あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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シナリオを押し付けない
 先日アップしました「人への苦言」についての補足ですが
 私は自分なりの言葉として
 「シナリオを押し付けない」
 ことだと思っています。
 
 シナリオというのは、文字通り「シナリオ」、映画やドラマの「脚本」の意味です。

 人間は自分や他人、時には世界に対して、自分勝手なシナリオを思い描いて、そのとおり「演じさせよう」とすることがよくあります。
 んで
 だいたいがトラブルやストレスの元になります。

 先日もバイクで走っていて、交差点ぎりぎり手前で赤信号に変わって「ちぇ」とか思ったんですが
 「お、いかんいかん、また世界にシナリオを押し付けてるぞ」
 と(笑

 世の中には苦言を呈するのが仕事(教師とか親とか)の方もいらっしゃいますから、そういう方はしかたないですが(苦言を呈しないとむしろ無責任)
 それにしても、人が変わったり受け入れるべきタイミングをある程度見抜く目がないと、全然そういう状態にない相手に
 「今変われ」
 「今改めろ」
 「今成長しろ」
 と、自分の思いつきや勝手な都合で作り上げた「シナリオ」を、そのとおり「演じろ」と無理強いしている場合があります。

 人間、他人が思い描いたシナリオを押し付けられてうれしい人はいません。
 シナリオには、ドラマがスタートしてすぐに主人公が事件に巻き込まれる、とか、ここで恋に落ちる、とか、誤解だったことに気がつく、とか、もっと細かくは、ここでふり返る、ここで笑うとか書いてあります。
 それを他人から押し付けられて
 今ここで笑え、ここで改心しろとか指図されるのは、迷惑以外の何物でもありません。

 そもそも大半の人間は、自分の感情一つコントロールできない(めちゃめちゃハラがたったら、しばらく待たないと冷静になれない、など)もので、自分の心さえ操れない人間が、人の心を思いどおりにしようというのは、念力で机を動かそうとかいうのと同じで、無駄な努力、妄想と言ってもいいものだと思います。

 人生、ある程度の見通しを立てて動くのは当然ですが、そのシナリオを、誰にも強要しない。
 予定はあくまで予定であって、実際のその場にならないと、何が当てはまって当てはまらないかはわかりませんから、状況が変わればどんどんシナリオも変更していく。
 他人には無論のこと、自分にさえも強要しない(予定通りの成果が上がらなかったからと言って、自己否定してどつぼに落ち込んだりしない。次はもっとうまくやればいい。改めるべき点を改めればいいだけ)。

 苦言を呈することに限らず
 たとえ心の中だけのことであっても 
 自分に対して、他人に対して、世界に対して、
 自分の思い描いた勝手なシナリオを強制しないこと
 が、気持ちよく暮らす一つのコツではないかと♪

 自分に他人に世界に対して、イラっとかムカっとかしたとき
 また自分は自分のシナリオを誰か(何か)に無理やり演じさせようとしてないかな?と一歩下がって見直すと
 私はけっこう冷静になれます。
 またオレ「念力」のけいこしてないか?と(笑)
 いや、本当は、念力のけいこでさえない、ただのダダなんですよね。
 無論あくまで原則論であって、そんなこと言ってられない緊急事態(子供の好きにさせたら車に轢かれるとか)は別ですけども(笑

 ではではまた♪
 
二人のジョン
 先日の日記にいただきましたコメントで、組織内の人間関係の話題に言及されたお客様がいらして
 ふと思い出したのですが

 私と同年輩の中年以上~老年世代にはおなじみですが(若い方には、生まれる前の人たちなので「誰そいつ?」な話でしょうけど)
 世界的な名監督ジョン・フォードと、やはり世界的大スター、ジョン・ウェイン(いずれも故人)の話(だったと思います。記憶違いでなければですが)。

 大スターのジョン・ウェインがまだ無名だったころ
 フォード監督が彼を主演に使うことになり、まわりの俳優やスタッフが、不信や嫉妬色々で「なんだこの若造?」みたいだったのを見て
 監督は若きウェインを、わざといじめてひどい扱いを続け
 ほかの俳優やスタッフが、「監督なにもああまでしなくてもいいじゃないか」と、だんだんウェインに同情するようになり、みんなの心が通じ合うようになったのを見計らって「いじめ」(正確には「いじめ」の「演技」と言うべきか)をやめたという話があります。
 巨匠ジョン・フォードらしい逸話ですが

 そんな深謀遠慮なんかカケラもない、ただの陰湿なパワハラが多発する昨今では、もはや一つの「神話」のようなエピソードかもしれません。
 そういう上司に出会えた人は、たぐいまれな幸運な人なのでしょう(でも上司の意図が理解できなくて、途中でキレてやめちゃったりすると、ただの悲しい思い出になっちゃいますけど)。

追記
 ちなみに、このエピソード、今から70年近く昔の話ですから、ストレートに現代に応用するのは難しいかもしれません。ある意味、人がもっとタフだった時代の話と言いますか・・・;
 でも根底に流れる心配りは、形を変えて残していけたらと思うものです。
間違い水
 酒は「○チガイ水」などと申しますが
 ビールの小瓶半分で真っ赤になる超下戸の私は、原則ふだん飲むことはない(まれにスパゲティとワインちょこっととかくらい)んですが
 例外的に薬酒は時々飲みます。中国の漢方の十全大補酒ってやつですが。

 昨夜も夜通し仕事してて、朝方もう一ふんばりというところで
 ついうっかり飲んじゃいまして(つってもショットグラス半分くらいですよ)

 ふっと気がつくと
 あれ?いつこんなレイヤー合体させたっけ?
 やべー!戻れないくらい前で分離できないよ。
 ああ、こっちをこうしてあっちをこうして
 わっかんなあああああいいっ!!

 コンピュータでフォトショップCG作業中だったんですが

 眠いよ酔ってるよオレー!!;

 このお酒、元気なときは目が冴えて眠れなくなるんですが
 疲れてるとどっと眠くなります。
 しくじった。徹夜明けで疲れてるのに飲んじゃったら仕事になんないよ。
 早々に撤収、寝ました。
 きょうはこれから修正です。
 つっても20~30分ですみますが。
 寝る前に修正したら、たぶんもっとミスがこんがらがったかと。

 薬酒といえども酒はマチガイ水。
 飲むタイミングは気をつけないといかんですにゃー。
4本足のバッタ(少しグロ?;
黒バッタ1
黒バッタ2
夕焼け200807
 先日、あるお店で順番待ちしてたら、真っ黒なバッタが窓にとまってまして
 植物豊富な自然でなく、コンクリだらけの所に適応したボディカラーか、それにても珍しいなと写真撮ったんですが
 
 さっきPCに入れて見直したら、あれ?

