あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
200804<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>200806
仕事の日々です
 明日は義父の一周忌・・正確には少しずれますが、そういうことで身内と親戚のお食事会。
 義母もつまも義姉もしゃべるの苦手ということで義理の息子の私がスピーチをする約束なんですが

 原稿忙しくてまだなーんも考えてません。
 まあ、あと半日ちょっとあるんでなんとか。
 こういう作業も、限られた時間で表現したいテーマを見つけてまとめる稽古と思って積極的に受けることにしてます♪

 仕事忙しくて疲れとストレスで口内炎痛いです。
 作品自体はノリノリなんですけど♪

 ではではまたー(日記更新なかなかできなくてすみません
『愛と心理療法』M.スコット・ペック
『愛と心理療法』

 人が人に手渡していくべき(「いくべき」と言うのが窮屈であれば「いきたい」と言い換えてもいい)ものは、究極「愛」しかないんじゃないかと思うものですが、今回はずいぶん前から取り上げたかった一冊の本について語ります。

 私の昨年読んだ本の中でベストにあげてもいいと思う一冊

 M.スコット・ペックの『愛と心理療法』(氏原 寛/矢野隆子 訳・創元社)

 です。ここ十年のうちに読んだ中でもベストの一冊かもしれません。
 一説には、カル○ス・ゴーン氏の愛読書とも聞きますが、そんなことはどうでもいいです(笑)(ビジネス書ではありません、無論)。

 有名な精神科医であるペック氏は大変知的な名文で(それも上っ面なキレイ事ではなく、深い体験と英知にあふれて)人間の愛や生き方、あり方について、語ります。
 多くの形而上的な洞察を含む内容で、100%唯物主義の人には受け入れられないかもしれません。
 氏はアメリカ人ですから、氏自身は特定の宗教とは無関係なポジションで語ろうとしていますが、やはりある種の西欧的キリスト教的な信念体系の影響からは抜けきれない部分もありますが、それはいたしかたないことだと思います。人は誰しも己の生まれ育った環境と完全に無関係な視点は持てないもので、そこはこちらで微調整すればいいだけです。
 何より氏自身がそのことを自覚して、自分の見解は限られたもので、間違っている部分もあるかもしれないと認めているのも私は好感を持ちます。


「純粋な愛とは自分を満たしていく行為である。それは自分を縮めるよりも拡大する。自分を消耗させるよりも豊かにする」

「本当の意味で、愛は愛でないものと同じくらい自分本位である。ここでもまたしても、自分本位であると同時に自分本位でないという、愛のパラドックスがある。愛と愛でないものを区別するのは、それが自分本位であるかどうかということではない。何を目指しているかが問題なのである。純粋な愛の場合、目的はつねに精神的な成長にある。愛でないものの場合、目的はつねにそれ以外のところにある」


 この「純粋な愛の場合、目的はつねに精神的成長にある」というのはまったく同感で、「精神的」というのが原文でなんと書かれているのかわかりませんが、私は「霊的な」「スピリチュアルな」と言い換えてもいいと思っています。また実際に、この種の本には、そういう翻訳がなされているケースがままあるように思います。
 宗教やオカルトの本と思われないための苦心なのかも知れませんが、見ようによっては一種の改ざんと言ってもいいかと思います(同書がそうかは知りませんが)。

 近年「スピリチュアル」という言葉が一部で流行し、一人歩きして、中には某心霊番組のことくらいに誤解している人さえあるようですが、この単語自体ずっと昔からあるもので、別に特定な宗教などとは関係ない言葉です。「知的な」、とか、せまい意味での「精神的な」、を超えた、もっと深く総体的な人間の内面を言い表す言葉と言っていいと思います。
 「宗教的な」と言うと、何か特定の「教祖」とか「団体」「教義」などと関連のあるものと限定されてしまうため、これは違います。
 「ニューエイジ」という単語が、あまりに玉石混交の「石」が増えすぎたことで、一種の「蔑称」になってしまったように、「スピリチュアル」という単語も、一部の人々には見たり聞いたりしただけでアレルギー反応を起こしたり、嘲笑の対象になっているのが現状のようです。
 私は誤解をさけるために極力使用を差し控えていますが、本来別に使用をためらうような単語ではありません。誤解する人は勝手にすればいいと言いたくなるくらいですが、そう言ってしまっては元も子もないので、注意深く使用するしかありません。
 たとえばプラトンの『国家』なども、部分的には大変スピリチュアルな内容を含んでいます。
 「霊的な」「霊性」という言い方も良いのですが、今度は、お化けや幽霊の話だと誤解する人もいて、言葉は本当に難しいです。

 それはさておきペックさんの本ですが


「純粋に愛する人は、愛する喜びを知っている。愛するのは愛したいからのことである(「したい」に傍点)。子どもがほしいから生んだのであり、親が愛情深いとすれば、そうありたいと思ったからである。愛することが自分を変えるのは確かであるが、それは自己犠牲ではなく、自分を広げることである」


