


一昨日は久々に少しだけ私のホームページ「あつじ屋」の更新と整理をしてました。
昔の記事で、mixiやFC2ブログに転載できそうなものは、ちょこちょこ転載してもいいかな、などと思いまして
で、今日は『火星のプリンセス』
有名なエドガー・ライス・バローズのSF小説で、中学のころ大ファンだった私は、創元推理文庫で全巻を何度も愛読したものです。
それが30年以上の時を経て、2003年に岩崎書店の依頼で、ジュブナイル版のカバーと挿絵を担当することになろうとは、当時夢にも思いませんでした。もし私がタイムマシンに乗って中学時代の私に会いに言って告げても、バックtoザ・フューチャーのレーガン大統領の話並みに、一笑に付されたと思います(笑
岩崎書店は昔から有名なSFやファンタジーのジュブナイルを出している老舗で、私も幼少時ずいぶんお世話になりました。
そういうわけで二重に思い入れのある仕事になりました。
最初の画像が、市販されたものの表紙の原画。
真ん中が修正前。
下が裏表紙(表4)です。
見てのとおり、決定稿の方が、ヒロイン、火星のプリンセス、デジャー・ソリスの露出度が少なくなっております。これはやはり児童向けということで、一稿目にはクレームがつき、こういう修正になったのですが
この当時は私、作画に今のようなCG作業を導入しておらず、手描きアナログだったもので、ナマ原稿に手を入れ、もはや最初のバージョンは、このようなスキャンデータとしてしか存在しません。
以下、いささか詳細を「あつじ屋」の該当ページから転載します。
『火星のプリンセス』
岩崎書店の「冒険ファンタジー名作選」
エドガー・R・バローズ=作/亀山龍樹=訳
(2003年10月15日 第一刷発行)
このプリンセスの出で立ちは岩崎書店版の本文の描写に従ったものです。
「かわいい少女だった。むらさきいろの、きぬのようなころもを身にまとい、なみうっている黒く長いかみの上に、黄金のかんむりをつけていた。はだはすきとおるようなピンク色をしていた」
これは創元版(厚木 淳=訳)の原典とは大きく異なるもので、原典は以下のとおり
「彼女の顔は面長で、えもいわれぬほど美しく、目鼻だちは一つ一つが彫りが深くて繊細で、つぶらな瞳は輝いている。波打つ漆黒の髪をふんわりと一つにまとめて、風変わりだがよく似合う髪形に結い上げている。肌は赤みがかった銅色で、紅潮した頬と形のよいルビー色の唇が肌の色と対照して輝き、あやしい効果を見せている。
彼女はそばにいる緑色人と同様、衣装を身につけていなかった。事実見事な装身具をつけているだけで、あとは裸身だった。その均整の取れた非の打ち所のない肢体は、なまじ衣装をつけていないだけにいっそう美しい」
まさに匂い立つような描写ですが、このままジュブナイルで映像化するのは確かに無理でしょう(泣
私は両方の文章を考慮して、原則岩崎書店版にのっとって描きつつ、原典にも可能な限り反しない折衷案を模索したつもりです。
表4のイラストは、主人公のジョン・カーター(別に火星のERではありません)(笑)と、火星の飛行艇です。
カーターの銃を、握りを前に右腰に描いたのは
かつてアメリカ合衆国の騎兵隊が、左腰にサーベルを吊り、右手で抜く関係上、左手で銃を抜けるようこういう携帯方法をとったという故事にちなんだものです(右手で銃を抜くときは、トウィステ・ドローと言って、手首をひねって抜きます)。
カーターは南軍の騎兵隊大尉という設定でしたから、あながち間違いではないと自負しているのですが・・・
ちなみに、バローズとりわけ火星シリーズと言えば、かの武部本一郎画伯の名画があまりにも有名で、私ごときが今更何を描くこともないのですが、岩崎書店版は、現代のお子様にも親しんでもらえるよう、現代の漫画家などに広くイラストを依頼するというコンセプトだったため、僭越ながらお受けしたものです。
あまりにも先達武部画伯が偉大なため、何を描いてもそしりは避けられないのですが、そういういきさつだったとご理解いただけますと幸いです;
追記
蛇足ですが、昨日(2007年10月29日)アマゾンで見たらまだ扱ってるようでした♪
追記2
FC2ブログの手引き書を買ったんですが
画像を直列でなく(スペースのムダだ!)横並びにする方法が、どうもよくわかりませんね。はてさて??;







私のホームページの「あつじ屋」にもありますが、ブログだけご覧になる方もおいでかと思いまして、「あつじ屋」には及びませんが、このブログにも「gallery/画廊」のカテゴリーを設けました。
カテゴリーリストの一番上にあります。これまでの記事から私の絵の入ったおもなものがご覧いただけます。
今回は2005年にジャイブから出ました拙著『エルフ17』の復刻版カヴァーの原画(と言っても手描きの絵をスキャンしてPCで彩色してありますので、厳密には原画データとでも言うのでしょうか)を並べてみました。
お目汚しにどうぞ♪
追記
『エルフ17』は私が二十代前半(もう四半世紀近く昔)白泉社の雑誌、月刊コミコミに連載した私の最初の長期連載作品でした。
白泉社版は全8巻。ジャイブ版は6巻。なお、昔白夜書房から出た復刻版では全4巻でした。
今朝方、友人の作家(マンガではなく文章の人)と電話してたら作家も使い捨て時代に入ってるという話が。ちなみに友人は私など及ばぬ巨大な才能の持ち主で30代後半で多忙を極めてます。
実は不肖山本、漫画家としてデビューして来年で30年になるんですが
友人曰く
「3年で消えてく漫画家山のようにいますよねー。
最近の小説家は4冊で消えますからね」
「4冊ってどういうことですか?」
と私が聞くと
「一年くらい書くといなくなるんですよ。編集部からホサれるとかじゃなくて、自分の中で書ける物がなくなっちゃうんです。ネタ切れってやつですね。で姿を消すと。」
「それって大変じゃないですか。日本は学校卒業前後の限られた時期を逃すとがくんと就職困難(正社員としての採用が困難)な異常な社会だから」
「ええ、ですから人生の重要な時期を作家暮らしで費やして、その後はフリーターです。
書けなくなっても本人は気持ちだけは作家ですからね。そのまま夢を追ってなかなかまっとうな仕事にはつかない。
困るのは編集サイドも、新人が一年前後で消えるんで使い捨て感覚になってきちゃって」
「作家育てるという感覚が薄れてると?」
「そうですねー」
ううむ、それは大変だ。
友人が言うにはマンガ業界も知的レベルの低下が激しく
昔はマンガしか読まなくてまっとうな本を読んだことが無い新人が・・・などと言っていたのが
ゲームしかしたことのない新人が
の時代を経て、最近は
ケータイしかしたことがない新人が
入ってくるのだそうで、当然まともなストーリーなど思いつかない人がいっぱいで、原作者の出番になるわけですが、この原作者がかなりな人手不足。
友人は多才なため、自前の小説のほかに、グルメマンガからレディース、果ては時代劇マンガまで名を変えて原作執筆している日々だそうです。
どうなるんだ出版業界?
って私が心配しても仕方ないんですが(自分の頭の上のハエで手一杯)
また、すべての編集部が同じ状態でもないんでしょうが(と思いたいですが)
時代の流れを感じた話でした。
実は不肖山本、漫画家としてデビューして来年で30年になるんですが
友人曰く
「3年で消えてく漫画家山のようにいますよねー。
最近の小説家は4冊で消えますからね」
「4冊ってどういうことですか?」
と私が聞くと
「一年くらい書くといなくなるんですよ。編集部からホサれるとかじゃなくて、自分の中で書ける物がなくなっちゃうんです。ネタ切れってやつですね。で姿を消すと。」
「それって大変じゃないですか。日本は学校卒業前後の限られた時期を逃すとがくんと就職困難(正社員としての採用が困難)な異常な社会だから」
「ええ、ですから人生の重要な時期を作家暮らしで費やして、その後はフリーターです。
書けなくなっても本人は気持ちだけは作家ですからね。そのまま夢を追ってなかなかまっとうな仕事にはつかない。
困るのは編集サイドも、新人が一年前後で消えるんで使い捨て感覚になってきちゃって」
「作家育てるという感覚が薄れてると?」
「そうですねー」
ううむ、それは大変だ。
友人が言うにはマンガ業界も知的レベルの低下が激しく
昔はマンガしか読まなくてまっとうな本を読んだことが無い新人が・・・などと言っていたのが
ゲームしかしたことのない新人が
の時代を経て、最近は
ケータイしかしたことがない新人が
入ってくるのだそうで、当然まともなストーリーなど思いつかない人がいっぱいで、原作者の出番になるわけですが、この原作者がかなりな人手不足。
友人は多才なため、自前の小説のほかに、グルメマンガからレディース、果ては時代劇マンガまで名を変えて原作執筆している日々だそうです。
どうなるんだ出版業界?
って私が心配しても仕方ないんですが(自分の頭の上のハエで手一杯)
また、すべての編集部が同じ状態でもないんでしょうが(と思いたいですが)
時代の流れを感じた話でした。

たまに見かける銀ピカのタンクローリー
鏡みたいなボディに、写る景色は不思議な眺めです。
このカットは散歩中に写したものですが
バイクで走ってるときに、すぐ前をこのタイプが走っていると、その後部に自分と自分のバイク、道と周囲の風景が映し出され、
自分たちはぐんぐん前方に走っているのに、写った「鏡」の中の風景は、反対にどんどん後方に飛び退って行く。
そんな不思議な映像を見ながら走ることになります。
これがけっこう楽しくて
走行中鏡面ボディのタンクローリーの後ろにつけると、なんだか得した気分になるのでした。
10年以上前、牛乳を入れた銀のタンクローリーの後ろを走ったときは、とってもハッピーだった覚えがあります。
あまり見とれて、陶酔感に現実を忘れると命取りなので
ほどほどにしないとまずいんですが・・・
なんか日記書こうと思ったんですが、書きたいことはいっぱいあるんだけど、いずれも帯に短しタスキに長しで悩んでました。
でもいいや。きょうはあえて、ざっくり誤解を恐れずに言いますと
愛だろ愛♪
です。
愛し合ってるかーい?
