
朝方、集英社小説すばる誌連載の馳星周先生の小説『淡雪記』14話イラスト完成。(画像は12話のものです)。
担当さんと電話してたら、おかげさまで予定よりも連載延長になったそうで、本当なら私の作業はこの冬で終わりのはずだったんですが、どうやら春まで続きそうです。めでたや&ありがたや♪
お読みいただいてるお客様がた、どうぞよろしくお願いします。
これまでの当ブログの関連記事
なぜ今急に???『淡雪記』
遠景近景
with馳星周先生ふたたび


嵐の後先。
一枚目は昨日、2009年11月2日の湘南の空。
朝8時台にJR東海道線の車両から写したもの。
仕事の合間を縫って歯科に行ったのですが、歯石取り作業けっこう痛いとこもあるにも関わらず、診察台で一瞬「落ち」てしまいまして、歯科衛生士さんに
「今いびきかいてませんでした私」
「かいてらっしゃいましたよ(笑)」
疲れてるにゃー(爆
二枚目は、きょう11月3日朝アヌンガ34話の原稿が上がって、バイクででかけた帰りに山の上の道から撮影した昼の静岡県方面です。
昨夜からの風雨がウソのように晴れ渡り、富士のきれいなこと。
2009年10月8日の日記で夕焼けを写した場所と同じ地点ですが、きょうは他にも車を停めて撮影している方がいらっしゃいました。
朝方でかける時はまだ寒くて冬用のバイクウェアで出たんですが、昼には暑くて汗ばんでしまいました。
ちなみに、昨日の悪天候の雲(一枚目)は、実にいい感じの奥行き感で、歯科なんか行かずに海辺で水平線の彼方まで垂れ込めるこの雲を、ロケハンできたらどんなに幸せかと思ったものです♪
なかなかそういう時間がとれません。残念;
原則的に(と言うのは、ごくまれに、世の中には人間離れした規格外の存在がいるからです。ですのであくまで原則的に)
人は、見たことも聞いたことも経験したこともないことは想像できない生き物です。
マンガ家などというホラ吹き仕事をしていて、つくづく実感するのですが
異次元やよその宇宙から来た異形のモンスターなどをデザインするにも、人は自分の知識を組み合わせて空想するしかありません。
怪物とは何か、というと、昔読んだ本でこういう定義がありました(何十年か前のことでうろ覚えです)
「過剰」「不足」「置換」
です。
なんのこっちゃと言いますと、まず
「過剰」は「多すぎる」こと。
手が4っつあるとか、目が百個あるとかですね。
「不足」は文字通り「足らない」ことで、一つ目の巨人とかが、そうです。
体に障碍を持たれる方を揶揄(やゆ)しているとの誤解を受ける場合もありますし、また、そういう偏見(不足を怪物視する)で実際にそういう方々が差別を受けてこられた歴史もあります。
昔、学研のコミックNORA誌で私が『シンバッド』を描いていたころ、一つ目のかわいい乙女をデザインして(一つ目でかわいいというのは矛盾があるように思われるでしょうが、ちょっとしたニュアンスで可能です。アシスタントさんも不思議がってくれました)(笑)編集部から止められたことがあります。
アラビアンナイトの世界では珍しくもないと思うのですが、当時、マンガにおける差別表現がマスコミをにぎわせ、鳥山先生や手塚先生の人気作まで槍玉に上がっていたときで、やむをえなかったものです。
「置換」は「置き換え」です。
本来なら目のあるところに角があるエレキング(『ウルトラ7』に登場した怪獣)などがそれです。
昆虫のような肌の宇宙人とかもそうでしょう。
世の中のあらゆる怪物(ギーガーのエイリアンとかも含めて)は、大雑把に分類すればこの三つのどれか、あるいはその複合技で成り立っているもので、本当に人類が見たことも聞いたこともないような要素で構成されたモンスターというのは、少なくとも私はまだ見たことがありません。
仮に何かの天啓のようなものを得て、そういうデザインをした人がいたとしても
人は原則として何かすでに見知ったものに分類仕分けしてものごとを理解しようとするもので、その異形のものを、あるがままに理解はできない確率が高いと思われます。
マンガ家始め、いわゆるクリエイターと言われる人種は、一般の方よりは発想が飛ぶものですが(何しろそこでお金をいただいているわけですから)それでも、この人類の持つ足かせから自由であることのできる人はなかなかいないと言っていいでしょう。
人は、ものすごいものを表現するにも、自分の見知ったものの中からセレクトして行ないます。またそれしかできません(原則的に)。
世界の古い宗教に見られる、神経症的な偏狭な神、などというのもそうではないでしょうか。
その時の人類の発達段階に応じた「至高」さの表現で、今から見れば、全知全能の存在がそんなに愚かなわけはないだろうという、ある意味逆説的な神の冒涜のような描かれ方さえしている「聖典」があるのは、そういうわけではないでしょうか。
SF的なたとえで言うと、数千年前の地球にマザーテレサのような異星人が降り立って慈善を行なっても、現地人の後世の伝説には、目から電撃を発して怒りのサバキを下す恐ろしい魔女のような姿で描写される可能性が大いにあるということです。それを根底に勝手な宗教を構築した「聖職者」がでっち上げることもあります。
