今回は少しへヴィな内容です。おまけにちと長いです。
先ごろからの漫画界の問題とも関係がありますし、もっと大きな人生一般の問題でもあります。
シビアな現実は知りたくない、と言う方はお読みにならないでください。
ただ一つお断りしたいのは
私はいついかなる時でも、光と希望を目指しているということです。
シビアな現実を語るのは、自分や読む人をいたずらに不安にさせたり、絶望させて生きる希望をなくさせるためではなく(そういう虚無主義のメッセは絶対送る気がありません)、厳しい現実に対処するにはまず現実を認めることから始める必要があるという前提からです。
現実と向かい合うことは、希望や明日へのプロセスの一つ、始めの一歩にほかなりません。
でも世の中にはどうでも夢が見たいという方もおいでです。
あるコミュニティの書き込みで、漫画やイラスト業界のギャラ問題が取り上げられていて、相場を書いた方に対して、おまえは業界の先輩づらして知識をひけらかし、若者の夢を奪うひどいやつだ、みたいな意見をお見かけしました。
私には、その原稿料の相場を書かれた方が、そんな悪意や後進に対する優越感で書かれたとは、どうしても思えなかったのですが、どうでも現実を見ないで夢を見ることが必要と思われる方もおいでということです。
私には共感できないものですが、その方のお気持ちは尊重しますし、あえて侵害するつもりもありません。そういう方はお読みにならないでください。
読者に夢を与える仕事は、夢だけ見ていても成り立たないと私は思っています。
何も考えないで楽しめる作品は、色々考えないと作れないのと同じです。
私は19歳でデビューしてこれまで30年、生活の基盤をずっと漫画において生きてきました。
私の人生はほとんど漫画と同義語であり、私の知る人生の光と闇は、ほとんどが漫画界に関わるものです。
私が自分の体験をふまえて人生を語れば、それは大半が漫画界の話にもなります。
人生は一寸先はわかりません。
さっきまで楽しそうに笑っていた人が一瞬先には違っていたりします(そういう悲しい事件があります)。
私は若いころから心配性で、つまには「杞の国の住人」と呼ばれていました。
杞の国というのは大昔の中国にあったという国の名前で、そこの住人はみんな心配性で
いつ空が落ちてくるかと不安に思って暮らしていたということです(笑
ごぞんじ「杞憂(きゆう)」(無駄な心配)というコトバの語源です。
何年か前、マスコミをにぎわせた人のセリフで「想定内」というのがありました。
心配性の私は、昔からすべてのことを「想定内」にすることを心がけて生きてきました。
最愛の妻が買い物にでかける後ろ姿を見送りながら
「ああ、この姿を見るのも、もしかしたらこれが最後かもしれないな」
と思いながら、見送ったものです(若いころからです)。
ですんで、たいがいのことにはハラをくくっています。
漫画家は明日をも知れない職業です。
一本連載が終了するたびに「失業」しているのであり
一般のカタギな労働者と違い「失業保険」もありません(自営業の方はみなそうですが)。
なんの保障もなく放り出されます。
連載を終わるからと、出版社が「退職金」をくれるわけでもありません(ささやかですが、それに近い厚意を示してくださった出版社が一つだけありましたが、30年の漫画家人生でその一件だけでした。社長さんのご人徳以外の何物でもありません。私はその方を忘れません)。
ですから、そうなった時のために、余力のある作家は金をためます。
ない作家は貯められません(私もそうです)(笑
私のような、綱渡りの漫画家人生を送ってきた人間にとっては、明日の保障、安心感などというのは
遠く彼方の空に浮かぶ雲のように、はるかな縁遠いものです(そもそも漫画家などという職業を選んだ段階で安定した人生などとはさようならを覚悟するべきですが)。
入った金は、みんな日々の暮らしや、次の作品の取材に消えます。
業界のある大先輩(面識はありませんが、私が学生のころから一線で描いておられた有名な方)は、編集さんからの又聞きですが、膨大な費用を取材につぎ込むそうです。
百万から場合によっては一千万(!)
