あつじ屋日記
まんが家・山本貴嗣(やまもとあつじ)の日記です。 作品から日々思うことまで色々書いてます。
201702<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201703
夢でしろさん
 さっき夕飯食って仕事場の床で仮眠してたら夢で庭にいてしろさんが来た。
「抱っこさせろ~」
 と迫るといつもどおり
「あー(やだー)」
 って逃げて妻が近くで笑い転げるところで目が覚めた。
 目が覚めると庭で猫ハウスを整えてる妻がミッコルさんと笑い転げてた。
 夢もうつつも幸せだった。
タバコの精?(笑)
 我が家の玄関に見知らぬ男性客がやって来ました。
 若くもなく老けてもなく、まあ中年でしょうか。タバコを吸っていたように思います。玄関先で話し込み、一本吸い終わった客は私に、タバコあったらもらえませんか、と言いました。
 私は吸わない人ですが、マンガの作画資料に買ったタバコが何個も資料棚に眠っています。
 引き出しをあけ、その引き出しごと男性の前に持って行き、勧めようとしてよく見ると、なんとタバコは変わり果て

 長いこと放置したため、カビかホコリのような粉がつもり、さわるともろもろになっています。
 いやあ、これは吸えませんね、と男性と私は顔を見合わせ苦笑しました。



 気がついたら夢でした。
 変な夢です。意味不明。

 だいたい愛煙家でもない私が、夢でタバコを見るなんて生まれて初めてと言ってもいいくらいです。

 不思議な夢だなあと思い、そういえばあの資料用の引き出しのタバコはどうなっているだろうと思い出して、何年ぶりかに開けました。

 いやまあなんと、これはまあ。
 引き出しのトレイの中に、タバコの粉、いや劣化した外側とも中身ともつかない破片が散乱し、見たこともないありさまです。
 まず目にはいったのが葉巻。ぽつぽつと虫食いのような穴があき、さわると壊れて中身が出ます。
 普通の紙巻きのタバコも似たような姿で、抜け殻のようにぺしゃんこになったものあり。
 そして中でも驚いたのは、金属ケースに入ったミニ葉巻?
 写真の左端、オランダ製の「PANTRE MIGNON」。ケースはきれいなままですが、開けると中はご覧のとおり。まるでタバコのミイラです。ぼろぼろの残骸。さわるとはしから崩れます。
 長いこと資料でタバコは買ってきましたが、せいぜい黄色くなって巻いた紙がくたびれる程度。こんな姿は初めて見ました。

 夢で見たのとはいささか異なりますが、ある種のプチ正宗もといプチ正夢のようでした。
 
 人類文明が崩壊した未来SFなどで、家捜しをする主人公が、食い物とか書物とかを見つけ手に取ると、粉のように崩れるシーンがありますが、ほとんどあれです。
 記憶違いでなければ、これ買ったのは確か2005年くらい。たった数年で、ここまで劣化するとは。
 映画では何度も目にしたシーンですが、実際に見たのは初めてです。
 どうもシガービートルとかいう虫のせいらしいのですが(葉巻の中、成虫や幼虫は出荷前に殺せるけど卵が眠ってて高温になると孵化して悪さをするとか)荒らした虫たちは影も形もなく、とうにどこかへ飛び去ったようでした。

 友人に話したら、その夢のお客はタバコの精じゃない?と言われました(笑
 それはともかく、引き出しの中の粉は掃除して捨てましたが、ご覧の残骸はこれも一つの資料として、まだそのまま置いています。
 封を切っていないジタンなんか、果たしてどうなっていますやら。
 あとで開いてみようかなあ。 

タバコの抜け殻
夢について/青い鳥≒探し物は今ここに
 有名な『青い鳥』の物語を、たいていの方はご存知だと思います。
 しかし、きちんと全文を読んで、ぞのディテールを記憶していらっしゃる方は、おそらく多くないと思います。
 私も、あまりに幼い頃、ダイジェストで目にしただけのようで、ほとんど忘れ去っています。
 ただ、有名なオチの部分。
 捜し求めていた「青い鳥」はどこでもない自分の所にあった、というのは、記憶しています。

 大変象徴的な話ですが、人生の大きなテーマはこれに要約されているように思います。
 チリから生まれチリに還る、空(くう)より出でて空(くう)に還る
 その途中、私たちはチリでないもの、空(空)でないもの(色)に一時的になりますが
 いずれもといたところに還っていきます。