この辺の話は、トランスパーソナル心理学の勇、ケン・ウィルバーが説く、人の発達段階に応じた宗教、の話に通じていきますが、それはまたの機会に書くとして♪
貧しい内面の人には貧しい世界が
豊かな内面の人には豊かな世界が
自分に応じて現れる。
ヴィクトール・フランクルのように、ナチの強制収容所に捕らえられ絶望的な状況にあっても、心と行動において豊かな状態でいられる人もいれば、
何不自由ない恵まれた環境にいながら、何も生み出さず、ただ不平と不満と怠惰におぼれて、つまらない世界しか見出せない人もいるわけです。
ニサルガダッタ・マハラジの言葉に
「あなたは世界が外界のものだと信じている。だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ」
というのがあります。昔から多くの賢者が同様のことを語ってきました。
別に世界を念力で作り出しているという意味ではなく、世界をどう把握しているかはすべて自分にかかっているということです。
物理的に客観的な世界というのはあっても、それにどういう意味をもたせているかは、自分の問題です。
人の発想がいかに飛ばないか、既知のワクから出ないかの一つの例に、SF映画に出てくる宇宙船(とか、それに類する飛行機械)のエンジン音があります。
本来真空の宇宙空間では音は伝わりません。
『2001年宇宙の旅』のように(大好きです♪)リアルに無音の飛行シーンを作った例外はありますが、大半の映画では、宇宙船はごうごうと豪快なジェット機のようなエンジン音を轟かせて飛んでいます。
見ているお客に、説得力を持たせるための、嘘なわけですが、人びとがもっとも速く力強いエンジンの音と思うものに似せて作られているわけです。
では世界にジェット機が現れる前はどうであったのか?
一度しか見た(聞いた)ことがないので、記憶違いかもしれませんが
確かアメリカで作られた古いSF映画(『フラッシュゴードン』だったような気がします。無論、クィーンが音楽を担当したカラー版ではなく、はるか太古のモノクロ版です)に出てきた、宇宙人の飛行艇(大気圏内を飛んでいたので音がするのは間違っていません)は
当時の最先端であった「プロペラ機」のエンジン音を、ブルブルと轟かせて飛んでいたように思います。
しかし、そうしてみると、よく言われる、幼いころ親の愛に触れられなかった人や、劣悪な環境で育った人が、大きくなって犯罪を犯す、あるいは良心が乏しい人になるという理屈は、確かに一理あると思われます。なにしろ、自分が見聞きしたものを基準にしか世界を理解できないのですから。
ただし、それはあくまで「一理」であり、貧民街の出身でも立派な人格者がいるように、すべての人に宿命のように適用されるものではありません。
極悪犯罪者の責任逃れの言い訳に使うためのものでもありません。
むしろ、そういう決め付けを運命論のように振りかざし、絶対的に取り返しのつかないことのように言い立てることは、人の可能性にフタをし、不利な生い立ちや環境で育った人たちを誤った絶望に追いやるマイナスの効果があると私は思います。
絵に描いたモチのような幻の希望は問題ですが、軽はずみな絶望も問題だと思います。
病気や事故で手足を無くされた方が、以前とまったく同じ状態に戻ることは現代科学では不可能ですが、一方で、特殊な材質の義足などを装着することで、健常者よりも速く走ることができるようになった例もあります(昔そんなことを言ったら、頭がおかしいか詐欺師だと思われたことでしょう)。
映画やドラマの闘いでよくある、片腕を背中にねじり上げられた人間が動けなくなる状況、
あれも、実際の武術では、ねじり上げられていない方の腕で相手を倒す技が流派によって何通りもあり、高度な武術になると、体を回してねじり上げられている不利な?方の腕だけで相手を逆に倒してしまうものまであります。
蛇足を申しますと、マンガのように止まった映像でアクションを表現する際、読者はその場面を自分の見聞きしたアクションに当てはめて解釈する(パソコンなどにおける「ファイルの解凍」に近いものがあります)ことが多いため、見たことも聞いたこともないアクションは、人によって受け取り方にものすごく差が出るものです。
自分がかつて武術マンガ『セイバーキャッツ』を描いていたとき、もっとも苦労したポイントがそこでした。
同じ場面を見ても、ある読者さんは数十秒かかった闘いと思われ、別の読者さんは一瞬の戦いだったと思われる。全然意味が違ってしまうんですが、一人一人に会って解説するわけにもいきませんから、少しでも誤解を受けない表現を工夫していくしかありませんでした。
怪物イメージの飛び具合の話から、いささか脱線したかもですが
与えられた人生を楽しみ、しゃぶりつくすためにも、自分の器は大きくしていきたいと思います。
人は誰しも井戸の中のカエルですが、日々井戸の拡張工事を続け、死ぬまでにどれほどの世界をその井戸の中に取り込めるか。すべてを取り込んだとき、それを悟りというのかもしれません(笑
ではではまた♪
人は、見たことも聞いたことも経験したこともないことは想像できない生き物です。