 こいつ足が、4本しかない!

 まるで人間みたい、と言うかアヌンガの怪人かよ!
 いえいえ、よく見ると後足が根元からないんですね。
 喧嘩か捕食者に襲われて失ったんでしょうか。
 しかし、こう左右きれいにないのも珍しい?ような気がします。
 けっこう暮らすにはハンデだと思うんですが。がんばってください;


 きょうはお世話になってるケータイ漫画配信のBbmf社の担当さんお二人(旧作配信担当のKさんと描き下ろし配信担当のTさん)と打ち合わせしてきました。出かけようとしたら、またまた猫のしろさんがごはんくれなでれ攻撃をかけてきて数分待ち合わせに遅れました(笑
 申し訳ない;

 オマケ画像は先日撮った夕暮れです。
 ではでは~~♪
しろさん・その後2
 しろさん2008年7月25日
 通い猫(となってしまいました)しろさん、がですねえ
 しろさん、がですねえ

 もお完全に壊れて、いや手のひら返して
 出会ったころのクールなハードボイルドおやじ猫はどこへやら

 私とつまにべったべた。

 先日の日記で「ちゃ~~!」(実際は「にゃ~~!」)と叫んでエサをねだりに来る話書きましたが

 あれからもっとエスカレートしまして
 最近は完全に「きゃ~~」です。
 私は日々引きこもって執筆三昧ですんで、もっぱら遭遇するのはつまなんですが
 まるでテレポートでもしたかのようにどこからともなく沸いて出て
「きゃ~~、奥さんきゃ~~~」
 状態。
 私は先日つけた呼び名「たむ猫」改め、「山本つまファンクラブ会長」あるいはその神出鬼没ぶりに「ニャンパー」と呼んでますが、もしかしたらスフィンクスの頭の上とかでエサねだってるかもしれません。「きゃ~~~」

「ごはんごはんくださいよ奥さんきゃ~きゃ~~きゃ~~」

 つまは「キモカワおやじ猫」と呼んでますが
 もお尻尾ふりふりして体をこすりこすりして顔さえ見ればおねだり。

 仕方ないなあって、25グラムずつ小分けにした猫ビッケをあげるんですが
 一昨日は二回来ました。
 
 昨日は5回来ました。って来すぎだろおしろさあああんっ!!

 このまま甘い顔してたらキリがありません。
 つけ上がるにもほどがあります。
 昨日は半分食べ残したエサのそばで「なでれ」と言うのでつまがなでたら食べ始めたとか。
 愛情飢えてるのかしろさん。

 そのうち私にもやりそうです。
「おじさんなでてなでて御飯くださいきゃ~~きゃ~~きゃ~~」

 
 まあ

 猫が馴れるというのは
 人間の奴隷登録が完了したという意味ですから(あくまで主人は自分ですから連中)
 まあ喜んでなりますよ奴隷に。
 もっともこの奴隷
 命令を受けても自分の都合で王様追い返したりしますけどね。
 さあて、恩義のあるつまはなかな断れないようなので、私が心を鬼にしてそのうちお食事要求を拒否しなければならんかもですが
 あの「きゃ~~」にどこまで通用するか
 この続きはCMのあとで♪

追記
 CMはありませんが
 きょうは暑かったせいか昼間はいませんでしたが、夕方つまが買い物に出ようとしたら来ました。
 私が写真撮ってエサと水あげてなでなでしました。
 画像はそのとき写したものです♪
友人の愛猫Lちゃん
Lちゃん
 アヌンガ10話執筆が忙しくて新しい記事を書く余裕がありません;
 代わりに友人の愛猫Lちゃんをアップします。
 乙女です♪
 ではでは~~。
人への苦言は・・・
 先日の日記でちょっと触れましたが、友人から、人への苦言の呈し方について訊かれたこと。

 私はそれで(人への苦言、忠告)で、人生ずいぶんトラブりました。
 (って今回ちょっと長いです。すみません。お暇で余力のある方、ご覧ください:)

 だいたい苦言や忠告というのは耳に痛いもので、素直に気持ちよく聞いてくれる人というのはなかなかいません。
 怒って言い返す、反撃する。正当な反論と言うより、自分のプライドが傷ついた自己防衛のための反射的な行動だったりします。
 そうなると冷静な話はできません。
 是非善悪などどうでもよく、自分のエゴを守るためにあらゆることをします。
 先日アップしました「傷つけば正義?」みたいな論理が大手を振ってまかりとおります。

 ちゃんと聞いてくれるのは、ある程度「人間ができた」冷静な人だけです。
 それでも、何か心のすみにしこりが残ったり、納得いかないことが少なくありません。

 私は若いころ長いこと「人は本当のことはなんであろうと受け入れるべきである」という信念の持ち主だったもので(笑)、それが受け入れられないというのは本人の責任だと思っていました(自分が誰かから何か指摘を受けた場合もそうです)。
 でも人間は感情の生き物です。
 いついかなる場合でも真実と向かい合うハラをくくってる人というのは限られますし、時と場合、タイミングもあります。

 過去のトラウマを探る精神分析なども、本人の同意なくなされれば、それは一種の「虐待」であるとも言います。
 一部の犯罪者のように、はっきりと他者に害をなすため、矯正せざるを得ないような場合は別として
 一般の人づき合いで、気安く踏み込むことではありません。

 問題点の指摘は早い方がいいという見方もありますが
 たとえば、誰かがお腹に病気があるからと言って、シロウトが勝手にお腹を切り開き
「ほら、ここに病気があるだろう、早く治した方がいいよ」
 と言ったらどうなるか。
「ご指摘ありがとう、で、治してくれるんですか、あなた」
「それは自分が考えることだろう」
 おーい、せめて開けたお腹縫って行けよー。
 それではただの「暴行傷害」です。

 センセーショナリズム優先のテレビや雑誌、ネットのおしゃべりに至るまで、その種の無責任なコメントが世の中にはあふれていて、
 社会の問題点を暴くとかいうタテマエをふりかざして、ひたすら人を不安にしたり暗い気分にしたり、自己嫌悪に陥らせるだけで、なんの救済策もなく言いっぱなし書きっぱなし。
 それではなんの解決にもなりません。