てのもありましたね♪
先日の中島みゆき姐さんの新譜についての日記でも少し触れましたが
「無条件の愛」とか「アガペー」とか言うと、そんなものは信じられないとか存在しないという方もいらっしゃいますし、悪いものでも食べたか変な宗教にでも入ったかと誤解されるので、あまりまっこう直球勝負では書けません。
ですのであたりさわりのない(誤解を受けない)範囲でなにか語ろうとなって、
実は言いたいことの核心からははずれた、本当は二の次三の次の話に終始することになります。
ブログはまだダイレクトに言葉で語れるからマシで、漫画などの作品になるともっと難しいです。
あくまで「もののたとえ」ですが、人は自分がいる場所からあまりにかけはなれた「天国」を提示されると、そんな幸せすぎる境遇はありえない絵空事か詐欺に違いない、リアリティがない、信じられない、という反応を示す場合が大半のようで、仕方ないからそういう人には、その人が今いる「地獄」よりも、少しだけマシな「ぬるい地獄」を提示します。すると安心納得してその「ぬるい地獄」でささやかな幸せにひたるという・・・
私は多くのエンターテインメントを見て、あまりにその一見多様に見えて実は似通った「ぬるい地獄」としか思えない「擬似天国」に満ちていることに呆然となります。
いい加減もうちょっと率直に「天国」を語る作品があってもいいのではないかと思うのですが、そういうものには説得力がないので、ほとんど支持されないのでしょう。そのうち描けるものなら描いてみたいものですが(笑)。
「無条件の愛」の具体例として、すぐに思い浮かぶのはマザーテレサです。
インドで路上で行き倒れた人を助け最後を看取る活動をしていたとき、人々はマザーを、口では奇麗事を言ってるが所詮気の毒な人に恩を売ってキリスト教に改宗させるための計略、偽善者だろうと笑ったわけですが
マザーは、その人の信ずる宗教に従って葬り、仏教徒は良き仏教徒であればそれでいい(ヒンズーその他の宗教もそれぞれ)という態度でのぞみ、けして自分の信仰を押し付けたりしませんでした。
それは、ほんの一例ですが
そういう見返りを求めない、値札のついてない愛に、ふだん出会う機会は確かに少ないです。
でも少ないことと、存在しないことは別です。
あるところにはあるし、あっても気がつかないことが多い。
でも、この歳まで生きてくると、あるところにはあるし、自分もその恩恵を受けてきた。またけして、遠い手の届かない他人事ではなく、不完全ではあっても自分もいささかなりとも、そういうものに関われると思います。
「生み出す」と言わずに「関われる」という微妙な表現をしたのは
私は愛は、人間がゼロから(無から)生み出すものではなく、太陽光や石油などのエネルギー同様、宇宙にすでにあるものを、いろんな形で受け取って、形を変えて外に出しているのに過ぎないのではないかと思っているからです。
だから、「オレが生み出した」のではなく「加工して次に渡した」くらいのことではないかと♪
愛とは何かについての詳細はまたの機会に書きますが(近いうちに)
人間が物理的肉体を維持し、死ぬまで生きる活動のために必要な、いたしかたない殺生を始めとするもろもろの作業は別として
どこまで日々愛でいられるか(厳密には殺生も無益でない限り区別はできないと思うのですが、それはさておき)。
てのが私には近年の人生のテーマです。
日々の出会いや出来事の中にどれだけ愛を見出せるか
どれだけ心と魂を励まし、世界のあらさがしではなく、美しさや素晴らしさを見出すことにフォーカスできるか。
それは、いろんな問題から目をそらすことではなく、問題は問題としてきちんと認識し取り組んだ上で、という前提のもとにです。
問題は日々次々と発生し、無視しては先に進めません。
けれど解決すべきことに取り組むことと、それを敵視することとは別問題です。
世界はあまりに多くの、怒り、恨み、不平、呪いに満ちていますから
そこに私が何を今更、加える必要があるでしょう。
そういうことの一言も、語りたいとは思いません。語ることで私か、ほかの誰かが、1mmでも幸せになるのなら別ですが。
聞くところでは、マザーテレサは、平和のための集会ならば参加するけれど、「反戦」集会には興味がない人だったとか。
事実とすればわかってる方だなあと思います(と言うか、まあ私などが言うまでもなく、いや思うよりもずっとずっとわかってる方だったと思うのですが)(笑)。
「地獄」はその人がそこに飽きるまでは、その人の大切な「天国」であります。
不完全な私が全能力を動員してイメージしても、それは所詮「不完全な天国」に過ぎず、もしいつの日かそこに到達しても、それはいつの日にかまた、打ち捨てられる「仮の天国」に過ぎないでしょう。
それは永遠に(人間に本当の「永遠」の意味などわかりませんが)続くプロセスです。
では、そんなものなど求めず、この「地獄」で良いではないかという方もおいででしょうが、そういう方も、おそらく雨が降れば軒下を探し、酷暑の夏にはエアコンの部屋を求め、腹が減ったら何か食べることでしょう。真実そうした作業をすべて放棄した方がおいでであれば、たぶんその方は「この地獄で良いではないか」などと誰か(私にも)言うことさえないでしょう(笑)。
人はより良い「天国」を求めるものです。
ただ、その歩幅にものすごく個人差があり
ステップアップと勘違いして同じ階の別の部屋をぐるぐる移動しがちな存在のように思います(そのことだけでも、また一項を設けないと語れないくらいです)。
ちょっと話の風呂敷を広げすぎたかもですが
バカを承知で書きますと
私が少しでもきょうも愛であれますように。
あなたが少しでもきょうも愛であれますように。
きょうが豊かな日でありますように。
何を言おうと何を書こうと
人生はただ、手を代え品を代え、化粧を代えて
ただそれだけを語るプロセスに過ぎないのではないかと。
そんなことを思う日々です。
追記
別に何から何まで無条件の愛でないといけないとかいうのではありません。この世で生きていく以上、ギヴ&テイクは避けられないことです。
ただ、その場合は、それはまるごと愛なのではなく
その何割かは「取引き」であると自分で自覚しておくことだと思っています。
でもいいや。きょうはあえて、ざっくり誤解を恐れずに言いますと
愛だろ愛♪
です。
愛し合ってるかーい?
てのもありましたね♪
先日の中島みゆき姐さんの新譜についての日記でも少し触れましたが
「無条件の愛」とか「アガペー」とか言うと、そんなものは信じられないとか存在しないという方もいらっしゃいますし、悪いものでも食べたか変な宗教にでも入ったかと誤解されるので、あまりまっこう直球勝負では書けません。
ですのであたりさわりのない(誤解を受けない)範囲でなにか語ろうとなって、
実は言いたいことの核心からははずれた、本当は二の次三の次の話に終始することになります。
ブログはまだダイレクトに言葉で語れるからマシで、漫画などの作品になるともっと難しいです。
あくまで「もののたとえ」ですが、人は自分がいる場所からあまりにかけはなれた「天国」を提示されると、そんな幸せすぎる境遇はありえない絵空事か詐欺に違いない、リアリティがない、信じられない、という反応を示す場合が大半のようで、仕方ないからそういう人には、その人が今いる「地獄」よりも、少しだけマシな「ぬるい地獄」を提示します。すると安心納得してその「ぬるい地獄」でささやかな幸せにひたるという・・・
私は多くのエンターテインメントを見て、あまりにその一見多様に見えて実は似通った「ぬるい地獄」としか思えない「擬似天国」に満ちていることに呆然となります。
いい加減もうちょっと率直に「天国」を語る作品があってもいいのではないかと思うのですが、そういうものには説得力がないので、ほとんど支持されないのでしょう。そのうち描けるものなら描いてみたいものですが(笑)。
「無条件の愛」の具体例として、すぐに思い浮かぶのはマザーテレサです。
インドで路上で行き倒れた人を助け最後を看取る活動をしていたとき、人々はマザーを、口では奇麗事を言ってるが所詮気の毒な人に恩を売ってキリスト教に改宗させるための計略、偽善者だろうと笑ったわけですが
マザーは、その人の信ずる宗教に従って葬り、仏教徒は良き仏教徒であればそれでいい(ヒンズーその他の宗教もそれぞれ)という態度でのぞみ、けして自分の信仰を押し付けたりしませんでした。
それは、ほんの一例ですが
そういう見返りを求めない、値札のついてない愛に、ふだん出会う機会は確かに少ないです。
でも少ないことと、存在しないことは別です。
あるところにはあるし、あっても気がつかないことが多い。
でも、この歳まで生きてくると、あるところにはあるし、自分もその恩恵を受けてきた。またけして、遠い手の届かない他人事ではなく、不完全ではあっても自分もいささかなりとも、そういうものに関われると思います。
「生み出す」と言わずに「関われる」という微妙な表現をしたのは
私は愛は、人間がゼロから(無から)生み出すものではなく、太陽光や石油などのエネルギー同様、宇宙にすでにあるものを、いろんな形で受け取って、形を変えて外に出しているのに過ぎないのではないかと思っているからです。
だから、「オレが生み出した」のではなく「加工して次に渡した」くらいのことではないかと♪
愛とは何かについての詳細はまたの機会に書きますが(近いうちに)
人間が物理的肉体を維持し、死ぬまで生きる活動のために必要な、いたしかたない殺生を始めとするもろもろの作業は別として
どこまで日々愛でいられるか(厳密には殺生も無益でない限り区別はできないと思うのですが、それはさておき)。
てのが私には近年の人生のテーマです。
日々の出会いや出来事の中にどれだけ愛を見出せるか
どれだけ心と魂を励まし、世界のあらさがしではなく、美しさや素晴らしさを見出すことにフォーカスできるか。
それは、いろんな問題から目をそらすことではなく、問題は問題としてきちんと認識し取り組んだ上で、という前提のもとにです。
問題は日々次々と発生し、無視しては先に進めません。
けれど解決すべきことに取り組むことと、それを敵視することとは別問題です。
世界はあまりに多くの、怒り、恨み、不平、呪いに満ちていますから
そこに私が何を今更、加える必要があるでしょう。
そういうことの一言も、語りたいとは思いません。語ることで私か、ほかの誰かが、1mmでも幸せになるのなら別ですが。
聞くところでは、マザーテレサは、平和のための集会ならば参加するけれど、「反戦」集会には興味がない人だったとか。
事実とすればわかってる方だなあと思います(と言うか、まあ私などが言うまでもなく、いや思うよりもずっとずっとわかってる方だったと思うのですが)(笑)。
「地獄」はその人がそこに飽きるまでは、その人の大切な「天国」であります。
不完全な私が全能力を動員してイメージしても、それは所詮「不完全な天国」に過ぎず、もしいつの日かそこに到達しても、それはいつの日にかまた、打ち捨てられる「仮の天国」に過ぎないでしょう。
それは永遠に(人間に本当の「永遠」の意味などわかりませんが)続くプロセスです。
では、そんなものなど求めず、この「地獄」で良いではないかという方もおいででしょうが、そういう方も、おそらく雨が降れば軒下を探し、酷暑の夏にはエアコンの部屋を求め、腹が減ったら何か食べることでしょう。真実そうした作業をすべて放棄した方がおいでであれば、たぶんその方は「この地獄で良いではないか」などと誰か(私にも)言うことさえないでしょう(笑)。
人はより良い「天国」を求めるものです。
ただ、その歩幅にものすごく個人差があり
ステップアップと勘違いして同じ階の別の部屋をぐるぐる移動しがちな存在のように思います(そのことだけでも、また一項を設けないと語れないくらいです)。
ちょっと話の風呂敷を広げすぎたかもですが
バカを承知で書きますと
私が少しでもきょうも愛であれますように。
あなたが少しでもきょうも愛であれますように。
きょうが豊かな日でありますように。
何を言おうと何を書こうと
人生はただ、手を代え品を代え、化粧を代えて
ただそれだけを語るプロセスに過ぎないのではないかと。
そんなことを思う日々です。
追記
別に何から何まで無条件の愛でないといけないとかいうのではありません。この世で生きていく以上、ギヴ&テイクは避けられないことです。
ただ、その場合は、それはまるごと愛なのではなく
その何割かは「取引き」であると自分で自覚しておくことだと思っています。
仕事用の主要マシン二台のうち、ノートの方が先日トラブル。
起動にものすごく時間がかかるようになって、とうとうまともに立ち上がらなくなり修理に出してましたが、ハードディスクを交換(より高性能に)して戻ってきました。
いやー、なんだか前より早くなって(いやなんだかではなく実際に)快調です♪
きょうは描き直したコンテを編集部に送ってちょっと一息。
可否がわかるまで少しかかりますので、やれる仕事を進めるのでした。
『弾(アモウ)』五巻の私のすべき仕事は先ごろ全部納めてしまいましたから、あとは発売を待つだけなのですが、BBSのお客様のお話では11月20日発売予定との情報が。
編集部にはまだ確かめていないのですが、また詳しいことがわかりましたらアップいたします。
情報をくださったお客様には感謝ですー!
