あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
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動物虐待の果て
 動物虐待(あるいはその果ての殺害)のニュースに関連して「何が悪いw」系の意見が上がるのを見るたび、
 それが先々過激化して人間を対象の犯罪に及ぶケースが少なくなく、自分や自分の大切な人が犠牲になる可能性があるのを理解した上での発言かと嘆息します。
 事件は本当に痛ましいですが、せめて少しでも情報が普及すればと切に願います。
初春川柳(+α)2012
 Twitterで

「逃亡犯 組織をあげて 追い返し」

 とツイートしたら、フォロワーさまが

「それでも来るので ついに 受け入れ」

 と続けてくださいました。
 ウケました(笑
21世紀版某大佐(笑
 一昨日妻と行ったファミレス、後ろの席で肩にかかる長髪でスーツのおっさんがケータイでしきりと話してて、そばにあまり品の良くないおばさん二人いて、すっごいうさんくさかったんですが、
 後で妻が
「あのおっさん、クヒオ大佐みたいだったねえ」
 と私とまったく同じことを考えてたことが判明(笑

 ご存じの方も多いと思いますが、クヒオ大佐とは昭和の時代、プリンス・ジョナ・クヒオと名乗って爆笑もののサギを働いた有名な男です(ネット検索すると出てきます)。確か近年映画化もされてたような??;

 いや、一昨日見たおっさんは実際のクヒオ大佐よりも目鼻立ちは少しマシでしたが、怪しい雰囲気が同質で;
 食事中その件について一言も話してない私と妻が、まったく同じことを思い浮かべてたのは、おかしかったです♪
表現規制の問題について5/ドラクロア
 ドラクロアがなんの関係があるんだ?とお思いでしょうが

 昔からある不毛な議論に「エロか芸術か」(わいせつか芸術か)というのがあります。
 世の中の一部の人には、芸術は崇高で良いが、エロやわいせつは低俗で規制されるべき忌むべきものであるという偏見があります。
 まことに不毛な論争で、エロい(わいせつな)芸術もあれば、そうでない芸術もある。芸術とは呼べない(と、どうひいき目に見ても思えてしまう)ただのわいせつもあるetc・・・さまざまだと思います。
 いったい、エロと芸術は、磁石のS極とN極のようにはっきり分けられるものでしょうか。

 これに関しては、一つ忘れられない想い出があります。
 いささか下ネタですので、下ネタは嫌い、読みたくないと言われる方は、お読みにならないでください。

 私の学生時代、十代だった、1970年代。
 ネットもなければ、過激なビデオ影像(お皿、テープを問わず)もなかった先史時代。
 瀬戸内海ではシガマッコウクジラがメガロドンと覇権を争っていました(ウソです)。
 日本人の体形ときたら、今から考えられないくらいズン胴短足。
 ぼんきゅっぼんが好きだった私は、当時の日本人モデルのヌードデッサンの教本を見て、
「これを描くのかよ?」
 と天を仰いだものでした。芸術というのは、美しくないものをリアルに描く訓練をする、一種の禁欲的な苦行かと勘違いしたほどです(爆

 さて、十代の男の子と言えば、姓の関心メーターがレッドゾーンに振り切っています(無論そうでない子もいるでしょうが)。
 マスターベーションまっさかりです。(あさりよしとお先生言うところの「箸がころんでも勃つ」時代)。
 私も、色々とその「おかず」を模索したものでした。
 と言っても、私の場合、自由にリアル絵を描けましたので、だいたいの脳内イメージは具現化できたのですが、やはり自己の才能の限界というものがあり、もっといいものが見たい。いい素材を選びたいという欲求(煩悩)は日々新たなアイテムを求めてさまよっていました。
 そんなある日、尊敬する偉大な芸術家ドラクロアの画集を見ていた私は、幾枚かの絵に大きなインパクトを受けました。
 無論美術的なクオリティの高さにも感動したのですが、もう一つ、「おかず」としてのクオリティの高さにもです(笑
 乏しい小使いをかき集め、私は画集を買いました。
 30年以上も昔の話です。
 もはやどれがどうだったか定かではありませんし、それを詳しく指摘しても意味がありません。
 問題は、それでドラクロアの絵画が芸術でなくなったかと言うことです(笑)。
 そんなことはないでしょう。
 一高校生が性的興奮を覚え、マスターベーションを行なおうが行なうまいが、ドラクロアの絵画のポジションに変わりはありません。
 ただ、人が「劣情を刺激される(この古式騒然たる表現には笑いがこぼれます)」ものが「わいせつ」であるなら、刺激される以上は「わいせつ」であり、その絵画は「芸術」であると同時に「わいせつ」でもあることになります。
 未成年の性的興奮を喚起するものを規制するのであれば、ドラクロアのその種の絵画も十八禁にすべきでしょう(私はそうは思いませんが)。
 インターネットはおろか、パソコンもケータイもなかった時代、田舎の一高校生の変わった趣味で終わりましたが、今ならネットの掲示板などで、「同士」を募ることもできたでしょう。そうしてある程度の人数が集まり、有名な芸術家の「おかずになる絵画」などというサイトが成立すれば、「良識ある」教育者は、そこに上がった作品群は、片っ端から青少年の閲覧禁止にしていくのでしょうか。それは世界の笑いものになるでしょう(たぶん)(笑)♪

