベストを尽くす。
そういう境地もありますし、またそれさえも、自己の進化向上の段階の一つに過ぎないのかもしれません。
人として、まっとうな自我の確立もできない(最低限の誇りもプライドもない)段階にあることが、人格の成長の一段階に過ぎないように
そして、そういう段階を脱して、いわゆる「人としての誇り」「矜持」を持って、己を律して生きる(道を踏み外しそうになると、その誇り、プライドを手がかりに踏みとどまる)ようになった状態も、また、人が歩む成長の一段階にすぎないし
一つの通過点に過ぎないのではないかと思うものです。
プライドにすがっているということは、まだ「オレが」や「オレたちが(家族、集団、国家など)」という、偏狭なエゴがある証拠であって、言うなれば「我欲」なわけです。
オレのプライド、などというものを握り締めている限り(って、、これは机上の空論ではなく、己の人生を振り返って、実体験として思うのですが)人は、冷静にものを見たり判断したりすることが難しい。
その人のプライドが傷つかない問題では、知的であったり思いやり深かったりできるのですが、こと問題がプライドに関わると、とたんに反射的に心と思考が防衛体勢をとり、それはすぐに他者への(ぶっちゃけ、自分のプライドを傷つけた相手への)攻撃行動に移ることになります。
わかりやすい例としては、偏狭な民族主義に凝り固まっている国の人々と、二つの国にまたがる領土問題について、冷静な対話が成立しないというものがあります(おそらく、この記事をお読みの方も、ニュースなどでイヤと言うほど眼にしてこられたと思います)。
民族の誇りを汚された→悪→敵→攻撃、そして自分たちは正義で善である→なんの反省も再点検の必要も無い、という、ほとんど自動装置のような閉じた反応に陥って、そこから抜け出ることができません。
これは、国家間の対立というような大きな問題から、日常のささいな人間関係まで、多くの無意識的な人々を支配しているルールです。
「集団中心主義、自民族中心主義」というやつで、そういう意味でおそらく世界の7割がたの人間は、それかそれ以下の発達段階にあり、ある意味ナチスと変わらないとウィルバーは言います。
これまた誤解のないように補足しておきますが、これは自分が生まれ、自分を育んでくれた共同体や国家、人々、国土への感謝の念(ポジティブな意味での愛国心とでも申しましょうか)を否定しているのではなく、オレの仲間さえよければ他の集団はどうなってもいい、他の国も民族もどうなってもいい、自分の仲間の利益に反する者は全部敵であり悪であり無条件で攻撃の対象にするというような、ネガティブな意味での集団主義を指していると思われます。
じゃあ、その次に何が来るのかと言えば、世界中心主義とでも言いましょうか。
自国の利益だけでなく、グローバルな視点で全体の利益のバランスを追求する視点になります。
って、言うと話がどんどん大きくなるので、今回は置きますが
少なくとも、自分や自分の属する集団のプライドを引きずっていては(からめとられていては、と言うべきでしょうか)そういう視点に進むことは難しい。
いや、別に世界の環境問題を考えるとかいうレベルに行かなくとも
身の周りのさまざまな人間関係に生じる問題を解決するのにも、冷静、客観的な視点には立てません。
以前アップしました記事「傷つけば正義?」にも通じる話です。
そう言えば昔どこかで書いたことがあったように思いますが(このブログではないですが)
ある作家が、好意的に面倒を見ていた新人作家に、後足で砂をかけられるような裏切り行為をされ、それを知った編集さんが
「あの人、どうしましょうか」
と尋ねた(含みの在る質問ですね)のに対し
「いや、あの新人さんは才能のある人だから、大事に育ててあげてください」
と答えたことがありました。
そういう反応は、己のプライドを握り締めて、感情的に反応している段階では難しい。
「オレの顔に泥をぬりやがって」とか「恩をあだで返しやがって」から、すぐに
「どうしてくれようか」「どう思い知らせてくれようか」
になってしまいます。
このテーマは実に多くの問題を含むもので、どう書けば多くの方に多少なりとも共感していただけるかと思いあぐねて、以前から書こうとして果たせませんでした。
実はこの記事も、一ヶ月も前から書きかけて思案し、アップしかねていたものです。
結局、完璧を期していては永久にアップできないと踏んで、このたび見切り発車いたしました(笑)。