大変絵のうまい方で、ほとんどを一人で描かれる(技術的に手伝える人がいない)ため量産もきかない。
ただ誠実に作品の完成度を上げることにまい進しておいでです。
「だからうちはいまだに貧乏です」
と奥様が言われたそうですが、えー?あんなすごい先生がそおなの?って、聞いたときは絶句しました。
なんだ、金もうけが下手なヘタレじゃないかと笑う方もおいででしょうが、私は深く敬意を表します。
私にはとてもそこまでやれません(近年、一人で描いてるのは同じですが)。
一般社会と同様に、漫画界も様々な悪意やアクシデントに満ちています。
それは身を持って体験してきました。
少し前になりますが、金城武さん主演で映画にもなった小説『不夜城』の漫画化を請け負ったことがあります(角川書店から全一巻で刊行されました)。
原作の小説は、歌舞伎町に暮らす中国人黒社会と深く関わる主人公が、いくつもの犯罪勢力の間をあの手この手で生き抜いて、大切なものや友人、恋人を失いながらも、明日を目指すという話です。
私はその必死な生き様に、深く共感しました。
犯罪こそ犯しはしませんでしたが、主人公の必死さは自分の生き方そのものに思えたからです。
あっちの組織やこっちの組織、様々なグループと付き合いながら、時には小便ちびりそうになりながらも平静を装い、親分のツッコミをかわしたり、言うこと聞かないチンピラをビビらせたり
ありとあらゆる手段で生き抜く主人公。
ああ、俺も覚えがあるよ!(笑
若いころは色々したし、されたなあ!(黒社会じゃなくて漫画界だけど)
裏切りなんかもいっぱいあったし、そんなことで凹んでたら命がいくつあっても足りないよ!(泣笑
少しネタバレになるので嫌な方は十数行飛ばしてください。
主人公は物語のクライマックスで、恋人の女性に殺されかけます。彼女も生きるのに必死で、そのため主人公に向かって銃の引き金を引くのです。
わけあって主人公は助かるのですが、彼女に言います。
「おまえは正しいことをしたんだ」
そうです。
みんな生きることに必死。裏切りもするでしょう。自分だって同じ立場なら同じように引き金を引いたかもしれない。だからおまえは間違ってない。おれはおまえを恨みもしない。
そして彼女を射殺します。
生きるために。
殺した女を抱いて慟哭する主人公に、私も泣きました。
エルロイの暗黒小説などと同様、『不夜城』の世界には、甘い希望はありません。
ひたすら悪夢の底のようなまとわりつく闇の中を、もがきながら生き抜く主人公の生への姿勢が描かれています。
『不夜城』を漫画化した時点の私には、そこまでしか思いつきませんでした。
あれから十年近くが経過して、今は色々違っています。
人生は、世界は、さまざまな闇や理不尽に満ちている。
その現実は変わりませんが
光もまたある。
一寸先は闇でもあり光でもある。
その現実の中で、自分は何を選び何を目指すか。
闇の中で闇であるのか、闇の中でも輝くか。
私は光でありたいと思います。
闇の中で闇であるのはたやすいことです。
悪意の中で悪意であるのもたやすいことです。
光の中で光であるのもまた同じ。
何から何まで満ち足りた「いい気分」な日には、鬼のような犯罪者でも、ちょっと誰かに親切心を抱いたりすることもあるでしょう。
そうじゃなくて
闇とか光に関係なく、自分は光であろうとする。
いつも成功するとは限りませんが、可能な限り光でありたい。
それはとっても大変な道でもあり、逆に一番ラクでもあります。
光であると言うと大仰ですが、言い換えるなら愛であると言うことです。
愛ってなんだ、恋愛のことか。
そうではなくて、ええと、まあ愛とはこういうことです(先日の日記「愛と心理療法」参照)。
おひまでしたらこちらもどうぞ(「あなたの中の最良のものを」(マザーテレサのことば))。
愛とか優しさと言うとヘタレの妄想くらいに思っておいでの方もおいででしょうが