 ここでいう「純粋な愛」とは「無条件な愛」つまりアガペーに近い愛のことでしょう。
 あれをしてくれたら愛をあげるとか、これをくれたら愛をあげるという愛は、値札のついた「愛と言う名の商品」であり、それは一種の「取引」であって「愛」ではないと私は思います。
 あるいは、「はなはだ不完全な愛のようなもの」と言ってもいいかもしれません。


「愛について二番目によくある誤解は、依存性を愛とする考え方である」

「『生きていたくない。主人(妻、恋人)がいなければ生きていけない。それほど彼(彼女)を愛しているんです』と彼らは言う。
『あなたは間違っていますね。あなたは夫(妻、恋人)を愛してなどいやしませんよ』
 と、私が言葉を返す---そうすることが多い---と、彼らは怒って言う。
『なんですって?彼(彼女)なしでは生きていられないって今言ったでしょう』
 そこで私は次のように説明する。
『あなたが言うのは寄生であって、愛ではないんです。生きるのに他人が必要なら、あなたはその人の寄生虫なんだ。その関係には選択も自由もありませんね。それじゃ愛というよりは必要性の問題だ。愛とは自由に選択することなんですよ。一人でも充分やってゆける人が一緒に生きることを選んだ場合に限って、二人は愛し合っているといえるんですよ』」

「依存性とは、誰かが積極的に面倒をみてくれる保証がなければ、不完全に悩んだり充分に働けないこと、と私は定義している」

 誰にでもそういう感情がないわけではない、とペック氏は前置きして、それ自体は問題ではない、それが

「生活を支配して生のあり方まで決定し、ただの依存欲求あるいは依存感情以上のものになることが問題なのである」

 と言います。

「この障害のある人は、愛されようとするのに忙しすぎて、愛するエネルギーが残っていない。
飢えた人が、食べ物のある所ならどこにでもたかってゆき、他人に分け与える食べ物を持っていないのに似ている。彼らの内部には空洞があり、底なしの奈落の満たされるのを切望しているが、完全に満たされることはないらしい」

「診断の際に、『受動的』という言葉は『依存的』という言葉と並んで用いられる。それは、こういう人が自分にできることは考えないで、人がしてくれることばかり考えているからである」

「私は彼らにこう言った。『愛されるってことがあんた方の目標なら、それはうまくいきませんよ。人に愛される確かな唯一の方法は、愛する値打ちのある人であることなんだから。人生の一番の目標が、受け身で愛されるだけなんてことでは、愛する価値などあるはずないものね』」

「だからといって、こういう人が他人のために何もしないというのではない。しかしその動機は、他人をしっかりとつなぎとめて、確かな世話を受けようとすることである。世話をしてもらう可能性がすぐには期待できない場合、彼らが『何かをする』のは大変難しい」


 大変辛らつな意見ですがまったくそのとおりだと思います。
 世界はそんな勘違いした「愛」のようなもので満ち溢れています。
 愛を描いたドラマや映画、漫画も多くはその勘違いから出ていないように思います(全部を見ているわけではありませんが)。
 主人公はやっと本当の愛にめぐり合ったんだ!ハッピーエンドだ!いやいやそれは愛じゃないよ依存だよ、みたいな(笑

 誤解のないように(山本は)申し上げますが、これはどこかに障害があって介護が必要なパートナーと深い愛で結ばれているケースなどを指しているのではありません。物理的になんら必要でないにもかかわらず、精神の歪からまるで薬物依存のように相手に執着して、それを愛と勘違いしている人のことです。(あるいは物理的依存を愛と勘違いしてたり)。
  
 恋と愛は違うというのは、すでに数え切れないくらい多くの人が語ってきたことです。
 わかりやすい例えで、わが子を愛する親はいても恋する親はいない(近親相姦のケースは別として)というのがあります(笑
 ある意味で、世の中の大半のエンターテインメントで語られている愛は愛ではなくて恋止まりなのではないでしょうか。
 本当の愛に目覚めるまでのワンステップ、通過点としての恋はあると思います。それは、カエルがオトナになるまでのオタマジャクシについているエラのようなものではないでしょうか。
 オタマジャクシにはエラが必要であり、カエルがそれをオタマジャクシから奪い去ることは間違っています。しかしカエルになってまで持ち歩くべきパーツでもないわけです。
 
 ちなみに、その愛がホンモノかニセモノか、ただの気の迷いであるかどうかは、恋が終われば自然にわかってくるでしょう。


 私は昔から(本当に十代のころから)、恋した相手に相手の感情と無関係に己の思いを押し付ける愛(本当は愛じゃないんですが)というのが理解できなくて
 好かれてないのに、そこで強引に愛を強要することになんの意味があるのかわかりませんでした。
 交際を拒否されて恨みに思うとか、恋人を取り合って恋敵が傷つけあうとか、狂気の沙汰としか思えません(実際そうだと今でも思います)。
 告白して拒否されれば、じゃあお友達でいるしかないですねーというくらいで(笑
 無論告白してNOと言われれば凹みますし、恋人が去れば悲しいし一人泣きもしたし・・・
 でもそれと病的な執着、依存は違うだろうと。