 「人の目の中のチリを払わせてくれと言う前に、自分の目の中の丸太をどけなさい」
 と言ったのはイエスですが
 確か仏教にも、その種の教え(僧侶同士のルールだったか)があったように思います。
 「人から聞かれてもいないことを、自分からセッキョしない」
 みたいな。

 人間の体には無意識不随意の護身反射というやつがあって、ここの筋が縮んでいるから伸ばしてやろうなどと無理やり外から強い力を加えると、体は身を守ろうとしてかえって前よりそこを萎縮させてしまったりします(だから整体とかはうまい先生にかからないと、かえって体を壊すわけです)。
 心も同じで
 縮こまってる部分を伸ばしてやろうと、他人がドカンと外力を加えると、前よりかたくなになったりする。
 人間体も心も、基本的には本人が自発的に治す、改良するという姿勢が肝心で
 緊急事態で外科的処置を施さないと命が危ないような場合を除いて、他人が介入するのはよくよく考えないと危険だと思います。

 しかし、それより何より、自分が人に対して下した「診断」自体、どれほど正しいんだかわかったもんじゃなくて、ときには、えらい誤解や勘違いをしてたりします。
 自分の判断は絶対正しいとか真実を把握しているとか思い込むのは、自分は神であるとか預言者であるとか言うようなもんで、たいていは一種の誇大妄想。そういう「神様ごっこ」や「預言者ごっこ」にいそしんでいるケースが世間にはいっぱいあって、あちこちでトラブルを引き起こします。


 というわけで、私は近年、よほどのことがない限り、人様の目の中のチリは払いに行かないことにしていますし、払う場合もいきなり決め付けるのではなく、質問から入る。
 私の目から見るとあなたのこの言動は、別のところであなたのなさった言動と矛盾するように私には見えますが、それはなぜでしょうか。私の勘違いかもしれませんが、お差し支えなければお教えください、みたいな。
 で、自分の勘違いがわかればお詫びして終了するし、疑問点矛盾点がまだあるようなら、続けて尋ねる。
 矛盾点が連続して現れて、納得できるポイントが見出せない場合、お互いの価値観が異なるか、相手の知識知力に偏りや欠落があるか、自分にあるかなので、それ以上対話を続けても今は成果があがらない(むしろ逆効果でさえある)と判断して、そこで話を終了させます。
 その際、無用の捨てゼリフとか皮肉、嫌味など口にしないことがポイントです。
 
 人間日々変わるものですし、将来お互いどう接点が見つかるかわかりません。
 その時、また気持ちよく対話が再開できるような関係を保つことを心がけます(いつも成功するとは限りませんけど)。


 忠告や苦言は、うまい人はうまいもので
 あの人から言われるとなぜかハラが立たない、素直に聞ける、みたいな人いますよね。

 私が高校生のころ、宇野先生という初老の漢文の先生がいまして
 いつも穏やかで、講義に出てくる中国の老賢人とは意外とこんな雰囲気だったかもと思わせる不思議な雰囲気のある方でした。
 ある日、私の友人が授業をさぼって部室で遊んでいたら、その宇野先生が探しにきて
 どなったり叱りつけるでもなく、いつものとおりの穏やかさで
「○○(友人の名前)、そんなことじゃいかんじゃないか」
 と目に涙を浮かべ言葉少なに諭されて、友人は大層胸にこたえたことがあったそうです。
 教師によってはウザかったりムカつく説教に感じる場合もある(むしろそっちのケースが多いかも)ですが、その先生はそういう不思議な徳と説得力のある方でした。
 卒業して何年もしてから、その話を友人から聞いたとき、私は宇野先生の声と風貌を思い出し、自分もその場で諭されているような気さえして、少々涙ぐんでしまったものでした。

 そういう方は、教師と言う立場に限らず、気にせずいろんな方にアドバイスされるのもいいと思います。
 私はどうもそういう徳がない。
 相手の問題点に鋭く切り込んでも、ディベートや論争ならいざしらず(そういうものにはもう興味ないです)、忠告するには適さない。
 そういう人間は黙ってた方がいいなと。

 このブログで記事を書くのは、自分の庭や店先に品物を並べて独りごと言ってるようなもので、共感できない方は無視されればいいだけですが、
 これがどなたかのブログやBBSに乱入して、延々と問題点を指摘したりし始めると、どうもうまくありません。


 あと、人にせよその他の生き物、植物にせよ、変化が起こるにふさわしいタイミングがあります。
 伸びる時期でもないのに、水をやったからさあ伸びろと勝手な都合で引っ張れば草は枯れます。
 その絶好のタイミングを見抜いてアドバイスできる人は、かなり限られることでしょう。
 ずいぶん前になりますが、NHKの番組で、里親に育てられている少女(5~6歳くらいでしょうか?)が幼いころ実の親から与えられなかった愛情の補償行為でしょうか、もうそんな歳でもないのに哺乳瓶を手放さなくて、でも里親さんは暖かく見守って愛していて、やがて少女が自分から納得して、
「もうこれはいらない」
 と哺乳瓶を棚にしまう。
 見ていて泣けるシーンでした。

 人には、色々なことに気づくにふさわしい時期というのがあります。
 自分も人生で、ささいな問題点に気づくのに、長い年月を費やしてきました。これからも費やすことでしょう。
 登ってきたハシゴの途中の段を抜かして、上の段だけ認めるのは不可能なことです。
 人間は、ある意味過ちを犯す(犯して気づく)ために生まれてきたような生き物で、過ち自体を否定するのは生きるなと言うのと同じです。

 昔、中国の荘子が「無用の用」という話をしてました(有名な話なのでご存知の方も少なくないと存じます)。
 人間が立っている地面を、足を置いているところだけ残して(歩くために足を置く場所だけ残して、と言ってもいいでしょう)、あと全部奈落の底まで掘り下げたら、その地面は地面として役に立つのか。立たないでしょうと。
 ということは、一件なんの役にも立たない無用のように見えるものにも、それぞれ意味があるのだと。

 人の成功だけを肯定して失敗を否定するのは、この地面を掘り下げるのと同じことだと思います。他人のことだけではなく、自分に対しても、人はよくこういう愚を犯して、自己嫌悪したり自己否定に陥って思い悩みます。人生の無駄です、と言いたいところですが、その不合理さに気づくための、とても貴重な体験です♪