 もっと小さなテーマでも、これと相似なものがあるように思います。

 実は『青い鳥』以前から、同様の物語は世界の各所に見受けられ、それが同一起源のものなのか、平行進化の産物なのかは私にはわかりません。
 たとえば、ユダヤ教ハシド派にこんな物語があるそうです。

<エイジークは、赤貧で困窮している敬虔なユダヤ教徒である。彼は助けを求めて心から神に祈るのだが、はっきりした何の応えも返ってこない。それから彼は、彼のいる小さな町から離れた大きな大都市で彼を待ち受けている燦然と輝く財宝があるという夢をくり返し見始める。初めのうち、彼はこの夢をナンセンスだとみなし、自分は狂乱しているにちがいないと推断する。しかし夢は鮮明に繰り返され続ける。財宝はある特定の橋の下に隠されているのだ>

<イェーケルの息子エイジークは、この不可解な妄想から自分を自由にするために、とうとうその都市へ旅することに決める。多くの苦難の後にたどり着くと、彼は自分の夢と完全に一致していることを発見する。まさに財宝が発掘されるはずの橋の下に、驚きあきれて立ちつくしているうちに、彼は橋の番をしている兵士たちに捕まってしまう>

<やけになってエイジークが護衛隊長に自分の夢を物語ると、この農民の信じやすさをおもしろがり、二度と再び夢を信じてはならないと諭して、彼を釈放する。一例として、隊長は彼自身のばかげた体験---財宝は、都市から離れた小さな町に住んでいるイェーケルの息子エイジークとかいう男のストーブの下で見つかるはずだという、彼が繰り返し見る夢---を引き合いに出す>

<呆然としてエイジークは家に帰り、彼自身のストーブの下に黄金を見つける>

    『カミング・ホーム-文化横断的<悟り>論』
    レックス・ヒクソン・著/高瀬千尋・訳/高瀬千図・監訳/コスモス・ライブラリーより

 自分が捜し求める宝、夢の結論を求めて、遠く旅した主人公が、結局振り出しに戻ってそのゴールを見出すというこの物語は、ある意味元祖『青い鳥』と言ってもいいかもしれません。
 同様の物語が日本の地方の民話にもあると何かの本で読んだ覚えがあるのですが、どこかへやってしまって今確認がとれません。ご存知の方がいらっしゃいましたら、お教えいただけますと幸いです。
 蛇足ですが、有名なパウロ・コエーリョの小説にも、このハシド派の物語そのままと言っていいエピソードがあったように思います。ネタバレなのでどの作品化は伏せておきます。
 それはけしてパクリではなく、たとえば私が日本の有名な昔話(『桃太郎』とか)からエピソードを自作に挿入したようなものではないでしょうか。
 ユダヤ教ハシド派などと言われても我々日本人にはちんぷんかんぷんですが、あちらでは全然違う認知度なのだと思います。あるいはもっと別に、同様のバリエーションがあるのかも知れません。

<この聖なる財宝の循環(円環)的な探求には、その真剣さや苦悶さえも>
<帰郷した者の照明を受けた見地からは、強烈なユーモアがある>
 と著者ヒクソンは書いています。
 世界の各地に、こうした物語が見られるのは
 ただ単に、人間の素朴な願望を表している、だけではなく、人生の奥底にある真実も表しているように私は思います♪

追記
 追記
 さっそくお客様から、以下のリンクを教えていただきました。
 コメント欄を開けば読めますが、飛ばされる方も多いかと思い、一応本分に追記しておきます。
 飛騨高山の民話「味噌買い橋」
 これはロンドン橋の翻案なんだそうです。興味深いですね。
 おそらく私の読んだものもこれではないかと。
 となると少なくとも日本製は「平行進化」ではなく「外来生物」ならぬ「外来説話」ということになりそうですね。
「飛騨高山むかし話」
 貴重な情報ありがとうございました。
夢について・3<若い人には若い人の夢を>
 執筆に忙殺されて遅れてしまいました。
 いや、今でも忙殺されてるんですが(笑
 先日の日記「夢について(お客様の質問にお答えして)その2」の続きです。