 もっとも20歳前後のころは、いわゆる「恋愛はゲームだ」みたいな感覚で、そんなことをうそぶいていた時期もあったので、当時
「それはあなたが本当に人を好きになったことがないからだ」
 と言われれば、はーそうかもしれないなあと思ったものです。
  
 でも人生も折り返し地点をまわり、昔なら初老という歳まで生きてきて、思うのは
 やっぱり依存し執着する愛は愛じゃないよなーと。

 私には最愛のつまがいますが、たとえ明日つまが去っても、それはかまわない。
 つまが幸せでいてくればいいだけです。
 若いころは、この人と別れて自分はいったいどう生きていけばいいだろうと悩んだ日々もありましたが、一巡りしてみるとやはり結論は最初と同じ。

 愛は自由であり、相手が自分を愛しているかどうかにかかわらず、相手の幸せ、成長を願うことだと思います。
 私自身は不倫や浮気をしたことはないし(精神的には作品執筆の中でしてるかもですが)(笑)つまもおそらくない(そもそもそんな余裕がない)のですが、もしあったとしてもそれを私は責めるつもりもないし、恨んだり憎んだりするつもりもありません(それと結婚生活を維持していけるかは、また別の問題です)。
 私のつま、と便宜上言いますが「私の」の「の」は「所有格」ではありません。
 つまは私の所有物ではないし、誰のものでもありません。つまの心も体もつま自身のものです。

 結婚生活というのは、物理的経済的様々な側面があって、純粋な愛とは別の要素が存在しますが、それは愛とは区別して考えます。
 てな話をしてると、愛というテーマから、色々面倒な生臭い話になってしまうので、またにしますが(笑

 んーと
 まあそんなわけで、いい本でした。
 別にこの先生の言ってることが全部正しいとかいうんじゃありません。
 ただ愛とは何か、考えあぐねている方には、それを整理して一つの考え方を示してくれるものだと思います。
 そこから足したり引いたり、自分で手作りの愛を探っていけばいいのではないかと。
 ではではまた~♪
つまと「しろさん(猫)」
しろさん(2008年4月)

 先日、ちょっとつまが精神的に傷つくことあって、かなり落ち込んで閉じてたんですが
 うちの庭にたまに顔を出す野良猫(?肉付きがいいんで半野良かも)「しろさん」という子(しろねこ)がいまして

 ふだんは警戒心が強く、声をかけても見向きもしないし近寄ってもこない。
 こちらの姿を見ると距離をとってさっさと消えるんですが

 庭の花の手入れしてる落ち込んだつまに、なんと言うことか
 そのしろさんが自分から近寄ってきたそうです。
「なでれ」
 という感じですりすりして、つまもびっくりしたものの、リクエストにお答えしてしばしなでさすってあげたそうです。
 見かけは少し薄汚れた(しろい毛が一部灰色っぽい)子なんですが、さわったら思ったより肉付きが良くて、いいもん食べてるかどっかの飼い猫かと思ったとか。

 しばしなでさせてしろさんは去っていきました。

 それからつまは、はたで見ていてもなんだか調子が戻っていって、まあ単なる時間経過による自然治癒とも言えますが
 愛猫ミケコとの死別以来もう8年も猫さわってないつまとしては、少し癒されたんじゃないでしょか。

 え?
 たんにしろねこが慣れただけだろう?
 いや、それが、つまに擦り寄ったのはそれ一回きり。
 それ以降はたまにつまと会っても、もとのよそよそしい野良猫に戻ってしまって
「この間のことは忘れてくれええええ!」
 みたいな感じで身を翻して去ってしまいます。

 なんだあれは?
 一回こっきりの特別ヒーリング?
 みたいなー(笑



 んで

 昨日道を歩いてた私は
 向こうからやってくるしろさんに会いました。
「しろさん、しろさん」
 呼びかけてもこちらを見もせず横を通り過ぎて行きます。
 私は、すれ違うしろさんに気をつけをして頭を下げて
「しろさんありがとう」
 と言いました。
 しろさんの足が止まりました。
「ありがとうねしろさん。この間はつまを(慰めてくれて)ありがとう。ありがとう」
 そう言ってなんどか深々と頭を下げました。
 すると立ち止まって横目で(顔は進行方向に向けたまま)しろさんが
「あ~~」
 と鳴きました。
 その後、二回くらい私はおじぎして、ありがとうと言いましたが
 しろさんの返事はその一回きりでした。
 なんと言うか
「あいよ~~」
 って感じでしょうか。