 さまざまなことに気づくための体験が積み重ねられるまで、私に生きることを許してくれた世界を、私も同じように許しあるがままに行かせてあげたいと思います(本当は許す許さないという意識自体放棄していきたいと思っているのですが、それはまた別の機会に語ります)。
 だから、もし誰かに忠告したり苦言を呈したりすることで(また、されることで)、人間関係でお悩みの方がいらっしゃいましたら、
 どうかご自身も相手の方も、裁かずOKと思ってさしあげてください(と私は思います)♪

 人はそれぞれの時間と場所で、それぞれの発達段階に応じて、ふさわしいことをしています。
 その道は一本道ではなく、ある面ではすごく優れている人が、別の面ではひどく幼かったりします。
 気づきや成功は、いくつもの失敗、つまづきの上にあるもので、すべては意味ある体験だと思います。すべてはかけがえのない神聖な時です。
 その人がどこで失敗や道をはずれてさまよい、どこで気づくかは、誰にもわかりません。
 クリスチャンの方なら、その方と主との(いや、イエスとの、と言うべきでしょうか)間で決めることであり、仏教徒なら御仏との間で、唯物主義の方なら、世界を世界たらしめている(花を育て、生き物を育て、天体を運行せしめている)宇宙の原理法則が、決めることだと思います(不確定性の部分があるので厳密に一点を示すことはないですが)。少なくとも私が決めることではありません。

 誰かに忠告してもしなくても、受け入れなくても受け入れても、それぞれに意味があり
 「忠告によって相手を変えること」に失敗することはあっても、人生においての失敗はないと私は思います(たとえ死んでもです。私は人生の「オチ」には重きを置いていません。問題なのは「プロセス」であって、「オチ」だけで判断するならみんな最後は「死ぬ」だけです)。
 自分や人の成功や気づきが尊いものであるのと同じように
 その失敗や過ちも尊いもので
 私はそれに対して、その人とそのかけがえのない神聖な時に、敬意をはらいたいと思います。

 人が誰かの言葉に学ばなければ、代わって人生が教えてくれます。
 人生で学べなかったことを、言葉で教えてくれる人もいます。
 いや、百万言より雄弁な一滴の涙、一瞬の笑顔もあります。
 人は取りたいときに取りたいものを取る。好みの教師を選ぶだけで、人生ではすべての人、存在が教師であり生徒でもあると思います。

 きょうが豊かでありますように。いや、豊かであるきょうに気づけますように。
 長々失礼いたしました。


追記
 補足記事として
シナリオを押し付けない
 をアップしました。
しろさん・その後
 以前、野良猫(というか、どうも半野良らしい)しろさんとの交流をアップしましたが

 しろさんのその後。

 おやじ猫しろさんの厚意に恩義を感じ、つまが、あまりものをたまにあげてたりしたんですが(「○曜日の晩にあまりもの出るよ」とつまが言ったら、その晩あまりものをコンポスターに入れるため外に出たら、ちゃんと来て待ってたそうです)
 そしたらなんだか、なじんじゃいまして

 あのむすっとしたハードボイルド猫、あいそもクソもない声で鳴いてたしろさんが
「にゃ~~♪」
 と猫なで声で鳴いて
「なんかくれよう」
 みたいになっちゃったそうで

 実は昨夜、私、用事があって夜中庭に出ると、おお!塀の上に腹ばいになって夕涼みするしろさんが!
「やあ、しろさん!」
 そう言えば今度しろさんが来たらあげようと、つまが買っておいた猫ビッケが玄関に置いてあったはず。
「ちょっと待ってしろさん、ね、ね」
 あわてて家の中に戻り、ビッケをもって出てくると塀から姿が消えている。
 逃げたか?
 と思うと、なんのことはない、塀から下りて待ってます。
「にゃ~~」
 と言うより、何せやさぐれおやじ猫ですから、おやじの媚び鳴き、ほとんどお笑い芸人たむけんの「ちゃ~~」に近い声で
 でも猫なんで「にゃ~~」にしか聞こえませんが
 ニュアンスはほとんど「ちゃ~~」で
 私の足元にすりよってきまして
 おお!ついに私もしろさんと接触したよお!(感激)

 庭のコンクリの地面にざらざらと小袋の猫ビッケを置くと、あとも見ないで食べ始めました。

 今朝見たら三個だけかけらが残っていて、アリさんが土嚢(砂粒)を周囲にはりめぐらしてました。


 ああ・・
 堕落したなしろさん。
 あれじゃまるで猫じゃないか(猫なんだよ!)

 いや、いいんですけど
 かわいいし

 これからわたしは「たむ猫」と呼ぶことにしよう

 また「ちゃ~」を聞くのが楽しみです。(「にゃ~」だけど)♪
『戦闘女神アヌンガ』執筆手順4/壁画
アヌンガ6話壁画シーン
アヌンガ6話壁画元絵
 『戦闘女神アヌンガ』9話完成しましたー♪

 さて、久しぶりに股、作画手順です。
 一番最近アップされてます6話の壁画シーン(画像一枚目)。
 元々は二枚目の画像、ざらっとした質感の紙(マルマンのパステル紙)にパステルや色鉛筆でざくざくっと描いてあります。
 いつもの紙に描いた手前の人物や岩の画像と、この壁画の絵をスキャンしてPCに取り込み
 フォトショップで重ねて、消しゴムツールで手前の岩を消して後ろの壁画がのぞくようにしたものです。
 割と省エネでそれなりの味が出てるように思うのですが;
傷つけば正義?
 先日「じょうずなはなしかた」の項を書きながら、思いうかべていたことだったのですが
 お客様からもそれに関するコメントをいただき(ありがとうございます)ここに一項追加することにしました。

 昨今の世の中の(もうここ十年以上、いやもっとでしょうか)私が共感できない流れの一つに
「被害者=正義」→「だからなんでも許される」
 という、めちゃくちゃな論理がまかり通っていることがあります。

 最初におことわりしておきますが、これは職場や学校で実際にいわれのないパワハラやいじめに逢っていたり、犯罪などで本当に被害に逢われた犠牲者の方のことではありません。そういう方を非難したり否定するものでは断じてありませんので誤解なさらないでください。
 もっと日常の細かな主観的な争いでのことです。