 今更言うのもなんですが
 50代の道を歩んでいる私と、これから人生に乗り出して行かれる20代の方とでは
 やはり別の姿勢があるのではと思うものです。
 
 武術の世界でも
 「大きく始めて小さくまとめる」
 というのがあります。
 いきなり初心者が、最小限の動きで最大限の威力を発揮するような達人の技を再現しようとしても、うまくいきません。修練は、最初は、大きく動いて基本動作を身にしみこませるための反復練習を行い、そこがクリアできてから段々ムダをそぎ落とし、コンパクトな動きに移っていきます。
 これを生き方に置き換えて言うと、私の場合は別に達人じゃないんで、「年寄りの技」と言うべきかもですが(笑
 
 夢を追うというのも、そうではないでしょうか。

 最初はムリと思えるものや、一種の誇大妄想と思えるような(だから、あまり大きな声では言えない、人に言うと笑われそうなものも含む)でもいいから、その夢を抱いて歩き出すのがいいと思います。
 ハンドルを右に左に切りすぎて壁にぶつかりながら、まっすぐ進む方法を覚えます。
 ちなみに、自動二輪、すなわちバイクの教習所で教わるものの一つに(免許をお取りになった方は覚えておいででしょうが)「一本橋」というのがあります。
 地面から数センチ高くなったタイヤ一本分くらいの幅のコンクリートの筋の上を数メートル、脱輪しないでゆるゆると進むというものですが
 あれをクリアするコツは、足元を見ないでゴールの先の一点を見すえて進んでいくことです。

 蛇足ですが、昔ある若いバイクレーサーのインタビューで、自分は走る際足元を見ないで遠くを見るということをレーサーになってからもしばらく知らずに走っていた、というのを目にしたことがあります。ある種の天才と言うか、セオリーを無視した我流の走りで、レーサーになった上いくつかレースもこなしてしまうというのが、すごい話で、人間の多様性を示しているようで感動しました。
 しかし、その選手、一本橋はどうクリアしたのか、したけど忘れてしまったのか(笑
 もうずいぶん昔のことでお名前も忘れ、藪(やぶ)の中です♪

 話は戻って
 夢というのは、あの「一本橋」を通過する際の、ゴールの向こうの一点のような効果を及ぼす場合があると思います。
 これはけして足元をおろそかにして現実を見るなというのではなく、足元ばかり見過ぎて不安と緊張に囚われないための秘訣くらいに取ればいいかと思います。

 昨今の失業率の増加、就職難、
 将来に夢が持てないという若者(に限らず中年、老年もでしょうか)の話を聞くにつけ
 確かにその状態で(見据えるべきゴールの先が見出せないまま)歩き出せというのは、けっこうしんどいことだろうなあと思うものです。
 詳しいことは別の回にゆずりますが、私の場合はもはやそういう「行く先に置いた夢」というものを必要としない心境にいるのですが(虚無主義ではありません。まあ、ある種の「自灯明(じとうみょう)」だと思ってください。「自灯明」とはなんだと言われる方は検索かけていただければ、と思います。その話はまた長くなるので別の回にゆずります)(笑)、それは今この歳、昔で言うなら(人間五十年)「老境と」言ってもいい歳になっての在り方であって、二十代の始めにそれで行けと言われたら、おそらく途方に暮れただろうと思います(できる方はできるでしょうし、そういう方はおやりになればいいです)。

 ただ老婆心(男なので「老爺心」でしょうか)から申し上げると、
 あまり遠くにかかげた夢の危険性は
 それに向かって近づいているのかいないのか、わからなくなる場合があることです。
 たとえて言うなら、北極星を目標に歩いている人は、それに遠ざかろうと近づこうと、あまりに遠い目標は大きくも小さくもなりません。変わらず天に輝いています。
 そのことに安心して、気がついたら同じところをぐるぐる回っていただけだったり、うっかり反対方向に進んでいたということさえあります。
 なんだか、先の一点を見据えることと矛盾するようですが
 どんなことにも危険な側面、トラップがあるもので
 遠くの夢は一つ持ちながら
 日々具体的にクリアしていくべきカリキュラム、プロセス(武術や武道で言うなら、昇級試験や昇段試験、あるいは、そこまで行く日々の進歩のチェックポイントでしょうか)を持つことが大切だと思います。

 そもそも今回「夢について」などというテーマで私が語るきっかけになった、若い方からのメールには、自分が実現したい夢と世界に対して働きかけていきたい夢が書かれていました。
「夢について(お客様の質問にお答えして)その1」参照)