 しろさんと私は左右に別れ、歩き去って行きました。

 ありがとうしろさん。また会おうね♪
ケータイ配信漫画コード
まんが王国QRコード


私のケータイ配信漫画について、Bbmf社の担当さんからレスいただきました。

「弊社のサイトアドレスは
http://k-manga.jp
です。
QRコードも添付しておきます。

サイト名は『ケータイ☆まんが王国』です。
サイト内にある『コミックGA』というところに各描き下ろし作品を収めています。
『戦闘女神アヌンガ』もその中にあります。

また作家名検索をしていただくことも出来ます。
『山本貴嗣』で検索すると、
山本さんの既存の作品も羅列されるようになっています」

 だそうです。
 QRコードは送られてきた画像をそのままアップしましたが、これで大丈夫なんでしょうか? 
 うちはケータイないんで確認できません。
 新作タイトルは上記のとおり
『戦闘女神アヌンガ』
 です(こちらは6月3日配信スタート予定)。
 リンクもケータイ用らしくうちのPCでは見れません。
 要領を得なくて申し訳ないです。
 何かうまくいかない点などありましたらお知らせいただけますと幸いです。
 どうかよろしくお願いします~~;

追記
 閲覧可能なケータイは
 ソフトバンク、ドコモ、AU
 などだそうです。
 さて・・・J-phoneのプリペイドしか持ってない私はどうしたものか;(爆
ケータイ配信日時最終決定
ケータイ漫画ヒロイン2

 たびたびお騒がせしてすみません。
 私の新作描き下ろしケータイ漫画の配信スタート日時が5月30日から少し変更になりました。
 さっきBbmf社の担当さんからメールで

「6月3日(火)に2話分(1話2話同時)を配信します。
翌週の6月10日(火)に第3話配信。
以降は隔週ペースで1話ずつ配信していきます。
6/24に第4話 7/8に第5話 7/22に第6話……といった感じです。」

 だそうで
 これが最終決定でもう変更はないそうです。
 ちなみに私は今7話の下絵やってます。
 URL(ケータイの場合なんて言うんですか)に相当するものをアップしたいので教えてくださいとレスしておきました。
 ではではまた~♪


追記
 先日の記事「キャラへの愛♪」に、色々と拍手コメントもいただきありがとうございます。
 日々拝読しております~~♪
キャラへの愛♪
作家にも色々ありまして
 自分の描くところの登場人物に並々ならぬ愛情を注いでいることがうかがえる人もいれば
 よくまあこうも愛のない描き方ができるもんだなーと思う人まで様々。

 もっとも愛にも色々ありまして、世間一般にはえてして「情が濃い」のが愛情深いと思われがちですが
 一見クールで薄情そうに見えながら、その実
 冷静に相手の幸せのなんたるかを見極めて確実にその人のために動くという愛もあります(けっこうそっちの方が高度で大変)。

 んで
 先日友人と電話してる時
 漫画の登場人物に愛のある作家、ない作家みたいな話になって
 愛のない描写は敏感な人には見抜かれてしまうと。
 んで
 ある先生の話になって
 先生がオキニのキャラ(ヒロイン)にはものすごく愛が濃くて力入ってるんだけど
 そうでないキャラの手の抜きっぷりと言うかどうでもいいっぷりが尋常ではなくて、それが読者には手抜きに見えてしまうという・・

 それって言うなれば、その先生の『ホモホモ7』なんじゃないかと私(笑
 私の世代の方はご存知でしょうが
 『ホモホモ7』というのは、みなもと太郎先生の傑作漫画で
 1970年ごろでしたか
 かわいい乙女からお色け熟女まで女性キャラはきっちり書き込まれ(一部例外あり)(笑)どうでもいい男性キャラはほとんど落描きみたいな手抜きっぷりという、明快な割り切り描写をされたギャグ漫画で
 私の漫画家人生に大きな影響を与えた漫画ベスト5の一つでした。
 だからその先生の偏愛漫画もそれはそれでいいんじゃないかって思うところがあるんですが
 
 ただ、みなもと先生の場合それを「わかって」やっておいでだったのに対し
 問題の先生はそれを「自覚なく」やっておいでらしいところが問題かもと・・・;


 しかしこの偏愛、私も覚えがないではありません。
 私は己の描くヒロインはじめ主要キャラに対しては、原則深い愛情を抱いて描いているつもりなんですが
 もしかしてその愛が濃すぎて、全体のバランスを欠いた漫画になっている場合が時々・・・

 愛のない描写よりはましかもですが
 それって愛は愛でも、もしかして
 映画監督が女優と寝てしまって
 客観性を欠いた作品ができあがりました、みたいなマイナスの要因になってるんじゃないか

 ふとそんなことを思ってしまった私です。
 
 そうだとするとそれはまずい。
 女優と寝て、女優に溺れて、客観性を欠いた創作をするのは、それは作家として褒められた愛ではない。
 私の執筆がそうだと断定するつもりはないですが、そういう傾向があるのは否めません。
 さあ困ったどうしよう。


 で
 私が思ったのが

 「女優」と寝るのは捨てがたいなあ

 そうか「ほかの役者」とも全員寝ればいいんだあ!
 