起動にものすごく時間がかかるようになって、とうとうまともに立ち上がらなくなり修理に出してましたが、ハードディスクを交換(より高性能に)して戻ってきました。
いやー、なんだか前より早くなって(いやなんだかではなく実際に)快調です♪
きょうは描き直したコンテを編集部に送ってちょっと一息。
可否がわかるまで少しかかりますので、やれる仕事を進めるのでした。
『弾(アモウ)』五巻の私のすべき仕事は先ごろ全部納めてしまいましたから、あとは発売を待つだけなのですが、BBSのお客様のお話では11月20日発売予定との情報が。
編集部にはまだ確かめていないのですが、また詳しいことがわかりましたらアップいたします。
情報をくださったお客様には感謝ですー!
ちょっと長いです今回(すみません);
先日友人の漫画家さんと電話してたら(子供いや少なくとも姪っ子くらい歳の離れてる人ですが)
「中島みゆきの新しいアルバムいいですよー♪」
と
私が中島ファンであることをご存知で、あちらもけっこうお好きだったせいなんですが教えてくれまして
久々に私買いました。
私は若い頃から中島姐さん(の歌)は好きですが、さすがに失恋系の歌はずいぶん昔に興味が失せて、もっぱら人生歌ってる歌を愛聴してました(いや恋愛に仮託してもっと高次のテーマを歌ってるものもあるんでしょうが)。
姐さんとはなにか訴えたいことにあい通じるものがあって(おめえの作品そうは見えねーと言われそうですがあるんです)以前も書いたことがありますが、あのヒット曲『地上の星』の数年前に、拙著『超(チャオ)』で「人は地の星」というセリフで一くさりヒロインが語ってたりとか(笑
私は近年どこまで愛と光を追求できるかが人生のテーマに(元々そっちを目指してはいたけど、本当に火がついたのはこの2〜3年)なってるんですが、電話した友人の話では今回の新譜
『I Love You 答えてくれ』
では、そういう方向に姐さんも行ってるのが全編に流れてるというので。
最近の2〜3枚はアルバム買わなくなってたんですが、久々に買った私です。
結論から言って、良かったです♪
さすが姐さん、やるなあ!って感じで。
とりわけ二曲目の『顔のない街の中で』は、キタキタキター!!
「見知らぬ人の笑顔も 見知らぬ人の暮らしも 失われても泣かないだろう」
という歌いだしで
見知らぬ人にはいくらでも冷たく無関心、どころか攻撃的にさえなってしまう人の心に言及し
「ならば見知れ 見知らぬ人の心を 思い知るまで見知れ 顔のない街の中で」
と歌います。
うわー、まいりました。
これって私の今の最も重要なテーマというか、まあこの世に生を受けて「在る」意味だったりするんですが
ここまで直球勝負で歌った歌を私は知りません。
これ一曲でも脱帽です。泣きました。
蛇足ですがこれ、他人に説教する歌じゃなくて、自分に突きつける歌だと私は思います。
「見知らぬ人の心を思い知るまで見知れオレ」ってことですね(笑
ほかにもいい歌色々あるんですが
ここで思うのは、中島姐さんのバランス感覚です。
美輪明弘さんが言ってましたが、ある種の悟りというか人生を達観した境地にいくと、その本人はいいけど、一般のお客様と感覚がずれてしまって人の心に寄り添い訴える歌や芝居ができない。だからまた後戻りして歌い演ずるみたいな。言葉は正しくは覚えてませんがそういう意味のことです。
これってまったくそうだと思うんですが
正直辛いことだと思います。
言うなれば、無駄なストレス解消法を見つけてゴミに出したのに、また拾ってつけなきゃいけないんです。なにが悲しゅうてそんなことを・・・って、それが使命だったりして(笑
中島姐さんも延々そうですよね。
どこまであえて後戻りしてるのか、実は本人が足踏みしてるのかわかりませんが
でも頭のいい人ですから、かなり「わかった上で」やっておいでなのでしょう。
私は正直ルサンチマン(怨みとか憤りとか)をベースのメッセージはもううんざりしてまして、それを手放さないと本当の意味での愛も平和もないだろうと思うものですが
本当にそこいっちゃうと普通の人がついてこない。
わかってる人だけしか納得してくれなくて、でもわかってる人にはそんなメッセージあまり必要ないんですよね(もうわかってるんですから)。
「健康な人に医者はいらない」
という意味のことをイエスも言ってましたが、そういうことです。
本当に励ましや癒しを必要としているのは、むしろ、そういうもの遮るもろもろを手放せないでいる人なわけで
ある意味医者や警官と同じジレンマ。
病気の人、犯罪者がなくなることがテーマであるけど、そういった人々が存在しないと成立しない職業。本当は健康な人、心と行い正しき人(何が正しいかという議論はとりあえず置くとして)とだけ接して生きられたら、それが最高にお気楽なんですが
そうじゃないのを前提に選んだ職業なわけです。
漫画家などというのも一応エンターテイナーの端くれなわけですが
エンターテインメントを必要としている方は、心のどこかに満たされないものを抱えておいでなわけです。
無論ピンキリで、怒りや悲しみで絶望のどん底にある方から、かなり概ねハッピーでマンガなんかあってもなくてもどうでもいいという方まで様々でしょうが
でも物質的にも精神的にもなにもかも満たされいて、幸せおなかいっぱいー!という方は、普通娯楽を求めません。何しろ日常自体が娯楽なんですから(笑)。求めても、熱心に買いあさったりましてやファンレターやアンケートを書いてくださったりはなさらないでしょう。
誤解をされるといけないんですが、これは別に「満たされている者が満たされない者に幸せをおすそわけする」とかいう意味ではなくて、八百屋さんが野菜を売るように、魚屋さんが魚を売るように、
娯楽という商品を売るのがエンターテイナーなだけです。
エンターテイナーはエンターテイナーで、様々な悩みや苦しみがあるわけですが、それはそれとしてお客様に楽しんでいただくのが商売なわけです(不治の病を持ったお笑い芸人とかもおいです)。
んで、えーと
その「後戻り」なんですが
このアルバム一曲目は『本日、未熟者』という、いきなり読者目線いや聴き手目線の内容で
まあいいそれは。ある意味定石でしょう。
気になったのは最後の表題曲『I Love You 答えてくれ』ですが。
これ中島姐さん流にアガペーを歌ってる歌です。無条件の愛ですね。
「何か返してもらうため 君に愛を贈るわけじゃない
あとで返してもらうため 君に時を贈るわけじゃない」
「愛さずにいられない馬鹿もいる 悩まないで受け取ればいいんだよ」
とそこはいいんですが、最後に
「受け取ったと答えて欲しいだけさ I Love You 答えてくれ」
とサビに入るんですが
うーん、惜しい。
私の感想としては「惜しい」。
その「答えてくれ」も手放したら楽になるのに。アガペーなのに。
誰かのためじゃなくて(ためにもなるけど)自分自身のため、無用の苦悩にさよならするために、その「答えてくれ」ともさよならすればいいのに。
ちょっと話はずれますが、最近新聞広告などで、加島祥造という人の『求めない』という本を見かけます。
「ほんの3分でも求めないでいてごらん。不思議なことが起こるから---。求めない---すると、何かが変わる。
求めない すると心が広くなる
求めない すると恐怖心が消えてゆく
求めない すると一つの調和が起こる
求めない すると待つことを知るようになる」
とありますが。
まったくそのとおりだと思います。「16万部突破」とか書いてありましたが、そういうメッセージが世に入れられるのはいい事だと(中身読んでませんが、この広告で書かれている内容に偽りがなければ)思うのですが
一方で複雑な気持ちにもなりました。
これって昔からあまたの賢人聖人が訴えてきたことだと思うんですよね。イエスしかり釈迦しかり。近年ではガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド』なんかもそうだと思います。だから、この本で始めてそんなことを知った、みたいな読者の声を見ると、この人今までどこ見て歩いてきたのかなーと、いささか脱力するのでした。
いやこれは私が間違っているのであって、どんな人にもタイミング、縁というものがあり、機が熟さないとどんな宝物も目に入らないわけです。これを読んで救われたと言う方は、出会うべきタイミングで出会うべき本に出会えたわけで、それはとっても幸せなことでしょう。
しかし
そういう境地はけして何かのゴールではなく、新しい人生のスタートでもあるわけです。
そこがわかって始まるネクストステージ。
実は先日もつまと、作品で訴えられるものって何かって話をしてまして
無条件の愛を理解できる人はほとんどいないから、それは描くことは難しいのではないかというのがつまの意見。
私は、確かにそうであった時代もあるけど、もうそういう時代も終わっていくんじゃないかという意見。
これについて書くとまたエラく長くなるので別の機会にしますが
中島姐さんの「答えてくれ」は、お客様のために一歩戻って「控えた一手」なのか。本当に自身がそう思っているのか。
もしそうであれば、「それは愛ではない」いや「不完全な愛」。
色々考えさせられるアルバムでした。
姐さんの巨大な才能と類稀な歌声には、ひたすら感服愛聴しております♪
追記
加島氏の『求めない』について思ったもう一つのこと
これは、様々な聖賢が大昔から語ってきたことと書きましたが、正しくは語ってきたことの中の一つです。
私も作品で何かを語る際、色々語ることの中の一つとして語ってしまいそうなんですが
それでは受け取れない人がいる。
わざわざこの「求めない」ということ一つにフォーカスすることで、始めて受け取ることができる人がいる。
そういう親鳥が咀嚼して雛鳥に与えるような作業を、この加島という方はなさっているのかもと。
人にメッセージを伝えることの難しさを改めて思いました。
受け取ってもらえないメッセはオナニーといっしょで虚しいものです。それでも時代を超えてわかる人だけにわかってもらえれば、という文言もありますが(イエスや釈迦もそうでしょう)
マンガなんて本当に風に舞い飛ぶ季節モノですから
今読んでくださる方の心に響かないとどうにもなりません。
ああ大変だ大変だ(頭を抱える私です);
先日友人の漫画家さんと電話してたら(子供いや少なくとも姪っ子くらい歳の離れてる人ですが)
「中島みゆきの新しいアルバムいいですよー♪」
と
私が中島ファンであることをご存知で、あちらもけっこうお好きだったせいなんですが教えてくれまして
久々に私買いました。
私は若い頃から中島姐さん(の歌)は好きですが、さすがに失恋系の歌はずいぶん昔に興味が失せて、もっぱら人生歌ってる歌を愛聴してました(いや恋愛に仮託してもっと高次のテーマを歌ってるものもあるんでしょうが)。
姐さんとはなにか訴えたいことにあい通じるものがあって(おめえの作品そうは見えねーと言われそうですがあるんです)以前も書いたことがありますが、あのヒット曲『地上の星』の数年前に、拙著『超(チャオ)』で「人は地の星」というセリフで一くさりヒロインが語ってたりとか(笑
私は近年どこまで愛と光を追求できるかが人生のテーマに(元々そっちを目指してはいたけど、本当に火がついたのはこの2〜3年)なってるんですが、電話した友人の話では今回の新譜
『I Love You 答えてくれ』
では、そういう方向に姐さんも行ってるのが全編に流れてるというので。
最近の2〜3枚はアルバム買わなくなってたんですが、久々に買った私です。
結論から言って、良かったです♪
さすが姐さん、やるなあ!って感じで。
とりわけ二曲目の『顔のない街の中で』は、キタキタキター!!