今後もちょこちょこ補足記事を追加したいと思います。
冒頭にかかげました「誇りは徳ではありません」の言葉
言い換えて
「誇りを超えて」
と言うのもいいかなと思うものです♪
ではではまた。
その人が好きでやっていたゲーム。なんというタイトルだったか忘れました。
色々な「徳」を集めて世界を回るシナリオだったか、ある街に行くと
「あなたは『誇り』がありますか」
と問われ
「はい」
と答えると
「誇りは徳ではありません」
と言われる。
なかなか至言だと思ったものですが、それから十年以上いやもしかして二十年近く?も生きてきて
そのセリフの意味するところに、しみじみ笑みがこぼれます。
今回も、少々長い話になります。
お暇な方はお読みください。
いきなり結論から申しますが
「誇り」や「プライド」を抱きしめている人とは、真実を語り合うことは難しいです。
なんでも心置きなくハラを割って語り合えるのは、己のプライドを捨てた人だけです。
これは、ともすると誤解を招く表現で、いささか解説が必要なのですが
よく卑劣な犯罪者や、無責任きわまりない人物に対して言われる
「あなたに人間としての誇りはないのか」「プライドはないのか」
という段階の、誇りやプライドの有無を言っているのではありません。
そういう段階は通り過ぎた、つまり他者への思いやりや責任感はわきまえた人が、次に進む段階の話です。
トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーが用いる分類に、「前個」「超個」というのがあります。
とりわけ形而上的な問題を語る場合、この問題は避けて通れないことだと私も思うのですが、
たとえば荒っぽい例で言いますと、
幼児や反社会的な人格の人間が、自分のものも人のものも区別がつかず、平気で人の品物に手を出す、というのと
分別は十分にわきまえた人格者が、自他の区別をつけず、人の苦しみも自分の苦しみと同様に考えて、困っている人に自分の財産を見返りを求めず分け与える、ということは
言うまでも無くまったく別のことなわけですが
自他の区別が無い、という一点にのみフォーカスして、これをいっしょくたに狂気や愚かさとしてしまう論法が、世の中にはよくあります。
「ミソもクソもいっしょ」というやつですが
人は他人を非難攻撃する際、よくこの混同をする、と言うか、意図的に相手を低いレベルに「分別」してあざ笑ったり侮辱したりします。
ウィルバーの言い方で言うなら
自分のものと人のもの区別がつかないで犯罪的行為に及ぶ人はきちんとした「個」を確立する以前の「前個」段階であり
分別をわきまえた上で慈悲の心から自他の区別無く尽くす人は「個」を超えた「超個」の段階にあるわけです。
その間に無論、その過渡期に当たる「個」の段階もあるわけです。
私は特にウィルバーのファンというわけではなく、と言うより、彼の学説すべてに共感するわけではないのですが、彼のこの視点は、多くの問題を語るに有益なものだと思っています(彼の「前」「超」の区別にもいささか異論もあるのですが、今回は置きます)。
今回、触れた「誇り」「プライド」も、同様に私は思っています。
一般に「プライドがない」というのはネガティブな意味で使われることが多く、人として最低限の気構えが無いとか、覇気が無い、ヘタレなどと同じ意味で、使われることが多いように思うのですが
確かにそういう人もいますが、似て非なる人もいる。
ポジティブな意味で、もはや己のプライドなどというものは捨て去った人。
「なにがあろうと、自分は人間としてのプライドは捨てたくない」
というと、逆境にあっても己を見失わない立派な人の決意表明として見られることがありますが、それはある視点ではその通りですが、もう一つ上の視点に立てば、無用なものとも思われるのです。
人は自分を律するのに、いつまでも誇りやプライドに依存する必要はありません。
自分のメンツや自分の属する集団のメンツなどとは無関係に、ただ自然体でなすべきことをなす、もっともベストと思われることにベストを尽くす。
そういう境地もありますし、またそれさえも、自己の進化向上の段階の一つに過ぎないのかもしれません。
人として、まっとうな自我の確立もできない(最低限の誇りもプライドもない)段階にあることが、人格の成長の一段階に過ぎないように