 



 さて、ケータイ漫画6話は無事完成
 きょうから7話にかかりますー。 しごとしごと; 
ケータイマンガ近日公開♪
ケータイマンガ・ヒロイン

 きょうも6話のフォトショップ作業中です。
 描いてるばかりでネタがないんですが
 お目汚しにヒロイン(変身前・人間モード)の画像を。
 今年の二月に描いたカットです(確か部分だけアップしてましたよね)。
 Bbmfで公開と言うか連載スタートが一応今月末なので
 宣伝も兼ねてそろそろいいかなと♪
 ではでは仕事に戻ります~~;
記憶にない買い物
知り合いの某作家さんもブログでアップしておいででしたが
うちにも来てました。
 オンライン書店ビーケーワンからのメール(とその訂正文)


5月13日にお送りいたしましたメール「【bk1】最高1000円引き!空クジなし
の宝クジギフト券プレゼント!(5/19まで)」におきまして、
文中に誤りがございました。訂正してお詫び申し上げます。

誤)
※本メールは、過去にオンライン書店ビーケーワンでボーイズラブ関連書をご購入いただいたことのあるお客様へ配信させていただいております。

正)
※本メールは、過去にオンライン書店ビーケーワンをご利用
いただいたことのあるお客様へ配信させていただいております。


 いやー
 誰がそんな本買ったかと思いました(笑

 しかし、いったいビーケーワンのどんな店員さんが何を考えて打ち間違えたのか、それが知りたいですにゃー♪




追記
 過去にオンライン書店ビーケーワンでボーイズラブ関連書をご購入いただいたことのあるお客様<届いてないですよ、再発送してくださいとか、しゃしゃあと言ってみたりして・・・ (笑
ウナギの骨?
 昨日に続き「病気・怪我」ネタ・・・
 と言うのでしょうか??

 今朝、てえかもう昨日ですが
 朝、義母からもらったうなぎの蒲焼のレトルトを暖めて食べました。
 で、食べ終わってからなんかのどが、いや舌の付け根奥あたりが、ちくちくいがいがします。
 いわゆる
 魚の小骨が刺さったような・・・

 鏡で口の中から喉を見ても何もなし。
 うがいしてもダメ。
 指をつっこんでさぐってもダメ。

 うーむ。

 昔近所でうな重食べて、小骨が喉にささったことがありまして
 その時はつまに箸でつまんで取ってもらいました。

 お茶とか飲んでる内に流れないかと待ってましたが全然解消されません。
 仕方なく、行きつけの近所の歯科に電話。
 事情を説明し、こんな歯と関係ない症状でも診てもらえますかと言うと、受付の人が診るだけなら診ますけど、予約はいっぱいなんで先生の手が空いたときでないと無理ですとの回答。
 仕事のスケジュールもあったけど、かまわず直行。

 そしたら運良く10分くらいで前の人が出てきて、もう一人は先生じゃなくて歯科衛生士さんの担当になてったんで、診てもらうことができました。

 あっさり何か見つかるかと思いきや、これがダメ。
 そもそも口腔内は感覚がアバウトなんで、手先のようなピンポイントでの位置確定ができません。
「この辺ですか」
「そんな気がします」
 あちこちさぐっても何も見つかりません。
 かなりのどの奥もつっこんで診てもらったもので
 何度か思わず「うえー」って吐きそうになりました。

 ある程度のサイズなら肉眼で発見できるはずなんですが何も見えない。
 結局
 先生がガーゼで私の舌をつまんでひっぱり、違和感のある舌の付け根奥の付近をもう一つのガーゼでごしーっとこすって(またまた吐きそうになって「うげえええ」)
 そしてうがいしたら

 消えました違和感!

「これでもダメなら、もっと奥かもですから、耳鼻咽喉科などで軽い麻酔をしてもらって覗いてもらうのも手ですね」
 と先生
「かなりでこぼこしたガーゼでこすりましたから、肉眼で見えないサイズの異物も取れた可能性はあります」

 診察費用は170円(国民健康保険)。
 かかった時間は15分くらいでしょうか。


 帰ってからもノープロブレム。
 寝ておきた今も違和感ないので
 問題は無事解決したようです。


 うなぎの蒲焼で喉に小骨というのは
 50年近い人生でこれで二度目ですが
 こんな目に見えないサイズの物体というケースもあるとはびっくりでした(考えてみれば当然なんですけど)。

 さーて仕事仕事♪
切り傷
 左手の人差し指の付け根あたりをざっくりやりました。
 いや、すぱっ、かな?(笑
 以前プレゼントでいただいたナイフを抜いたら、ちょっと特殊な形状で特殊な鞘の製品だったので、うっかり左手の位置を間違えまして(バカ
 リストカッ○にならなくて幸いでした。

 何滴か畳に落ちてしみができちゃいました(ぼろ畳なんで、まあいいですが)。

 よく考えたら、今描いてるケータイ配信漫画の今話の敵役が思い切り刃物系なんで
 これも広義のシンクロニシティか(笑
 あまりひどいと外科行って縫合してもらわないとと思ったんですが、そこまでではなく
 筋も無事なのでバンドエイド巻いて終了。
 あー、危なかった。