マンガ家などというホラ吹き仕事をしていて、つくづく実感するのですが
異次元やよその宇宙から来た異形のモンスターなどをデザインするにも、人は自分の知識を組み合わせて空想するしかありません。
怪物とは何か、というと、昔読んだ本でこういう定義がありました(何十年か前のことでうろ覚えです)
「過剰」「不足」「置換」
です。
なんのこっちゃと言いますと、まず
「過剰」は「多すぎる」こと。
手が4っつあるとか、目が百個あるとかですね。
「不足」は文字通り「足らない」ことで、一つ目の巨人とかが、そうです。
体に障碍を持たれる方を揶揄(やゆ)しているとの誤解を受ける場合もありますし、また、そういう偏見(不足を怪物視する)で実際にそういう方々が差別を受けてこられた歴史もあります。
昔、学研のコミックNORA誌で私が『シンバッド』を描いていたころ、一つ目のかわいい乙女をデザインして(一つ目でかわいいというのは矛盾があるように思われるでしょうが、ちょっとしたニュアンスで可能です。アシスタントさんも不思議がってくれました)(笑)編集部から止められたことがあります。
アラビアンナイトの世界では珍しくもないと思うのですが、当時、マンガにおける差別表現がマスコミをにぎわせ、鳥山先生や手塚先生の人気作まで槍玉に上がっていたときで、やむをえなかったものです。
「置換」は「置き換え」です。
本来なら目のあるところに角があるエレキング(『ウルトラ7』に登場した怪獣)などがそれです。
昆虫のような肌の宇宙人とかもそうでしょう。
世の中のあらゆる怪物(ギーガーのエイリアンとかも含めて)は、大雑把に分類すればこの三つのどれか、あるいはその複合技で成り立っているもので、本当に人類が見たことも聞いたこともないような要素で構成されたモンスターというのは、少なくとも私はまだ見たことがありません。
仮に何かの天啓のようなものを得て、そういうデザインをした人がいたとしても
人は原則として何かすでに見知ったものに分類仕分けしてものごとを理解しようとするもので、その異形のものを、あるがままに理解はできない確率が高いと思われます。
マンガ家始め、いわゆるクリエイターと言われる人種は、一般の方よりは発想が飛ぶものですが(何しろそこでお金をいただいているわけですから)それでも、この人類の持つ足かせから自由であることのできる人はなかなかいないと言っていいでしょう。
人は、ものすごいものを表現するにも、自分の見知ったものの中からセレクトして行ないます。またそれしかできません(原則的に)。
世界の古い宗教に見られる、神経症的な偏狭な神、などというのもそうではないでしょうか。
その時の人類の発達段階に応じた「至高」さの表現で、今から見れば、全知全能の存在がそんなに愚かなわけはないだろうという、ある意味逆説的な神の冒涜のような描かれ方さえしている「聖典」があるのは、そういうわけではないでしょうか。
SF的なたとえで言うと、数千年前の地球にマザーテレサのような異星人が降り立って慈善を行なっても、現地人の後世の伝説には、目から電撃を発して怒りのサバキを下す恐ろしい魔女のような姿で描写される可能性が大いにあるということです。それを根底に勝手な宗教を構築した「聖職者」がでっち上げることもあります。
この辺の話は、トランスパーソナル心理学の勇、ケン・ウィルバーが説く、人の発達段階に応じた宗教、の話に通じていきますが、それはまたの機会に書くとして♪
貧しい内面の人には貧しい世界が
豊かな内面の人には豊かな世界が
自分に応じて現れる。
ヴィクトール・フランクルのように、ナチの強制収容所に捕らえられ絶望的な状況にあっても、心と行動において豊かな状態でいられる人もいれば、
何不自由ない恵まれた環境にいながら、何も生み出さず、ただ不平と不満と怠惰におぼれて、つまらない世界しか見出せない人もいるわけです。
ニサルガダッタ・マハラジの言葉に
「あなたは世界が外界のものだと信じている。だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ」
というのがあります。昔から多くの賢者が同様のことを語ってきました。
別に世界を念力で作り出しているという意味ではなく、世界をどう把握しているかはすべて自分にかかっているということです。
物理的に客観的な世界というのはあっても、それにどういう意味をもたせているかは、自分の問題です。
人の発想がいかに飛ばないか、既知のワクから出ないかの一つの例に、SF映画に出てくる宇宙船(とか、それに類する飛行機械)のエンジン音があります。
本来真空の宇宙空間では音は伝わりません。
『2001年宇宙の旅』のように(大好きです♪)リアルに無音の飛行シーンを作った例外はありますが、大半の映画では、宇宙船はごうごうと豪快なジェット機のようなエンジン音を轟かせて飛んでいます。
見ているお客に、説得力を持たせるための、嘘なわけですが、人びとがもっとも速く力強いエンジンの音と思うものに似せて作られているわけです。
では世界にジェット機が現れる前はどうであったのか?