そんな薄っぺらなもんではありません。
生まれついて愛にあふれる稀な魂の方もおいででしょうが、私のような俗人は、愛は長い長い試行錯誤と修練の道です。愛への長い道。宗教家は神への長い道と言うかもしれません(どっちでもいいです)。
それは人生の闇と向かい合い、深く絶望し、現実の過酷さを認めた上での道です。
ちょっと話がそれますが、田舎に住む私の母はもう四半世紀近くも患っております。
膠原病の一種でして、難病の指定を受けるには、わずかに条件が足りず、行政の補助はありません。
自費で治療を続けていますが、完治するようなものではなく、いかに病状を抑え、進行を食い止めるかが関の山です。
手足の関節の腫れと痛みは一様ではなく、ひどかったころは
トイレでしゃがんで、用を足して立つころには、便器の前の床に、汗と涙で水溜りができていたそうです。
それはもう毎日が苦痛との戦いであり、その苦しみは誰にも(同じような病でお悩みの方以外)わからないと思います(息子の私も推測するだけです)。
その母が、内臓に腫瘍ができたことがあります。
診察を受けて癌かもしれないと医師に告げられ
帰り道、母は
うれしくてうれしくて仕方がありませんでした。
これで長い長い苦しみから解放されるからです。
普通、癌宣告といえば、人生の崩壊とか、耐えられない絶望の代名詞として扱われるものですが
筆舌に尽くしがたい苦しみの中で生きてきた母には、天から指した一条の光でした。
病院からの帰り道、こぼれる笑みを禁じえなかったと言います。
しかし
幸か不幸か
母は癌ではありませんでした。
手術はしましたが
それから十年以上。
母は今も生きています。
幸い、私のつまの紹介した病院の先生の治療が体に合い、最悪だったときに比べればずっとラクに落ち着いた日々です。
母はつまを命の恩人と言います。
同じころ同じ病で通院していた仲間はみんな亡くなってしまいました。
母は平凡なただの田舎のおばさん(いやお婆さん)ですが
彼女なりに前向きに、可能な限り善意で生きています。
私も母も「自殺」には共感しないもので、死が迎えにくる日まで、謹んで今日を生きるでしょう。
細かいことは申しませんが
私の見つめてきた絶望も、母にこそ及びませんが、それに近いものがあります。
過酷な現実も、母にこそ及びませんが、なみなみならぬものがあります。
精一杯ベストを尽くして命ある限り今を生きますが、明日死ぬと言うならそれも良しです。
人生も漫画界も、いっぱい悲しいことがあります。
だからって、自分まで悲しい存在になることはないです。
こういう話はどこまで具体的にしたものか、そのバランスが難しいです。
自分のリスカ体験を告白して、売名行為だと非難されたタレントさんもおいでです(真偽は私にはわかりません。ファンでもないですし、詳細はわかりません)。
自分の不幸をさらすことで、人の注目や同情を買おうという人はいっぱいいます(「痛み」や「不幸」を取引の手段にするわけです)。
じゃあ、反対に、何も不幸はないような顔で、幸せいっぱい、いつもOKでイケイケなふうを装う。
それも何か不自然です。
倒産間際の会社が、順調経営を装っているような
一種の詐欺の臭いさえします。
一番いいのは、裏も表も、過度にさらすことも隠すこともない。
自然体でいることでしょうか。
でも口で言うのは簡単ですが、どこがジャストのバランスか。
なかなか判断できません。
今回ちょこっと私が踏み込んで語りましたのは
愛とか希望とか光とかいうことが、恵まれた人間のきれいごと「机上の空論」だと、決め付けないでいただければという想いからです。
ネタがなくなったところから何かを作り出せてこそプロ(の漫画家)だと言います。
希望の見えない状態で、明日のわからない状態で、どう顔を上げて歩くかがミソです。
何一つ人生にストレスもフラストレーションもない方が、金をはらって娯楽を求めたりはなさいません。