 そう言えば昔お付き合いのあった、陸軍士官学校出身の元戦闘機乗りのご老人は
 現役のころ、自由時間に居合いの稽古をしていて、鞘走るときうっかり左手の指の先を切ってしまい、包帯で巻いて搭乗したんだけど、心臓より下に指先を持っていくと離陸上昇のGでえらい痛かったとおっしゃってました。貴重な体験談でした♪
『Mr.ボーイ』より三枚
Mr.ボーイ01

Mr.ボーイ02

Mr.ボーイ03

 少し前の作品ですが
 『Mr.ボーイ』(双葉社より全四巻)
 からお目汚しに画像を三点。
 美少年の刑事が少年にも乙女にも化けるトランスセクシュアル漫画でした。
 正直、もっと描きたかったヒーロー(ヒロイン)で、私の母も
「続きが見たい」
 などと申しております(笑
 機会がありましたら、またいずれ♪

追記
 実はこの三枚目のカット、本当にボーイだったか記憶が定かならず(確かそうだと思うんですが)(汗
 まあボーイもこれくらい化けますんで気にしないでってことでどうかよろしくお願いします;
 漫画家って今描いてる作品に全力投球するんで、昔の作品については、むしろ読者の方の方が詳しかったりするのでした。
 

追記2
 そういえば、このころはまだCG導入以前で
 全部手描きで描いてましたね。
 懐かしい昔です。
ぷれっしゃあああ!
「山本さんプレッシャーなんてないでしょう?」
 と、言われました。

 先日、某出版社の方とお話していて、いかに人が(読者が)プレッシャーと戦いながら生きているかという話になったときのことです。
「せいぜい締め切りを一日延ばして欲しいとかいう時とかくらいでしょう(山本さんがプレッシャーを感じるのは)?」
 と、その方に言われて
「とんでもない、そんなことないですよ」
 と答えたんですが

 それ以上詳しくその件について語ることもなく、話題は流れていってしまったんですが

 そんなにプレッシャーない人に見えてきたのかなあと
 しばし考えてしまいました(笑
(その方とは十数年のお付き合いです)


 ぶっちゃけ、私の人生はプレッシャーとの戦いでした。
 何しろ生来の小心者の上
「杞の国の住人」
 とつまに言われるくらいの心配性でした。
 プレッシャーのなかろうはずがありません。
 そんな人間が、漫画家などという、まったく安定の反対側にある商売についてしまったのですから、大変です。
 若いころは愚かで、明日は明日の風が吹く、とまでは言いませんが、まあなんとかなるさと思っていましたが
 歳をとるに連れ不安は増して行きました。

 単行本がガンガン売れて印税入りまくりのヒット作家ならいざ知らす(それはそれで、また別のストレス、プレッシャーがあります。知り合いでも円形脱毛症になったり、様々なダメージを受けながら描いてる人が色々)私は特定の出版社の庇護も受けないマイナーな一匹狼と言うか一匹猫みたいな作家ですから
 いつも明日の不安と戦いながら来ました。

 四十代の半ばにうつ状態で三年ばかり心療内科に通ったこともあります。
 人間どう生きるかについて考えるのが好きでしたが、本格的に腹をくくろうと思い立ったのもそのころだったように思います。

 悩みの解決法には二つあります。
 物理的解決と精神的解決です。
 悩みの原因を物理的に取り除くか、精神的に、その問題を悩みと感じなくなるかです。
 前者ができれば話は早いのですが、そうそううまくは行きません。
 後者も、色々なパターンがあって、病的な解決(それを解決と私は呼びませんが)はいただけません。
 現実を否定するとか妄想に逃げ込むとか(借金まみれの人が、俺には借金なんかないんだ、と思い込むとか、末期癌を宣告されたのに、自分は健康だと思い込むとか)
 なんの解決にもなりませんし、たいがい周囲も大迷惑です。
 建設的な精神的解決は
 現状をきちんと把握し認めた上で、それを平然と受け入れるということです。

 例えて言うなら、決闘の最中に、切りかかってくる相手の刀があることを否定するのではなく、きちんと認めた上で、なんら感情に左右されることなくそれに応対すると言うことです。
 うまく応対できたらサバイバル成功。
 できなかったら死ぬわけですが

 ポイントは一つ。
「今を生きる」と言う事。

 切り合っている最中に、これを受け切れなかったらこの先不幸になるとか、こんな目にあったら怖いようとか考えない。
 あの時こんな稽古をしていたらもっと強かったのにとか、考えても仕方がない過去にくよくよしない(そういう分析は決闘が終わってから暇なときにすることです)。
 そんなことを思っていたら、目の前の勝負に集中できない上、心身ともに萎縮して本来持っている力も発揮できません。全力をもってしても勝てるかわからないという瀬戸際に、全力も出し切れないでは勝負は終わりです。