「見知らぬ人の笑顔も 見知らぬ人の暮らしも 失われても泣かないだろう」
という歌いだしで
見知らぬ人にはいくらでも冷たく無関心、どころか攻撃的にさえなってしまう人の心に言及し
「ならば見知れ 見知らぬ人の心を 思い知るまで見知れ 顔のない街の中で」
と歌います。
うわー、まいりました。
これって私の今の最も重要なテーマというか、まあこの世に生を受けて「在る」意味だったりするんですが
ここまで直球勝負で歌った歌を私は知りません。
これ一曲でも脱帽です。泣きました。
蛇足ですがこれ、他人に説教する歌じゃなくて、自分に突きつける歌だと私は思います。
「見知らぬ人の心を思い知るまで見知れオレ」ってことですね(笑
ほかにもいい歌色々あるんですが
ここで思うのは、中島姐さんのバランス感覚です。
美輪明弘さんが言ってましたが、ある種の悟りというか人生を達観した境地にいくと、その本人はいいけど、一般のお客様と感覚がずれてしまって人の心に寄り添い訴える歌や芝居ができない。だからまた後戻りして歌い演ずるみたいな。言葉は正しくは覚えてませんがそういう意味のことです。
これってまったくそうだと思うんですが
正直辛いことだと思います。
言うなれば、無駄なストレス解消法を見つけてゴミに出したのに、また拾ってつけなきゃいけないんです。なにが悲しゅうてそんなことを・・・って、それが使命だったりして(笑
中島姐さんも延々そうですよね。
どこまであえて後戻りしてるのか、実は本人が足踏みしてるのかわかりませんが
でも頭のいい人ですから、かなり「わかった上で」やっておいでなのでしょう。
私は正直ルサンチマン(怨みとか憤りとか)をベースのメッセージはもううんざりしてまして、それを手放さないと本当の意味での愛も平和もないだろうと思うものですが
本当にそこいっちゃうと普通の人がついてこない。
わかってる人だけしか納得してくれなくて、でもわかってる人にはそんなメッセージあまり必要ないんですよね(もうわかってるんですから)。
「健康な人に医者はいらない」
という意味のことをイエスも言ってましたが、そういうことです。
本当に励ましや癒しを必要としているのは、むしろ、そういうもの遮るもろもろを手放せないでいる人なわけで
ある意味医者や警官と同じジレンマ。
病気の人、犯罪者がなくなることがテーマであるけど、そういった人々が存在しないと成立しない職業。本当は健康な人、心と行い正しき人(何が正しいかという議論はとりあえず置くとして)とだけ接して生きられたら、それが最高にお気楽なんですが
そうじゃないのを前提に選んだ職業なわけです。
漫画家などというのも一応エンターテイナーの端くれなわけですが
エンターテインメントを必要としている方は、心のどこかに満たされないものを抱えておいでなわけです。
無論ピンキリで、怒りや悲しみで絶望のどん底にある方から、かなり概ねハッピーでマンガなんかあってもなくてもどうでもいいという方まで様々でしょうが
でも物質的にも精神的にもなにもかも満たされいて、幸せおなかいっぱいー!という方は、普通娯楽を求めません。何しろ日常自体が娯楽なんですから(笑)。求めても、熱心に買いあさったりましてやファンレターやアンケートを書いてくださったりはなさらないでしょう。
誤解をされるといけないんですが、これは別に「満たされている者が満たされない者に幸せをおすそわけする」とかいう意味ではなくて、八百屋さんが野菜を売るように、魚屋さんが魚を売るように、
娯楽という商品を売るのがエンターテイナーなだけです。
エンターテイナーはエンターテイナーで、様々な悩みや苦しみがあるわけですが、それはそれとしてお客様に楽しんでいただくのが商売なわけです(不治の病を持ったお笑い芸人とかもおいです)。
んで、えーと
その「後戻り」なんですが
このアルバム一曲目は『本日、未熟者』という、いきなり読者目線いや聴き手目線の内容で
まあいいそれは。ある意味定石でしょう。
気になったのは最後の表題曲『I Love You 答えてくれ』ですが。
これ中島姐さん流にアガペーを歌ってる歌です。無条件の愛ですね。
「何か返してもらうため 君に愛を贈るわけじゃない
あとで返してもらうため 君に時を贈るわけじゃない」
「愛さずにいられない馬鹿もいる 悩まないで受け取ればいいんだよ」
とそこはいいんですが、最後に
「受け取ったと答えて欲しいだけさ I Love You 答えてくれ」
とサビに入るんですが
うーん、惜しい。
私の感想としては「惜しい」。
その「答えてくれ」も手放したら楽になるのに。アガペーなのに。
誰かのためじゃなくて(ためにもなるけど)自分自身のため、無用の苦悩にさよならするために、その「答えてくれ」ともさよならすればいいのに。
ちょっと話はずれますが、最近新聞広告などで、加島祥造という人の『求めない』という本を見かけます。
「ほんの3分でも求めないでいてごらん。不思議なことが起こるから---。求めない---すると、何かが変わる。
求めない すると心が広くなる
求めない すると恐怖心が消えてゆく
求めない すると一つの調和が起こる
求めない すると待つことを知るようになる」
とありますが。
まったくそのとおりだと思います。「16万部突破」とか書いてありましたが、そういうメッセージが世に入れられるのはいい事だと(中身読んでませんが、この広告で書かれている内容に偽りがなければ)思うのですが
一方で複雑な気持ちにもなりました。
これって昔からあまたの賢人聖人が訴えてきたことだと思うんですよね。イエスしかり釈迦しかり。近年ではガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド』なんかもそうだと思います。だから、この本で始めてそんなことを知った、みたいな読者の声を見ると、この人今までどこ見て歩いてきたのかなーと、いささか脱力するのでした。
いやこれは私が間違っているのであって、どんな人にもタイミング、縁というものがあり、機が熟さないとどんな宝物も目に入らないわけです。これを読んで救われたと言う方は、出会うべきタイミングで出会うべき本に出会えたわけで、それはとっても幸せなことでしょう。
しかし
そういう境地はけして何かのゴールではなく、新しい人生のスタートでもあるわけです。
そこがわかって始まるネクストステージ。
実は先日もつまと、作品で訴えられるものって何かって話をしてまして
無条件の愛を理解できる人はほとんどいないから、それは描くことは難しいのではないかというのがつまの意見。
私は、確かにそうであった時代もあるけど、もうそういう時代も終わっていくんじゃないかという意見。
これについて書くとまたエラく長くなるので別の機会にしますが
中島姐さんの「答えてくれ」は、お客様のために一歩戻って「控えた一手」なのか。本当に自身がそう思っているのか。
もしそうであれば、「それは愛ではない」いや「不完全な愛」。
色々考えさせられるアルバムでした。
姐さんの巨大な才能と類稀な歌声には、ひたすら感服愛聴しております♪
追記
加島氏の『求めない』について思ったもう一つのこと
これは、様々な聖賢が大昔から語ってきたことと書きましたが、正しくは語ってきたことの中の一つです。
私も作品で何かを語る際、色々語ることの中の一つとして語ってしまいそうなんですが
それでは受け取れない人がいる。
わざわざこの「求めない」ということ一つにフォーカスすることで、始めて受け取ることができる人がいる。
そういう親鳥が咀嚼して雛鳥に与えるような作業を、この加島という方はなさっているのかもと。
人にメッセージを伝えることの難しさを改めて思いました。
受け取ってもらえないメッセはオナニーといっしょで虚しいものです。それでも時代を超えてわかる人だけにわかってもらえれば、という文言もありますが(イエスや釈迦もそうでしょう)
マンガなんて本当に風に舞い飛ぶ季節モノですから
今読んでくださる方の心に響かないとどうにもなりません。
ああ大変だ大変だ(頭を抱える私です);
行きつけのマーケットのレジ打ちの店員さんに美女がいまして。
年の頃は、う〜〜ん、私より少なくとも10歳は上と思われますから、60前後は行ってるかと。
身長は160cm前後。
きりりとした意思の強そうなクールビューティで
拙著で言うなら『セイバーキャッツ』のチカママ系でしょうか。
和製マリア・カザレス系(コクトーの映画『オルフェ』の女死神)とでも言うか(ちょっと褒めすぎかもですが、ニュアンスはそうです)。
「掃き溜めにツル」という言葉がありますが、とにかく周囲と異次元なオーラを放ってまして、見かけて何年か経ちますが、買い物にいくたび、いつもほれぼれ眺めています。
若い頃は女優かダンサー、もしかして宝塚とか?などと想像してしまうくらい。姿勢も良くて、只者とは思えないんですが(正直キャラに使いたいくらいで)
なぜこんな田舎の小さなマーケットでレジなど?