漫画を買って読んでくださるということは、そこに何がしかのお気晴らしを求めておられるということです。
私は、漫画という商品を通じて、お客様の人生に少しでもエールを送れたらと思うものです。
なかなか成功しないことも多いんですけど(爆
人生に絶望していたり
業界関係の方では業界に絶望していたり
色々な方がおいででしょうが
どうかくじけないでいただきたいです。
そこがどうにも息苦しくて、ほかに移るほうが幸せなら移るも良し。
悔いのないよう生きればいいです。
なんだかジジイのセッキョみたいになっちゃったかもですが
私の話はセッキョではありません。
なぜなら「〜〜すべきです」とか「〜〜ねばなりません」とかは一切言わないからです。
そんな決めつけを人にするつもりはありません。
ただこんな生き方もありますというデータの一例をアップしているだけです。
お気に召さない方は遠慮なくスルーなさってください。
自分の言ってることはもしかしたらアホでおかしなことかも知れない。その可能性はいつも思っています。
今これを読んでくださった方に、少しでもよい風が吹きますように。
一晩語り明かしても語りつくせないテーマですが、ひとまず今夜はここで置きます。
手を代え品を代えまた語ります。
ありがとうございました。乱文ご容赦。ではでは。
追記
山本は、本当に綱渡りで生き抜いてきた漫画家です。
最近の環境問題のドキュメンタリなんか見ていると、気温がほんの少し変わっただけで絶滅する生物とか出てきますが、まああんなもんです(笑
世界ではきょうも人知れず、多くの生物が絶滅しているそうですが
山本もそんな生物の一つです。
あれ?
そういえば最後に見たのはいつだっけ?
とか思ったときは、もう滅びてるかもしれません。
機会ある限り
またお会いしましょう♪
先ごろからの漫画界の問題とも関係がありますし、もっと大きな人生一般の問題でもあります。
シビアな現実は知りたくない、と言う方はお読みにならないでください。
ただ一つお断りしたいのは
私はいついかなる時でも、光と希望を目指しているということです。
シビアな現実を語るのは、自分や読む人をいたずらに不安にさせたり、絶望させて生きる希望をなくさせるためではなく(そういう虚無主義のメッセは絶対送る気がありません)、厳しい現実に対処するにはまず現実を認めることから始める必要があるという前提からです。
現実と向かい合うことは、希望や明日へのプロセスの一つ、始めの一歩にほかなりません。
でも世の中にはどうでも夢が見たいという方もおいでです。
あるコミュニティの書き込みで、漫画やイラスト業界のギャラ問題が取り上げられていて、相場を書いた方に対して、おまえは業界の先輩づらして知識をひけらかし、若者の夢を奪うひどいやつだ、みたいな意見をお見かけしました。
私には、その原稿料の相場を書かれた方が、そんな悪意や後進に対する優越感で書かれたとは、どうしても思えなかったのですが、どうでも現実を見ないで夢を見ることが必要と思われる方もおいでということです。
私には共感できないものですが、その方のお気持ちは尊重しますし、あえて侵害するつもりもありません。そういう方はお読みにならないでください。
読者に夢を与える仕事は、夢だけ見ていても成り立たないと私は思っています。
何も考えないで楽しめる作品は、色々考えないと作れないのと同じです。
私は19歳でデビューしてこれまで30年、生活の基盤をずっと漫画において生きてきました。
私の人生はほとんど漫画と同義語であり、私の知る人生の光と闇は、ほとんどが漫画界に関わるものです。
私が自分の体験をふまえて人生を語れば、それは大半が漫画界の話にもなります。
人生は一寸先はわかりません。
さっきまで楽しそうに笑っていた人が一瞬先には違っていたりします(そういう悲しい事件があります)。
私は若いころから心配性で、つまには「杞の国の住人」と呼ばれていました。