 「「心の傷」は言ったもん勝ち (新潮新書 270) (新書) 」
 というタイトルの、精神科医の方の書かれた本が最近ありましたが(まだ買ってませんが)まさにそれです。
 昔から「盗人たけだけしい」という言葉がありますが、私は
「被害者たけだけしい」
 と言うことにしております。

 自分は傷ついた=自分は被害者 ゆえに自分を傷つけたあいつは加害者で悪である。
 正義は我にあり。悪はこらしめねばならない。
 だから自分はあいつに何をしてもいい。

 こういう短絡的思考回路で展開されるさまざまなトラブルが、最近ちまたにあふれています。

 傷ついたことと客観的な善悪はなんの関係もなく、あくまで主観的な感情の問題に過ぎません。
 こういう論理がまかり通れば、コクってふられたストーカーも傷ついたから被害者という理屈になりますが、そんなことはありません。
 まず第一段階で論理が破綻しているんですが、次に
 自分は正義であるから「悪の加害者」に「私的制裁」を加えてもいいというのも破綻しています。
 それは大昔の西部劇に出てくる私刑(リンチ)と同じで、「あいつはうちの牛を盗んだからしばり首にしてやった」というのと変わりません。
 漫画やドラマとしてはおもしろい場合もありますが、実社会ではしゃれになりません。
 持ってもいない大量破壊兵器を口実にどこかの国に爆弾の雨を降らせるのも、あいつが犯人に違いないと裁判官でも刑の執行人でもない一般市民が「判決」を下し、石を投げるのも、そういう力技に訴える能力のない人間が、ことばや態度でイヤ~な気持ちがするよう圧力をかけるのも、私はその無法さにおいて本質的に同じことだと思っています。
 強いものが弱いものを踏みにじろうと、弱いものが強いものをふみにじろうと(それはもはや弱さを逆手にとった強者ですが)無法に変わりありません。

 そもそも、相手がどんな意図の元にどういう言動をとったか、自分の聞き違い思い違いも含めて、軽々しく是非善悪など決められません。一つの判決に何年何十年とかける現実の裁判制度にも問題がありますが、もっと身近な問題でも、どちらが正しくてどちらが間違っているかなど、簡単には決められないと私は思います。

 この問題をつきつめると「ゆるす」とは何かという、大変ディープな問題に行き着きますので、それはまた別の機会に書きますが

 そもそも、一方的な被害者感情で、自己を正当化絶対化して、短絡的な「欠席裁判」で他人に「判決」を下し、「刑の執行」まで行うというのは、一種の病、狂気の沙汰だと私は思います。

 人間の判断などいい加減なもので、極端な例としては、あの松本○リン事件で、被害者であったにも関わらず犯人扱いされ、警察とマスメディアの偏向報道に踊らされた短慮な人々から、、電話その他を通じて様々ないやがらせを加えられた某氏の一件など、その種の愚かさの招いた典型的悲劇だと思います(いやがらせをした人々の何割かは事件の当事者ではなく、つまり「被害者」でさえなかった、ただの野次馬だと思われますが)。
 当時は今のようにネットは普及していませんでしたが、していれば、各所でいわゆる「まつり」が発生し、叩きと嫌がらせがもっと大量に発生していたことは、まず間違いないと思われます。


 人間はそういう生き物なのだという人もいますが、
 これは万引きその他の犯罪と同じで、一生しない人はしませんし、する人はする。
 人間と言う枠でひとくくりにはできません。

 
 私もこれまでの人生で、過度な被害者意識の持ち主から責められた経験が何度かあります。
 若いころは、こちらも感情的になって、一種の泥沼状態に陥ったこともありますが
 これまでの人生を振り返って、冷静に分析しなおして思うのは
 そういう「私は傷ついた!」と怒って、こちらにヒステリックで攻撃的な態度を示す人は、フェアではないことが多いということです(たまたま私の遭遇したケースがそうだっただけかもしれませんが)
 そういうタイプの人物は、自分が他者を傷つけることにはけっこう鈍感です。
 こちらの人格やプライドを全否定するような言動をとっても、自分の言動はノリや冗談でスルーしておいて
 自分だけは、もっと些細な言動でも「傷ついた」と怒りだし、こちらを糾弾するのです。
 その「小人(しょうじん)ぶり」、客観性、公平性、感情コントロール能力などの欠落ぶりには、正直うんざりさせられたもので
 中にはそれで絶交されたケースもありますが、今となってはお互いのためにもそれで良かったのではとさえ思うものです。

 だからと言って私が人生で常にイノセントだったなどと言うつもりは無論なく
 昔はよく回る舌と過激なツッコミで傷つけた相手もいっぱいいますから、そうした人々には申し訳なく思っています。今でもたぶん知らない間に傷つけている相手がいるのでしょうが、無論私の本意ではないです;

 で、話は元に戻りますが


 人は自由にできるのは自分だけです。
 他人を自由にする資格はないしそんな力もありません。
 変えられるのは自分だけです。
 と言うわけで、私は自分の人生で、人から受けた勘弁してほしいとことの諸々は、すべてわが身に当てはめることにしています。
 同じことは他人にしない。

 物理的な犯罪行為の被害のような、明白な例は別として
 日常的な人間関係の問題で、軽々しく「被害者づら」はしない。
 迷惑している問題があれば穏やかに対話して解決を図る。
 一方的に相手を悪者扱いしない。責めない。
 解決すべきはあくまでお互いの間に発生した問題点であって、相手を不愉快にしたり傷つけかえすことではない。
 たとえ相手に非があると明白になっても、報復的言動は一切行わない(非難がましい表情や、皮肉、あてこすり、捨てぜりふなどすべて)。

 私は自分がされて不愉快だったことを他人にしない、ということでしか
 この問題には取り組むすべを知りません。

 無論誰かに迷惑をかけられるがままになる気はさらさらなく、言葉で言っても解決を見なければ、警察など法的な手段に訴えるしかありません。
 しかしそれも、冷静に道をはずれない方法でのことであり、売り言葉に買い言葉や、相手の挑発に乗るようなマネは、あとあと自分の首を絞めることになるので避けるようにします。