 マンガ家になりたいという夢。
 そして世界をよくしたいという夢。
 私も同じような夢を持っていました。どちらもステキな夢だと思います。

 マンガ家になるのは、才能さえあればそんなに難しいことではないと思います。
 「嚢中の錐(のうちゅうのキリ)」
 という言葉がありますが、キリのような鋭いものは、袋の中(嚢中/のうちゅう)にあっても、自然にその鋭い切っ先を袋から突き出すことになる(才能のある者はいずれ知られることになる)という意味です。
 そういうものだと思います。
 大変なのはデビューしてからであり、それは何度も言ってきたとおりです。
 マンガ家であり続ける大変さにくらべれば、なることなどは通過点に過ぎません。

 蛇足ですが、私はよく親族の集まり(法事やお食事会など)で妻や義母から代理のスピーチを頼まれることがあります。私自身の実家は遠い山口県で、集まりと言っても大半が関東地方在住のつまの実家筋のそれなのですが、つまや義母はそういう人前でしゃべるというのは大の苦手で、私にお鉢が回ってくるのです。
 んで
 いつも快く受けさせていただいております♪
 内容が「ウケる」時もあれば、すべるときもあり、けして勝率?は高くはないんですけど(不特定多数の年長者に向かってウケを取るのは難しいです);

 私も本来は上がり症で、若い頃はサイン会の直前にプレッシャーで神経性の大下痢を起こしたりしてました。
 しかし、身内の会合でのスピーチのプレッシャーなど、仕事のプレッシャー(締め切りに間に合うかどうかとか、読者に受けるか受けないか、連載か打ち切りかetc・・・)に比べれば本当に本当に屁(笑)
 無にも等しいストレスです。
 おそらくそれに比べれば、人生のほとんどのストレスはなにほどのこともないでしょう。

 というわけで、マンガ家であり続けるというのは、苦労が多いです。

 しまった、また話がずれた!

 そうそう、夢の話です。
 お尋ねくださった方の、マンガ家になるという夢と、
 世界を少しでもよくしたいという夢。
 どちらもステキなものだと思います。
 後者はともすると誇大妄想とか偽善者とか笑われる場合もありますが
 つきつめると世界と自分は切り離せないものであり、どちらか一方のみの幸せというのは無意味なものだと思います。だからけしてちぐはぐな夢ではありません。
 自分だけの幸せというのは貧しい夢です。
 自他共に幸せになる道を模索するのが、結局は自分も幸せになる道だと思います。
 ただ、それにはそれで落とし穴があるんですが、それはまた項を改めて書きます。
 年寄りはつい先回りして余計な心配と忠告をし過ぎるのが悪い癖です(往々にして好意のつもりだったりするんですが)(汗)。
 若い方のせっかくの夢に、水を差すのはやめましょう。

 「もっと世界をよくしたい
もっと世界に夢を愛を溢れさせたい」
 という質問者の方の想い、私も大いに共感します。
 がんばってください。
 天を仰ぎ、地を省みて。

 最後にまた、おなじみマハラジおじさんの言葉から一言。

<もしあなたの欲望が個人的なもので、あなた自身の享楽のためならば、エネルギーは必然的に限りあるものとなる。それはあなたがもっている以上にはならないだろう>
<あなたが社会のためを思って望むならば、世界全体があなたとともに望むだろう。人類の望みをあなた自身のものとして努めなさい。そうすれば、けっして失敗はありえない>
                         ----------ニサルガダッタ・マハラジ 
夢について(お客様の質問にお答えして)その2
「夢について(お客様の質問にお答えして」の続きです。

 私がマンガ家になってからも、いくつか夢はありました。
 多くは作品に関してのものですが。
 自分なりに試行錯誤し努力はしたつもりです。
 でも、ほとんど、かなったことはありません。
 その他の夢も同様です。
 ちっちゃな夢(ちょっとあれが買いたいとか)はいくつかかないましたが、ほとんど思いどおりになったことはありません。

 絶望しました。
 夢とは壊れるためにあるのかと思いました。
 夢を見ることさえやめてしまった時期もあります。

 細かなことを書くと、山本貴嗣半生記みたいになるので省略しますが
 本当にもう夢など見まいと思っていた時期があります。

 しかし、ある時気づいたのです。
 人は、自分の夢や願望をそのままかなえることが、イコール幸せであるとは限らないと。
  
 物事には時期というものがあります。
 森の木にむかって、伸びろと言っても仕方のないことですし、実がなれと言っても無駄なことです。
 東洋的な言い方をするなら、願いがかなうには天地人、それぞれの時がシンクロする必要があります。
 それを人生は教えてくれました。
 失敗から学んだことも多いです。
 私の一番のオブザーバーである妻が、その作品は今描いても実がならない、十年は待った方がいいというのを無視して、どうしてもやりたいと、大量の手間と資金を投入して、失敗。大赤字になった作品とか、ありました(だいたい妻の読みは当たります)。
 それはもう、仙女さまの忠告を無視してひどい目にあうピノキオ並に、ありました(笑