 仕事疲れでいささか脳がボケておりまして、これといったオチはない話ですみません。
 若かりしころの思い出です。ではでは。


おお、終わろうと思ったところで一つ思い出しました。
 芸術は崇高なものだがマンガは低俗で劣るものだという意識を持たれる方は、昔からいらっしゃいます。
 私が、はるき悦巳先生のアシスタントだったとき、先生からお聞きした話です。
 はるき先生の代表作『じゃりン子チエ』には、交番やお巡りさんがしばしば登場しました。先生は執筆の資料が欲しくて、あるとき交番をカメラで写していたそうです。すると、警官に呼び止められました。
 事情を説明したはるき先生に、警官が言うには、
「芸術に使うならいいが、マンガなどに使うために撮影することは許さない」
 今から30年以上も昔の話です。まだまだ世の中には過激派の犯罪なども記憶に新しい時代で、むやみと撮影して欲しくないという警察の方のお気持ちも理解できます。しかし、「芸術ならいいがマンガはいかん」というのはどうでしょう。
 昔、筒井康隆氏でしたか、エッセイで見合いした?女性の父親が、「小説家などというのは男子一生の仕事ではない」と言うので、話は流れたという意味のことを書いておいでだったように思います。
 今では小説はかなりその地位が上がったようにも思われますが(無論ピンキリありますけど)、マンガはあいかわらずその地位は低いようです。
 表現規制の問題でも、小説はいいがマンガはいかんという前提で話される方を時折見かけますが、刺激性の大小だけでなく、芸術としての地位の高低もその意識の底に見え隠れすることがあります。
 人間の意識の底というのは色々で、非常に論理的に見えて、実はけっこう非論理的だったりすることが、ままあります。
 たとえばかつての欧米の話ですが、動物に人間のような意識はあるか否かという科学の問題において、頭ごなしに否定する科学者の多くが、科学的な議論を行う以前に、聖書には動物に人間と同じような魂はないと書かれていたために、その具体的な検証を試みなかったという話があります。そっちのテーマのお話は、また別の機会にいたします。
 ではでは♪


追記
 はるき先生のお話から十数年後、私が集英社で連載していたころ、警官の服装の資料が欲しくて、編集長から話を通していただき、人を頼んで撮影させていただいたことがあります。意識の変化もあったでしょうし、手続きの踏み方もあったのでしょう。
 その際、お世話になりました警察、カメラマンその他の方々には、とても感謝しています(今でも写真は大切に持っています)。
表現規制の問題に関して4 『シンバッド』の思い出
 私が昔描いた作品で『シンバッド』というのがあります。
 シンドバッドの英語読みは途中のDが省略されて「シンバッド」となるんですが、ハリーハウゼンのシンドバッド映画などに敬意を表して、そういうタイトルにしました♪
 主人公のシンバッドはアラビアに暮らす少年です。
 と言っても現地人ではなく、東洋から流れ着いた孤児(実は日本人)で、優しいアラビア人の両親に拾われて暮らしています。
 しかし彫りの深いイケメンの多いかの地で、三白眼で凹凸に乏しい顔のシンバッド(無論本名ではなく、拾った義理の両親に付けられた名)は、仲間たちからイジメを受けます。
 そしてあるとき、ひょんなことから自分のルーツを探す長い旅に出る・・・
 そんな話だったように思うのですが、何しろ二十年以上昔に描いた作品ですから、記憶違いがありましたらお詫びします(笑

 表現規制の話とそれが何の関係があるんだと思われるでしょう。
 あるのです。
 と言うか、あったのです。

 二年くらい続いたでしょうか、連載が終わりに近づいたころ、ちょうど世間では「マンガにおける黒人の差別表現」に関する問題が巻き起こっていました。
 手塚先生や、鳥山明先生など、大家、新人を問わず、その作品中の黒人描写が差別的であるということで、描きなおしや回収の騒ぎが起こっていました。
 原因がどういう人びとであったかは、すでに様々なところで言及されていますから、今更ここでは申しません。
 