一度しか見た(聞いた)ことがないので、記憶違いかもしれませんが
確かアメリカで作られた古いSF映画(『フラッシュゴードン』だったような気がします。無論、クィーンが音楽を担当したカラー版ではなく、はるか太古のモノクロ版です)に出てきた、宇宙人の飛行艇(大気圏内を飛んでいたので音がするのは間違っていません)は
当時の最先端であった「プロペラ機」のエンジン音を、ブルブルと轟かせて飛んでいたように思います。
しかし、そうしてみると、よく言われる、幼いころ親の愛に触れられなかった人や、劣悪な環境で育った人が、大きくなって犯罪を犯す、あるいは良心が乏しい人になるという理屈は、確かに一理あると思われます。なにしろ、自分が見聞きしたものを基準にしか世界を理解できないのですから。
ただし、それはあくまで「一理」であり、貧民街の出身でも立派な人格者がいるように、すべての人に宿命のように適用されるものではありません。
極悪犯罪者の責任逃れの言い訳に使うためのものでもありません。
むしろ、そういう決め付けを運命論のように振りかざし、絶対的に取り返しのつかないことのように言い立てることは、人の可能性にフタをし、不利な生い立ちや環境で育った人たちを誤った絶望に追いやるマイナスの効果があると私は思います。
絵に描いたモチのような幻の希望は問題ですが、軽はずみな絶望も問題だと思います。
病気や事故で手足を無くされた方が、以前とまったく同じ状態に戻ることは現代科学では不可能ですが、一方で、特殊な材質の義足などを装着することで、健常者よりも速く走ることができるようになった例もあります(昔そんなことを言ったら、頭がおかしいか詐欺師だと思われたことでしょう)。
映画やドラマの闘いでよくある、片腕を背中にねじり上げられた人間が動けなくなる状況、
あれも、実際の武術では、ねじり上げられていない方の腕で相手を倒す技が流派によって何通りもあり、高度な武術になると、体を回してねじり上げられている不利な?方の腕だけで相手を逆に倒してしまうものまであります。
蛇足を申しますと、マンガのように止まった映像でアクションを表現する際、読者はその場面を自分の見聞きしたアクションに当てはめて解釈する(パソコンなどにおける「ファイルの解凍」に近いものがあります)ことが多いため、見たことも聞いたこともないアクションは、人によって受け取り方にものすごく差が出るものです。
自分がかつて武術マンガ『セイバーキャッツ』を描いていたとき、もっとも苦労したポイントがそこでした。
同じ場面を見ても、ある読者さんは数十秒かかった闘いと思われ、別の読者さんは一瞬の戦いだったと思われる。全然意味が違ってしまうんですが、一人一人に会って解説するわけにもいきませんから、少しでも誤解を受けない表現を工夫していくしかありませんでした。
怪物イメージの飛び具合の話から、いささか脱線したかもですが
与えられた人生を楽しみ、しゃぶりつくすためにも、自分の器は大きくしていきたいと思います。
人は誰しも井戸の中のカエルですが、日々井戸の拡張工事を続け、死ぬまでにどれほどの世界をその井戸の中に取り込めるか。すべてを取り込んだとき、それを悟りというのかもしれません(笑
ではではまた♪