杞の国というのは大昔の中国にあったという国の名前で、そこの住人はみんな心配性で
いつ空が落ちてくるかと不安に思って暮らしていたということです(笑
ごぞんじ「杞憂(きゆう)」(無駄な心配)というコトバの語源です。
何年か前、マスコミをにぎわせた人のセリフで「想定内」というのがありました。
心配性の私は、昔からすべてのことを「想定内」にすることを心がけて生きてきました。
最愛の妻が買い物にでかける後ろ姿を見送りながら
「ああ、この姿を見るのも、もしかしたらこれが最後かもしれないな」
と思いながら、見送ったものです(若いころからです)。
ですんで、たいがいのことにはハラをくくっています。
漫画家は明日をも知れない職業です。
一本連載が終了するたびに「失業」しているのであり
一般のカタギな労働者と違い「失業保険」もありません(自営業の方はみなそうですが)。
なんの保障もなく放り出されます。
連載を終わるからと、出版社が「退職金」をくれるわけでもありません(ささやかですが、それに近い厚意を示してくださった出版社が一つだけありましたが、30年の漫画家人生でその一件だけでした。社長さんのご人徳以外の何物でもありません。私はその方を忘れません)。
ですから、そうなった時のために、余力のある作家は金をためます。
ない作家は貯められません(私もそうです)(笑
私のような、綱渡りの漫画家人生を送ってきた人間にとっては、明日の保障、安心感などというのは
遠く彼方の空に浮かぶ雲のように、はるかな縁遠いものです(そもそも漫画家などという職業を選んだ段階で安定した人生などとはさようならを覚悟するべきですが)。
入った金は、みんな日々の暮らしや、次の作品の取材に消えます。
業界のある大先輩(面識はありませんが、私が学生のころから一線で描いておられた有名な方)は、編集さんからの又聞きですが、膨大な費用を取材につぎ込むそうです。
百万から場合によっては一千万(!)
大変絵のうまい方で、ほとんどを一人で描かれる(技術的に手伝える人がいない)ため量産もきかない。
ただ誠実に作品の完成度を上げることにまい進しておいでです。
「だからうちはいまだに貧乏です」
と奥様が言われたそうですが、えー?あんなすごい先生がそおなの?って、聞いたときは絶句しました。
なんだ、金もうけが下手なヘタレじゃないかと笑う方もおいででしょうが、私は深く敬意を表します。
私にはとてもそこまでやれません(近年、一人で描いてるのは同じですが)。
一般社会と同様に、漫画界も様々な悪意やアクシデントに満ちています。
それは身を持って体験してきました。
少し前になりますが、金城武さん主演で映画にもなった小説『不夜城』の漫画化を請け負ったことがあります(角川書店から全一巻で刊行されました)。
原作の小説は、歌舞伎町に暮らす中国人黒社会と深く関わる主人公が、いくつもの犯罪勢力の間をあの手この手で生き抜いて、大切なものや友人、恋人を失いながらも、明日を目指すという話です。
私はその必死な生き様に、深く共感しました。
犯罪こそ犯しはしませんでしたが、主人公の必死さは自分の生き方そのものに思えたからです。
あっちの組織やこっちの組織、様々なグループと付き合いながら、時には小便ちびりそうになりながらも平静を装い、親分のツッコミをかわしたり、言うこと聞かないチンピラをビビらせたり
ありとあらゆる手段で生き抜く主人公。
ああ、俺も覚えがあるよ!(笑
若いころは色々したし、されたなあ!(黒社会じゃなくて漫画界だけど)
裏切りなんかもいっぱいあったし、そんなことで凹んでたら命がいくつあっても足りないよ!(泣笑
少しネタバレになるので嫌な方は十数行飛ばしてください。
主人公は物語のクライマックスで、恋人の女性に殺されかけます。彼女も生きるのに必死で、そのため主人公に向かって銃の引き金を引くのです。