 「今を生きる」
 と言っても、無計画に刹那主義で生きるということではなく、可能な限りの智慧と手段は講じるが、その結果に捉われない。
 結果はあくまで、より良い次の手を考えるための一つのデータであって
 感情的に捉われ振り回されるべきものではないと。
 つきつめるなら
「生死は問わない」
 ベストを尽くして力及ばず死んでも、別にかまわない。
 命を粗末にするという意味ではありません。精一杯生きるというのは命を大切に生きるということです。大切に大切に生きてダメならそれでかまわないだけです。

 私の漫画(とりわけ『弾(アモウ)』などのアクション漫画)を評して
「山本さんの作品って「デッドorアライヴ」ですよね」
 と言う友人がいますが
 それは、まんま私の人生観なのです。

 それは、恵まれた境遇の人間が空想で作り上げた机上の空論ではなく
 ぎりぎりのところを日々生き抜くために、必死に考えて行動して考えて行動して、その中で体得してきた生き抜く道なのでした。

「人間死ぬ気になればなんでもできる」などというのは、私から見れば大嘘で
 死ぬことよりも怖いことはこの世にいくらもあります。
 死ぬ腹をくくるなどと言うのは自転車に乗れるか乗れないかのようなもので
 乗れるまでは大変そうですが一回乗れてしまえばなんでもないことです。

 そっから先の道に、辛いことはいっぱいある。
 問題は
 それに感情的に振り回されたり押しつぶされたりしない。
 明日死ぬかもしれなくても、不治の病になったとしても
 暗い顔で「今」を「殺して」、「今をだいなしにして」生きたりしない。
 そう思って生きています。

 うまくいかないときもあります。
 泣きたいときもあります(たまに本当に泣きます)。
 不安で不安で全身から脱力しそうなときもあります。

 でも、そんな状態にフリーズしていても私も誰も幸せになりません。
 ばかばかしいのですぐやめます。

 そんな生き方が私を
「お気楽極楽」そうに見せたのでしょうか。
 そうじゃないよー!!!!!!!

 理想と現実のはざまで試行錯誤し、微調整を繰り返しながら
 山本貴嗣はきょうも生きます。

 みなさまも、よい風に恵まれますように。
 ではでは♪
あるのかないのかわからない(笑
 霊感とか超能力とかあったためしがない私です。
 以前も日記で書いたように、宅急便屋さんの来る直前にドアチャイムの幻聴で時々目覚めるとか
 昨年義父の死ぬ日の朝に死亡通知の夢見たとか
 そんなレベルで
 生来の方向尾音痴で東西南北はずれまくりですし
 少なくとも日常の役に立つような能力はありません(正夢とか意識して見るわけではないですし)。


 んで

 最近のチャンレンジ結果2題。
 いやチャレンジと言っても別に訓練してるわけじゃない(そういう興味はない)んでして、たまたまです。

 一つ目。

 某鑑定番組でお皿が出てきて
 ぱっと見て「当てて見るか」と思い、心をニュートラにして脳裏に浮かんだ数字
 最初「8」が浮かび、すぐに
「いや18だな」
 と思いまして
「じゃあ18万円かなあ」
 とか思ってたら、鑑定結果は50だか55万円だかで
「なんだー、ないよ超能力」
 そしたら鑑定士の人が
「直径18センチですね」
 センチかよ!
 これって当たったと言うのかはずれたと言うのか。
 友人に言ったら「それは18(万)円ではなくて、円(皿の直径)が18という見立てだったのでは?」と言われ、ううむそういう見方もあるかなーと(笑

 二つ目。
 つまがメロンパン三個買ってきました。
「一個は何も入ってないやつ。あとの二つは、クリーム入りとチョコレート入りだよ」
 と言って、つまは自分で一個食べました。それは何も入ってませんでした。
 じゃあ、あとの二個がクリームとチョコだな、ということで
 私は一個手にとって(チョコが食べたかったので)
「これがチョコじゃないかな」
 ぱく。
 クリームだよー!!
 ねえなー超能力;
 つまり最後に残った一個がチョコってことか。

 んでその日は終わりました。

 翌日残った一個をわくわくして二つにすると
「なんにも入ってねー!!!!」
 どうもパン屋さんが間違えてチョコを入れずにプレーンを二個入れてしまったようです。

 これって当たったとは
 言わないよなー。

 あるのかないのかわからない能力でした。ちゃんちゃん(笑

 パンの中身とか当てられなくていいから
 自分の漫画当てられるといいなー。
疑わしきは採らず
没ラフ200712

 他人の空似、じゃないですが
 漫画を描いていてうっかり何かに似てしまうことがあります。
 もの描きは時流を読んだり、組み合わせるベストの要素を計算して新しい作品を作り上げたりしますんで、話の設定や人物のデザインその他が似ることも少なくありません。
 私にも何度か経験があり、
 あるときなど、作りかけの作品が、あるテレビドラマと類似点があることを発見し(つまが録画していたのでたまたま知った。でなければ見落としているところでした)あわてて修正したものでした。
 こちらの方が先に描き始めていても(その点で良心に恥じるところは何もなくても)
 世の人にあらぬ誤解を招き、「パクリ」のレッテルを貼られるよりは変更した方が早い。
「李下に冠を正さず」
 というやつです。
 