 ちなみに、私はいかなる差別にも賛成しません。無論黒人差別もです。
 黒人はその身体的美しさにおいて特筆すべき人々であり(肉体だけが長所だという意味ではありません)、絵のモデルとして昔から取り上げてきました。最新作の『戦闘女神アヌンガ』は、その一つの成果です。
 白人の優越的史観で書かれた古い歴史書には、アフリカの黒人には歴史と呼べるようなものはないだとか、様々な差別的断定が満ち溢れていました。研究が進んだ現在では、それが偏見に過ぎないことが明らかにされています。
 もっとも日本における黒人とその文化に関する理解はいまだにお寒いものであり、中には
「アフリカ大使館」
 というものが存在すると思っている人さえいる、と何かの本で読んだことがあります(日本も中国朝鮮ベトナムその他アジアの国々も一つにした「アジア大使館」があると思っているようなものです)。
 黒人の美術は、ラクガキのような絵や彫刻しかないという偏見もあります。
 あれは一つのデフォルメ表現であり、写実的な美術を生み出した黒人文化もちゃんとあります。白人優越史観の学者たちは、こんなものが黒人に作れるわけがない、この土地に流れてきた白人の作ったものだ、とか、中にはアトランティス人の作ったものだなどと言う人までいたそうです。
 イフェ文化の精緻なブロンズ像などを見ればその偏見は消えるでしょう。

 さて、そういう話題は別の機会に申し上げるとして、表現規制に戻ります。

 シンバッドの旅は進んで、舞台はインドに移りました。
 言うまでもなく、かの地の人の肌は黒いです(東洋人に比べてですが)。
 私もそのように描きました。
 すると編集部から電話がありました。
 黒人を出すのをやめてくれというのです。
「はあ?」
 山本さん、今世の中でどういう運動が起こっているかご存知でしょう、と言うのです。
 知っていますがそれが何か?インドで肌の浅黒い人びとが登場することになんの問題がありますか。
 シンドバッド映画をご覧になった方なら想像がつかれると思いますが、主人公が異国に行けば、当然その国の悪役がちょっかいを出してきます。悪辣なやつもいれば善人もいるし、道化役のキャラクターもいます。
 そういう存在を描くだけで目を付けられるからやめてくれと言うのです。
 別にクレーム団体から私に抗議があったわけではありません。
 ただ編集部の判断で、臭いものにはフタ、目を付けられるようなものは掲載しないというわけです。
「自主規制」という名の「表現規制」でした。

 私はすでに描いていたすべてのコマのインド人の肌を白い肌に描き直させられました。インドには黒い肌の人はいないのです。描き手の意識や表現とは無関係に、存在自体が消されたのです。
 インドの人は肌は黒いけれど、アフリカ系のネグロイドとは人種が違います(顔立ちを見れば一目瞭然)。ですので、当時吹き荒れていたもっぱらアフリカ系黒人の差別表現撤廃の運動とは、そもそもピントがずれていたわけですが、そんなことはおかまいなしでした。
 もっとも、連載の最初から黒い肌だった乙女のジャリスや、主人公の友人のヒコは、いまさら変更もならず肌は黒いままでしたが(笑)。
 そして、インド編を最後に、『シンバッド』は連載終了を言い渡されました。1991年のことでした。
 終了は私の不徳のいたすところで、人気不足が原因だったのでしょう。
 しかし、この事件は、私に表現規制に関して、少なからぬ印象を残しました。
 このときの一連の運動と表現規制は、お上が命じたものではなく、一部の一般市民の起こしたものでした。多くの表現者、出版関係者がそれに動かされ、影響を受けました。

 別に恨みなどはありません。
 もはや昔の思い出です。
 ただ、私は、分別のある客観的な表現規制などというものを、これっぱかりも信じません。
 どういう形であろうとも、また同じようなことが起こるでしょう。
 ミソも糞もいっしょくたにした、●●叩きが起こるでしょう。
 危ないものはまとめて封じこめればいいのだ。
 それは、第二次大戦当時の合衆国における「日本人強制収用」のようなものです。嵐が過ぎたずっと後、被害者が亡くなった後で「違法だった」などと認められても、なんの足しにもなりません。
 二十年前のテーマは「黒人」でした。
 今度は何でやるのでしょうか。
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