 実は思い出深い体験があるのですが
 昔、私が辛らつな忠告をして絶交された友人がありました。
 された当時はショックを受けて「オレが一方的に加害者かよ!」と憤慨したりもしたものですが、後に冷静になって見直すと、自分の至らない点にも気づき、まあそれならそれで仕方がないなと諦めたのでした。
 その友人と後日、何年ぶりかに会話する機会があって
 私はかつての苦言の呈し方の不手際(言うなれば、問題点の指摘を急ぐあまり、ことばに愛が欠けていたこと)を詫びたのですが
 それに対して友人が
「ごめんねー弱くて」
 と言っていたのが、大変印象に残っています。
 別れてから何年かの間に、友人は友人なりに色々思うところがあったのでしょう。
 弱いから私の忠告を受け切れなかったということなのか。
 時間も無く真意を問いただす間もなく別れてしまいましたが
 忘れられない思い出の一つです。

 ちなみに
 最近ある若い友人から、友達への苦言や忠告の呈し方について聞かれまして
 そのことに関して一項設けたかったのですが
 それはまた近いうちにアップいたします♪ではでは


追記 
 どなりつけたり、なぐらないとわからないヤツがいるじゃないか、という声もあるでしょうが
 私の商売は幸い、ほとんど人と関わらずに暮らせるもので、あまりそういう状況には陥りませんし
 そもそも、なぐったり怒鳴りつけたりしないと話がわからないような発達段階の人間とはお付き合いしないことにしています。(そうもいかない状況の方もおいでなことは、よくわかります。良い解決の道が見出せることを祈っております)。


追記2
 ちっちゃな体験ですが
 十年くらい(もっとでしょうか)昔、バイクに乗っていて交差点の信号待ちで軽トラに追突されたことがあります。
 バイクは破損し私は軽いムチウチになりました。
 軽トラには農家の老夫婦が乗っていて、赤信号で停止した私に非はなく、突っ込んできたあちらの過ちだったんですが
 ハンドルを握っていたのは、これで免許がなくなったら明日から暮らしていけないというおじいさんでした(みんなそういう言い訳するんだという声もあるでしょうけど)。

 後日私が警察で調書を取られたとき、おまわりさんが
「厳しく罰して欲しいですね?」
 とたたみかけるように聞いてきました(漫画なんかである「目がギラリ!」って感じです)。
 で私はどう答えたかと言うと
「自分は田舎に、あのおじいさんと同じくらいの年老いた父がおります。私はあの人を憎いとか責めたいとかいう思いは浮かびません。私は商売柄、常に明日をも知れない暮らしを送ってきました。あす仕事がなくなるということがどんなに大変なことか骨身に染みてわかっております。
 私はあの方を厳しく罰して欲しいとは思いません。
 法には法のルールがあるでしょうから、それに変更は加えられないでしょうが
 壊れたバイクの修理代と治療費さえ出していただけるのであれば、どうか穏便なご処置をお願いいたします」

 結局そのおじいさんにどういう処置がされたのかは知りません。
 でも私は正直に思うところを言いました。
 修理代も治療費もちゃんと出していただきました。
 二度と事故を起こすことなく、幸せに暮らして欲しいと思ったものです。
耐刃Tシャツ
 最近あまりに悲惨な刃傷事件が多いので、前からアップしようと思ってたアイテムをリンクです。
 耐刃Tシャツ
 護身用品なんかのお店なんですが
 昔からある防刃チョッキと違って、ごつくないんで一般の人でも着用しやすいです。
 あとキッズサイズもあるので、お子様の安全が心配な親御さんにもいいかもです。
 ただきょうの事件みたいに足を刺されたらどうしようもないですが;
 まったくぶっそうな世の中です;

 お店で品切れになったらリンク先のデータはなくなるかもしれません。
 その時はあしからずご容赦を~;

追記
 現代の鎖かたびらニロフレックスというのもあります♪
 私は最初に見たのは二十年以上前、今は無きメカニックマガジン誌(記事ではニロフレックス製の手袋をはめてブルドッグにかませても平気だったような)でですが、21世紀の今も健在のようです。
 ぶっちゃけ実用性だけでなく、かっこいいです。
 漫画や映画の小道具としても使えると思います♪


追記2
 知り合いから教えていただいたのですが、その方のお友達でJR職員の方は、発売と同時に購入、使用なさっているそうです>耐刃Tシャツ。
 確かに、酔漢の暴行など、命にかかわるお仕事ですから。
 アイスピックや打撲には無効ですが、多少なりとも心に余裕ができるだけでも助かるそうです。
 ご苦労がしのばれます;
じょうずなはなしかた
「じょうずなはなしかた」

 と言う番組が40年近く昔、NHKのラジオでありました。
 あまりに昔のことで、ディテールは霧の彼方ですが
 今でも印象に残っているのは
 「会話は言葉のキャッチボールである」
 ということです。

 要するに、言葉をボールのように投げあう。
 投げて受け取り投げ返す。また受け取った方も投げ返す。

 と言うことは、
 相手が受け取れないようなボール(コース)は投げない。
 いろんなボールを投げてみて、相手が受け取りやすいコースを捜す。
 無論、いつもいつも同じ球では飽きてしまいますから、たまにははきわどい球で緊張感を生み出してメリハリをつける必要もありますが、それも基本的に相手と楽しく投げあいたいと言う前提の中でです。
 相手の投げてくるボールも自分の受けられるものと受けられないものがあることを、キャッチボールしながら自分にも相手にも確認する。

 もしかしたら、お互い、投げられる球と受け取れる球に接点がないかもしれない。
 そのときは、どちらが悪いとか良いとかは別問題として、キャッチボールが成り立たない(ので「会話」はやめる)。

 そのように私は解釈しています。
 ちょっとボールを投げてみれば、相手がキャッチボールをしたいのかしたくないのか、そのコースで投げられるとうれしいのかうれしくないのか。
 普通の感性があればわかると思うのですが
 せっかく球を投げてくれたんだから、取ってあげないと悪いかなと思って無理して受けてると、そこのコースがお気に入りだと勘違いして、いつまでもそこに投げてくる人がいるので
 最近は取りたくない球は取らないようにしています(笑

 しかし
 あるタイプのコースが苦手なだけで、キャッチボール(会話)はしたいのか
 それともそもそもキャッチボール自体したくないのか
 伝えるのが難しかったりします。

 また、そのコース(話題)は興味がありません、とモロに言うのも角が立つと思うので
 相手が話題を変えない限り反応しないでいることがあるのですが

 別のコースで投げてくれませんかとリクエストしたものか、しないものか。
 その人が他の人と話してるのを見ていて、ほかのコース(話題)で投げたことがない場合など、やはり言い出せないです。