いえ、別に今の職業に失礼なことを考えているのではけしてなく、場違いで浮いてる存在という意味です。
たとえば、極端な例ですが、あなたが駅の立ち食いソバに入るとカウンターの向こうでキ○タクにクリソツなイケメンがソバゆでてるような、目まい感とでも申しましょうか。
なぜ、こういう人がここに・・・??みたいな。
場所を漫画家のスタジオにしても同じです。
私は商売柄道で行きかう人の、現在過去未来をシミュレーションすることがあります。ただのデバガメ趣味ではなく、仕事のデータ集めの一環でありトレーニングなんですが
この女性は果たしてどんな人生を歩み歩んでいるのか。
一度呼び止めて聞いてみたいくらいですが、それは危ないストーカーおやじと誤解されますのでできません。
きょうも件のマーケットに行く途中、向こうからナイスなプロポーションの乙女が夜道を歩いてくるので、おおー、とか感嘆してたら
私服姿のその人でした。
・・・・・・。
夜道で顔が見えない段階でシルエットで見てますから
まったく別人として認識してるわけですので、ひいきして見たわけではありません(普段は店員服なのであまりボディラインがわかりません)。
歳とっても顔だけ若くて綺麗な人はまあいますが
ボディもこれってどうよ?
正直、その辺の二十代など相手になりません。
どう見ても60くらいなんだがなあ・・・
こういうミステリアスな存在がいる暮らしというのはいいものです♪
あー、聞いてみたい。でも聞けない;残念〜〜;
追記
ああっ!今ふうのたとえを今思いついたぞ!
マクドのカウンターにいるヘレン・ミレンだあ!!(マジで
追記2
似顔絵を描きたいのはやまやまなんですが、ゴーマンとお叱りを覚悟で申せば、私の画力で描くと、肖像権侵害無断投稿状態になるため自粛しました;
追記3
さっき買い物に言ってきたつまが、件の美女を見かけたと言ってました。
「とってもガッツがあって弱いところがない感じねー(まさに私の描く女性キャラ)(笑)。
でも装甲は強いけどエンジンは少し非力かも。スキがないようだけどもろい面もありそうね」
それはそうかも。しかしそれだけ備わってりゃ十分じゃろーて(笑
ウィークポイントが一つくらいあった方がかえって魅力が増すくらいで・・・
年の頃は、う〜〜ん、私より少なくとも10歳は上と思われますから、60前後は行ってるかと。
身長は160cm前後。
きりりとした意思の強そうなクールビューティで
拙著で言うなら『セイバーキャッツ』のチカママ系でしょうか。
和製マリア・カザレス系(コクトーの映画『オルフェ』の女死神)とでも言うか(ちょっと褒めすぎかもですが、ニュアンスはそうです)。
「掃き溜めにツル」という言葉がありますが、とにかく周囲と異次元なオーラを放ってまして、見かけて何年か経ちますが、買い物にいくたび、いつもほれぼれ眺めています。
若い頃は女優かダンサー、もしかして宝塚とか?などと想像してしまうくらい。姿勢も良くて、只者とは思えないんですが(正直キャラに使いたいくらいで)
なぜこんな田舎の小さなマーケットでレジなど?
いえ、別に今の職業に失礼なことを考えているのではけしてなく、場違いで浮いてる存在という意味です。
たとえば、極端な例ですが、あなたが駅の立ち食いソバに入るとカウンターの向こうでキ○タクにクリソツなイケメンがソバゆでてるような、目まい感とでも申しましょうか。
なぜ、こういう人がここに・・・??みたいな。
場所を漫画家のスタジオにしても同じです。
私は商売柄道で行きかう人の、現在過去未来をシミュレーションすることがあります。ただのデバガメ趣味ではなく、仕事のデータ集めの一環でありトレーニングなんですが
この女性は果たしてどんな人生を歩み歩んでいるのか。
一度呼び止めて聞いてみたいくらいですが、それは危ないストーカーおやじと誤解されますのでできません。
きょうも件のマーケットに行く途中、向こうからナイスなプロポーションの乙女が夜道を歩いてくるので、おおー、とか感嘆してたら
私服姿のその人でした。
・・・・・・。
夜道で顔が見えない段階でシルエットで見てますから
まったく別人として認識してるわけですので、ひいきして見たわけではありません(普段は店員服なのであまりボディラインがわかりません)。
歳とっても顔だけ若くて綺麗な人はまあいますが
ボディもこれってどうよ?
正直、その辺の二十代など相手になりません。
どう見ても60くらいなんだがなあ・・・
こういうミステリアスな存在がいる暮らしというのはいいものです♪
あー、聞いてみたい。でも聞けない;残念〜〜;
追記
ああっ!今ふうのたとえを今思いついたぞ!
マクドのカウンターにいるヘレン・ミレンだあ!!(マジで
追記2
似顔絵を描きたいのはやまやまなんですが、ゴーマンとお叱りを覚悟で申せば、私の画力で描くと、肖像権侵害無断投稿状態になるため自粛しました;
追記3
さっき買い物に言ってきたつまが、件の美女を見かけたと言ってました。
「とってもガッツがあって弱いところがない感じねー(まさに私の描く女性キャラ)(笑)。
でも装甲は強いけどエンジンは少し非力かも。スキがないようだけどもろい面もありそうね」
それはそうかも。しかしそれだけ備わってりゃ十分じゃろーて(笑
ウィークポイントが一つくらいあった方がかえって魅力が増すくらいで・・・
多忙です。
コンテとかコンテとかコンテとか・・・・
先日買った自転車、家から一歩も出ていません。
この様子だと当分そのままです。
このブログも今一使い方がわからないので予約していた『FC2ブログではじめるこだわりブログ』というガイドブックが届いたのですが、取り組む(読む)暇が全然ないです。
と言うわけで、きょうはおもしろくもなんともない近況報告でした。
同業の友人も似たような修羅場の人が何人も。
先日も夜中の3時にある古い漫画家仲間にハッピーバスデイメールを送ったらすぐ返事がきまして
「おかげでコンテ中の眠りからさめることができました(隣の部屋に編集さん詰めてる)。マジありがとう。これから仕事に戻ります」
夜中の三時ですよ。50歳にもなってしんどいのおおおおおお!!(私はまだ48ですが)。
皆様もどうかくれぐれもご自愛ください。
私はまた鉛筆持って白い荒野をさまよいに行きます(てか昨夜6時過ぎに寝て9時過ぎに起きて、そのまま夜中からさまよってるところです。徹夜明けなのにもうちょっと寝たかったなあ・・・
コンテとかコンテとかコンテとか・・・・
先日買った自転車、家から一歩も出ていません。
この様子だと当分そのままです。
このブログも今一使い方がわからないので予約していた『FC2ブログではじめるこだわりブログ』というガイドブックが届いたのですが、取り組む(読む)暇が全然ないです。
と言うわけで、きょうはおもしろくもなんともない近況報告でした。
同業の友人も似たような修羅場の人が何人も。
先日も夜中の3時にある古い漫画家仲間にハッピーバスデイメールを送ったらすぐ返事がきまして
「おかげでコンテ中の眠りからさめることができました(隣の部屋に編集さん詰めてる)。マジありがとう。これから仕事に戻ります」
夜中の三時ですよ。50歳にもなってしんどいのおおおおおお!!(私はまだ48ですが)。
皆様もどうかくれぐれもご自愛ください。
私はまた鉛筆持って白い荒野をさまよいに行きます(てか昨夜6時過ぎに寝て9時過ぎに起きて、そのまま夜中からさまよってるところです。徹夜明けなのにもうちょっと寝たかったなあ・・・
京大工学博士の依田賢太郎という方が書かれた社会評論社の本です。
買いました。
日本は世界でもまれにみる動物供養塚などの多い国だそうで
依田氏はそれについて綿密な調査研究をしてまとめられたものです。
動物好きなら読まいでか!な本ですが
今私はコンテで忙しいので、つまが先に手をつけまして
したらさっそく猫塚のとこで泣いちゃった〜〜って言ってきて私も読んで泣いちゃった〜〜;
いや、あくまで伝説みたいなもので、厳密な史実ではなく、「物語」として分類されてるんですが一例を
「東京都墨田区両国 回向院
1816年に建てられたもので、次のような猫の報恩伝説で知られる。江戸両替町の時田喜三郎の飼い猫は、出入りの魚屋がいつも魚をくれるので、魚屋ががくる度にねだっていた。ところが、魚屋は病気になり、来なくなってしまった。病気が長引き、お金がなくなった時、誰かが二両もの大金を置いていった。やがて病気が治ったので商売の元手を借りようと魚屋が喜三郎のところにいったが、猫が出てこない。理由を尋ねると先だって金二両が紛失したが、その後もあの猫が金をくわえているのを見つけたので先の二両も猫の仕業と合点し、家中の者で撲殺したという。魚屋はそれを聞いて涙を流し、二両は自分がもらったものだと言って、金の包み紙を差し出した。喜三郎はそれがまぎれもなく自分の筆跡のある反故だったので、猫がいつも魚をもらっていた魚屋に恩返しをしたのだと感じ入り、二度にわたってくわえていった金を魚屋に与えた。魚屋も猫のなきがらをもらい受けて回向院に葬ったという」
・・・・・・。
あ〜〜駄目。
もう近松か鬼平の世界です。
十代の頃なら、これ聞いて泣いてるジジババみたらバカじゃねーの?とか笑ったかもですが
駄目
泣いちゃう。
もお頭の中で『インスピレーション』の曲鳴って、天秤棒かついだ猫とかかけまわって後ろで別の猫がソバ食ってます。
今度行きたいね回向院とつまも言ってます(泣笑
こんな伝説と写真もいっぱい。2000円はお買い得ですよ!
買いました。
日本は世界でもまれにみる動物供養塚などの多い国だそうで
依田氏はそれについて綿密な調査研究をしてまとめられたものです。
動物好きなら読まいでか!な本ですが
今私はコンテで忙しいので、つまが先に手をつけまして
したらさっそく猫塚のとこで泣いちゃった〜〜って言ってきて私も読んで泣いちゃった〜〜;
いや、あくまで伝説みたいなもので、厳密な史実ではなく、「物語」として分類されてるんですが一例を
「東京都墨田区両国 回向院
1816年に建てられたもので、次のような猫の報恩伝説で知られる。江戸両替町の時田喜三郎の飼い猫は、出入りの魚屋がいつも魚をくれるので、魚屋ががくる度にねだっていた。ところが、魚屋は病気になり、来なくなってしまった。病気が長引き、お金がなくなった時、誰かが二両もの大金を置いていった。やがて病気が治ったので商売の元手を借りようと魚屋が喜三郎のところにいったが、猫が出てこない。理由を尋ねると先だって金二両が紛失したが、その後もあの猫が金をくわえているのを見つけたので先の二両も猫の仕業と合点し、家中の者で撲殺したという。魚屋はそれを聞いて涙を流し、二両は自分がもらったものだと言って、金の包み紙を差し出した。喜三郎はそれがまぎれもなく自分の筆跡のある反故だったので、猫がいつも魚をもらっていた魚屋に恩返しをしたのだと感じ入り、二度にわたってくわえていった金を魚屋に与えた。魚屋も猫のなきがらをもらい受けて回向院に葬ったという」
・・・・・・。
あ〜〜駄目。
もう近松か鬼平の世界です。
十代の頃なら、これ聞いて泣いてるジジババみたらバカじゃねーの?とか笑ったかもですが
駄目
泣いちゃう。
もお頭の中で『インスピレーション』の曲鳴って、天秤棒かついだ猫とかかけまわって後ろで別の猫がソバ食ってます。
今度行きたいね回向院とつまも言ってます(泣笑
こんな伝説と写真もいっぱい。2000円はお買い得ですよ!