そして、そういう段階を脱して、いわゆる「人としての誇り」「矜持」を持って、己を律して生きる(道を踏み外しそうになると、その誇り、プライドを手がかりに踏みとどまる)ようになった状態も、また、人が歩む成長の一段階にすぎないし
一つの通過点に過ぎないのではないかと思うものです。
プライドにすがっているということは、まだ「オレが」や「オレたちが(家族、集団、国家など)」という、偏狭なエゴがある証拠であって、言うなれば「我欲」なわけです。
オレのプライド、などというものを握り締めている限り(って、、これは机上の空論ではなく、己の人生を振り返って、実体験として思うのですが)人は、冷静にものを見たり判断したりすることが難しい。
その人のプライドが傷つかない問題では、知的であったり思いやり深かったりできるのですが、こと問題がプライドに関わると、とたんに反射的に心と思考が防衛体勢をとり、それはすぐに他者への(ぶっちゃけ、自分のプライドを傷つけた相手への)攻撃行動に移ることになります。
わかりやすい例としては、偏狭な民族主義に凝り固まっている国の人々と、二つの国にまたがる領土問題について、冷静な対話が成立しないというものがあります(おそらく、この記事をお読みの方も、ニュースなどでイヤと言うほど眼にしてこられたと思います)。
民族の誇りを汚された→悪→敵→攻撃、そして自分たちは正義で善である→なんの反省も再点検の必要も無い、という、ほとんど自動装置のような閉じた反応に陥って、そこから抜け出ることができません。
これは、国家間の対立というような大きな問題から、日常のささいな人間関係まで、多くの無意識的な人々を支配しているルールです。
「集団中心主義、自民族中心主義」というやつで、そういう意味でおそらく世界の7割がたの人間は、それかそれ以下の発達段階にあり、ある意味ナチスと変わらないとウィルバーは言います。
これまた誤解のないように補足しておきますが、これは自分が生まれ、自分を育んでくれた共同体や国家、人々、国土への感謝の念(ポジティブな意味での愛国心とでも申しましょうか)を否定しているのではなく、オレの仲間さえよければ他の集団はどうなってもいい、他の国も民族もどうなってもいい、自分の仲間の利益に反する者は全部敵であり悪であり無条件で攻撃の対象にするというような、ネガティブな意味での集団主義を指していると思われます。
じゃあ、その次に何が来るのかと言えば、世界中心主義とでも言いましょうか。
自国の利益だけでなく、グローバルな視点で全体の利益のバランスを追求する視点になります。
って、言うと話がどんどん大きくなるので、今回は置きますが
少なくとも、自分や自分の属する集団のプライドを引きずっていては(からめとられていては、と言うべきでしょうか)そういう視点に進むことは難しい。
いや、別に世界の環境問題を考えるとかいうレベルに行かなくとも
身の周りのさまざまな人間関係に生じる問題を解決するのにも、冷静、客観的な視点には立てません。
以前アップしました記事「傷つけば正義?」にも通じる話です。
そう言えば昔どこかで書いたことがあったように思いますが(このブログではないですが)
ある作家が、好意的に面倒を見ていた新人作家に、後足で砂をかけられるような裏切り行為をされ、それを知った編集さんが
「あの人、どうしましょうか」
と尋ねた(含みの在る質問ですね)のに対し
「いや、あの新人さんは才能のある人だから、大事に育ててあげてください」
と答えたことがありました。
そういう反応は、己のプライドを握り締めて、感情的に反応している段階では難しい。
「オレの顔に泥をぬりやがって」とか「恩をあだで返しやがって」から、すぐに
「どうしてくれようか」「どう思い知らせてくれようか」
になってしまいます。
このテーマは実に多くの問題を含むもので、どう書けば多くの方に多少なりとも共感していただけるかと思いあぐねて、以前から書こうとして果たせませんでした。
実はこの記事も、一ヶ月も前から書きかけて思案し、アップしかねていたものです。
結局、完璧を期していては永久にアップできないと踏んで、このたび見切り発車いたしました(笑)。
今後もちょこちょこ補足記事を追加したいと思います。
冒頭にかかげました「誇りは徳ではありません」の言葉
言い換えて
「誇りを超えて」
と言うのもいいかなと思うものです♪
ではではまた。
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