 言葉のキャッチボール、難しいですね。


追記
 とりあえず、こちらが投げたボールは拾わず(質問には答えず)自分の投げたいボールだけ好き勝手に投げてくる(一方的に言いたいことだけ話す)人とは、会話しないことにしています。
 そういうタイプの人と、なんとか接点を見つけようと何ヶ月も試行錯誤したことがありますが、ある種のコミュニケーション障害というか、接点が見出せずストレスだけが積み重なるのを見て、あきらめました。なぜそうなるのか理解はできないのですが、そういうものとして(私の能力では対応不能として)コンタクトを辞退してます。

 ある程度、剣の修行をした人が、少し刃先を合わせてみれば、およそ相手の力量がわかるように
 多少言葉を交わしてみれば、相手がどういう会話をする(内容ではなく会話に取り組む姿勢、反応パターン)か、およそ想像つきますものね;


追記2
 私がネットで知り合った知人の中には、自閉症の方やアスペルガー症候群の方など、ある種のコミュニケーションにハンディをお持ちの方が何人かおいでです。
 しかし、そういう方々は、まずご自身のハンディについてカミングアウトしてくださっていて、こちらとしてもその心づもりでおつきあいできていますし
 不思議なことに(と言っていいのでしょうか)、皆様礼儀正しく、分別もあって、個人的に私が不愉快を感じたことは一度もありません。
 むしろ問題があるのは、自分が「まとも」だと思い込んでいて、しつこく同じような迷惑メールを送りつけてくる人(一種の人格障害と思われます)などです。あくまで争うことなく丁重に御引き取りいただくか、それでもだめならアク禁などにするしかないのですが。
 中には明らかに精神に障害のある方もいらして、それはもう専門家の手にまかせるしかありません。
 そういう人を私のような精神治療の資格も能力もない一般人が、応対してどうにかしようというのは、愛でも好意でもなんでもない。
 お腹が痛いという人を見捨てておけないからと言って、素人がお腹を切り開いて手術のまねごとにかかるようなものです。
 ときにはコンタクトを遠慮するのが自分にできる最善の方法ということもあります;
アヌンガ単行本のお知らせ♪
女神と蛇神

 Bbmf社のケータイ配信漫画『戦闘女神アヌンガ』の、単行本がこの秋
 9月16日に発売決定いたしました♪
 先日担当さんからお知らせいただきましたし、書店関係のお知り合いからも聞きました。
 おかげさまで、紙媒体でもお目にかけられます。ありがとうございます!
 ケータイでは見られないという方、今しばらくお待ちください!

 それから

 スタート時、とりあえず一冊分(全10話)とのご依頼で描き始めた本作
 「連載」延長も決定いたしました!
 今は9話の半ばを描いておりますが
 11話以降も続行の予定です。
 皆様のご声援とBbmf社さまのご厚意に心より御礼申し上げます。

  ではこれからも
 『戦闘女神アヌンガ
 を、どうかよろしくお願いします! 
未来中年アツジ(いや初老か
 知り合いの小説家さんのブログで読んで思い出したんですが
 あれって今月だったんですね。
 私としてはひたすら締め切り忙しいんでまあ勝手になんでも起こってくださいですが。
 まさか原稿描きながらこの日を迎えようとはなあ(笑


「西暦2008年7月。人類は絶滅の危機に直面していた。
 核兵器をはるかに上回る超磁力兵器が、世界の半分を一瞬にして消滅させてしまったのだ。
地球は大地殻変動に襲われ、地軸はねじ曲がり、5つの大陸は、ことごとく引き裂かれ、海に沈んでしまった」

 ぎがんと・・・はできてないなあ(たぶん)。一番似てるのはステルス爆撃機かしらん♪
借りは返せない♪
 いきなりなんだと思われるでしょうが(笑

 私、人生「借りは返せない」
 いや一歩踏み込んで「返さなくてもいい(どうせ返せないんだから)」

 と思ってます♪

 いや、けして無責任の勧めでも借金踏み倒しの勧めでもありません。

 先日友人の病の話をアップしたところ、色んな方からコメントをいただきました(ありがとうございます)。
 そんな中に、親しかった友人を病で亡くされて、自分は彼に借りを返せなかったと悔いておいでの方がいられたもので
 そのテーマは昔から私も思ってきたことですが

 ずいぶん前に結論は出しました。
 それが上記の「借りは返せない。返さなくてもいい」です♪(笑

 時間と空間のこの世では、一度過ぎ去ったことは原則修正できません。
 法的には慰謝料とか色々償いの手段はありますが、それとて一種の方便で、たとえばひどい暴行を受けた人が、犯人が刑務所に入って慰謝料もらえばチャラになるのかというと、おそらくほとんどの人がNOと言われるでしょう。
 覆水盆に帰らず。

 反対に、恩を受けたことも、じゃあ将来何かでお返しをすればチャラになるのか。
 例えば、私が漫画家として今日ある基礎を築いてくれた師匠(小池一夫先生とか、アシスタントでお世話になったはるき悦巳先生とか)に、本当の意味で等価交換のご恩返しができるのか。ある意味漫画家人生の存亡に関わる影響を、例えば金で(ないけど)(爆)換算できるのか。
 昔はお世話になりましたって札束積めば恩を返したことになるのか(そんな金ないけど)(爆 爆)。金ではなく何か行動で返せば差し引きできるのか。
 やっぱならないと思います。

 だから基本的に
 この世は、本当の意味では「借りなんか返せない」。
 いや、「仮に」返したことにはできると思います。
 何かの償いで心から相手が「よしわかった、水に流そう」と思ってくれたり
 何かのお礼で「そんな、かえってこっちが借りができちゃったよ」と喜んでくれたり
 そういうラッキーなケースもあることはあります。

 でもなかなかそうはいかないことの方が多い。
 でもそれはそれで仕方がないし、悔やむこともないと思います。

 人生は順送りで、Aという人から受けた幸せを必ずしもそのままAという人に返す必要はない。
 無論返すことができるなら返せばいいし、それはとってもラッキーなことだと思うのですが、もし返せなくても悔やむことなく、今度は別の人に渡せばいい。BさんでもCさんでもいい。
 だってそうです。
 自分が両親や祖父母から受けた恩、特に祖父母から受けた好意なんて、返せる能力が身につくころは祖父母がこの世にいないんで、絶対借りは返せません。
 じゃあ一生そのことを悔いていくのか。
 そんなバカな話はありません。