メタボシンドロームとまでは行きませんが、座ったきりの下半身弱体化に歯止めをと
何十年ぶりかに自転車買いました。
バイクのAX−1は十数年も頑張ってくれてる愛いヤツなんですが
中途半端な距離の近所へ乗っていくのはいかにもムダ。
実は初夏にハマーの黄色いMTBをカタログで見かけて惚れこんでたんですが、ふと
ハマー(四輪)は絵で描くにはサマになって大好きですが、実際問題としては、あんなガソリンッ食いの地球環境にマイナスな車はありません。軍事や災害救助など以外に売らなくていい!
そんなハマーに儲けさせるのはいやなので却下。
で、見つけたのがニッサンのX-Trail X-ATB268
ニッサンも所詮自動車メーカー同じ穴の狢かもですが、ハマーよりはましかと(まあどうでもいいけど気分です)。
さっそくネットでオーダーして先日届いたんですが
どでかい段ボール箱をあけて仰天。
げ。
一部未組み立てかよ!
ハンドルとかペダルとか自分で付けるのね。
当然と言えば当然でこんなパーツまともにつけてたら箱がでかくなって仕方ありません。
「まあ、原寸大のプラモデルだと思えばいいや」
ってんでこちこちやりました。プラモと違うのは一歩間違えると命が危ういってとこです。
同封の取説には「ライトの点灯の確認」とかありますが
当然そんなもの付いてません。
実用車ばかり乗ってた私には初めての経験です。
さっそくライトもネットでオーダーしました。
結局届いて数日、自転車は乗られることなく(天気が悪いことと、仕事が忙しいこと)玄関に前輪を板の間に乗り上げた状態で留めてあります。邪魔だとつまがぶーぶーです。
一から自分でセッティングする自転車は初めてで、これまではみんな自転車屋で店員さんがちゃんと準備完了段階にしてくれたものしか買った事がありません。
ギアとかチェーンとかぴーかぴかだけど
これオイル塗らなくていいのかな?
バイクチェーン用のオイルスプレーならあるけど、これふいちゃまずいんでしょうかね。
とにかくわからないことだらけで
今日も愛車は家の中です;
追記
知り合いの方から、雨に備えて泥除けと、あと速度計なんかあると楽しいと言われました。なるほどー



楽しいですよね塗り絵。
私の場合自分の絵にしか塗りませんけど(爆
いきなりなんでそんな話かと申しますと
先日mixiのお友達の方(女性)がお子さんと塗り絵をして楽しいと日記で書いておいでだったもので
蛇足ですが絵を描く事にあまり馴染みの無い方に、色紙(しきしではなく、色の付いた紙)の塗り絵の楽しさを少しお話したくて♪
普通白い紙に描く絵は、すべての色(肌の色とかまで)塗らないとサマにならないんですが、
色付きの画用紙だと、すでに一色「地の色」がついてますから一工程省略できます(絵の好きな方にはおなじみですが)。
塗り絵と言うと色んな絵の具やクレヨン、色鉛筆がいると思われますが、色付きの紙の場合、それなしでもけっこうサマになるんです。
用意するのは色付きの紙(お金に余裕があれば画材屋で20〜30枚色んな色の彩色用紙が綴じられたスケッチブックなんか買えると楽しいです)。
白い絵の具かクレヨン。色鉛筆でもいいです(絵の具の場合は無論筆や水入れなんかも)。
黒いマーカーとか筆ペン。
黒い絵の具かクレヨン。色鉛筆でもいいです。
早い話が色付きの紙と、白と黒の描く道具。
丁寧にやりたければ、下描き用の鉛筆と消しゴムもあるといいでしょう。
紙にりんかくを描いたら、明るいトコを白く塗り、暗いトコを黒っぽく塗ります。
すると真っ白の紙に描くよりも、ショートカットで立体感が出るのです。
絵心の乏しい方でも、たぶんいつもより自分がうまくなったような気持ちが味わえるのではないでしょうか。
これは普段より短時間で効果や味の出せる技法なので、私も時々使います。
編集さんに新作のプレゼンなんかをする際にも重宝します。
細かい事を言うとキリが無いので論より証拠、作例(数年前の作品)をごらんくださいませ。
下描きの鉛筆線とかも一々全部消さなくていいです。残ったトコも味ですから。
このザクザクっと描いて完成なとこが、根気の続かない方でも楽しめるポイントではないかと。苦しんで絵を描くのはプロだけでたくさんですから、アマチュアの方はせいぜい楽しく描いていただきたいなーと思うものです。
ども失礼いたしましたー;
昨日に続きましてヘレン・ケラーの著作『奇跡の人の奇跡の言葉』(高橋和夫/島田恵・訳 H&I)より引用します。
同書の第七章は「歓びこそが生命」と題されています。
「心が冷え切っているような状態にはいささかも面白さはありませんし、歓びのないところには何の刺激もありません。ちょうど時間というものが分や秒の集積であるように、人間らしい幸福というのは数え切れない小さな楽しみが積み重なってできています」
ケラー女史は、けして、軽薄な快楽主義の話をしているわけではないと断って
「この世はあまりに憂いと悲しみに満ちていますから、薄暗い環境やおっくうな仕事の中にも輝く水晶のような歓びを見つけ出すことは、だれもがお互いに助け合って果たすべき責務です」
「助言をしたり、励ましの微笑を送ったり、他人の道の凸凹を地ならししたりする人、心からの善意でもってそうするような人なら誰でも、自分が感じる歓びこそが自分自身にとって本質的なものであり、それによって自分は生きているのだということを知っています」
「幸福を求める人たちがほんの一瞬でも立ち止まって考えてみれば、足もとの草ほどに、花々の上できらめく朝露ほどに、自分が体験できる歓びは無数にあることがわかるはずです」
「なのに、この歓びという財産に気づいている人のなんと少ないことでしょう!彼らが幸せを求めてはるか彼方まで出かけるのを見ることは、私にとって驚きでもあり、悲しみでもあります」
「そういう人たちは(中略)王や女王を尋ねて彼らにひれ伏したり、旅行や興奮の中に幸福を求めたり、秘宝とともに幸せが眠っていると考えて地中を深く掘り下げたりしているのです。そうでない人たちは、宗教やしきたりや政治理念のために自分の知性に迷信的な足枷(かせ)をはめて、自ら歓びを捨ててしまっています。自分自身の中に、心と精神を祝福しようといつも待ち構えているすてきな宝の山があるというのに、気の毒にも彼らはそれに対して眼しいであり、耳しいであり、飢え渇いているのです」
私(山本)は、これはいわゆる「青い鳥」探しだと思うのですが、青い鳥が自分の家にいる(どこか遠い彼方に存在するのではなく)ことを知るには、一見無駄に見える長い探索の旅にでかける必要がある(そんな遠回りの必要がないほど叡智にあふれた人もいるのでしょうが、それは例外中の例外)と思います。
聖書には、父の元を去った放蕩息子の帰還の物語がありましたし、真言宗の御詠歌にも同じ意味のものがあるのを近年知って、私は驚き感動したものです。
「たとえ一日に五分であっても、きれいな花や雲を探すとか、詩の一節を暗誦するとか、仕事に飽きた人の心を盛り上げるとか、何か特別な歓びのためにだれもが時間をさくべきであることは疑いを容れません。
美や歓びを感じて微笑みを交わすことをいつもあとまわしにし、うんざりするような仕事や人間関係にしがみついているだけなら、自分をへとへとに疲れさせてしまうような人間関係がいったい何の役に立つというのでしょうか?」
「地上そのものを観賞し楽しむのでなければ、地上より空のほうが輝いていることに何の意味もありません。地上の美を愛してこそ、日の出や星たちの輝きを切望する資格があるのです」
「この世に聖者や天才はごくわずかしかいませんが、人々が大切にしている純粋な歓びのひとつひとつは、いわば“善意の結晶”のようなものであり、うっとりと眺める光景や、聴きほれるハーモニーや、そっと手で触れる優雅ではかなきもののひとつひとつは、やがて憂いや貧しさや苦痛によって破壊されることのない一群の甘美な想念を飛翔させることだろう------という大いなる希望はだれの心の内にも存在しています。ですから歓びというのはまさに愛と信仰の声とでも言うべきものであって、その声がついには「思い残すことはない」という永遠なる生命の言葉を発することになるのです」
追記
もっともっと引用したい下りがあるのですが、このあたりでやめておきます(やりすぎは紹介の範疇を超えてしまいますので)(笑)。
最後に、ケラー女史のバランス感覚(肉体のではなく内的な)について、重要な箇所を上げておきます。形而上的な方面に目が向きすぎて、現実感覚を失い、いわゆる「いっちゃった人」(この種の言葉はある種の侮蔑や揶揄を含むので正直使いたくありません。あくまで世間一般の表現としてです)になる危険性をはらむのですが、それについてケラー女史はこう語ります。
「私の生活は盲・聾・唖という三重苦のためにとても複雑なものとなっていますので、思考と努力で自分の経験を合理化しなければ、ごく単純なことすら行うことができません。
もし外側の世界を理解しようとせずに、いつも神秘的な感覚だけを働かせていたら、私の進歩は妨げられ、あらゆるものが身のまわりに崩れ落ちて混沌となっていたことでしょう。
夢と現実を混ぜ合わせ、霊的なものとまだきちんと見たことのない物質的なものをごちゃ混ぜにするのは私にとってたやすいことであり、内的な感覚がなければそれらを分けておくことはできません。ですから、色や、音や、光や、また触知できない現象についての観念を組み立てるときにたとえ間違いを犯すとしても、私はつねに外側の生活と内側の生活との均衡を保つように心がけなければならないのです。
また、他人の経験を参考にし、それをあてにしなければ、私は自分の触覚を使うこともできません。さもなければ、私は迷路に迷いこむか、闇の中を堂々めぐりするほかはないのです」
これは今風に言うなら「グラウンディング」についての、大変明快な記述だと思います。私は目も耳も口もいまのところ健常ですが、ケラー女史の言うこの種の感覚は常に忘れないよう努めたいと思います。
同書の第七章は「歓びこそが生命」と題されています。
「心が冷え切っているような状態にはいささかも面白さはありませんし、歓びのないところには何の刺激もありません。ちょうど時間というものが分や秒の集積であるように、人間らしい幸福というのは数え切れない小さな楽しみが積み重なってできています」