わけあって主人公は助かるのですが、彼女に言います。
「おまえは正しいことをしたんだ」
そうです。
みんな生きることに必死。裏切りもするでしょう。自分だって同じ立場なら同じように引き金を引いたかもしれない。だからおまえは間違ってない。おれはおまえを恨みもしない。
そして彼女を射殺します。
生きるために。
殺した女を抱いて慟哭する主人公に、私も泣きました。
エルロイの暗黒小説などと同様、『不夜城』の世界には、甘い希望はありません。
ひたすら悪夢の底のようなまとわりつく闇の中を、もがきながら生き抜く主人公の生への姿勢が描かれています。
『不夜城』を漫画化した時点の私には、そこまでしか思いつきませんでした。
あれから十年近くが経過して、今は色々違っています。
人生は、世界は、さまざまな闇や理不尽に満ちている。
その現実は変わりませんが
光もまたある。
一寸先は闇でもあり光でもある。
その現実の中で、自分は何を選び何を目指すか。
闇の中で闇であるのか、闇の中でも輝くか。
私は光でありたいと思います。
闇の中で闇であるのはたやすいことです。
悪意の中で悪意であるのもたやすいことです。
光の中で光であるのもまた同じ。
何から何まで満ち足りた「いい気分」な日には、鬼のような犯罪者でも、ちょっと誰かに親切心を抱いたりすることもあるでしょう。
そうじゃなくて
闇とか光に関係なく、自分は光であろうとする。
いつも成功するとは限りませんが、可能な限り光でありたい。
それはとっても大変な道でもあり、逆に一番ラクでもあります。
光であると言うと大仰ですが、言い換えるなら愛であると言うことです。
愛ってなんだ、恋愛のことか。
そうではなくて、ええと、まあ愛とはこういうことです(先日の日記「愛と心理療法」参照)。
おひまでしたらこちらもどうぞ(「あなたの中の最良のものを」(マザーテレサのことば))。
愛とか優しさと言うとヘタレの妄想くらいに思っておいでの方もおいででしょうが
そんな薄っぺらなもんではありません。
生まれついて愛にあふれる稀な魂の方もおいででしょうが、私のような俗人は、愛は長い長い試行錯誤と修練の道です。愛への長い道。宗教家は神への長い道と言うかもしれません(どっちでもいいです)。
それは人生の闇と向かい合い、深く絶望し、現実の過酷さを認めた上での道です。
ちょっと話がそれますが、田舎に住む私の母はもう四半世紀近くも患っております。
膠原病の一種でして、難病の指定を受けるには、わずかに条件が足りず、行政の補助はありません。
自費で治療を続けていますが、完治するようなものではなく、いかに病状を抑え、進行を食い止めるかが関の山です。
手足の関節の腫れと痛みは一様ではなく、ひどかったころは
トイレでしゃがんで、用を足して立つころには、便器の前の床に、汗と涙で水溜りができていたそうです。
それはもう毎日が苦痛との戦いであり、その苦しみは誰にも(同じような病でお悩みの方以外)わからないと思います(息子の私も推測するだけです)。
その母が、内臓に腫瘍ができたことがあります。
診察を受けて癌かもしれないと医師に告げられ
帰り道、母は
うれしくてうれしくて仕方がありませんでした。
これで長い長い苦しみから解放されるからです。
普通、癌宣告といえば、人生の崩壊とか、耐えられない絶望の代名詞として扱われるものですが
筆舌に尽くしがたい苦しみの中で生きてきた母には、天から指した一条の光でした。
病院からの帰り道、こぼれる笑みを禁じえなかったと言います。
しかし
幸か不幸か
母は癌ではありませんでした。
手術はしましたが
それから十年以上。
母は今も生きています。
幸い、私のつまの紹介した病院の先生の治療が体に合い、最悪だったときに比べればずっとラクに落ち着いた日々です。
母はつまを命の恩人と言います。
同じころ同じ病で通院していた仲間はみんな亡くなってしまいました。