 祖父母から受けた愛は、また誰かに自分がオマケもつけて手渡せばいいと♪

 近年、欧米発の成功哲学の本など読むと
 商売は自分だけ得する「Win-Lose」ではなく
 相手も自分も得をする「Win-Win」の関係がいい
 などと書いてありますが
 私はもう一歩踏み込んで、日本古来の「三方よし」がいいと言いたい。

 「三方よし」をネットで検索しますと

「商取引においては、当事者の売り手と買い手だけでなく、その取引が社会全体の幸福につながるものでなければならないとう意味での、売り手よし、買い手よし、世間よしという「三方よし」の理念は、近江商人の経営理念に由来する」

 という記事を見つけましたが
 まあ、そういうことです。
 自分に好意をくれた誰かと自分の間で貸し借りのやりとりをするのではなく、世界を相手に考える。
 いやそもそも「貸し借り」という発想自体みみっちいものではないでしょうか。人から受けた恩は忘れないようにしたいですが、自分がした何かについて、心に借用書を書くようなまねはしたくない(めんどくさいし)。
 いや、ある種の取引として何かをする場合はありますが、それははっきり「好意」ではなくて「取引」だと自覚しておくことだと思っています。

 この話をしていくと「ゆるす」とは、という大きなテーマにつながって行くんで、それはまた体力のあるときにしますが(笑)(要点だけ言いますと全部ゆるす、なんですけど)(笑

 ちゅーわけで、誰かに返せなかった「借り」はほかの誰かに返す。
 何も気に病むことはない!
 それが私の身上です。

 繰り返しますが無責任の勧めではありません。
 返せるものなら返した方がいいと思います。

 そうそう、昔、小学生のころ、私は静岡県に住んでたことがあるんですが、1960年代で、まだ家の前が舗装されてない土と石ころの道でした。
 ある日表を通ったタクシーが石ころをはねまして、家の玄関のガラスが割れてしまったことがありました。
 母が嘆いていたら、あとになってタクシーの運転手さんがお詫びに見え、
「先日は大変申し訳ないことをいたしました。お客さんを乗せておりましたので停車することもできす、お詫びが遅れましたことをお許しください」
 と平身低頭され、修理代とおわびのお金を置いていかれました。
 まあなんと真心のある人もいるものだと感嘆したのを、40年以上たった今でも覚えています♪
オトコマエな友
 私と仲のよい友人にあるオトコマエな性格の女性がいるんですが(仮にAさんとします)
 私と同い年で同業者で主婦で在家の尼僧でもあります。
 そうそう、以前このブログでかわいい猫の絵を描くおじょうさんの話をアップしましたが、あのお嬢さんのお母さんです。
 Aさん本人も
「わたし中身にオヤジ入ってます」
 と言うくらいで
 おかげで、年頃になってきたお嬢さんのヒップなどながめていると
「ママ視線がエロい!」
 とお嬢さんに怒られてしまうという(笑

 で、そのAさんが、いかに女性っぽくない性格かという出来事がありまして

 先日私が電話してるとき、映画『マディソン郡の橋』の話を出したんですが
 あの作品はググればすぐ出るでしょうし、有名で皆様ご存知のことと思います。クリント・イーストウッド主演の老いらくの恋の物語ですね(ですよね??実は見てはいないんですけど私)(汗)
 そしたらAさん
 オオボケかましてくれまして

「それってどんな戦争映画でしたっけ」
「え・・・?・・・?」

 どうも「マディソン郡」を「マディソン軍」と勘違いしていたらしくて

 いや、それでも恋愛映画ということは知っていたんですが、何かマディソン軍というすっごい強い軍隊があって、その兵士が進駐していった先で悲しい恋に落ちるかなんかだと思っていたという・・・・

 そりゃあ「橋」は「橋」でも『レマゲン鉄橋』とか『遠すぎた橋』(爆

 そのあと事情の解説をしておたがい大笑いしたんですが

 ちなみにご本人の名誉のために申し上げますが、見かけは普通の女性ですし、若い方にはピンとこないかもですが、歌手の谷山浩子(字あってるかしらん)さんを少し低音にしたような美声の持ち主で、けしてごつい方でも男みたいな容貌でもなんでもないんですが


 日本中探しても『マディソン郡の橋』を戦争映画だと思っている女性は、Aさん以外そうはいないんじゃないかと(笑

 うーん、性別を超えて親友づきあいできてる秘密はそんなとこにもあったのかと♪


追記
 Aさんの豪快な思い出をもう一つ。
 世の中、色々と寝相の悪い人がおいでですが
 Aさんは二段ベッドの上の段から落ちたことが(寝てる間に)あるそうです。
 彼女とっても健脚なんですが
 どうも寝てる間に手すりに足をかけて乗り越えたらしい・・・
 へたすると骨折か死んだりさえもしそうですが
 無傷でした。
 中学のころの思い出だそうです♪
原稿上がった~♪
『戦闘女神アヌンガ』第8話と9話冒頭完成。
 ひっさびっさに一息です。にゃ~~;

 今回クライマックスは体はそんなでもなかったけど(半月前のマッサージのせいか、肩こりはありませんでした。そんかし腰痛がいささか)
 やたら目が疲れました。
 4日くらいPCディスプレイ見つめっぱなしでドライアイというかなんと言うかしょぼしょぼです;

 Bbmf社のケータイ配信、『戦闘女神アヌンガ』5話がアップされてるようです(お客様のコメントで知りました。ありがとうございます)。
 蛇神編の完結編です。
 次回は空に移ります(今描いてるのは海ですが♪)
キャラクターアート MANGA パリ展
 近々おフランスはパリにて
「キャラクターアート MANGA パリ展」
 というのが開催されます。
 日本の著名な漫画家の複製原画などが出典されるんですが
 先日私も参加依頼を受けまして何枚かお貸ししました。
 「生き」のいいところで、やはりここは現在執筆中の『戦闘女神アヌンガ』メインで(笑)。
 友人から産経新聞で見ましたとお教えいただいたので、ネットでも検索したら
 こんな記事が。
 そうです、委員長は私の師匠の小池「子連れ狼」一夫先生です。
 記事の参加漫画家リストに私の名前もあります。
 チャンスのおありな方はどうかご覧ください(って、全然行く余裕なんかない執筆の日々な私です)(爆);
 ではでは~~;
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