 それで、ある時期から、投げやりとは別の意味で、すべてを流れにまかせることにしました。
 浮かんだ夢は、時期が来るまで暖める。絶対に無理はしない。
 いくらオキニのレインコートでも雨が降るまでは着て歩かないように、時期が来るまでは何年でも待つ。来たら動く。
 それまでは、タイミングのあった夢から順にかなえるようにしていく。
 永遠に時期が来なかった夢は、かなえられなくてもかまわない。一生来なければ、気にせず死ぬ(笑)。
 
 かなう夢であれば世界がそう動く時が来るし、来ない夢はかなわなくてもいい夢。
 それくらいに思っています。

 たとえば、マンガ家になる時抱いていた私の夢は、強く美しいヒロインが活躍するシリアスなアクション作品を描くことでした。
 この話は以前もどこかでしたことがあるので、お読みになった方もおいでと思いますが、
 19歳のとき双葉社の週刊漫画アクション誌でデビューしたときは、ギャグと言うかコメディ漫画でした。
 私はコメディも好きでしたし、何よりシリアスなアクション漫画はページ数を食い、デビューしたての新人の手に負えるようなものではありませんでした(少なくとも当時の私の能力では)。
 当時、編集長のSさんに、一応シリアスヒロインのラフスケッチなどもお見せしたんですが
 「キミの画力では無理だねえ」
 と言われました。
 誤解のないように申し上げますが、ギャグやコメディ漫画を描いておいでのマンガ家さんにも画力のある方はたくさんおいでです。
 ただ、シリアス漫画に必要な画力と言うのは、また別のものがありました。
 コメディも好きだった(今でも好きです)こともあり、以来私は長いこと、コメディマンガ家、ギャグマンガ家として暮らすことになりました。

 でも心中、シリアスアクションヒロインものへの情熱(夢というより野望といった方がいいかも)は絶えることなく、日々ラフスケッチや構想を練っていました。
 その夢は80年代末にコミック・ノイジィ誌での『剣(つるぎ)の国のアーニス』の連載と単行本化でかなうのですが、かなった時は30歳近く。デビューから10年近い年月が流れていました。

 今ではギャグマンガ家としての山本よりも、シリアスヒアクションマンガ家としての山本の方が、定着しております(そこがつまらんとおっしゃる昔なじみのお客様もいらっしゃるでしょうが)。

 夢の実現には、そういう執念が必要だと思うのですが、けして特別なことではなく、好きだから見続けてそれに向かって歩んだというだけの話です。
 「努力」と言うと、苦しい嫌なことを無理して続けるというニュアンスがありますが、好きで好きで忘れられない捨てられないから続けていたら結果が出たというだけです。

 私の親しい武術家さんのお友達に、ある沖縄古流空手の達人がおいでです。
 小学生のころから修行を始め、中年になった今でも修練は欠かさない。
 一般の道場生とは違う特別な教わり方を師匠からされた方で(いわゆる「真伝を得る」というやつです)腰を落として大変負荷のかかる鍛錬法があるんですが、中年になっても、どんなに酒を飲んで帰宅した晩でもその突きのけいこを千数百本してからでないと寝ないそうです。
 小学生の頃から何十年と続けた成果は、まことに手品のように、敵の攻撃を封じて瞬殺する業の冴えとなっているのですが
 これもやはり「好きこそ・・・」の典型ではないでしょうか。
 いくら師匠に言われようと、好きでなければそんなこと何十年も続きません。

 私がアマチュアだったころは、「一日ペンを持たないと勘が戻るのに三日かかる」などと言われたものでした。ペンを持つ機会がなければ鉛筆でもいいから何か描く。
 剣術を学ぶ人が日々素振りを欠かさないような、そういう姿勢が当たり前でした。
 武術といっしょで、あるラインを超えてしまえば多少のゆとりは生まれていきますが、継続が力であるのに変わりありません。