母は平凡なただの田舎のおばさん(いやお婆さん)ですが
彼女なりに前向きに、可能な限り善意で生きています。
私も母も「自殺」には共感しないもので、死が迎えにくる日まで、謹んで今日を生きるでしょう。
細かいことは申しませんが
私の見つめてきた絶望も、母にこそ及びませんが、それに近いものがあります。
過酷な現実も、母にこそ及びませんが、なみなみならぬものがあります。
精一杯ベストを尽くして命ある限り今を生きますが、明日死ぬと言うならそれも良しです。
人生も漫画界も、いっぱい悲しいことがあります。
だからって、自分まで悲しい存在になることはないです。
こういう話はどこまで具体的にしたものか、そのバランスが難しいです。
自分のリスカ体験を告白して、売名行為だと非難されたタレントさんもおいでです(真偽は私にはわかりません。ファンでもないですし、詳細はわかりません)。
自分の不幸をさらすことで、人の注目や同情を買おうという人はいっぱいいます(「痛み」や「不幸」を取引の手段にするわけです)。
じゃあ、反対に、何も不幸はないような顔で、幸せいっぱい、いつもOKでイケイケなふうを装う。
それも何か不自然です。
倒産間際の会社が、順調経営を装っているような
一種の詐欺の臭いさえします。
一番いいのは、裏も表も、過度にさらすことも隠すこともない。
自然体でいることでしょうか。
でも口で言うのは簡単ですが、どこがジャストのバランスか。
なかなか判断できません。
今回ちょこっと私が踏み込んで語りましたのは
愛とか希望とか光とかいうことが、恵まれた人間のきれいごと「机上の空論」だと、決め付けないでいただければという想いからです。
ネタがなくなったところから何かを作り出せてこそプロ(の漫画家)だと言います。
希望の見えない状態で、明日のわからない状態で、どう顔を上げて歩くかがミソです。
何一つ人生にストレスもフラストレーションもない方が、金をはらって娯楽を求めたりはなさいません。
漫画を買って読んでくださるということは、そこに何がしかのお気晴らしを求めておられるということです。
私は、漫画という商品を通じて、お客様の人生に少しでもエールを送れたらと思うものです。
なかなか成功しないことも多いんですけど(爆
人生に絶望していたり
業界関係の方では業界に絶望していたり
色々な方がおいででしょうが
どうかくじけないでいただきたいです。
そこがどうにも息苦しくて、ほかに移るほうが幸せなら移るも良し。
悔いのないよう生きればいいです。
なんだかジジイのセッキョみたいになっちゃったかもですが
私の話はセッキョではありません。
なぜなら「〜〜すべきです」とか「〜〜ねばなりません」とかは一切言わないからです。
そんな決めつけを人にするつもりはありません。
ただこんな生き方もありますというデータの一例をアップしているだけです。
お気に召さない方は遠慮なくスルーなさってください。
自分の言ってることはもしかしたらアホでおかしなことかも知れない。その可能性はいつも思っています。
今これを読んでくださった方に、少しでもよい風が吹きますように。
一晩語り明かしても語りつくせないテーマですが、ひとまず今夜はここで置きます。
手を代え品を代えまた語ります。
ありがとうございました。乱文ご容赦。ではでは。
追記
山本は、本当に綱渡りで生き抜いてきた漫画家です。
最近の環境問題のドキュメンタリなんか見ていると、気温がほんの少し変わっただけで絶滅する生物とか出てきますが、まああんなもんです(笑
世界ではきょうも人知れず、多くの生物が絶滅しているそうですが
山本もそんな生物の一つです。
あれ?
そういえば最後に見たのはいつだっけ?
とか思ったときは、もう滅びてるかもしれません。
機会ある限り
またお会いしましょう♪
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