 しかし、まったく知らずに作られた二つの作品(私の作品と他者の作品)で
 一つくらいならまだしも、三つとか共通点があると(マジであるんです、そういうことが!)
 世間は絶対偶然とは思ってくれませんから
 こちらの先行がはっきりと証明できない限りは、誤解を招かないように変更を加えるしかありません。

 些細な例としては、今回の画像のサイのバケモノ(ケータイ配信漫画用敵キャラの一つ)ですが
 去年の暮れに描いたイメージラフ
 それがこの春、遅ればせながら映画『300』のDVDを見ていたら、この種の甲冑デコレーションのサイがちょい役で出ていて、私は急遽「没」にしてしまいました。
 昔の銅版画などに描かれたサイ(有名なんでご存知の方も多いかと)のイメージを膨らませて、先史時代のサイの祖先系のイメージとからめてみたんですが
 やっぱりパクリと思う方がいると思うと面倒で没に

 というわけで
 よほどゆずれないもの以外は、パクリ嫌疑をかけられそうなアイテムやエピソードは可能な限り没にしていくよう心がけております。
 ただもの描きとして言えるのは
 
 世の中のパクリ疑惑(漫画に限らず、音楽その他)の何%かは、偶然というには不自然な共通点が何個かあるけど実は「無実」だったというケースが必ずあるのではないかと。
 法的には先に出した方に権利があったり(特許みたいに)色々ルールはありますが、真実は本人だけしかわからないわけで
 軽はずみな断罪はできないように思います。

 科学がお好きな方はご存知と思いますが
「平行進化」「収斂(しゅうれん)進化」というやつで、まったく無関係の別種の存在が、同様の環境に適応した結果クリソツな形になってしまうことは、ままある話です(イルカとサメとか、潜水艦と鯨とか)。

 
 今後も、誤解を受けないよう、気を配っていきたいと思います。

追記
 ケータイ配信描き下ろし漫画は
 今月末、2008年5月30日ごろの配信スタートになる予定です。
寝覚めよき 事こそなさめ
寝覚めよき 事こそなさめ 世の人の よしと悪しとは いうにまかせて
 
(日本の地下鉄の父、事業家早川徳次(のりつぐ)が大切にしていたという短歌。私淑していた政治家・後藤新平からもらった掛け軸に書かれていたそうです)(今年1月23日放送のNHK「その時歴史が動いた」311回より)

 先日、知り合いの漫画家さんとメールやりとりしてて
 どちらからともなく、こんなこと言ったら笑われるかもですがーみたいな話になって
 お互い正直に話しした方が気が楽ということになりまして
 そんで思い出したのがこの言葉です。

 愛とか真・善・美とか、その他、へたに口にすると笑われるかも、などという内容も
 別に笑う人は笑えばいいじゃんって♪

 司馬遼太郎先生言うところの「ナマな正直さ」(相手を傷つけるような思慮を欠いたむき出しの無神経な正直さ)は困りものですし、うっかり心情を吐露して社会生活が営めなくなるようなものも危ない(極端な例としては、某反○国家の中で、公平な視点で正論を説くとか)ですが、てえかそれをするにはかなりの覚悟がいりますが
 それ以外
 自分が少々笑われたり後ろ指さされるくらいは、むしろ気にせず
 己を偽って人の顔色ばかりうかがい窮屈に人生過ごすより
 正直に思うところを語って生きた方が気楽で楽しいと。

 人間「偽善者」も嫌ですが「偽悪者」も虚しいです。
 実際以上に自分をよく見せる必要もないけれど(経歴詐称で選挙に出るとか言う人は知りませんが)「偽善者」呼ばわりされるのを恐れて必要以上にワルぶるのもバカらしい(学生時代とかならまだしも)。
 だから私は最近、思ったことは可能な限りそのまま語るようにしています。

 今回の冒頭にかかげた文
「寝覚めのいいことこそしたいなあ。いいとか悪いとか世の中の人が批評するのは好きにしてもらって」
 というのは
 実に気持ちのいい言葉で、私は座右の銘にしています。
 無論色々バカですから、あとで失敗に気づいて反省することはあるでしょうが、それは同じ過ちをくりかえさないよう以後気をつければいいだけで
 お天道様に恥じないように生きればいいじゃん♪

寝覚めよき 事こそなさめ 世の人の よしと悪しとは いうにまかせて


 なんか、どういう脈絡で書いていいか迷う内容でしたが
 迷うよりそのまま書いちゃいました(笑
 ではでは


追記
 世間の批評を気にしないと言うのは、自分が迷惑かけた人の抗議をシカトするとか
 読者の声を無視して暴走した漫画を描くとかいう意味ではありません。念のため;
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