ケラー女史は、けして、軽薄な快楽主義の話をしているわけではないと断って
「この世はあまりに憂いと悲しみに満ちていますから、薄暗い環境やおっくうな仕事の中にも輝く水晶のような歓びを見つけ出すことは、だれもがお互いに助け合って果たすべき責務です」
「助言をしたり、励ましの微笑を送ったり、他人の道の凸凹を地ならししたりする人、心からの善意でもってそうするような人なら誰でも、自分が感じる歓びこそが自分自身にとって本質的なものであり、それによって自分は生きているのだということを知っています」
「幸福を求める人たちがほんの一瞬でも立ち止まって考えてみれば、足もとの草ほどに、花々の上できらめく朝露ほどに、自分が体験できる歓びは無数にあることがわかるはずです」
「なのに、この歓びという財産に気づいている人のなんと少ないことでしょう!彼らが幸せを求めてはるか彼方まで出かけるのを見ることは、私にとって驚きでもあり、悲しみでもあります」
「そういう人たちは(中略)王や女王を尋ねて彼らにひれ伏したり、旅行や興奮の中に幸福を求めたり、秘宝とともに幸せが眠っていると考えて地中を深く掘り下げたりしているのです。そうでない人たちは、宗教やしきたりや政治理念のために自分の知性に迷信的な足枷(かせ)をはめて、自ら歓びを捨ててしまっています。自分自身の中に、心と精神を祝福しようといつも待ち構えているすてきな宝の山があるというのに、気の毒にも彼らはそれに対して眼しいであり、耳しいであり、飢え渇いているのです」
私(山本)は、これはいわゆる「青い鳥」探しだと思うのですが、青い鳥が自分の家にいる(どこか遠い彼方に存在するのではなく)ことを知るには、一見無駄に見える長い探索の旅にでかける必要がある(そんな遠回りの必要がないほど叡智にあふれた人もいるのでしょうが、それは例外中の例外)と思います。
聖書には、父の元を去った放蕩息子の帰還の物語がありましたし、真言宗の御詠歌にも同じ意味のものがあるのを近年知って、私は驚き感動したものです。
「たとえ一日に五分であっても、きれいな花や雲を探すとか、詩の一節を暗誦するとか、仕事に飽きた人の心を盛り上げるとか、何か特別な歓びのためにだれもが時間をさくべきであることは疑いを容れません。
美や歓びを感じて微笑みを交わすことをいつもあとまわしにし、うんざりするような仕事や人間関係にしがみついているだけなら、自分をへとへとに疲れさせてしまうような人間関係がいったい何の役に立つというのでしょうか?」
「地上そのものを観賞し楽しむのでなければ、地上より空のほうが輝いていることに何の意味もありません。地上の美を愛してこそ、日の出や星たちの輝きを切望する資格があるのです」
「この世に聖者や天才はごくわずかしかいませんが、人々が大切にしている純粋な歓びのひとつひとつは、いわば“善意の結晶”のようなものであり、うっとりと眺める光景や、聴きほれるハーモニーや、そっと手で触れる優雅ではかなきもののひとつひとつは、やがて憂いや貧しさや苦痛によって破壊されることのない一群の甘美な想念を飛翔させることだろう------という大いなる希望はだれの心の内にも存在しています。ですから歓びというのはまさに愛と信仰の声とでも言うべきものであって、その声がついには「思い残すことはない」という永遠なる生命の言葉を発することになるのです」
追記
もっともっと引用したい下りがあるのですが、このあたりでやめておきます(やりすぎは紹介の範疇を超えてしまいますので)(笑)。
最後に、ケラー女史のバランス感覚(肉体のではなく内的な)について、重要な箇所を上げておきます。形而上的な方面に目が向きすぎて、現実感覚を失い、いわゆる「いっちゃった人」(この種の言葉はある種の侮蔑や揶揄を含むので正直使いたくありません。あくまで世間一般の表現としてです)になる危険性をはらむのですが、それについてケラー女史はこう語ります。
「私の生活は盲・聾・唖という三重苦のためにとても複雑なものとなっていますので、思考と努力で自分の経験を合理化しなければ、ごく単純なことすら行うことができません。
もし外側の世界を理解しようとせずに、いつも神秘的な感覚だけを働かせていたら、私の進歩は妨げられ、あらゆるものが身のまわりに崩れ落ちて混沌となっていたことでしょう。
夢と現実を混ぜ合わせ、霊的なものとまだきちんと見たことのない物質的なものをごちゃ混ぜにするのは私にとってたやすいことであり、内的な感覚がなければそれらを分けておくことはできません。ですから、色や、音や、光や、また触知できない現象についての観念を組み立てるときにたとえ間違いを犯すとしても、私はつねに外側の生活と内側の生活との均衡を保つように心がけなければならないのです。
また、他人の経験を参考にし、それをあてにしなければ、私は自分の触覚を使うこともできません。さもなければ、私は迷路に迷いこむか、闇の中を堂々めぐりするほかはないのです」
これは今風に言うなら「グラウンディング」についての、大変明快な記述だと思います。私は目も耳も口もいまのところ健常ですが、ケラー女史の言うこの種の感覚は常に忘れないよう努めたいと思います。
原題は『My Religion(私の宗教)』という、1927年にヘレン・ケラーが著した本の全訳(高橋和夫/島田恵・訳 H&I)です。
前から読みたかったのですが、この1日に東京の八重洲ブックセンター中二階の喫茶店で私は集英社の方と待ち合わせがあって、その前に時間があったので書店内を散策していて見つけました。ラッキー!!♪
ご存知のとおりヘレン・ケラー女史は二歳になる前に熱病で視力を失い、耳と口も不自由になりました。盲聾唖の三重苦を、克服した人です。
この本は、女史の形而上的な世界観を語った本で、有名な18世紀の科学者にして霊能力者エマニュエル・スウェーデンボルグの著作に触れ、多くの蒙が開かれたこと(旧弊なキリスト教会的世界観から脱し---女史はいわゆる「異教徒」にも立派な人物はたくさんいるのに、ただクリスチャンでないというだけで否定されることが堪えられなかったようです---より大きな視点で世界を見ることができるようになったこと)。
自分がどのように三重苦と対峙し、それを克服して生きてきたかについて述べられています。
スウェーデンボルグというと、たぶん霊能力者と言うだけで拒絶反応を示す読者もおいででしょうから、この本はそこが人によっては、大いなる「つまづきの石」になると思われるのですが(それゆえ、近年まで日本でも訳が出なかったのではないかと)(蛇足ですが私はスウェーデンボルグは霊能者という側面もさることながら、思想家としての側面が大きいように思います)。
そういう賛否分かれる部分を差し引いても、幾多の価値ある内容が含まれた、貴重な一冊だと思います。
以下いささか長くなりますが、いくつか心に残った下りを抜粋します。
「私は自分の身体的障害を、どんな意味でも神罰だとか不慮の事故であると思い込んだことは一度もありません。もしそんな考え方をしていたら、私は障害を克服する強さを発揮することはできなかったはずです」
「あらゆる障害は無関心という眼帯をはぎ取ってくれます。それによって私たちは他人が運んでいる重荷を正視し、憐れみの心の指示に従いながら彼らを助けることを学ぶようになるのです」
「これについては、人生の半ばで失明した人の例がきわめて具体的なので、それをあらゆる生命鍛錬の典型として使わせてもらいたいと思います。
視力を失った人が最初に考えることは、自分に残されているのはもはや悲嘆と絶望だけということです。彼は人間らしいことのすべてから閉め出されたと感じます。彼にとって生命は、冷えた暖炉の灰も同然です。野望の火は消えうせ、希望の光もありません。かつては喜んで使っていたものも、手探りで歩き回る今では、彼に鋭い刃(やいば)を突きつけているかのようです。もはや彼を愛している人たちを働いて支えてやることができなくなったため、そういう人たちですら知らず知らず彼の感情をいらだたせるような振舞いをします。
さてそこへ、教師でもあり友人でもあるなかなか賢い人が来て、こう保証します。
たとえ目が見えなくても、手を使って働くことはできるし、かなり訓練すれば聴覚が視覚の代わりもする、と。
傷心の人というものは、なかなかこういうことを信じようとせず、絶望しているせいか、自分がからかわれているのだと誤解してしまいます。そして、溺れかかっている人のように、自分を救おうとしている人を相手かまわずむやみになぐりつけます。
それでも、本人がどう思おうと、彼を励まして前進させなければなりません。
そしてひとたび彼が、社会に復帰して人間として価値ある仕事を遂行することもできるのだと気づけば、かつては夢にも思わなかったような存在が彼の中に花開くのです。もし彼が賢ければ、幸福というのは外的境遇にほとんど影響されないということを最終的には理解し、目が見えたときよりもしっかりとした足取りで闇路を歩いてゆくことになるでしょう」
これはまったく同感です。
「幸福というのは外的境遇にほとんど影響されない」という重要なポイントに気づかないがため、どれほど多くの人が、見果てぬ「青い鳥」を探してさまよい苦しんでいることか。
私もそういう日々がありましたし、それはそのことに気づくために必要な日々だったのでしょう。
上記の内容(目の不自由な人にたとえた)は、恵まれた健常者が言えば「何を奇麗事言ってやがる」と反発する人もいるのでしょうが、盲聾唖のケラー女史にとっては、目が不自由な人というのは、耳も聞こえれば普通に口もきける、自身よりも二段階も「恵まれた」境遇なわけです。
実に味わい深い話だと思いました(転載にあたり、ネット画面で読みやすいよう一部改行しました。あしからず)。
「この世はただひたすら歓びに満ちた住処となるように創られているわけでもなければ、怒りに満ちた場所となるように創られているわけでもありません。アザミは土から生い立ち、バラにもとげがあるのなら、どうして人生に試練があっていけない理由があるのでしょうか?