 部外者から見れば特別なことに思えることも、当人にとっては当たり前の「日常」です。
 草原で草食獣を狩るライオンに、
 「最近何か変わったことありました?」
 とマイクを向けても
 「いや、特にないけど」
 と口の周りを赤くしてシカ食ってたりすると思います(笑

 だからって鍛錬がラクだというのではありません。
 さる有名な武術家の言葉に
 「本当に敵と戦う方が日々の鍛錬よりずっとラクだ。一瞬で終わるから」
 というのがありました(笑)(うろ覚えなので原文とは異なります)。

 夢を見るのは楽しいことですが、実現するには代償が要ります。
 この世のすべてはそのルールでできています。
 夢はステキなものですが、かなえるためには、いくら言葉で語っていても仕方がありません。やること、マンガ家であれば、まず描くこと。
 それも適当に描き散らかすのではなく、描き上げる。ちょっと描いては途中で放り出すのでは、なんの意味もありません(「完成させていれば傑作だったんだ」という言い訳は無意味です)。きちんと「読み切り」として描き上げるのが進歩のコツだと思います。

 人間は何にでも理屈をつけて正当化する名人です。
 マンガ家には色々な人生経験が貴重な財産ですが、作品を描かずに理屈や理想を語って、人生経験と称してほかのことに精を出していても、肝心のマンガの技術は進歩しません。
 乗っていた船が沈んで泳がなければいけない時に、海中でダンベルを上げ下げして
 「体力つけなきゃ」
 と言ってるようなものです。
 いつか描くのではなく、好きなら今描く。日々描く。
 それが夢への道だと思います。

 若いころ、業界の先輩(さくまあきら先生だったような気がします。30年近く昔で記憶違いかもですが)から聞いた話があります。
 その方のマンガ家志望の友人が、消息不明になって何年かして、ふと道で出会ったそうです。
 道路工事か何か、体を使うハードワークをしておいででした。
 「元気そうじゃないか、あれからマンガはどうしたの?」
 友人は、両手を開いて見せました。
 「これを見てくださいよ」
 ごつごつと、ふしくれだった指でした。
 「この手で描けると思いますか」
 
 労働に貴賎はありません。
 ただ、スポーツカーと重機は目的も仕様も違います。
 F1車両を採石場に持ち込んでも邪魔なだけですし、レース場にダンプを持ち込んでも(まあ、そういう特殊な車両だけのレースもありますが)やはり無意味です。
 無論何事にも例外はありますし、自衛隊の空挺部隊出身の有名マンガ家さんもおいでです。
 しかし、たとえば巻き藁やブロックを叩きすぎて手に震えが来ている空手家さんでは、マンガは描けません。

 それから、歳をとってもある程度は技術と能力を維持できる武術と、若いころの身体能力に頼る部分が大きいスポーツ格闘技の違いと同じように、
 歳をとっても(むしろその方がいい場合もある?)小説家と、若いころの感覚が重視されるケースの多いマンガ家とは、異なるものがあります。
 一番の伸び盛りに描かず、別の修練を積むのは、ある意味まちがったプロセスだと思います。

 夢やロマンはいいものですが、実行を伴わないのはただの妄想と変わりません。

 何日も獲物が来るのをじっと待ち続ける蛇のような・・というのが少しキモければ
 獲物が来るのを微動だにせず待ち続けるハシビロコウのような執念と静けさ
 その一方で、ただ何もしないで待つのではなく
 日々できることを精一杯していく活動性と地道さが大切じゃないかと思うものです。

 話を始めたきっかけが、若いマンガ家志望の方のメッセージだったことで、老婆心から、いささか説教くさい話になってしまいました。お聴き苦しい点はお詫びします。
 テーマを変えて、この夢の項、まだまだ続けます♪(ではではまた)



追記
 少年ジャンプ誌の某有名ヒット作家で、連載と連載の合間に、後学のために巷の仕事につかれた方の話も聞いたことがあります。青年誌系の作家さんで、私よりずっと年長の方でも、似たようなことを今でもなさる方もいられます。
 すばらしい向学心と感心しましたが、それはあくまで長年の連載で鍛えられた技術(あるラインをすでに超えたレベル)を持った方ならではのことだと思います。
 今自分は夢のために何をするのが一番大切か。
 何かから逃げていはしないか。
 本当に歩むべき道はどれか。
 ときどき立ち止まって考えて見るのが、大切なことだと思います。
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