それは不思議でも残酷でもありません。
試練は私たちの生命を拡大し、この限られた地上では達成不可能なあの高い天命にそなえて私たちに強さを身につけるよう促す、神の激励なのです。自分を超えたものに向かって努力してこそ、意識の拡大と歓びが獲得されるのです。
ですから、弱い人や試されている人、意気消沈している人に、生命を吹きこむ思想と意欲を授ける輝かしい霊感の与え主になろうとして、この世の十字架を華奢な肉体の肩に背負われた主イエス・キリストの模範を見習って、私たちもそれぞれ自分の障害を担ってゆこうではありませんか」
追記
私はこの女史の最後の言葉に、植木ひとしの有名な歌の歌詞
「金のない奴ぁ オレんとこへ来い。オレもないから心配するな」♪
を思い浮かべてしまいます(笑
けしてちゃかしたりバカにしてではなく、こういう話はともすると深刻で眉間にシワをよせた語り口になりがちなのですが
そういう明るいノリで乗り越えていっていいものではないかと。
前から読みたかったのですが、この1日に東京の八重洲ブックセンター中二階の喫茶店で私は集英社の方と待ち合わせがあって、その前に時間があったので書店内を散策していて見つけました。ラッキー!!♪
ご存知のとおりヘレン・ケラー女史は二歳になる前に熱病で視力を失い、耳と口も不自由になりました。盲聾唖の三重苦を、克服した人です。
この本は、女史の形而上的な世界観を語った本で、有名な18世紀の科学者にして霊能力者エマニュエル・スウェーデンボルグの著作に触れ、多くの蒙が開かれたこと(旧弊なキリスト教会的世界観から脱し---女史はいわゆる「異教徒」にも立派な人物はたくさんいるのに、ただクリスチャンでないというだけで否定されることが堪えられなかったようです---より大きな視点で世界を見ることができるようになったこと)。
自分がどのように三重苦と対峙し、それを克服して生きてきたかについて述べられています。
スウェーデンボルグというと、たぶん霊能力者と言うだけで拒絶反応を示す読者もおいででしょうから、この本はそこが人によっては、大いなる「つまづきの石」になると思われるのですが(それゆえ、近年まで日本でも訳が出なかったのではないかと)(蛇足ですが私はスウェーデンボルグは霊能者という側面もさることながら、思想家としての側面が大きいように思います)。
そういう賛否分かれる部分を差し引いても、幾多の価値ある内容が含まれた、貴重な一冊だと思います。
以下いささか長くなりますが、いくつか心に残った下りを抜粋します。
「私は自分の身体的障害を、どんな意味でも神罰だとか不慮の事故であると思い込んだことは一度もありません。もしそんな考え方をしていたら、私は障害を克服する強さを発揮することはできなかったはずです」
「あらゆる障害は無関心という眼帯をはぎ取ってくれます。それによって私たちは他人が運んでいる重荷を正視し、憐れみの心の指示に従いながら彼らを助けることを学ぶようになるのです」
「これについては、人生の半ばで失明した人の例がきわめて具体的なので、それをあらゆる生命鍛錬の典型として使わせてもらいたいと思います。
視力を失った人が最初に考えることは、自分に残されているのはもはや悲嘆と絶望だけということです。彼は人間らしいことのすべてから閉め出されたと感じます。彼にとって生命は、冷えた暖炉の灰も同然です。野望の火は消えうせ、希望の光もありません。かつては喜んで使っていたものも、手探りで歩き回る今では、彼に鋭い刃(やいば)を突きつけているかのようです。もはや彼を愛している人たちを働いて支えてやることができなくなったため、そういう人たちですら知らず知らず彼の感情をいらだたせるような振舞いをします。
さてそこへ、教師でもあり友人でもあるなかなか賢い人が来て、こう保証します。
たとえ目が見えなくても、手を使って働くことはできるし、かなり訓練すれば聴覚が視覚の代わりもする、と。
傷心の人というものは、なかなかこういうことを信じようとせず、絶望しているせいか、自分がからかわれているのだと誤解してしまいます。そして、溺れかかっている人のように、自分を救おうとしている人を相手かまわずむやみになぐりつけます。
それでも、本人がどう思おうと、彼を励まして前進させなければなりません。
そしてひとたび彼が、社会に復帰して人間として価値ある仕事を遂行することもできるのだと気づけば、かつては夢にも思わなかったような存在が彼の中に花開くのです。もし彼が賢ければ、幸福というのは外的境遇にほとんど影響されないということを最終的には理解し、目が見えたときよりもしっかりとした足取りで闇路を歩いてゆくことになるでしょう」
これはまったく同感です。
「幸福というのは外的境遇にほとんど影響されない」という重要なポイントに気づかないがため、どれほど多くの人が、見果てぬ「青い鳥」を探してさまよい苦しんでいることか。
私もそういう日々がありましたし、それはそのことに気づくために必要な日々だったのでしょう。
上記の内容(目の不自由な人にたとえた)は、恵まれた健常者が言えば「何を奇麗事言ってやがる」と反発する人もいるのでしょうが、盲聾唖のケラー女史にとっては、目が不自由な人というのは、耳も聞こえれば普通に口もきける、自身よりも二段階も「恵まれた」境遇なわけです。
実に味わい深い話だと思いました(転載にあたり、ネット画面で読みやすいよう一部改行しました。あしからず)。
「この世はただひたすら歓びに満ちた住処となるように創られているわけでもなければ、怒りに満ちた場所となるように創られているわけでもありません。アザミは土から生い立ち、バラにもとげがあるのなら、どうして人生に試練があっていけない理由があるのでしょうか?
それは不思議でも残酷でもありません。
試練は私たちの生命を拡大し、この限られた地上では達成不可能なあの高い天命にそなえて私たちに強さを身につけるよう促す、神の激励なのです。自分を超えたものに向かって努力してこそ、意識の拡大と歓びが獲得されるのです。
ですから、弱い人や試されている人、意気消沈している人に、生命を吹きこむ思想と意欲を授ける輝かしい霊感の与え主になろうとして、この世の十字架を華奢な肉体の肩に背負われた主イエス・キリストの模範を見習って、私たちもそれぞれ自分の障害を担ってゆこうではありませんか」
追記
私はこの女史の最後の言葉に、植木ひとしの有名な歌の歌詞
「金のない奴ぁ オレんとこへ来い。オレもないから心配するな」♪
を思い浮かべてしまいます(笑
けしてちゃかしたりバカにしてではなく、こういう話はともすると深刻で眉間にシワをよせた語り口になりがちなのですが
そういう明るいノリで乗り越えていっていいものではないかと。
今朝は8時に目が覚めました。なんてカタギ時間なんだ!(笑
隣で寝てたつまも目だけ覚まして
「きのうねー感動したのよー」
「なになに?」
「指のバンソウコウとりかえようとしたらねー」
つまは先ごろガラスのコップを割っちゃって片付けようとして指先を切ってしまったのでした。
破片など入ってないよう水でよく洗ってバンソウコウ貼ってたのですが
「痛い〜痛い〜」
と何度も言ってました。
指先は人体の中でももっとも繊細で神経が集まってるとこの一つですから、仕方ないよねーと慰めてたんですが
「でねでね、きのう寝る前にバンソウコウ取替えようとしたら、なんか赤くて光るものがあるの。ガラスだったの」
「おーすごーい」
「カラダさんが頑張って押し出してくれたのねー」
すばらしいぞカラダ。
「でね、ちょっと違うけど、昔博物館で見た、毒の川でできた真珠思い出しちゃった」
「毒の川の真珠?」
「有害物質で汚染された川に住む貝が作った真珠。毒々しい色してるんだけど綺麗なの。生き物って、それぞれの場所で、たとえ過酷な環境でもすごい仕事するよねー」
「うんうん♪」
つまはまた眠りに落ちて、私は起きて、こうしてこれを打ってます。
隣で寝てたつまも目だけ覚まして
「きのうねー感動したのよー」
「なになに?」
「指のバンソウコウとりかえようとしたらねー」
つまは先ごろガラスのコップを割っちゃって片付けようとして指先を切ってしまったのでした。
破片など入ってないよう水でよく洗ってバンソウコウ貼ってたのですが
「痛い〜痛い〜」
と何度も言ってました。
指先は人体の中でももっとも繊細で神経が集まってるとこの一つですから、仕方ないよねーと慰めてたんですが
「でねでね、きのう寝る前にバンソウコウ取替えようとしたら、なんか赤くて光るものがあるの。ガラスだったの」
「おーすごーい」
「カラダさんが頑張って押し出してくれたのねー」
すばらしいぞカラダ。
「でね、ちょっと違うけど、昔博物館で見た、毒の川でできた真珠思い出しちゃった」
「毒の川の真珠?」
「有害物質で汚染された川に住む貝が作った真珠。毒々しい色してるんだけど綺麗なの。生き物って、それぞれの場所で、たとえ過酷な環境でもすごい仕事するよねー」
「うんうん♪」
つまはまた眠りに落ちて、私は起きて、こうしてこれを打ってます。

完成しましたー!!
11月発売予定の『弾(アモウ)』5巻カバー!
今回のカバーイラスト、途中ほかの件で雑誌社の方との打ち合わせに出たりもしましたが、足掛け4日くらいかかった力作です!
つってもフライングでアップはできませんので、画像のほうは一巻のころの口絵でお目汚し。
もう1999年の絵なんですねこれ。当然100%手描きアナログです。
アモウはスタートしたとき21世紀(未来)の女刑事だったんですが、いつの間にか昭和いや平成ですが20世紀は遠くなりにけり(笑
つまんない理由で親子が殺しあったりする殺伐とした近未来を描いてましたが、幸か不幸か(不幸です)時代は予想通りに進んでるようです。
そんな中にも正気を失わず輝いてる人はいっぱいいますし、自分の信ずる道を歩んでいきたいものだと。
そういえば最近はお色気規制が厳しいらしく、カバーでトップレスやノーパンはやめてくださいと担当さんから言われました。ちゃんと果物で隠してたんだけどなー(笑)。しょうがないのでショーツはかせました。
と言うわけで今回は画像もトップを自主規制してみました(笑
ではでは〜〜♪
ちょっと左手の薬指第二関節が痛いです。
プチ突き指でもしたみたいに、ものに当たったり急に手を握り締めようとすると、軽くいててってなるんですが
とくに心当たりがないんだけども、まさかリューマチ?(うちは母がリューマチで)。ちょっと見ハレも内出血のあとも見当たらないんですよねー。
左手人差し指と親指が重いのはマウスの握りすぎっぽいんですが(私はマウスは左手オンリー)
きのうは右手首も珍しくちょいと痛くて「すわ腱鞘炎!?」とか思ってシップ薬貼って寝ました。
一つ考えられるのは手の疲労。
いつも毎月36枚くらい描いてたのが9月は仕事が立て込んで55枚というラッシュで
終わって一息ついたらすぐアモウ単行本カバーにかかったんですが、これが今回ちょっと凝ったもんで、はかどらなくて表紙一枚に足掛け3日以上PCにかかりきり状態でした。
峠は越したんですが、今日は裏表紙の作製です。ふー。
とりあえずマウスはしばらく握る回数減らして・・とか
先日壊れたデスクトップPC、ノートに買い換える手はずなんですが、マウス愛用の私ですがしばらくタッチパッド(でしたっけ?)で使おうかなー。
プチ突き指でもしたみたいに、ものに当たったり急に手を握り締めようとすると、軽くいててってなるんですが
とくに心当たりがないんだけども、まさかリューマチ?(うちは母がリューマチで)。ちょっと見ハレも内出血のあとも見当たらないんですよねー。
左手人差し指と親指が重いのはマウスの握りすぎっぽいんですが(私はマウスは左手オンリー)
きのうは右手首も珍しくちょいと痛くて「すわ腱鞘炎!?」とか思ってシップ薬貼って寝ました。
一つ考えられるのは手の疲労。
いつも毎月36枚くらい描いてたのが9月は仕事が立て込んで55枚というラッシュで
終わって一息ついたらすぐアモウ単行本カバーにかかったんですが、これが今回ちょっと凝ったもんで、はかどらなくて表紙一枚に足掛け3日以上PCにかかりきり状態でした。
峠は越したんですが、今日は裏表紙の作製です。ふー。
とりあえずマウスはしばらく握る回数減らして・・とか
先日壊れたデスクトップPC、ノートに買い換える手はずなんですが、マウス愛用の私ですがしばらくタッチパッド(でしたっけ?)で使おうかなー。
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